ニールセンの『不滅』-評論家への評論

初版 2023/12/25 13:35

最近、このサイトの中でよくお邪魔する方のクラシックレコードを展示してあるお部屋を回らせていただいていて、突然思い出したことがありました。そこで見つけたのが懐かしいカラヤンが手勢のBPO を振って演奏したニールセンの交響曲第4番です。

久々に聴きました。夜中ですのでヘッドフォンを使用して、ディテールを聞き取り以前の印象を再確認しました。この曲は金管楽器が多いのでやたら大音量で聴くわけにもいかず、途中で行きつ戻りつ(これがCDのいいところですね。)楽しみました。

ニールセン/交響曲第4番OP.24『不滅』

ニールセンのこの曲はなんといっても第3部カラヤン盤では第2部ポコ・アダージオ開始に当たる部分からの長大な緩徐楽章に当たるところでしょう。
単一楽章ですが、4つに部分わけされているようです。
一部二部という二部形式の交響曲という扱いも受けているようです。カラヤンは二部形式を採用しています。

 Part Ⅰ:Allegro - Poco allegretto

 Part Ⅱ:Poco adagio quasi andante - Allegro

この演奏はカラヤンでは第2部冒頭からのマーラーの第9交響曲の終楽章の血が噴き出しそうな弦楽の緊張の極みが長く続く、暖かい茶系の色彩が握りしめられて蒼白に変わって行くような、色を失う寸前まで緊張した総奏の凄絶な美しさが一聴に値します。
現代のオーケストラであればこの緊張感にさらに異なった抒情的な色づけを可能にするほどの技術的均一性とゆとりがあるのでしょうが、近代的な金管楽器の艶と鋭さも求められているようで、明確な対比が非常に印象に残ります。

この演奏はカラヤンの残した最後の録音であったマーラーの第九をウィーンフィルと行ったライブ録音と並ぶ名演だと再確認しました。
ただ、ボクには同時に若い頃、この曲の解説ではなく、演奏の評論を何かで読んで、今も忘れようのない、やりきれない思いをした記憶が蘇りました。

この曲はそれまで意識しなかった批評家という職業の難しさというか、本当の批評というものが相当客観的でなければいけないのだなと再認識させられた曲でもあります。
批評家の個人的批評になってしまいますが、もうすでにお亡くなりになってからずいぶん年月が経っていると思います。が、いまだに忘れられません。大木某という大御所の批評家がいました。東京帝国大学を卒業された有名な音楽評論家でした。彼がこの交響曲を唯一自分のレパートリーに入れたヘルベルト・フォン・カラヤンのレコード評をしたことがあります。
その評によれば、氏はその演奏をベルリン・フィルというオーケストラとカラヤンの結びつきの極地であると渋々認めつつ、彼の演奏は他の誰かがやったことをオーケストラの威力でデモンストレーションする。
つまり、二番煎じとおっしゃる。
どう見ても、その表現は客観的とは言い難く、氏のカラヤンへの特別の憎しみに近いものがその文体に顕れていて露骨でいやらしい。
はじめは信頼していた評論家であったけれど、その実、度量が狭く、精神論ばかりを振り回し、抽象的言辞を弄する偏屈人であると(もの凄く攻撃的な表現になっていますが、当時も今同様冷静でした。)大いに落胆したものでした。
でも、彼の辛辣な論評の、その個性が受けていて、カラヤン嫌いの聴衆には支持されるのかも知れません。
ただ、申し訳ないけど、カラヤンを余り好まないボクもちょっと読んでいて居たたまれなくなったものでした。


音楽を剣道とか茶道とか『道』とつく探求すべき学問のように高めようとする日本人の悪い癖。
いわゆる『音楽道』大木某流と、この演奏はきわめて深刻な隔たりがあったのでしょうが、道場主の寛容がまるで感じられない。
自流派を賛美するときの氏の歯の浮くような精神論と同様、批判するときの口汚さは実に見苦しいものでした。
芸術家に対する敬意のなさが情けない。クラッシックっていうものがいつの頃からそんなに高尚、高邁な趣味になったのでしょうか?
聴く喜びが感じられない。
ボクは以前にも書いたけど、子供の頃初めてコンサートホールというレーベルでシューリヒトが指揮したシューベルトのシンフォニーを聴いたとき、それが何か琴線に触れるものがあって、ませガキがビートルズやウォーカーブラザーズやローリングストーンズを聴く傍ら何度もかけてすり切れるほど聴いたものです。
その後レコード店に行ったとき店に並んだシューベルトの同曲のレコードが異なる指揮者とオーケストラでずらりと並んでいるのを見て、初めてひとつの曲にたくさんの演奏家が自分の表現をするのだということを知りました。

つまり解釈とか演奏家の個性が聴く方の好みによって様々に選択できるということを知ったのでした。
その選択の一助になるのが評論というものだと朧な理解をしていたのです。
曲は残り、演奏も残ります。評論が芸術的価値を持って残っているものといったら、やはり、格調はともかく、芸術家に対する敬意がそこに感じられるものです。彼の評論にはそんな経緯は微塵も感じられませんでした。
評論家という職業人は少なくともそれを職業とし始めたとき、個人的な批評と一線を画す覚悟がいるのではないかと思ったものでした。

僕がレコードの裏とかに良く描かれていたライナーノーツを読まなくなったのは、ニールセンの不滅に関するライナーノーツを呼んで以来です。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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