Makoto Panteleimon
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室町幕府管領・細川一族の子孫です。
藤原北家閑院流、細川家、沼田家、前田家、明智家、福島家、大谷家等の系譜で、明治天皇の外戚だった事は、分かっています。
代々、細川京兆家の家老職の家系です。
先祖ゆかりの品を中心に、展示しています。
🌕【閲覧No5 11840人以上】有栖川宮織仁親王の孫/富山藩10代藩主・前田利保の正室・久美姫(安芸広島藩浅野家)の眉造り箱/ 肥後熊本藩主 細川家の正室の妹・加賀藩主 前田家の正室の姪・北三井家当主の正室の祖母/2022年2月12日~4月6日 (公財)金沢文化振興財団展示
🔴【閲覧No8440人以上】伝・加賀藩主家前田家の姫君の侍女の手拭掛/(公財)前田育徳会の調査書あり
【閲覧 6300人以上】加賀蒔絵の兼六園大棗(高蒔絵)
🔵【閲覧No9 10350人以上】伝・前田対馬守家伝来「前田利家の長女と前田長種(尾張前田家と織田信長家臣)」の系譜)/加賀藩初代藩主・前田利家の「桶狭間の戦いの凱旋図」/ 大英博物館の学芸員に写真が渡る/( 公財)前田育徳会の調査書あり。
🌸🌸【閲覧No8 9890人】兼六園・山下清の直筆ペン画/書籍「山下清・日本の風物」掲載作品/ ⭐2022年~2024年 生誕100年展覧会出展中
🌕【閲覧4位 13030人以上】現存3点確認/『時代本歌の加賀藩 前田家伝来・薩摩系切子(切子櫛・切子簪・切子笄)』/希少な透きガラス(無色透明)/サントリー美術館の見解有り/棚橋淳二氏(江戸ガラス研究の第1人者、神戸松蔭女子大学名誉教授)の見解有り
🔴「NEW」【閲覧No3 13800人以上】文豪 谷崎潤一郎の着用した長襦袢/弥生美術館(東京都文京区2021年10月~2022年1月展示)/泉鏡記念館(石川県金沢市2023年3月~5月展示)/「細雪」執筆時に着用の可能性/ アメリカ議会図書館等収蔵書籍「谷崎潤一郎をめぐる人々と着物(東京美術)」掲載/フランス政府、NHK、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞、北陸中日新聞、北國新聞、日刊ゲンダイ、週刊「新潮」(2021年12月23日号)巻頭カラー/Web婦人画報&美しいキモノ(2021年10月27日)
🌸【閲覧:6800人以上】肥後細川家伝来「茶杓」/第79代内閣総理大臣 細川護熙・佳代子夫人の好み
明治天皇、岩倉具視、大隈重信、徳大寺実則(西園寺公望の兄)が当家先祖宅へ
【国重要文化財 】「越後下向記/冷泉為広下向記(公財 冷泉家時雨亭文庫)」、室町幕府管領・細川政元/細川京兆家当主に同行した上原元秀
【閲覧 4260人】越前国・朝倉家での重臣(室町幕府奉公衆・細川家)としての記録~福井県史。
🌕【閲覧 3160人】幕末からの古銭
🌕【閲覧No1 18770人以上】加賀藩主前田家伝来 雛具足(江戸時代後期)/金切付小札萌黄糸毛引威二枚胴雛具足・特別貴重資料(2020年11月1日、日本甲冑武具研究保存会認定)/江戸幕府第11代将軍 徳川家斉から外孫(孝明天皇の甥、加賀藩13代藩主 前田慶寧)への贈答品/2021年 金沢市文化振興財団特別展示
【閲覧 No7 10930人】文豪 谷崎潤一郎の着用した長襦袢/弥生美術館(東京都文京区2021年10月~2022年1月展示)/泉鏡記念館(石川県金沢市2023年3月~5月展示)/「細雪」執筆時に着用の可能性/アメリカ議会図書館等収蔵 書籍「谷崎潤一郎をめぐる人々と着物(東京美術)」掲載/フランス政府、NHK、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞、北陸中日新聞、北國新聞、日刊ゲンダイ、週刊「新潮」(2021年12月23日号)巻頭カラー/Web婦人画報&美しいキモノ(2021年10月27日)
🌕【閲覧No2 16710人】加賀藩12代藩主前田斉泰(孝明天皇の甥)の衣冠束帯の冠/「(公財)前田育徳会」と「石川県立歴史博物館」確認済/徳川美術館同銘品所蔵/
🌸【閲覧No6. 11390人】人間国宝が賞賛/明治金工、皇室に縁「伝・前田侯爵家伝来 鳳凰模様 砂鉢(献上無銘)」/ 加賀象嵌 8代水野源六 (加賀藩主前田家の白銀職頭取、1873年のウィーン万博で優勝碑受賞)/高さ14cm × 長さ29cm × 幅55cm/第一回 内国勧業博覧会(1877年 明治10年上野公園 ) に 類似銘「鳳凰模様花生」出品記録/加賀藩13代藩主、金沢銅器の品と共に保管/国立工芸館に資料提出(貴重な品とコメント)
🔴【閲覧:1200人】「NEW」谷崎潤一郎の「新々訳源氏物語」の表紙モデルとなった羽織/泉鏡花記念館(2023年3月1日~5月21日)/弥生美術館展示(2021年10月~2022年1月)
🔴【閲覧:1200人】「NEW」全国初公開、谷崎潤一郎の袖机/泉鏡花記念館(石川県金沢市)展示中/「卍」、「鍵」などを執筆時の袖机」
🔴国重要文化財「久我家文書」
富山藩の祖は、加賀藩三代藩主・前田利常の二男・利治です。この品は、富山藩十代藩主・前田利保と広島藩八代藩主・浅野斉賢の久美姫(宝寿院)の婚礼の調度品と考えられています。富山前田家の丁子梅鉢紋と浅野家の鷹の羽紋の家紋入りです。
富山藩の品は、幕末の混乱期で、散財し、市井で見つかるのは、稀という事です。
この久美姫の孫が、倶利伽羅峠(石川県・富山県境)の寺院「光現寺」に門跡に入り、このすぐ傍に、当家の先祖の細川家がありました。第十一代将軍・徳川家斉の二十一女・溶姫が、加賀藩十二代藩主・前田斉泰に輿入れの際の徳川家の大名行列が当家先祖の家に立ち寄りました。
また、溶姫の庶子・亮麿が、富山県南砺市城端町の城端別院「善徳寺」に出家する際も、溶姫は、立ち寄りました。
後に、明治天皇、徳大寺実則(西園寺公望の兄)、岩倉具視、大隈重信らも巡行で休憩しています。
宝寿院が所持していた両家の家紋入りの同じ造りの短冊入れが広島市立中央図書館蔵「浅野文庫漢籍図録」に掲載されています。
この本を編纂した磯部彰さん(東北大学名誉教授、富山大学教授など)にも見て頂き、短冊入れと同じ時期に作られた様だという事でした。
久美姫の別の孫娘が、北三井家十代当主・三井高棟に嫁いでいて、丁子梅鉢紋と鷹の葉文の入った久美姫の雛道具が、三井記念美術館に所蔵されています。
宝寿院の輿入れの時期は、文政三年(1820年)十二月二日。品は、化粧道具のひとつ、「眉作箱」です。
当家は、清和源氏細川義季流、室町幕府管領・足利一門・細川京兆家(宗家)の重臣と肥後細川家熊本藩主一門細川内膳家の庶流家の婚姻家の末裔です。
清和源氏(清和天皇の皇子・皇女)、細川宗家、織田家、明智家、前田家、肥後細川家、公家(藤原北家閑院流)、旧皇室などの血をひきます。
#加賀藩#富山藩#前田家#調度品#浅野家#化粧箱#眉り箱#戦国大名
加賀藩前田家所蔵品を管理する「前田育徳会(東京)」に尋ねましたが、詳細は、分かりませんでした。しかし、漆箱の箱書きから、幕末の前田家の姫付きの上級・中級女中の品(手拭掛け)でないかと思われます。この時代、加賀藩主は、第十二代前田斉泰、第十三代前田慶寧。姫は、溶姫(前田斉泰の室、徳川家斉の二十一女)、鷹司隆子(前田斉泰の母、公家・鷹司家)、衍(近衛篤麿の先妻・前田慶寧五女)、貞(近衛篤麿の後妻・前田慶寧六女)、坻子(広島藩十二代藩主・浅野長勲の実弟・長道の室、前田斉泰四女)などが該当します。
歴史的な観点から、近衛文麿の父・篤麿に嫁いだ2人の姫に縁の品の可能性が高い様です。
当家の由緒は、3Fに記載しました。
#加賀藩#前田家#調度品#手拭掛#近衛家#近衛文麿#浅野家
日本三大名園の兼六園(石川県金沢市)を高蒔絵で描いた希少な加賀蒔絵の大棗です。作者知らずですが、大正期~昭和初期の作品と見られます。前所有者は、山中漆器の店主で、名品として過去に伝統産業コンクールに出品されたということです。
兼六園は、金沢城に併設した加賀藩前田家の日本庭園として、江戸時代中期に、整備されました。
大棗には、加賀藩前田家の梅幼剣鉢が金や錫で入れられていて、新たに、現代の加賀蒔絵の第一人者、清瀬一光(2代目)さんに、当家の九曜紋(肥後細川家)と木瓜紋(細川家宗家重臣、越前朝倉家重臣)を入れて頂きました。
箱書きは、山中漆器の辻石斎(五代目)さんに書いて頂きました。石川県山中町にある辻石斎さんのお店で、美食家の魯山人が、辻石斎(二代目)さんと漆器造りに励んだ歴史があります。
#茶道#棗#兼六園#茶の湯#金沢市#魯山人#芸術#アート#蒔絵#
a加賀藩の祖・前田利家の掛軸。江戸後期の白描画の一種。織田信長の命に背き、前田利家が武功を挙げた有名な「桶狭間の戦い」。
加賀前田家宗家の財産を管理する前田育徳会(東京)によると、根拠は確認できないが、2009年の石川県立美術館紀要・第19号の中に、絵師・岸駒の原本を元に、幕末、前田利家没後250年忌にあたる年(嘉永元年、1848)に、前田家の志気を揚げるため、主に、この様な絵が、前田家の家臣宅に伝えられ、祀られていたということです。
そして、正月に、床の間に飾った様で、多くの数(少なくとも10点)は、現存していますが、調査した博物館の学芸員によりますと、この様な「墨絵」の絵は、初めてらしく、様々な可能性を秘めているそうです。
絵の利家の兜などには、加賀藩二代藩主・前田利長や加賀八家など、前田利家の子供の代に使用された家紋が書かれていました。
朱印に「源洞」とあり、
調べた所、加賀前田家で「源~」の法名を使用するのは、
加賀前田家の重臣で、加賀八家の前田対馬守(前田利家の一女・幸姫と婚姻した織田信長・信忠の家臣・前田長種の家系)のみです。
また、源洞は、国宝・瑞龍寺(富山県高岡市)の織田信忠の墓碑に刻まれた銘「源洞」と同じでした。
銘は「東固」で、直筆。
どことなく、葛飾北斎の絵のタッチと酷似しています。
#戦国武将#掛軸#前田利家#織田信長#葛飾北斎#加賀藩#美術#
裸の大将こと、山下清。「兼六園」の細密画(1957年4月に製作、フェルトペン直筆)。この絵は、行方が分からなくなっていましたが、2018年1月に、約60年ぶりに、私が発見し、里帰りさせました。
この作品は、書籍「山下清・日本の風物(1961年 東峰書院出版)」に掲載されています。
書籍「山下清・日本の風物」の掲載では、
1957年4月9日から14日の5日間、山下清は、石川県金沢市の大和百貨店で開かれた個展のため、金沢市に来ていた記録があり、その際に、兼六園を訪れたと見られます。
市場価格は、発見当時から5~6倍(2021年現在)になっていて、こうした画家さんは、珍しいということです。
画廊によると、近年、貼り絵作品は、新聞のチラシ広告などで作られ、老朽化に伴い、色褪せが避けられない状況だそうです。
しかし、フェルトペンは劣化がなく、この作品は、しっかりと念入りに書き込んでいるので、価値のある希少作品ということでした。
#山下清#絵画#芸術#兼六園#美術#アート
江戸時代後期の切子櫛・切子簪・切子笄の三点揃え。藩政期から加賀藩前田家に縁の三大薬舗の家(石川県金沢市)に伝わっていました。
この時代の加賀藩12代藩主前田斉泰の正室溶姫の父母(養母)は、第11代将軍徳川家斉と近衛ただ子ですが、近衛ただ子は、薩摩藩主・島津家の姫でした。
大富豪の家は、江戸時代に、加賀藩前田家の分家・富山藩主に、加賀藩の秘薬を伝授し、越中売薬で有名な富山藩の薬と薩摩藩の薩摩ガラスの薬瓶が結びつき、前田家と島津家は、北前船で、交流していました。
ガラス研究の第一人者・棚橋淳二さん(神戸松陰女子学院大学名誉教授)はじめ、美術館、博物館、古美術商の多方面の方々に意見を伺っても、江戸時代の切子に間違いない、という見識でした。
同じタイプの切子櫛・切子簪・切子笄は、神戸市博物館(兵庫県神戸市)と瓶泥舎・びいどろ・ぎやまん・ガラス美術館(愛媛県)と当家と現存三点しか確認されていません。
いづれの有識者も、特別注文品で、市井に出てこないと言います。
また、切子櫛・切子簪・切子笄を包んでいたのは、「辻ヶ花」や「疋田」の流れを汲む「京鹿の子(絹)」です。江戸期のものと判明しています。
神戸市博物館は、手彫り切子(水溶き金剛砂と棒状工具で往復研磨する技法)による加飾があることから江戸時代の切子で間違いなく、薩摩藩、または、萩藩の切子ではないかと見ています。
江戸時代の無色透明(透きガラス)の切子は、大学の学会の研究でも、産地を特定できないのが現状です。薩摩切子は、以前は、着色したイメージがありましたが、最近は、白(無色透明)も含まれる事が分かって来ました。
薩摩切子は、現存200個未満と言われていて、その殆どは、着色です。無色透明は、数が少なく、希少で、薩摩藩主(島津家)のお姫様の品は、無色透明です。天璋院篤姫もです。
しかし、当家の切子細工は、著名なガラス・コレクターの戸澤道夫さんが著書で記した薩摩ガラスの特徴、1.たくさんの気泡を含む、2.石英の白い粉を含む、3.茶色の灰を含む、4.薩摩切子の文様(麻の葉小紋と魚子文の組み合わせ)を全て満たしていて、ガラス専門の古美術商の方も、全ての条件を満たす薩摩ガラスは、なかなか、見ないので、薩摩切子の可能性が、かなり、高いと見ています。
また、薩摩藩島津家の姫で、近衛家養女として、天璋院篤姫の調度品(徳川記念財団所蔵)に、同じ文様の無色透明の香水瓶があることも、興味深いところです。篤姫の調度品は、西郷隆盛が担当しました。
前述の手彫り切子に、最も力を入れていたのは、薩摩藩でした。薩摩切子は、主に、将軍家や大名家の贈答用として、製作されました。
🔷その後、前田家に伝来した品という事が判明しました。当初は、前田家に伝来した能面などと一緒に保管されていました。(2020年6月6日判明)
🔷この時代の加賀藩13代藩主 前田斉泰の正室は、溶姫(徳川将軍家)。溶姫の養母は、近衛寔子(実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪)。溶姫の叔母が、天璋院篤姫(島津家→近衛家→徳川家)。加賀藩主と島津家の繋がりが強い。
🔷"Satsuma Kiriko", Japanese handmade cut-glass produced about 200 years ago.
This glass comb and two glass hair ornament was made about 200 years ago, during Edo period. It seems that they are called "Satsuma Kiriko" made in Satsuma clan, present Kagoshima pref.Its lord was Shimadu family who were No3 position during Edo period next to Tokugawa shogunate in Edo and Maeda family in Kaga clan.
Satsuma clan produced "Satsuma Kiriko" at the end of Edo period.But the revillion war destroyed their factories.Therefore "Satsuma Kiriko" disappered and only found less than 200 items.Especially "glass comb" like picture remains only 3 item in Japan now. 2 others keep at museum and one I own.
They seem that Satsuma clan presented the princess of Tokugawa shogunate in Edo or Maeda family in Kaga clan.
All " Satsuma Kiriko" were handmade by the artisan hired by Shimadu family in Satsuma clan.
#薩摩切子#ガラス#切子#芸術#美術#江戸時代#薩摩藩#島津家
写真は、2019年10月25日 フランス国立PSL研究大学・フランス極東学院(京都市)の研究会の様子をNHKが取材している様子です(同年10月30日に放送)。
「細雪」、「刺青」などの作品で知られる大・大文豪「谷崎潤一郎」の遺品である大津絵の柄を美しく散らした襦袢です。谷崎潤一郎の晩年の頃に着用していた様で、
日本橋蛎殻町の谷崎潤一郎の生家で、ご家族が保管されていたのを、人を介して、譲り受けました。
谷崎潤一郎は、認知されているだけで、ノーベル文学賞に、少なくとも、4回ノミネートされていた日本を代表する作家です。芥川龍之介が仰いでいた作家のひとりです。
芥川とは、菩提寺も同じで、墓も背中合わせだとか。
金沢市を代表する文豪・泉鏡花、徳田秋声とも、谷崎潤一郎が、駆け出しの頃に、読売新聞社主催の宴で、初対面しています。この頃は、泉鏡花が、名を馳せていた頃です。
蛇足ながら、芥川龍之介は、同じく、金沢市の文豪・室生犀星を尊敬し、犀星の招きで、度々、金沢を訪れ、兼六園の老舗料亭に宿泊した記録があります。
長襦袢は、谷崎が、代表作「細雪」を執筆していた際に、着用していた可能性が、かなり、高いのです(芦屋市谷崎潤一郎記念館の学芸員の話)。「瓢箪鯰」など、長襦袢の柄の単語が、「細雪」の文章に、挿入されているのです。
細雪は、昭和天皇も愛読したとか。
金沢市は、加賀藩政より、能楽が盛んで、『宝生流』。対を成す『観世流』の継承者、故・観世栄夫さんの岳父(妻の父)が谷崎潤一郎。
『宝生流』と『観世流』は、能楽の二大流派。
この二大流派の共演も、過去に、金沢市能楽堂で行われました。
#文学#文豪#谷崎潤一郎#ノーベル文学賞#細雪#芥川龍之介#着物#能楽#泉鏡花#大津絵#襦袢#金沢市
明治天皇の北陸巡業の際に、明治天皇、側近の徳大寺実則(西園寺公望の兄)、大隈重信、岩倉具視らの一行が、倶利伽羅峠(石川県・富山県境)の高祖母の実家に立ち寄った。細川忠興と細川ガラシャの孫(加賀藩初代藩主・前田利家の孫)が、明治天皇の系譜にあたります。加賀藩二代藩主・前田利長は、細川忠興の甥になります。
【2020年12月判明】
明治天皇の皇后様の祖母が、肥後細川家のお姫様(熊本藩8代藩主、細川斉兹の姫)と言う事です。
8代藩主斉兹の曾孫が、福井藩主松平春獄の室、細川勇姫。
武家でなく、公家の藤原北家の五摂家、一条家に嫁いでいます。
この一つ前の世代は、越前松平家の福井藩主の正室が、肥後細川家のお姫様。
倶利伽羅峠は、細川一族の拠点の一つであり、加賀藩の越前衆(旧越前朝倉家の家臣)の拠点だったので、そういう事だと思います。
時代を遡り、加賀国北守護の赤松家の正室も、細川一族です。
教科書には、掲載されていませんが、枝葉の戸籍を丹念に
取り寄せると、いろんなことが、分かると思います。
とりあえず、私は、天皇の外戚の系譜のひとりということです。
行く先々の美容院で、美容師に、「こんなに太くて、真っ黒な直毛は、見たことがない。」と言われてきましたが、それは、先祖からの遺伝だったと言うことです。
✳️外戚とは、天皇の母、祖母の系譜で、律令社会では、代々、藤原北家から選ばれていました。
室町幕府管領・細川政元(細川京兆家当主)の右腕、上原元秀の末弟が当家の先祖の一人。室町幕府崩壊後には、越前国朝倉家に従います。朝倉家には、明智光秀、織田信長もいて、細川ガラシャの生誕地でもあります。細川幽斉も越前公方(足利将軍家)に付き添います。
さて、その細川政元は、公家の冷泉為広や上原元秀など家臣を伴い、京都から北國街道を通り、越後へ向かいます。その途中、倶利伽羅峠(石川県津幡町竹橋と富山県小矢部市蓮沼)で、宿泊した記録があります。また、冷泉為広の墓も、津幡城祉の傍に残っています。
倶利伽羅峠の3つの居城、今石動城、津幡城、木舟城の城主が、加賀藩初代藩主・前田利家の末弟・秀継です。当時、前田利家に次いで、加賀前田家で、No2でした。幕末、高祖母一家は、前田秀継の菩提寺の管理、墓守をしていました。
竹橋には、幕末に、先述の高祖母の実家(細川家)があり、蓮沼には、上原家もありました。蓮沼城(富山県小矢部市)は、古今伝授を継承した宗祇(連歌師)や細川幽斉(肥後細川家の祖、細川ガラシャの義父)も訪れています。後に、細川幽斉が、古今伝授を継承します。
室町時代から、細川家は、倶利伽羅峠を拠点のひとつとしました。江戸時代は、加賀藩二代藩主・前田利長によって、宿場町として栄えました。前田利長の妹・千世が、細川忠興・ガラシャ(明智光秀の玉姫)の長男・細川忠隆(細川内膳家の祖)と婚姻を結んでいます。
倶利伽羅には、「いよ」という高貴な娘が、前田利長の家臣・奥村永福によって庇護された記録があり、恐らく、細川ガラシャの自害の際に、逃げたとして、細川家を離縁された前田千世のことだと思われます。晩年、千世は、倶利伽羅峠に隣接する能登方面に居住した記録も残っています。
福井県史に残る当家先祖の記録。応仁の乱の後、室町幕府管領・細川勝元・政元(細川宗家当主)の右腕だった先祖は、たびたび、京都、および、越前の朝倉一族と連携を取っていた。
上原元秀、および、賢家の親子は、記録上、近江国の坂本で、死去している。真実かは、分からない(細川家の内乱で、追われている立場なので、カモフラ―ジュで、一族で、越前国に逃亡したかもしれない)。
坂本は、比叡山延暦寺の麓で、坂本城主は、細川家(典厩家)、および、明智光秀だった。
細川典厩家の直系(三浦家:蜂須賀家に養子に入った)は、加賀藩(金沢市長町)に住み、明治時代まで、卯辰山の開発などの指揮にあたった。
この細川典厩家の末裔の金沢市長町の屋敷付近には、明智光秀の兄弟(進士貞連)や細川ガラシャの娘(細川内膳家)の再嫁家・村井家の屋敷が集団であった。武家は、一族で移動するので、加賀前田家に従った細川家の分家一族と見られる。
坂本にある西行寺は、明智光秀夫妻、および、前田利家の6女・菊姫(豊臣秀吉の養女)の菩提寺。
記録上は、当家は、上原元秀の末弟・高家の子孫となる。
◆赤松政則(加賀国北守護)と洞松院(細川政元の姉妹)の縁談を成立させて、赤松家の滅亡を救ったのが、当家先祖のひとり、上原元秀。
加賀藩13代藩主前田慶寧は、
孝明天皇(明治天皇の祖父)の甥であり、
近衛文麿の外祖父であり、細川護煕の外高祖父です。
幕末に、大名家で作られた加賀藩主家の御家流(おいえりゅう)の復古調甲冑を忠実にミニチュアにした特別注文品の雛具足です。
幕末に作られた復古調甲冑は、総合美術工芸品として見るべきで、大名家となると、第一級の遺品です。
そして、特別注文で、大人の甲冑よりも、時間と技術を必要とする雛具足は、童具足より数が少なく、その価値を測り知る事が出来るでしょう。
江戸時代、天保10年(1839年)2月から製作が始まったと鎧櫃に記されています。
日本の歴史研究や武具の研究を専門とされている
北陸大学(石川県金沢市)の長谷川孝徳・教授に調べて頂きました。
人形師でなく、甲冑師の仕事で、大人用の具足と同じ技法で精巧に作られた加賀具足。
五月人形でも、雛形鎧でもなく、節句など何かのお祝いで製作されたミニチュアの具足(玩具具足、雛具足)と理解した方が良い。
玩具具足(雛具足)は、国内で数点しか発見されておらず、
最も有名な聖徳太子に縁と言われる品は国宝です。
加賀地方には、端午の節句に、母方の祖父母から、節句人形を贈る慣習があります。とすると、徳川家と近衛家からの贈り物となります。
年代から、加賀藩12代藩主 前田斉泰の子供のために、注文したのだろうと思われますが、どの子供の為かは、不明です。しかし、家紋が、幼剣梅鉢の定紋を使用しているので、長男の加賀藩第13代藩主 前田慶寧のためとは、推測されます。
雛具足は、大人の具足(製作期間 1年以上、製作費3000~5000万円)より、高い技術、製作期間、費用が必要です。
慶寧は、1841年に、初名(又左衛門)を襲名、1842年に、元服を迎えているため、ここに向けて作られたと思われます。
慶寧の二人の娘が、近衛文麿の生母と継母です。
兜の裏の布や紐の色が茜染めで、材料が豪華であり、家紋が加賀藩前田家宗家なので、加賀藩主にゆかりで間違いない、ということでした。
長谷川教授は、「この類の人形は、過去に、1体(※水戸徳川家から前田家への贈り物。アイテムの写真)しか見ておらず、希少、かつ、貴重である。」と。
博物館に展示するレベルの品ということでした。
全国の美術館、博物館でも、江戸時代の雛具足を収蔵出来ているところは、少ないということでした。殆どは、木や厚紙で製作されている様です。
また、大名の中でも富豪の大名は子供用の稚児鎧(童具足)を製作しましたが、稚児鎧よりも数が少なく思われるという見解でした。
この鎧飾りは、2020年5月に、金沢市内の博物館の企画展で展示予定でしたが、コロナ渦で企画展は、中止となりました。写真は、2021年5月に、展示された際のものです。
2020年11月1日、日本甲冑武具保存研究会において、特別貴重資料(鑑賞度が高く、資料としても優秀な品)に認定されました。
🔴その後、荘内酒井家(徳川家譜代大名)にも、類似品が伝来していると、有識者から教えて頂きました。前田家と酒井家は、姻戚関係にありました。
=======================================
◾(一社)日本武具甲冑研究保存会の正式コメント ◾
『童具足と雛具足(雛鎧、玩具具足の相違)について』
童具足は、少年が着用するもので、全国では100点以上残っていると思われます。
今回ご出品いただいた雛具足は武具というより節句人形として扱われているものですので、当会の甲冑審査に出品されたのはこれまでに2、3点ほどです。
このような節句人形として作られた甲冑は明治時代以降相当数あると思われますが、大名家などそれなりの武家の家に江戸時代から伝わったものがあると聞いたことはありません。
これは、武家の場合は本物の甲冑があるのでわざわざ節句人形として甲冑を誂える必要はないからです。
========================================
◾近衛文麿の孫が、元内閣総理大臣・細川護煕さんです。私の先祖は、この系譜の庶流にあたります。
#戦国武将
#加賀藩
#前田家
#具足
#甲冑
#歴史
#サムライ
#五月人形
#江戸時代
#芸術
#工芸
2019年2月に、金沢市内で発見された谷崎潤一郎の長襦袢。2019年10月25日には、京都市で、フランス国立PSL研究大学・極東学院長、クリストフ・マルケ氏(日仏会館、NHK日曜美術館など歴任)、京都精華大学、大津歴史博物館の合同研究会に招待され、NHK地方局に取材されました。
図柄は、大津絵を再興した「楠瀬日年」の絵を複写していて、学術的にも稀少価値が高い様です。
書籍「大津絵民衆的風刺の世界(角川ソフィア文庫)」に掲載されている図柄です。
写真は、特別許可を得て、2019年9月26日午後3時過ぎ、谷崎潤一郎の書斎「石村亭(京都市左京区)」で撮影。
2021年10月より、首都圏の文化施設で展示される予定です。
加賀藩12代藩主前田斉泰、または、
加賀藩13代藩主前田慶寧の冠です。
同じ家の冠師の銘が刻まれた「冠」が、
徳川美術館(愛知県名古屋市)に収蔵されています。
石川県立歴史博物館によりますと、
冠と一緒に、加賀藩10代藩主前田治脩、及び、
加賀藩12代藩主・前田斉泰、加賀藩13代藩主前田慶寧の品々が保管されていました。これらは、元々は、成巽閣(金沢市兼六園)にあった品々ということらしいです。
御所の冠は、幕末の加賀藩主では、
前田斉泰と前田慶寧しか着用することは出来ず、
石川県立歴史博物館は、
このどちらかの藩主の冠であることは断定して良く、
前田斉泰の可能性が、かなり、高いということでした。
明治時代に入り、成巽閣から何らかの理由で、
幕末の加賀藩主が、白山比咩神社に参拝する際に、
関係する場所に移された様です。
約150年前、明治時代の加賀象嵌。
「鳳凰」部分は、加賀象嵌の特徴の平象嵌である。
明治時代の象嵌の工具と現代の工具は違うので、再現不可能ということ(公立施設)。
加賀象嵌(加賀前田家)は、水戸象嵌(水戸徳川家)、肥後象嵌(肥後細川家)と並ぶ 三大象嵌。
【加賀象嵌】
『石川県金沢市を中心に生産されている金工品で、金沢市稀少伝統工芸に認定されている金属工芸である。前田利長(加賀藩2代藩主)が、後藤家五代徳乗の三男琢乗を召し抱えたことが加賀象嵌の始まりとされる。加賀藩の時代に、象嵌の名人が京都から招かれ、技術が向上したことで加賀象嵌が生まれたという。』
水野源六家は、
加賀藩主前田家の御用工(金工)加賀後藤家の番頭役として仕えた白銀職頭取の家柄。
作品は、加賀藩の伝統工芸「加賀象嵌」で、
金・銀・青金・赤銅を用いた平象嵌で
「鳳凰」を正面と背面に刻んだ。
四脚は「兎」で、側面には「三日月」。
「鳳凰」は、太陽。「兎と三日月」は、月。
天照大神と月読、日月紋を表わす。
この砂鉢は、幕末の加賀藩主前田家に縁の品々と、
石川県内の豪農(加賀藩主にゆかり)に、
長い間、保管されていた。
8代 水野源六と見られ、
明治時代の作品であることから、
華族 前田公爵家からの拝領品と見られる。
8代 水野源六の弟弟子は、文豪 泉鏡花の父親。
1877年(明治10年)、
「第1回 内国勧業博覧会」の出品リストに
「鳳凰模様生花」とあった。
同一品か姉妹品かは判らないが、
上野公園と前田侯爵家本郷邸の位置関係を考えると、
博覧会の後、前田家に譲られたか、
姉妹品が献上されたのかもしれない。
皇室に献上する際は、同じ品を三つ作り、最良品を献上。
作者の銘を入れない慣習がある。
当家が前田家に縁ということで、
人を介して持ち主(石川県津幡町の北国街道沿いの家)から譲り受け、石川県立美術館や宗桂会館(加賀象嵌博物館/金沢市)で話を伺い、調べて頂いていた。
加賀象嵌の作品としても「超一級品」であり、
古美術商の方に、話を伺うと、
前田家に献上された品々は、銘が刻まれないことが多い。
2022年7月17日に、
人間国宝(加賀象嵌)の中川衛さんに、写真を見て頂いた。「立派な加賀象嵌。鳳凰に、大きな四分一を埋こんであるが、高度な技術。刻印がないのは、献上品だから。」という事だった。
【追記】
現代の象嵌師に観て頂いたところ、
「普通でなく、現代では、再現が難しい。水野源六(8代)は、明治時代以降の加賀象嵌で、頂点に立つ人。」とコメント。
🔸八代 水野源六は、明治6年(1873年) ウィーン万博で、優勝碑を受賞した。
🔹明治6年(1873年)以降の作品。青銅に加賀象嵌を施したのは、明治6年のウィーン万博以降のこと。