追悼:森田童子に思うこと。
こんにちは、あゆとみです。 https://muuseo.com/analogrecordfan/items/457 わたしが森田童子を知ったのは、多くの人がそうであるようにドラマ「高校教師」だった。 春のこもれ日の中で 君のやさしさに うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ https://www.youtube.com/watch?v=iER-NZ7GoM8&t=78s 物悲しい声、装飾のないシンプルな音色。 ぼくたちの失敗は、屋根裏部屋から不意にみつけたオルゴールの音色みたいに、ノスタルジックで、同時に妙に新しさもあって、はっとさせられた。 1970年代の曲だったと後で知ることになるのだが、とてもその当時で20年も前の曲とは思えない新しさを感じたのを覚えている。 森田童子の声は可憐な高音で、折れそうに華奢に響く。歌詞はいつもとびきり悲しくて孤独、それでいて不思議な包容力を感じさせる。 どん底まで悲しみを経験した人が到達できる悟りを含んだ優しさというのか。 人が人であるがゆえの弱さ、醜さを受け入れ、それを糾弾せずにそのまま抱きしめてくれるような母性。 清濁飲み込んで浄化するような光。 まるで聖母のごとく・・・ と、ここまで書いて思い出したが、そういえば彼女の唯一のライブアルバムは「東京カテドラル大聖堂録音盤」だそうだ。 まるで聖母のような慈愛を感じさせる彼女の歌を聖マリア大聖堂で聴く体験はさぞや格別なものだったのではないだろうか。 https://muuseo.com/analogrecordfan/items/463 多くの人が言っていることだが、森田童子ほどミステリアスな歌手は珍しい。 素顔を隠してデビューする歌手は少なからずいるが、大抵は数年後に「実はこんな顔をしていました」とカミングアウトしたり、時が経つと気分が変わって別人のような出で立ちになるものだ。それに人は一度スポットライトを浴びると戻りたくなるというのはよく聞く話だろう。 彼女は違った。 当時熱狂的なファンが数多く存在したにもかかわらず、メジャーデビューを拒んだこと。 常にサングラスにカーリーヘアのまま、素顔を隠し通したこと。(チラ見せ一切なし) 引退して10年経った後に、ぼくたちの失敗の大ヒットで再脚光を浴びても、一切メディアに登場しなかったこと。(大抵は再ブレイクのタイミングでベールを脱いで登場するケースが多い) ここから感じるのは、彼女のブレない強烈な自我と意思の強さだ。 最後の最後まで素顔を隠し通したことで浮かび上がってくるのは、素顔を隠したのは、ミステリアスを演出するためのパフォーマンスとかイメージ戦略などではなく、ただ本当に世間から顔を隠していたかった、プライバシーを守りたかったからなのだとわかるのだ。 https://muuseo.com/analogrecordfan/items/458 彼女が世に残した数少ないヒントからどうやってあの独自の世界観が生まれたのかについて考えてみた。 すると、学園闘争、「きみ」として登場する友達、持病との戦い。 この3つが思い浮かぶ。 森田童子が高校を辞めたきっかけは学生運動をしていた友人が警察に「パクられた」からで、歌い始めたきっかけは友人の死だったらしい。 「ぼく」は彼女自身だ。 なぜ「ぼく」になったのかというと、 「女系家族に育ち、女の嫌な部分、ドロドロした部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった」 (1983年ラジオインタビューより) のだという。 学園闘争は当時の若者を揺り動かした一大ムーブメントだ。 彼女の「球根栽培の唄」や「みんな夢でありました」は学園闘争を色濃く反映した歌だとされている。 https://www.youtube.com/watch?v=uiXDF4jcZXM 次は「きみ」として登場する人物だ。 これが誰だったかを考えてみると、彼女が高校をやめるきっかけになったとされている警察に逮捕された友人、そして歌を始めるきっかけになったとされている亡くなった友人が同時に候補として思い浮かぶ。それが一人なのか二人なのかはわからない。(同一人物なのかなあ?とは思っている。) https://muuseo.com/jac-rec1925/items/323 持病との戦いについてだが、彼女は高校を中退して3年間、北海道で療養生活を送っている。のちのラジオで胸を患っていたと話していたらしい。 人は病気になると健康がいかに幸福なことかを思い知らされる。 ただでさえ普通の人よりずっと鋭い感性を持った彼女のような人が、長い療養生活でありとあらゆることを突き詰めて考えていたのは想像に難くない。 ああ、苦しい。 いっそ死んだほうが楽になるんじゃないかな。 死んだらどうなるだろう。 ・・・なんて考えが浮かぶのもわかる気がするのだ。 https://www.youtube.com/watch?v=HjwiEFmwyis 当時のことをラジオで彼女はこう語った。 「わたしは何もできない。動けなかった。わたしの歌は、周囲を見ていた自分の意識の投影なんです。人も風景もどんどん変わって行く。だけど自分だけが同じところにいるような気がして。何もしていなかった時間をどうやって経験してきたか。こうなって欲しかった。多分こうだったんじゃないかという想いがわたしの1つのエネルギーになっているんです。」 さぞや苦しく、もどかしく、やるせない時期だっただろう。 ただ、この時期に動けなかったからこその森田童子なのだとは思う。 彼女はよく「儚い」と形容されるが、今にもこの世から消えてしまいそうなほどの彼女の雰囲気や、歌詞からにじむ孤独と世の中に対する諦観は、この闘病生活から生まれたもののような気がしてならない。 当時の森田童子が映る貴重な映像を見つけた。 1980年の自主フィルムで、彼女が「夜行」という屋外のライブと仲間達と実現する過程を描いたドキュメンタリーだ。 東京のど真ん中の空き地にテントを立ててライブをする。 これは、革命的な挑戦だったに違いない。 動画の中で、バックコーラスの入ってくるタイミングを指示する彼女は、普段のアンニュイなイメージとは別人のように、仕事人としての「生」のエネルギーを放っており、新鮮だった。 https://www.youtube.com/watch?v=tyS0CkPMPxo&t=415s また、東京が大都会への発展を遂げる過程で失われていくもの、例えば、子供の頃に遊び場だった空き地や路地がどんどん国に管理されて奪われていくことについて彼女がカメラの前で語るシーンには驚かされた。 儚げな声はそのままなのだが、つっかえることなくとつとつと語る彼女は極めて雄弁だ。すごく頭のいい人なのだと思う。 https://www.youtube.com/watch?v=bTyra-hhNlc&t=2s 彼女の世界観が現れている思ったのは次の言葉だ。 「あと何年か後には東京にテントを立てるということはほとんど不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていく様を見て欲しいと思います。そして私たちの歌が消えていく様を見て欲しいと思います。(中略)1つの終わりの時代に向けて、私たちの切ない夢を見て欲しいと思います。」 移ろっていくもの。なくなるもの。消えるもの。変わっていくもの。終わるもの。 そうしたものに目をそらすのではなく、なくなるまで見続ける。 線香花火が燃え尽きて黒い塊になるまでをじいっと見つめるように。 https://muuseo.com/analogrecordfan/items/460 マザー・スカイに収録されている曲「男のくせに泣いてくれた」も大好きな曲だ。 ドラマ「高校教師」でも主題歌に次いで重要なシーンで流れていた。 https://www.youtube.com/watch?v=g5eKdLqy4-8 森田童子さん、かずかずの素晴らしい歌をどうもありがとうございました。 R.I.P. #森田童子 #ぼくたちの失敗 #男のくせに泣いてくれた