西京 東洞院 箱場印

初版 2023/11/22 08:22

改訂 2023/11/22 08:26

西京の東洞院(ひがしのとういん)の箱場印です。明治7年(1874年)8月27日差立の伏見宛・脇なし二つ折り葉書に押されたものです。太く、力強い堂々とした達筆です。

「東」一文字の箱場印は、大阪の東上橋でも使われていますが、東上橋の箱場印は直径が10mm程度の小型のものであるのに対して、この東洞院の箱場印は直径13mm程度と一回り大きく、また、「東」の字体も太くて堂々としており、迫力のある印影です。

「東洞院」と書いて「ひがしのとういん」と読ますのはなかなかの難読地名と思いますが、その由来は古く、平安京の頃に遡ります。京都の東を南北に走る東洞院通として名前が残っており、平安時代は「東洞院大路」と呼ばれていたそうです。洞院とは上皇、法皇の居所のことで、平安時代には通り沿いに多くの院があったとのことで、歴史ある通りだったようです。

Wikipediaによると、江戸時代には京都と伏見をつなぐ竹田街道に通じるメインルートとなって、混雑が激しくなったことから、北向き一方通行の措置が取られたとのことで、これが日本での一方通行規制の例としてはもっとも古いものと考えられているそうです。

この二つ折り葉書、差し出し人さんは「西京五條東川院西〆」にお住まいだった「大森」何某さんと判読できるかと思います。(「東山院」「西入」かも知れません)しかしながら江戸後期から明治初期の西京の地図を見てもそれと思しき地名が見当たりませんでした。「五条」+「東山」から推察して、五条大橋を東に渡ったあたりにあった通りの西の端にお住まいだったと推察されますので、この葉書は、大森さんのご自宅(あるいはお仕事場?)から五条通りを(五条大橋を渡って)市内に入って投函されたと思われます。

よって、主要な道路の交差点に箱場が置かれていたと考えると、東洞院箱場は東洞院通りと五条通りとの交差点あたりに設置されていたと推察しています。具体的には下の図のあたりでしょうか。

この葉書、宛先が伏見であったので、東洞院通りをへて竹田街道で伏見まで運ばれたのでしょうね(上の地図でいうと右向きに南下)。ということは、東洞院通りが北向き(上の地図では左向き)の一方通行だったので、どこかで一旦迂回してから竹田街道に入ったのでしょうか? それとも郵便配達人は別扱いで南向きにも行けたのでしょうか?

いろいろと妄想が楽しめる一枚です。

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unechan

子供の頃から細々と続けてきた切手収集。長年のブランクを経て10年ほど前から再開し、日本切手クラシカル、ドイツインフラなどを収集。併せて手彫証券印紙の収集を始め、現在はこちらがコレクションのメインになっています。郵趣に加えて音楽(ジャズ)、釣り、鉱石収集、昆虫採集(蛾類)など趣味多数にて家族には迷惑をかけております…

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