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三原脩 『風雲の軌跡 わが野球人生の実記』 サイン本
三原脩『風雲の軌跡 わが野球人生の実記(野球殿堂シリーズ)』サイン本 『日々新なリ』 発行/1983年7月初版 出版/ベースボール・マガジン社 1983年 野球殿堂入り 1984年2月6日 心不全のため死去(72歳没) 東京ドームの監督室には歴代監督の色紙が飾られおり三原氏の色紙には『日々新なリ』と書されている。
野球 1983年 NPB 野球殿堂ふくすけ
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豊田泰光 サイン色紙とNL帽子
豊田泰光 サイン色紙とNL帽子 西鉄ライオンズ(1953-62) NPB通算成績(1953-69(17年)) 打率277本塁打263打点888 新人王(1953) 首位打者(1956) 野球殿堂(2006) ニューヨーク・ヤンキースのNYマーク風のNLマークデザイン帽子を三原監督と考案。 このデザイン帽子は藤本哲男(西鉄マネジャー・常務)が福岡市に開業(1979)した野球用品店「ライオンズベースボールショップ」で購入。この店舗には中西選手の実使用ユニフォームも展示されている。
野球 西鉄ライオンズ 新人王 野球殿堂ふくすけ
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1998年 サンヨーオールスターゲーム記念ボール(伊東 勤サインボール)
1998年 サンヨーオールスターゲーム記念ボール伊東 勤(西武ライオンズ)サインボール 1998年 サンヨーオールスターゲーム 第2戦(7/23) 先発出場 この年、ビッグバン打線の日本ハムを最大10ゲーム差から逆転リーグ2連覇 西武ライオンズ(1982-2003)黄金期の正捕手 1998年成績(36才) 試合出場110 打率243本塁打8打点38 ベストナイン・ゴールデングラブ賞 野球殿堂(2017年)
野球 1998年 西武ライオンズ 野球殿堂ふくすけ
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藤村富美男・長谷川良平 寄書色紙
藤村富美男・長谷川良平・三宅秀史・本屋敷錦吾・長池徳士 寄書色紙(1980年代?) 藤村 富美男 大阪タイガース(1936-1938/1943-1956/1958) 通算成績 打率300本塁打224打点1126 34勝11敗 防御率235 大阪タイガース監督(1946/1955-57)266勝190敗6分 野球殿堂(1974) 1956年6月24日の広島戦で兼任監督であった藤村(40才)は「代打ワシ」で『代打逆転サヨナラ満塁本塁打』を記録。 現役最後の本塁打であり、その時の投手は『長谷川良平(26才)』であった。 長谷川 良平(広島カープ1950-1963)14才差(藤村との年齢差) 通算成績197勝208敗 防御率265 広島カープ監督(1965-67)135勝199敗16分 野球殿堂(2001) 藤村の崇拝者(ファン)でもあった。 後年、長谷川は代打逆転サヨナラ満塁本塁打について「ちょっと悔しかった。藤村さんには、わし、ファンやし、尊敬してるからわざと打たしたわけじゃないんじゃが」と述懐している。 三宅 秀史(大阪・阪神タイガース1953-1967)18才差 通算成績 打率252本塁打100打点376 本屋敷 錦吾 19才差 阪急ブレーブス(1958-1963) 阪神タイガース(1964-1969) 通算成績 打率227本塁打13打点179 立教大学では同期の長嶋茂雄、杉浦忠との「立教三羽烏」の一羽。 長池 徳士(阪急ブレーブス1966-1979)28才差 通算成績 打率285本塁打338打点969
野球 広島カープ 阪急ブレーブス 阪神タイガースふくすけ
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水原茂『道』 毛筆色紙
水原茂 毛筆色紙 『道』 東京ドームの監督室には歴代監督の色紙が飾られおり水原氏の色紙はこれと同じタイプです。
野球 読売ジャイアンツ 野球殿堂ふくすけ
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水原茂『不憂不惑不懼』 毛筆色紙
水原茂 毛筆色紙 『不憂不惑不懼』 子曰、「知者不惑、仁者不憂。勇者不懼」 子曰く、「知者は惑(まど)はず、仁者は憂(うれ)へず。勇者は懼(おそ)れず」 「知者は道理に明るいから迷うことがない。 仁者は道理のあるところに安んじているから心配することがない。 勇者は意気盛んで道理をつらぬくことに果敢であるから、恐れることがない」 『論語』より 東映フライヤーズ監督(1961-67) 監督成績(526勝429敗28分) 年度/順位/勝-負-分 1961/2/83-52-5 1962/1/78-52-3 1963/3/76-71-3 1964/3/78-68-4 1965/2/76-61-3 1966/3/70-60-6 1967/3/65-65-4 1960年6年連続最下位の三原大洋ホエールズに優勝を奪われ、上層部との確執から「グラウンドの恥は、グラウンドでそそぐ」との名言を残して11月19日水原は巨人の監督を辞任した。 1960年12月8日に東映フライヤーズの監督に就任。 1962年パリーグ優勝、阪神との日本シリーズも制し日本一に輝く。
野球 1962年 東映フライヤーズふくすけ
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ハンク・アーロン サインボール
ハンク・アーロン サインボール ミルウォーキー・ブレーブス アトランタ・ブレーブス (1954-1974) ミルウォーキー・ブルワーズ (1975-1976) 通算成績(MLB23年) 打率305本塁打755打点2297 通算打点はMLB記録 タイトル 首位打者:2回(1956/1959) 本塁打王:4回(1957/1963/1966/1967) 打点王:4回(1957/1960/1963/1966) アメリカ野球殿堂(1982) 『44』アトランタ・ブレーブスの永久欠番(1977)
野球 MLB 野球殿堂ふくすけ
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『44』ハンク・アーロン フィギュア
ハンク・アーロン(HANK AARON) アトランタ・ブレーブス 背番号44(永久欠番) マクファーレントイズ MLBクーパーズタウンシリーズ5 発売日 2008年03月
野球 マクファーレントイズ 2008年ふくすけ
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川上哲治 『平常心是道』 毛筆色紙
川上哲治 『平常心是道』 現役引退後、禅の道から野球観を悟り、常勝巨人軍を作り上げ『栄光のV9』に導く。
野球 読売ジャイアンツ 野球殿堂ふくすけ
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金田正一 現役最終年(1969年)サイン色紙
金田正一(1969/10/23)現役最終年 10/23は公式戦終了(10/19)から阪急ブレーブスとの日本シリーズ(1969/10/26~11/2)直前にあたる。 1969年成績(36才) 5勝4敗 防御率425 10月9日 5年連続セ・リーグ優勝決定 10月10日の中日戦で日本球界初の通算400勝を達成 11月30日に現役引退を正式に表明 背番号34は球団の永久欠番(1970年4月2日認定) NPB通算成績(1950-69) 400勝298敗 防御率234 奪三振4490(日本記録) 初奪三振 樋笠一夫(1950/8/23広島戦) 最終奪三振 一枝修平(1969/10/18中日戦) 日本シリーズ 第2戦 10月27日(西宮) 先発投手として登板。4回裏連続四球を出し降板。 日本シリーズ 第4戦 10月30日(後楽園) 7回表4番手で登板するも打者2人に連打を許し僅か6球で降板。現役最後の登板となった。 400勝達成後、石原慎太郎から引退を諭されていたが、この降板で決意したようだ。 翌日(10/31)の報知新聞には引退決意の見出しが掲載された。
野球 1969年 読売ジャイアンツふくすけ
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『快打洗心』長島茂雄 サインボール
長島茂雄(1960年代) サインボール 『快打洗心』
野球 読売ジャイアンツ 国民栄誉賞ふくすけ
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与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)〜王貞治との出会い
与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ) 読売ジャイアンツ(1951-60) 中日ドラゴンズ(1961-62) 監督・コーチ歴 中日(打撃コーチ(1963-66)ヘッドコーチ(1970-71)監督(1972-77)) 川上巨人から戦力外を受けた経緯もあり、特に対巨人戦には闘志を燃やし巨人V10を阻止するとともに、G差0、20年ぶりのリーグ優勝(1974年)を果たす。監督就任期間の対巨人戦は64勝60敗6分であった。 野球殿堂(1994年)外国人選手の殿堂入りは史上唯一 NPB通算成績 打率311本塁打82打点482 1956年の成績 1956年 球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を記録 打率338本塁打13打点47(首位打者3回1954/1956/1957) ベストナイン(1952-58):7回 シーズンホームスチール(1951):5回(日本記録) 通算ホームスチール:11回(日本記録) アメリカンベースボールスタイルを日本野球に新しい戦術を伝道した。 戦闘的スライディング、タックルや一塁走者リードの際の左足部の蹴り込み、ドラッグバント、ダイビングキャッチなど ある少年がサインをもらおうと玩具のゴムボールを差し出すが、選手達も忙しいこともあり粗末で目立たないゴムボールなどは見向きもされなかった。 その時、与那嶺だけが少年のゴムボールに気付き、立ち止まって快くサインに応じた。 その少年は『王貞治』であった。 王はこの時の感激から与那嶺と同じようにファンからのサインを断らず、できる限りファンサービスを大事にする姿勢を貫いているという。 また奇しくも与那嶺と王は1994年、同時に野球殿堂入りをしている。
野球 1956年 読売ジャイアンツふくすけ
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三原脩・川上哲治 サインフォト+スポーツ紙(1958/10/22)
第9回日本シリーズ(三原西鉄対水原巨人)西鉄ライオンズが球史初の3連敗からの逆転日本一に輝く! 西鉄ライオンズの3連覇(1956-58)は3度の水原巨人が相手の日本一であった。 第5戦は鉄腕稲尾の延長10回サヨナラホームラン。 翌日の新聞一面には西鉄ライオンズ日本一の報道とは対照的に『打撃の神様』川上哲治(38歳)の現役引退表明の報道でもあった。 写真は当時巨人監督であった三原修(改名脩)監督と川上哲治選手の連名サインフォトである。 筆跡から1951年以降のようである。
野球 1958年 西鉄ライオンズふくすけ
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初代『ミスタードラゴンズ』西澤道夫サイン
初代『ミスタードラゴンズ』西澤道夫サイン 1942年5月24日対大洋軍に先発。大洋軍の野口二郎との投手戦、世界最長となる延長28回311球の完投(日没4-4引き分け3時間47分、野口投手も344球の完投)。同年7月18日にはノーヒットノーランを達成。 1956年、助監督兼任。1958年に現役引退。 背番号15は永久欠番となる。 大谷翔平のように投手打者の同時進行ではないが、投手として20勝(1940年)打者として40本塁打(46本塁打1950年)を記録したのは日本プロ野球史上唯一。 1956年のシーズン成績 打率271-HR8本-43打点 野球殿堂入り(1977年)
野球 1956年 中日ドラゴンズふくすけ
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小西得郎サイン色紙・著書
小西得郎 『なんと申しましょうか 私の一生は野球一筋でした』 プロ野球選手経験なしで監督指揮する。 戦後の野球の再開に尽力する。 1950年 松竹ロビンス監督 セパ分裂後のセ・リーグの初優勝監督 1952・53年 大洋ホエールズ・大洋松竹ロビンス監督 以降、NHK解説員でお馴染み解説「なんと申しましょうか・・・」で有名。 1971年 野球殿堂入り 1957年3月 したざんまい –私の懺悔録–
野球 1957年 1968年ふくすけ