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若生忠男・荻 孝雄(西鉄ライオンズ)
若生忠男・荻 孝雄(西鉄ライオンズ) 若生忠男 西鉄ライオンズ(1955-68) 1967年9月17日 阪急戦(西宮)ノーヒットノーラン達成 1956年成績 0勝2敗 防御率283 荻孝雄(署名時は明治大学4年生) 西鉄ライオンズ(1957-61) 東京六大学(1956年秋季リーグ)打率2位、ベストナイン(外野手)選出 1957年 西鉄ライオンズ入団 1960年 試合中に負傷、1961年完治せず引退 1962年 中西太選手兼任監督のマネージャーへ 右項サインは明治大学の同期の佐々木重徳(1955年に中退、国鉄スワローズへ入団)
野球 1956年 西鉄ライオンズふくすけ
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大映スターズ 森口哲夫・坂上惇
大映スターズ(1956) 1946年に千葉ロッテマリーンズの支流にあたる『ゴールドスター』を結成。その後『金星ゴールドスター(1946-48)』に改称。 1948年12月21日に大映が金星スターズを買収⇒『大映スターズ(1949-56)』 1957年2月25日に高橋ユニオンズを吸収合併⇒「大映ユニオンズ(1957)』 1958年3月10日に毎日オリオンズと対等合併⇒『毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)(1958-)』 1956年の成績 57勝94敗3分(7位) 森口哲夫 大映スターズ(1955-57) 阪急ブレーブス(1958) 1958年3月2日の対巨人オープン戦でルーキー長嶋茂雄に第1号HRを献上。 1956年の成績 5勝18敗防御率297 坂上惇 西鉄ライオンズ(1952-54) 大映スターズ(1954-57) 1956年の成績 1勝4敗防御率348
野球 1956年 大映スターズふくすけ
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与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)〜王貞治との出会い
与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ) 読売ジャイアンツ(1951-60) 中日ドラゴンズ(1961-62) 監督・コーチ歴 中日(打撃コーチ(1963-66)ヘッドコーチ(1970-71)監督(1972-77)) 川上巨人から戦力外を受けた経緯もあり、特に対巨人戦には闘志を燃やし巨人V10を阻止するとともに、G差0、20年ぶりのリーグ優勝(1974年)を果たす。監督就任期間の対巨人戦は64勝60敗6分であった。 野球殿堂(1994年)外国人選手の殿堂入りは史上唯一 NPB通算成績 打率311本塁打82打点482 1956年の成績 1956年 球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を記録 打率338本塁打13打点47(首位打者3回1954/1956/1957) ベストナイン(1952-58):7回 シーズンホームスチール(1951):5回(日本記録) 通算ホームスチール:11回(日本記録) アメリカンベースボールスタイルを日本野球に新しい戦術を伝道した。 戦闘的スライディング、タックルや一塁走者リードの際の左足部の蹴り込み、ドラッグバント、ダイビングキャッチなど ある少年がサインをもらおうと玩具のゴムボールを差し出すが、選手達も忙しいこともあり粗末で目立たないゴムボールなどは見向きもされなかった。 その時、与那嶺だけが少年のゴムボールに気付き、立ち止まって快くサインに応じた。 その少年は『王貞治』であった。 王はこの時の感激から与那嶺と同じようにファンからのサインを断らず、できる限りファンサービスを大事にする姿勢を貫いているという。 また奇しくも与那嶺と王は1994年、同時に野球殿堂入りをしている。
野球 1956年 読売ジャイアンツふくすけ
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中西太・小野正一 サイン
『怪童』中西太 西鉄ライオンズ 選手(1952-69) 兼監督(1962-69) 野球殿堂(1999) 1952年 打率281本塁打12本で新人王を獲得。 1953年 トリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)を史上最年少(20才NPB記録)で達成。本塁打王+打点王 首位打者:2回(1955年1958年) 本塁打王:5回(1953-56年1958年) 打点王:3回(1953年1956-57年) 1956年の成績(23才) 打率325本塁打29打点95 本塁打王・打点王・MVP・ベストナイン 小野正一 大毎オリオンズ(1956-64) 1958年の成績 13勝10敗 防御率1.77 特に1960年は下記の活躍によりリーグ優勝に貢献。 最多勝利(33勝) 最優秀防御率(1.98) 最高勝率(.750) 最多完封勝利(5完封) ベストナイン
野球 1956年 1958年 毎日大映オリオンズふくすけ
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国鉄スワローズ(1956年)4名サイン
国鉄スワローズ(1956年)4名サイン 1950年セ・リーグに加盟するも当初プロ経験者1名、有望新人の獲得もできず低迷する。1961年球団初のシーズン勝ち越し3位。 1965/5/9にフジサンケイグループへ経営権を譲渡。その後もチームは低迷を続けるが、1978年(広岡達朗監督)初のリーグ優勝、日本一となる。 1956年チーム成績61勝65敗4分(4位) 田所善治郎(1953-64) 1956年成績 7勝7敗 防御率2.11 1952年に静岡商業で阿井利治とバッテリーを組み第24回選抜高等学校野球大会に出場。全試合完封勝利で選抜初優勝する。 阿井利治(1954-61) 1956年成績 打率220本塁打6打点8 佐々木重徳(1955-61) 1956年成績 打率238本塁打9打点34 田代照勝(1953-58) 1956年成績 2勝3敗 防御率2.89
野球 1956年 国鉄スワローズふくすけ
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『立教三羽烏』
『立教三羽烏』(1956年立教大学3年) 本屋敷 錦吾(阪急) 主将 リーグ通算75試合出場 打率242本塁打0打点18 ベストナイン(遊撃手) 長嶋茂雄(巨人) リーグ通算96試合出場 打率286本塁打8打点39盗塁22 ベストナイン(三塁手) 杉浦忠(南海) リーグ通算36勝12敗 防御率119奪三振233 ベストナイン
野球 1956年 立教大学ふくすけ
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『バンビ』佐藤孝夫(国鉄スワローズ) サイン
『バンビ』佐藤孝夫 サイン 1952年国鉄スワローズ入団。 1年目からレギュラーとして活躍(打率265本塁打14本)セ新人王を獲得また同年45盗塁、新人の盗塁日本記録(1996年まで)1957年は22本塁打、本塁打王も獲得。 1956年のシーズン成績 打率220-HR9本-24打点
野球 1956年 国鉄スワローズふくすけ
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初代『ミスタードラゴンズ』西澤道夫サイン
初代『ミスタードラゴンズ』西澤道夫サイン 1942年5月24日対大洋軍に先発。大洋軍の野口二郎との投手戦、世界最長となる延長28回311球の完投(日没4-4引き分け3時間47分、野口投手も344球の完投)。同年7月18日にはノーヒットノーランを達成。 1956年、助監督兼任。1958年に現役引退。 背番号15は永久欠番となる。 大谷翔平のように投手打者の同時進行ではないが、投手として20勝(1940年)打者として40本塁打(46本塁打1950年)を記録したのは日本プロ野球史上唯一。 1956年のシーズン成績 打率271-HR8本-43打点 野球殿堂入り(1977年)
野球 1956年 中日ドラゴンズふくすけ
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吉田 義男(大阪タイガース)サイン
吉田義男(大阪タイガース) 『今牛若丸』と称され名遊撃手として俊足巧打好守で活躍。 背番号『23』はのちに阪神の永久欠番となる。 1956年のシーズン成績 打率290-HR8本-34打点-50盗塁 盗塁王・ベストナイン オールスターゲームMVP(1956年第2戦) 野球殿堂入り(1992年)
野球 1956年 阪神タイガースふくすけ
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田宮謙次郎(大阪タイガース)サイン
田宮謙次郎(大阪タイガース) 1956年のシーズン成績 打率300-HR11本-42打点(打率リーグ3位) オールスターゲーム選出 ベストナイン 野球殿堂入り(2002年)
野球 1956年 大阪タイガースふくすけ
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佐々木信也・近藤和彦 サイン
ルーキー佐々木信也 1956年 高橋ユニオンズに入団。 新人ながら154試合に全イニング出場。 154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録。 新人での全イニング出場は史上初。 622打数でリーグ最多180安打141単打を記録。この3つの記録は現在も新人記録である。この年はベストナインに選出。 引退後は野球の評論家として1976~88年まで『プロ野球ニュース』のキャスターとして活躍。 近藤和彦 明治大学3年生時と思われる。 立大の長嶋茂雄と同期でありライバル視していたようである。この芳名簿では長嶋茂雄署名ページの裏に署名してあるのも意図が見える・・・ 東京六大学リーグでは2年生からレギュラーとなり秋山登を擁し1955年春季リーグの優勝。 リーグ通算83試合出場、255打数66安打、打率.259、0本塁打、23打点。ベストナイン3回(一塁手1回、外野手2回)。 1958年に大洋ホエールズに入団。『天秤打法』で有名。
野球 1956年 大洋ホエールズ 明治大学ふくすけ
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長嶋茂雄(立教大学3年)・木戸美摸 サイン
長嶋茂雄(立教大学3年生(20才9ヶ月)) 筆跡からたっぷり使った墨跡が照り輝き、燦然とオーラが輝いている。知り得る中で最も若いサインである。 木戸美摸(1956/57/58?) 1956年は木戸美摸投手負傷事件が発生。 1957年は17勝の勝ち星を挙げ最高勝率を獲得する。 1958年春の明石キャンプ時はルーキー長嶋と相部屋となる。
野球 1956年 立教大学ふくすけ
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杉浦 忠 サイン
杉浦 忠(1956年立教大学3年生時の署名だと思うが何故か南海ホークスと書込) 同期に長嶋茂雄(巨人)、本屋敷錦吾(阪急)「立教三羽ガラス」の投手として活躍。 1957年春季・秋季連続優勝。東京六大学リーグ通算36勝(立教OBとして最多)12敗、防御率1.19、233奪三振ベストナイン2回 1958年に南海ホークスへ入団。 入団に際しては、南海の大学の先輩でもある大沢昌芳(啓二)から栄養費を長嶋と共に受け取っており、両者の南海入りは確実視されていた。 少なくともこの時期(3年生時)には内定?していたようだ。
野球 1956年 立教大学ふくすけ
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本屋敷 錦吾 サイン
本屋敷 錦吾(1956年立教大学3年) 同期に長嶋茂雄(のち巨人)、杉浦忠(のち南海)「立教三羽ガラス」の主将として活躍。1957年春季・秋季連続優勝。 1958年阪急ブレーブスに入団。
野球 1956年 立教大学ふくすけ
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三原脩・梶本隆夫 サイン
三原脩(西鉄ライオンズ) 1956年(10/10~17)水原巨人軍との『第一次巌流島の決闘』で注目を集めた日本シリーズは4勝2敗で制する。以後1957・1958年の水原巨人との3年連続の日本シリーズはすべて三原西鉄が制する。 野球殿堂入り(1983年) 詳しくは『三原脩・水原茂』のページに掲載 梶本隆夫(阪急ブレーブス) 1956年成績 28勝17敗防御率225 最多奪三振:2年連続(1956-57) ベストナイン(1956) オールスターゲーム出場:12回 (1956年ほか) 1試合9者連続奪三振(1957年7月23日)日本プロ野球タイ 3者連続3球三振(三者凡退)(①1954年7月10日対近鉄戦②1957年10月18日対南海戦) 日本プロ野球史上初ならび2度は史上唯一 2018年オフ現在18人(19回)、完全試合の達成者(15人)とほぼ同じ珍難記録である。 阪急ブレーブス監督(1979-80) 野球殿堂入り(2007年)
野球 1956年 西鉄ライオンズ 阪急ブレーブスふくすけ