🌕【閲覧No1/4050人以上】織田信長、加賀藩生存説~天徳院と織田信長~

初版 2019/08/06 22:04

改訂 2023/02/09 01:07

コレクションルームの加賀藩3代藩主、前田利常の書。利常の正室は、江戸幕府2代将軍、徳川秀忠の珠姫、戒名は、天徳院。金沢市小立野に天徳院の菩提寺「天徳院」がある。

当家の先祖は、細川京兆家の当主、細川政元の右腕、上原元秀の弟だが、この末裔が、前田利常と珠姫の嫡男である加賀藩4代藩主、前田光高の幼少期の世話衆(加賀藩侍帳に記載)のひとり。上原元秀の弟は、室町幕府奉公衆の細川京兆家一族として、越前国の朝倉家の重臣して仕えた。小笠原弓術の師範。利常の生母が、朝倉家の人間だから。

さて、私は、持論として、織田信長の加賀藩で生存していた説を唱える。

織田信長の戒名は、「天徳院」と「総見院」がある。前者は、本能寺の変の後、すぐに、柴田勝家が付けた。後者は、本能寺の変から1年以上経過した後で、豊臣秀吉が、間違えて、付けたと言われる。

天徳院という寺院は、全国で、金沢市と高野山だけにあり、いずれも、珠姫に所縁。

加賀藩3代藩主、前田利常以降、藩主の正室は、徳川家の姫が、殆ど。前田利常は、織田信長が可愛がった加賀藩初代藩主、前田利家の側室の子供。

利家の嫡男の加賀藩2代藩主、前田利長は、早々に、藩主の座を、利常に譲る。理由は、徳川家に対して、勝ち目なしと見切った、と言われるが、私は、異論を唱える。

前田利長の正室・玉泉院は、織田信長の4女・永姫。織田信長は、イエズス会らと加賀藩に逃げ、前田利家に、親戚の細川ガラシャともども庇護されたと思う。

藩主として、命の危険を犯すよりも、早々に、隠居して、前田利家が、利長に、岳父の織田信長の守りを命じたという仮説を持つ。

【持論: 織田信長の加賀藩での生存説】

本能寺の変のあと、織田信長の遺体は、見つかっていない。公家の近衛前久や朝廷が鍵を握るという説がある。実は、近衛前久の2人の姉妹が、越前国の朝倉家に嫁いでいて、近所の寺院(金沢市東山界隈)に、墓がある。近衛前久は、当家の先祖一族の細川家とも親戚だった。

 静岡県にある織田信長の首塚が注目されるが、無縁の静岡県でなく、生きていたら、織田信長を崇拝し、一番強かった前田利家が庇護するはず。金沢市東山界隈は、織田信長の兄弟姉妹や子供達(養子を含む)、家臣が住んでいたので、信長は、僧門に入るだろう。

一方、明智光秀は、徳川家のご意見番、「天海」となった説がある。徳川家が、キリシタンを弾圧し、加賀藩にまで、本多家というスパイを送り込んで来たのは、織田信長を探すことが目的のはず。越前国にも、強い松平家を送り、情報を探ったのは、明智光秀に所縁の地であるため。織田信長を探す包囲網だったのだろう。

持論の織田信長の生存説のポイントは↓

https://muuseo.com/makoto.panteleimon/diaries/12

ミューゼオ Makoto Panteleimonのモノ日記 | Muuseo(ミューゼオ)

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Makoto Panteleimon

細川ガラシャも生きていて、親戚の前田家に逃げてきている、そんな気がする。爆薬は、イエズス会によるFakeか創作。

実際には、本能寺は、全焼していなかった様。

明智光秀 VS 織田信長の続きだろう。

加賀藩2代藩主・利長の代までは、信長は、生きていたんだろうか?

前田利長の「長」は、当然、織田信長の「長」だろう。

利家の嫡男の利長が、早々に、藩主を放棄したのは、命を落とす危険のある藩主よりも、もっと大切な役割を与えたのだろう、利家が利長に。

3代藩主の利常は、側室の子。3代藩主以降、正室は、殆どが、徳川家。

2代藩主の利長の正室は、織田信長の姫。これも、ポイント。

加賀藩2代藩主、前田利長の菩提寺「国宝・瑞龍寺」(富山県高岡市)。建立に際して、明智光秀と言われる徳川家の黒衣の宰相「天海」が、前田家に口出しをしてきたという。本来、前田家は、京都の吉田神社と所縁があるから。

瑞龍寺には、織田信長と嫡男・信忠の供養塔がある。

写真は、織田信長の嫡男、信忠の供養塔。

■追記■

加賀藩2代藩主 前田利長は、正室(織田信長の永姫)と 本能寺に向かう途中に、琵琶湖のほとり、滋賀県の膳所で、 本能寺の変で、逃げて来た織田信長の家臣と遭遇しています (古文書の記録に残っています)。

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