初恋 浅き夢みし
カバーアートが静かに語るアルバムの素晴らしさ
2021年5月6日に日本でレビュー済み
おそらく日本に生まれ育ち、洋楽に憧れてシンガー・ソングライターを目指す人たちが最初にぶつかるのは、どうやったら日本語をポップスやロックといったリズムやビートを持つ音楽に上手く乗せられるのか、かと思いますが、そんな多くのミュージシャンたちの格闘の中で生まれてきたのが、昔「ニューミュージック」と言われたジャンルの人たちだと思っています。英語はちょっとした文章を喋るだけでも、リズムを持ち、ビートを生みすらし、それは人間の営みが作り上げたものの鏡写しのようですが、日本語の美しさと言うのは、英語のそれとは違って、小雨がぱらぱらと屋根や木々の葉に落ちる音のような、自然を写し出した鏡像のようだといって良いかと思います。そのそもそも立地も特性も異なる母国語を、リズムやビートを伴ったメロディーに乗せることに成功した「ニューミュージック」のミュージシャンたちのたくさんの傑作なしに、その後の日本の音楽の発展は語れないと思っています。
村下孝蔵もその「ニューミュージック」にカテゴライズされる一人かと思います。彼の素晴らしさは、そのメロディセンス、甘いトーンで抑えた調子のボーカル、ステージで見せるアコースティックギターの達者ぶり、など余すことなく多くの人に語られ、好んで聴く人たちには認知されているかと思います。
昭和50年代60年代を、若年層として過ごした方々には、このアルバムは当時の時代の色合い、風景というものを思い出させるノスタルジックなものかもしれません。しかし、時代性を抜きにしても、この素晴らしいカバーアートを表現する音楽を、一枚のアルバムとしてまとめ上げた(実際は逆かもしれませんが)技は素晴らしいの一言に尽きます。このカバーアートが、このアルバムの全てを静かに、はっきりと表現していると思います、
とても有名なタイトルトラックには、村下孝蔵の、「日本語をリズムを伴ったメロディーに乗せる」巧みさが、歌の端から端まで満ちており、聴くたびに感嘆させられます。例えば、「放課後の校庭で」という有名な一節がありますが、この「校庭」、つまり「こうてい」の「う」をどうやって発音し、長音として響かせるか、悩んだあげく辿り着いたのか、持ち前のセンスであっさりベストテイクを叩き出したのかは、わかりませんが、これは難問中の難問だと、素人の立場では思わざるをえず、この難問を美しく仕上げてしまうのは、恐ろしいセンスの持ち主だな、と戦慄すら覚えます。
感情を入れすぎるでもなく、淡々すぎるのでもなく、その甘いトーンで歌い上げる楽曲群は、アルバムの最後を飾る、12弦アコースティックギターの美しいアルペジオで閉じられますが、彼の歌声は、本当にアコースティックギターのサウンドにマッチしていて、その抑えた歌唱法そのものに、静かに余韻を残すようにアルバムを終えています。
カバーアートは見ての通り本当に素敵で、アナログレコードのアルバムを買って壁に飾りたいくらいです。このカバーアートに、これ以上マッチした音楽もなく、おそらくはカバーアートが気に入って買われた方は、村下孝蔵の音楽が気にいるか気に入らないかは別として、確かにこのアルバムにはこのカバーアートしかないな、と思うのではないでしょうか。このアルバムの発表当時から、女子中高生は学生カバンにキーホルダーを下げる習慣があったのだな、とカバーアートを見て気付いたりしました。
甘いトーンのボーカルなので、一聴すると簡単そうに見える歌々も、上述した通り、私のような一般の音楽ファンには実は難しい歌が多いかと思います。今回久しぶりに村下孝蔵をアルバムでじっくり聴いて個人的に思ったのは、彼の声質、歌唱法が宇都宮隆に似ていて、彼ならタイトルトラックを現代風のアレンジでも、この歌の持つ魅力を損なうことなくカバーできるのでは、と思ったりもしました。