- Sekisentei Japanese Mineral Museum
- 4F 岩手県 Iwate Pref.
- 玉髄 (chalcedony) 三菱綱取鉱山 #0717
玉髄 (chalcedony) 三菱綱取鉱山 #0717
銅鉱脈中に生成した淡く紅色を帯びた乳白色の玉髄で、一部に黄銅鉱を伴っています。玉髄は非常に細かい結晶質の石英が集まり、緻密に固まったものをいいます。裏側には南部秀喜氏による墨書きがあります。南部氏は1897年(明治30年)高知県に生まれ、1917年(大正6年)に高知工業学校採鉱冶金科を卒業し三菱生野鉱山に入社して以来、1970年(昭和45年)の退職まで54年の長きにわたり三菱鉱業系の鉱山に勤務された方です。この間に日本の代表的な鉱山で3,000点以上に及ぶ鉱物標本を収集、南部氏が1972年(昭和47年)に亡くなられた後に著名な鉱物標本店主である小室吉郎氏が引き継がれ、その中から選ばれた標本に小室氏自身のコレクションを加えたものが、現在は茨城県自然博物館に南部・小室コレクションとして収蔵されています。本標本は1950年(昭和25年)前後に南部氏が採集したものとのことです。(背景はソフトウエア処理しています。)
三菱綱取(つなとり)鉱山は北上市西部に位置した金銀銅山で主として銅を産出しました。発見は1884年(明治17年)頃とされていますが、付近は古くは平安時代に金売吉次の隠し金山と呼ばれた地域で、江戸時代の享保年間(1716年~1736年)に採鉱されていたとも伝えられています。1915年(大正4年)に三菱合資会社が買収、1918年(大正7年)以降は三菱鉱業傘下となり活況を呈し、鉱員は200人〜250人、戸数も160戸を超えましたが、1940年(昭和15年)に稼行を停止しました。 1928年(昭和3年)~1940年(昭和14年)の間に35,913tの銅精鉱を産出、金12g/t、銀30g/t、銅4%の品位であったとのことです。戦後1950年(昭和25年)に鉱業権が系列の荒川鉱業株式会社に譲渡され、沈殿銅(鉱水中に溶けた金属銅)の採取を行っていたようで、本標本はその頃に採集されたものということになります。
