【越前なのに、なぜ、加賀に集中?前田家に支えた細川、明智一族の末裔が明かします。】 越前式石廊について

初版 2019/03/05 00:47

改訂 2019/03/07 12:50


 越前式石廊について。コレクションルームの「前田家伝来の掛軸と北斎、織田信忠」のところで、述べた。国宝・瑞龍寺(富山県高岡市)にある織田信長・信忠らの石廊が越前形式と呼ばれるもの。瑞龍寺は、加賀藩二代藩主・前田利長の菩提寺なので、利長の石廊も、越前形式である。


  【国宝・瑞龍寺(富山県高岡市)】




【前田利長や織田信長の一男・信忠の越前形式の石廊 瑞龍寺(高岡市)】


 さて、この越前形式の石廊は、越前国の朝倉義景に縁の石廊と思われるが、実際には、越前国・福井県には、一乗谷の朝倉義景の石廊など数基しかない。殆どは、加賀と能登、つまり、石川県に集中していて、加賀藩主・前田家と加賀八家と呼ばれる重臣達の家族で占められている。富山県は、この瑞龍寺だけ。



【加賀藩の剣術、冨田一族の越前形式の石廊:金沢市東山の寺院群】

 私の住まいの近く、金沢市東山の寺院群にも、多くの越前形式の石廊がある。例えば、冨田一族の石廊。冨田家は、元来、朝倉義景の家臣で、剣術の一門。ツバメ返しの佐々木小次郎も属していた。冨田家は、金沢市主計町の由緒。冨田主計の屋敷があったからである。宇喜多秀家の家臣でもあり、秀家と前田豪姫(前田利家の姫、豊臣秀吉の養女)の間の貞姫(理松院)と婚姻していた。


 加賀藩の中核は、加賀前田家藩主一門の加賀八家、尾張荒子からの荒子衆、越前朝倉家からの越前衆。


 当家の先祖について、コレクションルームでも記したが、高岡~倶利伽羅は、越前衆が治めた。加賀藩二代藩主・前田利長、三代藩主・前田利常に縁の地。金沢市東山の寺院群も、多くが、前田利長に縁で、越中国・高岡方面から移動してきている。

 加賀藩三代藩主・前田利常の母、つまりは、加賀藩初代藩主・前田利家の側室、寿福院は、朝倉義景の一族だった為、身内で固めたのだろう。

寿福院は、石川県羽咋市の妙成寺が、菩提寺。この利常と寿福院の一男・加賀藩四代藩主、前田光高の幼少の世話衆が、当家先祖。室町幕府奉公衆として朝倉家の重臣だった。


        【妙成寺(石川県羽咋市)】



     【寿福院(加賀藩三代藩主・前田利常の生母)の越前形式石廊】

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