倶利伽羅峠は、源平合戦と織田家の内紛合戦

初版 2019/03/03 01:28

改訂 2019/03/06 03:02

倶利伽羅峠(石川県・富山県境)は、木曽義仲(信濃源氏)と平家の合戦で有名な地です。牛の角に松明をつけて、沢山の軍勢がいる様に見せかけた火牛の計ですね。

だから、源氏の郷として、有名です。

実は、ここに、豊臣秀吉も、参戦して来ているのです。

織田信長の黒母衣衆のリーダーが佐々成政で、赤母衣衆のリーダーが前田利家。織田信長の死後、反旗を翻した佐々成政が、豊臣・前田・細川の連合軍と対峙し、激しい抵抗戦を繰り広げたのも、この地です。最終的に、佐々軍が降参し、肥後国に左遷されます。その降参の調印式に、豊臣秀吉が、この倶利伽羅の地にやって来たのです。

戦国時代は、織田信長の姉、神保・稲葉夫人(神保氏の後、稲葉氏に再嫁)の領地でした。神保氏は、東京・神保町の由来、稲葉氏は、斎藤道三、春日局、皇室に繋がる系譜です。

肥後細川家は、細川宗家の分家で、やはり、稲葉家や皇室に繋がります。


また、倶利伽羅峠には、足利一族の名前(清原、稲葉、別所:赤松家、菅原、森屋:筒井順慶、松永、彦太郎:明智光秀、興津:細川家家臣)に縁の地名があります。この倶利伽羅の麓は、沼田姓の家が多かったそうですが、細川幽斉、細川忠興の重臣が沼田家なので、その末裔だと思います。当家先祖、細川家、上原家も沼田家と婚姻しています。武家社会では、武家は、同格の身分と婚姻する慣習がありました。当家は、細川家の分家ですので、幕末から明治初頭の戸籍で確認できる範囲で、大谷家、沼田家、細川家、上原家、福島家と婚姻しています。豊臣秀吉の子飼いと呼ばれた福島正則、細川忠興の末裔と重臣同士の婚姻と見られます。明治時代の戸籍を追うと、親族の中には、舞鶴や小浜、高浜などに婚姻などで移動していますので、細川幽斉系の細川の末裔と見られます。当家は、加賀前田家の側近でしたので、金沢城近くへ加賀藩二代藩主・前田利長に仕えた越前衆などの流れで移動したのでしょう。現在の住居は、二代藩主・前田利長の正室・玉泉院(織田信長の永姫)や貞姫(前田利家・豪姫と宇喜多秀家の間の姫)の化粧田だった土地に住まいを構えています。守山(森山)城で、加賀藩三代藩主・前田利常の幼少の世話をしていたのが、前田対馬守(前田利家の一女・幸姫の娘婿、織田信長、信忠の家臣)。その系譜の中で、私は、現在も、生きています。





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