ムラヴィンスキーの芸術

初版 2018/03/30 13:39

改訂 2018/03/30 21:44

エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー



1903年、彼はサンクトペテルブルクの貴族の家に生まれました。1917年のロシア革命で財産を没収され、レニングラード国立大学(現サンクトペテルブルク国立大学)の貧乏学生さんになります。その後、レニングラード音楽院(旧サンクトペテルブルク音楽院、チャイコフスキーやショスタコーヴィチが出てます)に入り指揮を学びます。

1931年にデビューし、1938年に35歳の若さでレニングラードフィルハーモニー管弦楽団(以下LPO)の常任指揮者に就任します。一見華やかなサクセスストーリーのようですが、彼を天才と讃賞する一方で落ちぶれた旧帝時代の楽団に据えて失敗したらハイそれまでよ、とする意図があったとも言われています(出自も関係しているようです)。そして彼は、低迷した楽団の建て直しに取り掛かります。

個々のパートの練習に口を出し、何度も何度も通しのリハを行ったそうです。反発にも屈せず、練習練習また練習で鍛えてゆき、高密度で繊細さと力強さを兼ね揃えた高い表現力を持つオーケストラへ育ててゆきました。

着実に力をつけていったLPOですが、西側にその名が知られることはありませんでした。転機は1956年のウィーンでの公演。モーツァルトの生誕200年祭で西側の評価を受けるようになりました。以降、海外公演を行うように(もちろん政府の意向はプロパガンダと外貨獲得)になります。1973年の初来日から日本公演も計4回行われました(天ぷらと日本酒を気に入ってたそうです)。

ニューヨーク公演で2名の団員が亡命する事件がおこります。その責任を追及されたムラヴィンスキーですが、もともとソ連共産党が大嫌いだった彼は(ショスタコーヴィチとも交流があった彼は当時の党のやりようを快く思っていませんでした)「うちの楽団から逃げたのではない。この国から逃げたのだ。」と言ったそうです。さすがに有名人を粛清できない政府は彼を出国不可にしてしまいました。心臓を患っていた彼は、その後公演も減り録音も行わなくなったそうです。そして1988年、心臓発作によりその半世紀にわたる常任指揮者としての役を終えました。享年84歳。


https://muuseo.com/cosmic-ace/items/90


MRAVINSKY / Shostakovich Symphony No.5 1973 Tokyo Live | MUUSEO(ミューゼオ)

https://muuseo.com/cosmic-ace/items/90

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https://muuseo.com/cosmic-ace/items/561


チャイコフスキー:交響曲第4, 5, 6番 | MUUSEO(ミューゼオ)

https://muuseo.com/cosmic-ace/items/561

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ace

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    negrita

    2018/03/30

    あの音は、この背景と強い意志があってこそ、なんでしょうね。
    凄い衝撃でした

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      ace

      2018/03/30

      "何が何でも妥協しない"という生き方を貫いたことに憧れます😆
      コメ&wish、ありがとうございます!😊

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