ギュスターヴ・モロー展

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2019年、福岡市美術館。
福岡市美術館で行われている同展へ行って来た。この美術館を訪れるのは初めてだが、福岡市の大濠公園内にある為に池と樹々に囲まれた大変に落ち着いた雰囲気だった。

今回の目的は何と言っても「出現」。モロー の代名詞とも言える作品だが、実物を目の当たりにするのは初めてだ。過去に鎌倉や京都で見たモロー展では関連作品や習作は多く展示されていたものの、このモロー美術館にあるこの作品はなかなか縁が無くてお目にかかる事が無かっただけに感慨深い。
言わずと知れたサロメの物語であり、象徴主義の画家達にとって最高のモチーフの一つでもある。femme fatale を生涯描き続けた幻想の画家としてもこれ程多くの習作や関連作品を残しているとは、改めて驚いた。

ユダヤ王ヘロデは兄の妻であったヘロデヤを娶ったことを非難した洗礼者ヨハネを捕らえ幽閉していた。ヨハネを恨んでいる王妃ヘロデヤは、王の誕生日の宴会で自分の連れ娘に踊りを披露させその褒美としてヨハネの首を所望させた。中世以降、多くの芸術家がこの退廃と残酷に溢れた物語を取り上げたが、モローのサロメはその中においても特に独創的な魅力を放っている。オスカー・ワイルドの戯曲に代表されるように、いつの時代からかヨハネの首を所望したのはサロメ自身であるように描かれ、この作品もそれに沿っている。ユイスマンスは「さかしま」(澁澤龍彦訳 光風社出版)第5章の中で、「聖書の中のあらゆる既知の条件からはみ出すような想像力によって描かれた、このギュスターヴ・モロオの作品の中に、彼が永いこと夢見ていた超人的な、霊妙な、あのサロメの実現された姿を見るのであった。」と主人公デ・ゼッサントの口を借りて述べている。

壮麗な宮殿の広間に突如 ”出現” したどす黒い血を滴らしているヨハネの首と対峙するサロメ。この首はサロメにしか見えていない幻影であるというのは定説になっているが、互いに視線を交わしている両者は何を感じているのだろう。ヨハネの眼には相手を恨むのではなく、この様な形でしか欲望を満たすことができなかったサロメに対する憐憫が感じられる一方で、サロメは服従を強く求めるかの様に相手をしっかりと見据えている。しかしどちらの意思が強いのだろうか。ヨハネの首を包む光輪によってサロメの身体は照らし出されている様だが、その顔には光が届いていないのか不自然に暗く描かれている。そこにはヨハネの訴えを拒否するサロメの強靭な意思が現れている、と言うのは考え過ぎだろうか?

今展は以下の四部構成で、
I モローが愛した女たち
II《出現》とサロメ
Ⅲ 宿命の女たち
Ⅳ 一角獣と純潔の乙女
I部では母親のポーリーヌと、30年近く愛情を注ぎ続けたアレクサンドリーヌ・ドゥリューとの関係に焦点を当て、Ⅲ部ではトロイアのヘレネー、メッサリーナ、デリラやサッフォーなどの其々異なるタイプの femme fatale を、Ⅳ部では一角獣を手懐ける乙女の二面性を紹介していた。

約2時間半ほど会場に居たが、その半分は “出現” の前に居たかな。とにかく見応えある展覧会で、会場を後にしてから大濠公園内を散策したがぐったりと疲れてしまった。

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