Live in Reims Cathedral 1974 / Tangerine Dream

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TANGERINE DREAM
Live in Reims Cathedral Dec13th 1974
 2021年の Record Store Day でリリースされた Tangerine Dream の2枚組レコード盤。
 1974年12月13日、パリの東北東約130㎞に位置する街ランスにある Reims Cathedral で行われたギグのライヴレコーディングだ。音源自体は既にCDの Official Bootleg series vol. 1 で発表済で、更に一昨年の Barbican での展覧会ではカセットテープで発売されていたが、今回は初の vinyl での発売。オフィシャルなレコーディングはされておらず、ファンが独自に録音した音源しか存在しないが、考えられる最も良好なテープから再構築された物だ。
 豪華ゲイトフォールドのジャケに16ページのライナーが付属し、更に盤自体は大聖堂のステンドグラスをモチーフにした大変美しいピクチャーディスク仕様で、2000部限定プレス。
 カトリックの大聖堂でポピュラー音楽のコンサートが行われるのは初めてという事で当時はフランスのみならずヨーロッパでは大変注目されたらしいが、音楽以外の運営面で惨憺たる結果を招いてしまい、以後バチカンから大聖堂の使用は許可されなくなってしまった、曰く付きのライヴである。この経緯については Edgar Froese による自伝「Force Majeure」に “The Reims Cathedral Disaster” として一章を設けて詳細に記されている。そのごく一部の要約は以下の通り。

 フランス人プロモーター Assaad Debs という人物から突然に大聖堂でのライヴを打診された。フランス国王の戴冠式も行われたカトリックの由緒ある建物で本当にパフォーマンスができるのか疑問に思ったが、大司教からの正式な書類もあった。日時は1974年12月13日の1回のみ。そしてオープニングアクトとして The Velvet Underground と活動していた Nico のソロアクトが既に決定していた。彼女はニューヨークに渡る前にはベルリンで当時エドガーが住んでいたアパートメントの向かいのアパートメントに住んでいて、ファーストソロの Chelsea Girl は60年代末のお気に入りの一枚だった。
 今まで教会や聖堂でのライヴ経験は無かった為に最も危惧されたのは音響効果であった為、似たような反響を持つベルリンの大聖堂で音響測定も行い、何週間もの準備の後に機材を積んだトラックがベルリンを出発したのはライヴ前日の朝。それまでは多少のリスクはあっても通常のライヴパフォーマンスができると思い込んでいた。
 ところがライヴ当日になって会場での機材設置や機材に関与する保険、更に当日チケットを求める電話による回線パンクなど、様々な問題が表面化した。
 中でも音響の問題は深刻で、ステージから最後方までは6.3秒もの時差があり、高速及びポリリズムを用いてのシークエンスは実質不可能。スピーカーの配置を工夫して影響の軽減を試みたが完全ではなく、結局この日のパフォーマンスは音楽的のみならず音響学的にも全てインプロで行わなければならなかった。
 定員は2000名だった筈が何故か6000名もの入場者が通路のあちこちで寝そべっており、大麻や香の煙が場内に充満していた。この状況を “The sight was a nightmare in itself.” と書き記してある。教会責任者は不安で何もできない状態だったが、地元の消防署員がやって来て言われた事は、「定員超過の群衆がパニックで暴動を起こすのを避けるために会場は封鎖しない。今すぐ演奏を始めるべき、いや始めなければならない。」
 1曲目のブレーク後に控室としていた聖具室にて教会の責任者と協議をしたが、彼はこの状況にすっかり消耗しており、このイベントが彼自身のみならず Reims 教区にとっていかに “catastrophe” であるかを話したが、エドガーは、誰がこんなに人を入れるのを許可したのか、チケットは元々何枚用意してあったのか、この大人数に対して僅か3つのトイレしか用意できない会場ではそもそもコンサートを行うべきではない、と反論したという。
 更にブレーク中にチケットを持たない2、300名ものファンが会場内に押し入ってしまった。もう誰も止められる状態ではなく、当に disaster の状態だ。にも関わらず、2曲目では幾重もの反響音からなる音の変化の中、次々とアイデアが浮かびその中の幾つかはこの状況下では考えられない程の素晴らしいクオリティだった。
 コンサート中に会場内では何が起こっていたかは知る由も無かったが、フランスの新聞の見出しには「6000ものヒッピーやろくでなしどもがフランス国王の戴冠式場を冒涜した」の文字が踊っていた。タンジェリンもこの出来事について非難されたが、全く馬鹿げている。教会責任者が6000名もの入場を許可していなかったとしても、最低限の衛生設備すら備えていない中で2時間にもわたるライヴを行わせたのは無責任としか言いようがなく、グループや我々の音楽とは全く関係無い。
 しばらく後にバチカンは欧州の全てのカトリック教会でのタンジェリンのライヴパフォーマンスを禁止する声明を発した。これについてはエドガーは「我々はローマから破門された( Both we and our music had been excommunicated by Rome.)。」と表現している。しかし皮肉な事に今度は欧州のプロテスタント派から教会や聖堂でのコンサートのオファーが来るようになり、中でも非常に保守的なイギリス国教会からは計12回ものライヴ依頼があった。およそ19週間ものブレイクがあったのでその間に音響に関する問題を全て整理して、それらの中から幾つかのオファーを受けて、 ベルリンの St. Benno Church を皮切りにCoventry Cathedral, Liverpool Cathedral, York Minster でのライヴが実現した。それぞれの教会ではライヴ運営や音楽、聴衆に関する問題は無く、我々は教会側から最大限の敬意と十分なサポートを受けた。振り返ってみれば、 Reims での様々なネガティブな出来事は明らかに容易に回避可能だった。

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