与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)〜王貞治との出会い

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与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)

読売ジャイアンツ(1951-60)
中日ドラゴンズ(1961-62)

監督・コーチ歴
中日(打撃コーチ(1963-66)ヘッドコーチ(1970-71)監督(1972-77))
川上巨人から戦力外を受けた経緯もあり、特に対巨人戦には闘志を燃やし巨人V10を阻止するとともに、G差0、20年ぶりのリーグ優勝(1974年)を果たす。監督就任期間の対巨人戦は64勝60敗6分であった。

野球殿堂(1994年)外国人選手の殿堂入りは史上唯一
NPB通算成績 打率311本塁打82打点482

1956年の成績
1956年 球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を記録
打率338本塁打13打点47(首位打者3回1954/1956/1957)

ベストナイン(1952-58):7回
シーズンホームスチール(1951):5回(日本記録)
通算ホームスチール:11回(日本記録)

アメリカンベースボールスタイルを日本野球に新しい戦術を伝道した。
戦闘的スライディング、タックルや一塁走者リードの際の左足部の蹴り込み、ドラッグバント、ダイビングキャッチなど

ある少年がサインをもらおうと玩具のゴムボールを差し出すが、選手達も忙しいこともあり粗末で目立たないゴムボールなどは見向きもされなかった。
その時、与那嶺だけが少年のゴムボールに気付き、立ち止まって快くサインに応じた。
その少年は『王貞治』であった。
王はこの時の感激から与那嶺と同じようにファンからのサインを断らず、できる限りファンサービスを大事にする姿勢を貫いているという。
また奇しくも与那嶺と王は1994年、同時に野球殿堂入りをしている。

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    woodstein

    2019/02/05

     与那嶺氏がジャイアンツ在籍時の昭和26~35年とドラゴンズヘッドコーチ時の昭和45~46年のチームの監督はいずれも水原茂氏でした。昭和49年にドラゴンズがリーグ制覇をしたときは、自分がその礎を築いたという自負もおありだったのでしょう、ジャイアンツOBという立場でもありますが「嬉しかった」という発言をラジオ番組に御出演の際にされたのを覚えています。明確には口にしませんでしたが、与那嶺氏を自分の愛弟子のように思っていたのかもしれませんね。

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      ふくすけ

      2019/02/06 - 編集済み

      貴重な情報ありがとうございます。調べて見るとやはり巨人の戦力外通告を良く思わなかった与那嶺のライバル意識が見受けられますね。当時、ドラゴンズ内では「川上さんと呼ぶと『川上じゃない、哲と呼べ』と訂正させた」などなど・・・また、フロントとの摩擦で水原監督も同時期に解任させられたこともあり、反川上水原派だったのかもしれないですね。当時、水原監督はリーグ優勝8度日本一4回の名監督、1960年も2位で終わったのだが、相手が追放した三原西鉄大洋であったこともあり監督責任で解任。そんな(今も変わらない)巨人体質に与那嶺も反感を感じていたのかもしれない。そんな折水原中日に招聘されてリベンジを果たせたのでしょう。憶測もありますがそこにはまだまだ知らない人間ドラマがあるんでしょうね。

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