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  • KAGA. HOSOKAWA Museum
  • 11F 【閲覧 4260人】越前国・朝倉家での重臣(室町幕府奉公衆・細川家)としての記録~福井県史。
【閲覧 4260人】越前国・朝倉家での重臣(室町幕府奉公衆・細川家)としての記録~福井県史。

【閲覧 4260人】越前国・朝倉家での重臣(室町幕府奉公衆・細川家)としての記録~福井県史。

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福井県史に残る当家先祖の記録。応仁の乱の後、室町幕府管領・細川勝元・政元(細川宗家当主)の右腕だった先祖は、たびたび、京都、および、越前の朝倉一族と連携を取っていた。

上原元秀、および、賢家の親子は、記録上、近江国の坂本で、死去している。真実かは、分からない(細川家の内乱で、追われている立場なので、カモフラ―ジュで、一族で、越前国に逃亡したかもしれない)。

坂本は、比叡山延暦寺の麓で、坂本城主は、細川家(典厩家)、および、明智光秀だった。

細川典厩家の直系(三浦家:蜂須賀家に養子に入った)は、加賀藩(金沢市長町)に住み、明治時代まで、卯辰山の開発などの指揮にあたった。

この細川典厩家の末裔の金沢市長町の屋敷付近には、明智光秀の兄弟(進士貞連)や細川ガラシャの娘(細川内膳家)の再嫁家・村井家の屋敷が集団であった。武家は、一族で移動するので、加賀前田家に従った細川家の分家一族と見られる。


坂本にある西行寺は、明智光秀夫妻、および、前田利家の6女・菊姫(豊臣秀吉の養女)の菩提寺。 

記録上は、当家は、上原元秀の末弟・高家の子孫となる。

◆赤松政則(加賀国北守護)と洞松院(細川政元の姉妹)の縁談を成立させて、赤松家の滅亡を救ったのが、当家先祖のひとり、上原元秀。

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