菱マンガン鉱 (rhodochrosite) 尾太鉱山 #0036

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尾太鉱山の菱マンガン鉱はTV番組等で大人一人では抱えきれないような大型標本が紹介されることがありますが、本標本は横幅5cm~6cmの至って小さなものです。それでもこの産地の特徴とされる粒状・葡萄状の形態が良く出ています。

尾太鉱山は尾太岳の中腹一帯に分布する複数の鉱山の総称で、1950年(昭和25年)頃の記録では、27の鉱山がありました。熱水性の鉱脈鉱床で、主な構成鉱物は黄銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱、菱マンガン鉱、石英、緑泥石。
 開山は平安初期の807年(大同2年)という伝承がありますが、確かな史料に登場するのは17世紀以降、1650年(慶安3年)に銀の採掘が始まり、1653年(承応2年)に弘前藩の第3代藩主津軽信義が鉱山を訪れたという記録が残っています。当初1680年代までは主に銀山として開発され、その後鉱量が枯渇した銀に代わり1730年代(享保年間)~1760年代(明和年間)は銅山として栄え、尾太鉱山地区は津軽藩領内で弘前、青森に次ぐ8,000人規模の人口を擁していました。しかし1820年代(文政年間)までには生産量が激減、人口も最盛期の10分の1ほどになったといいます。
 明治維新に伴い弘前藩は尾太鉱山を放棄、その本格的な再興は1952年(昭和27年)、三菱金属鉱業(現在の三菱マテリアル)が買収し、尾富鉱業を設立、他鉱山の経営ノウハウや人材を投入し、近代設備を整えて開発を行ってからのことです。1971年(昭和46年)に生産はピークを迎え、銅精鉱4,800トン、鉛精鉱4,900トン、亜鉛精鉱15,200トン、硫化鉄精鉱38,000トンなど(いずれも年間)を産出、従業者数は355名、尾太岳山腹の斜面に掘削した何本もの横坑を立坑で繋いだ坑道の総延長は77kmに及び、日本有数の金属鉱山として復活しました。この当時西目屋村村税の3割を尾富鉱業だけで納付していたといいます。しかしながら鉱山の採掘量の減少と、1973年(昭和48年)のオイルショックによる市況の悪化の影響により尾富鉱業は1978年(昭和53年)に操業を停止し閉山、青森県の最後の鉱山でした。

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