【続】加賀の空白地帯に織田家の証~加賀に生きるもうひとりの細川家・明智一族の末裔が明かす

初版 2019/03/10 20:30

改訂 2019/03/11 18:28

ひとつ前のモノ日記で述べた「加賀藩の空白地帯」。ここに、今でも、織田家の痕跡を見ることができます。

「大衆免」と呼ばれた地区、ここに「清和源氏の家紋」の寺院が、江戸時代から建っています。越中国・井波瑞泉寺の掛所だった寺院。井波瑞泉寺は、後小松天皇と関係が深く、後小松天皇は、室町幕府3代将軍・足利義満の子供とも言われています。細川幽斉は、室町幕府12代将軍・足利義晴の子供と言われています。瑞泉寺は、織田信長の攻撃の対象ともなりました。

 この寺の金具を見てください。織田信長を始めとする織田家の家紋「織田木瓜」の家紋の形です。この付近、および、主要加賀藩士の墓碑が集中する金沢市東山の寺院群を見てまわりましたが、この織田木瓜の家紋の形をした金具を用いた寺院は、ありませんでした、この寺院だけです。

      【織田家の家紋、織田木瓜】


 この寺院のすぐ近所の寺院は、ひとつ前の「モノ日記」で述べた2代関白・豊臣秀次に仕えた西尾家の屋敷跡です。西尾家の屋敷跡近くには、「信長公記」や「太閤記」の記録を残した小瀬甫庵の墓碑もあります。小瀬甫庵は、豊臣秀吉の7人の子飼いのひとり、池田輝政(姫路城主)の父に仕えた旧・織田家の家臣です。

 ところで、家紋ですが、池田家も当家も同じ家紋で、木瓜紋(下写真の中央)です。織田木瓜とは、兄弟紋です。元来は、朝倉家が、三盛木瓜(下写真の右)、または、木瓜紋(下写真の中央)を使用していたため、当家も、織田家も、池田家も、朝倉家から、家紋を拝領した武家なのです。

       【小瀬甫庵の墓石】           

 

 また、この付近には、虎図で有名な絵師の岸駒も住んでいました。

 

 江戸時代、この地区は、大衆免と言い、神宮寺の僧の免田(税の免除される田)でした。歴史上、奈良の興福寺や京都・二条家と縁のあった地区でもあります。後の世、大衆免は、森山と町名を変えました。

 

 森山は、「守山」とも言い、つまりは、加賀藩二代藩主・前田利長の守山城(富山県高岡市)に由緒があるのでしょう。大衆免は、前田利長の正室・玉泉院(織田信長の4女・永姫)の土地でもありました。


 細川昭元、または、細川信良(細川宗家19代当主)の正室は、お犬(織田信長の妹)で、2人の姫は、森山局と言います。徳川家の尼僧として帰依して、身分を高くした後に、加賀藩3代藩主・前田利常の正室・珠姫(江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の姫)の侍女として、加賀藩に仕えました。恐らく、守山(森山)城と関係したのでしょう。利常は、守山城に、幼少の頃、預けられていました。


細川昭元の腹違いの妹は、本願寺の教如の室で、顕如の子供達である准如、教如の派閥争いに、井波瑞泉寺は、巻き込まれてしまいます。この歴史も関係するのかもしれません。


 その利常の世話をしていたのが、コレクションルームの前田利家の掛軸の持ち主と推測される加賀八家・前田対馬守家の祖・前田長種(織田信長・信忠の家臣)です。


 細川昭元の姉妹は、朝倉義景の正室や勝興寺(現・富山県高岡市、旧富山県小矢部市)の僧に転嫁しています。

 

 室町幕府奉公衆として朝倉義景の重臣だった当家先祖(旧・細川宗家郎党23騎)も、この流れにいて、加賀藩4代藩主・前田光高の幼少時の世話衆の一人でした。


 この様な事実を列挙しても、加賀藩の空白地帯には、織田一族が、潜んでいた事は、容易に、想像できます。加賀藩は、敢えて、地図を空白にしたのです。徳川家を警戒したのです。




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