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TYRRELL FORD 018 #4 JEAN ALESI JAPAN GP 1989
ティレル・018は、ハーベイ・ポスルスウェイト氏を責任者として設計されたF1マシンで、1989年シーズンから1990年シーズンにかけてティレルチームが使用しました。 1988年シーズンに使用した017の後継モデルとして、前作からの共通部品のない完全な新型として設計されました。前年にフェラーリから移籍していたポスルスウェイト氏と、新たに移籍してきた空力専門家のミジョー氏によりこの5年苦戦してきたティレルにとって久々となる戦闘力を持つマシンとなりました。 018にはフロントサスペンションにモノショックが採用され、左右のフロントサスペンションで1セットのダンパーとスプリングを共有し、ダンパーとスプリングはコクピットの前方の、モノコック中央上面に沿うように配置され、ダンパーはリンクを用いて左右のプッシュロッドと接続されています。モノショックのフロントサスペンションは、1990年以後、ジョーダン、レイトンハウス・マーチなど複数のチームがコピーして採用しました。マクラーレンやフェラーリなどのトップチームも翌年以後に左右のダンパーを接続してモノショックと同様の効果を持たせたフロントサスペンションを導入するなど、この設計思想はF1界に大きな影響を与えました。 設計責任者のポスルスウェイト氏が「息子に修理を頼まれた田宮のラジコンカーのサスペンションを見ていて、このモノショックを思い付いた」と田宮模型社長の田宮俊作に話をしたことがあると田宮が自著に記されています。 018ではミジョー氏の空力思想により、フロントウイングとノーズ底面が若干持ち上げられており、翌年の019では更に大きくノーズが持ち上げられ、アンヘドラルウイング(コルセアウイング)が導入されることになります。 エンジンはコスワース・DFRを使用しました。 1989年シーズン、ドライバーはミケーレ・アルボレート選手とジョナサン・パーマー選手の2人でしたが、途中フランスGPより大口スポンサーとしてキャメル(R.J.レイノルズ社)が付くことになり、マールボロから支援を受けていたアルボレート選手が離脱し、後釜にキャメルがスポンサーするF3000チームEJRでランキングトップとなっていた新人ジャン・アレジ選手が起用されました。アレジはフランスGPとスペインGPで4位に入賞し、イタリアGPでも5位でポイントを獲得するなどパーマーを上回る好成績を挙げました。なお、アレジがタイトルのかかっていた国際F3000参戦を優先したため欠場したベルギーGPとポルトガルGPではアレジの代役としてジョニー・ハーバート選手が018をドライブしました。 メキシコGPで3位(アルボレート選手)を最上位に、カナダGPではジョナサン・パーマー選手がウェットレースの中ファステスト・ラップを記録。1989年のコンストラクターズランキングで5位を獲得しました。非ワークスエンジンを使用するチームの中では最上位でした。 (参照ウィキペディア) なお、このモデルのアレジ選手は、日本グランプリではリタイアでしたが、シーズンでは8戦(そのうち3戦リタイア)しか走りませんでしたが、他の3名のドライバーを抑えて9位の成績となりました。 恐るべき新人でしたね。 #minichamps #tyrrell #ティレル #ford #フォード #uk #イギリス #japan #日本
4 FORMULA 1 1/43 TYRRELLsennakazu
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トヨタ ダイナ 1979 芳谷園造園・建設業
ダイナは、トヨタ自動車が販売する小型・中型トラックで、トヨペット・ルートトラックRK52型をルーツとする、トヨタの小型トラックとして誕生しました。 登場時はトヨエースより上級に位置していましたが、1985年(昭和60年)以降は双子車となり、仕様とラインナップが共通化されています。 1969年(昭和44年)発売の3代目以降はダイハツ工業との共同開発となり、ダイハツブランドでもデルタとして販売されていました。 後にダイハツは開発から撤退し、1999年(平成11年)発売の7代目以降は日野自動車との共同開発となり、2t積以上の車種の製造も全て日野自動車で行われており、バッジ違いの双子車が日野・デュトロとしても販売されていました。 このモデルは、4代目(1977年 - 1984年)で、1977年8月にフルモデルチェンジが行われ、また、ダイハツ・デルタに加え、日野・レンジャー2として日野自動車向けにOEM供給が開始されました。セミキャブオーバーでは足元にホイールハウスが張り出すため、運転席の居住性改善と荷台拡張を目的に、セミキャブオーバーからキャブオーバーへ変更されました。 前後異径タイヤの「ジャストロー」が設定され、OEM先のダイハツ・デルタにも「ローデッキ」の名で設定されました。 (参照ウィキペディア) この車両が発売されたのが、このシリーズの初期だったので、トラックの荷台に植木なんて、粋なことをやるなと、今後に期待を持った一台でした。 そして、これも植木への固定ロープをして一手間掛けようと努力したのですが、なかなかそれらしく上手く行かず徒労に終わりました… #hachette #toyota #トヨタ #truck #トラック ##
懐かしの商用車 1/43 ダイナ HACHETTEsennakazu
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WILLIAMS F1 TEAM FW08B SIX-WHEEL TEST CAR 1982
ウィリアムズ・FW08Bはフロントタイヤ2輪・リアタイヤ4本を装着する6輪車のテストカーです。 ウィリアムズは1981年末にFW07Dを6輪車に仕立ててテストし、1982年には2作目となるFW08Bを開発し、リアにはフロントの15インチよりも小さな13インチのホイールが4つ装着されていました。 6輪F1マシンの先駆けであるティレル・P34はフロント4輪・リア2輪でした。 リア4輪車はウィリアムズより先にマーチ2-4-0(1976年)が発表されていましたが、テストのみで終わりました(フェラーリも後輪の2連装タイヤをテストした)。 リア4輪はタイヤを小径化することで空気抵抗を減らし、4輪駆動でトラクションを稼げるというメリットがあり、また加えて、サイドポンツーン内部のベンチュリ構造を延長して、より強力なグラウンド・エフェクト・カーにすることが可能でした。複雑な駆動系と重量超過という課題はありましたが、テストではまずまずの結果を残していました。 しかし1982年末に、FIAがグラウンド・エフェクト・カーの禁止とタイヤは4本までという新レギュレーションを発表したため、6輪車の可能性は潰え、FW08Bはウィリアムズのファクトリーにある博物館行きとなりました。 (参照ウィキペディア) 実戦投入されたティレル・P34もかっこいいですが、陽の目を見ずに去って行ったこのマシンも魅力的です! でも、いつも思うのですが、6輪車のタイヤ交換は大変だったんでしょうね。。。 #minichamps #williams #ウィリアムズ #uk #イギリス #F1 #フォーミュラ1
1 FORMULA 1 1/43 WILLIAMS F1 TEAMsennakazu
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LOTUS FORD 72E #2 RONNIE PETERSON ITALIAN GP WINNER 1973 SUPERSWEDE 1944-1978
ロータス・72は、チーム・ロータスのコーリン・チャップマン氏とモーリス・フィリップ氏がデザインしたフォーミュラ1カーであり、1970年スペインGPでデビューし、1970年にはヨッヘン・リント選手、1972年にはエマーソン・フィッティパルディ選手をドライバーズ・チャンピオンにつけ、3度のコンストラクターズ・チャンピオンを獲得し(1970年、1972年、1973年)、1974年までに通算20勝(ヨッヘン・リント選手4勝、エマーソン・フィッティパルディ選手9勝、ロニー・ピーターソン選手7勝)を挙げました。 1973年のシーズンには安全性向上のためルールが改善され、新ルールが施行されるスペインGPから、このモデルの「72E」が投入されました。この年、ロータスに加入したロニー・ピーターソン選手はロータス72とウマが合い、この年4勝(年間通算成績3位)、フィッティパルディは選手3勝(年間通算成績2位)を挙げ、この年のコンストラクターズ・チャンピオンはロータスが獲得しました。しかし残念ながら、ドライバーズ・チャンピオンはティレルのジャッキー・スチュワート選手が獲得しました。 エンジン→フォード・コスワース DFV。 排気量→2,993cc シャーシ構造→アルミニウムモノコック。 タイヤ→ファイアストン・グッドイヤー(72から1972年の72Dまではファイアストンを、1973年の72Dから72Fまではグッドイヤーを使用) 重量→154kg (参照ウィキペディア) ロータス72では、この72Eが1番カッコいいですね! 中学生の時に初めて買ったタミヤのF1プラモデルもこれだったと記憶しています。サイドから水平に見たフォルムが最高です。 #tms #lotus #ロータス #ford #フォード #uk #イギリス #ITALY #イタリア
2 SUPERSWEDE 1944-1978 FORMULA 1 1/43sennakazu
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LEGO McLAREN MP4/4 & AYRTON SENNA 693pcs
予約していた『レゴ マクラーレン MP4/4 & アイルトン・セナ』が届きました! 私の大好きなアイルトン・セナ! 封を開けるのは、もう少し余韻に浸ってからにします。。。 完成しましたら真っ先に展示をさせていただきます。
12 FORMULA 1 - McLAREN HONDAsennakazu
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FOOTWORK MUGEN HONDA FA14 1993 JAPANESE GP AGURI SUZUKI
フットワーク・FA14は、フットワーク・アロウズが1993年のF1世界選手権参戦用に開発し投入した無限ホンダエンジンを搭載したF1マシンです。3年ぶりにF1に復帰したデレック・ワーウィック選手とチーム2年目の鈴木亜久里選手がドライブしました。 1993年の序盤2戦は前年の改良型、FA13Bが投入され、FA14は第3戦のヨーロッパグランプリから投入されました。フロントウィングはFA13のトーショナルウイング(ティレルのコルセアウイングなど)から、2点吊り下げ式のウィングへと変更しまし、またリアウィングにはFA13Bで採用したメゾネットウィングを使用しましたが、あまり成果が上がりませんでした。 第9戦イギリスGPからマクラーレン製のアクティブサスペンション(スペックダウン版)が投入された事に加え、無限ホンダエンジンは前年から高回転化や大幅に軽量化が図られた事によりシーズン後半のスピードアップに大きく貢献しました。 アクティブサスの実戦導入以後、ワーウィック、鈴木亜久里両ドライバー共に予選のシングルグリッドの常連となったが、その速さを決勝レースでの結果につなげることはできませんでした。特に鈴木亜久里はマシントラブルも多くシーズン後半には7戦連続リタイアを喫するなど0ポイント。一方のワーウィックは4位、6位を一度ずつ記録し、チームの4ポイントの全てを獲得して、コンストラクターズランキング9位でシーズンを終えました。 そして、1990年から続いた日本の運送会社フットワークインターナショナルは、親会社のフットワークの経営悪化が著しくなり、シーズン終了後にチーム売却を決断する事になりました。 (参照ウィキペディア) このマシンの大きな特徴である吊り下げ式のフロントウイングとスッキリとしたノーズがシンプルながらも安定感があって好きですね。 またシーズン中、フットワークの経営悪化によるチーム売却の話が出てきたのには衝撃的でしたね。同業者だったので数ヶ月前から噂があったのは確かでしたが。。。 #spark #footwork #フットワーク #mugenhonda #無限ホンダ #japan #鈴鹿
10 RACING ON MS-MODELS AGURI SUZUKI COLLECTION FORMULA 1 1/43sennakazu
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KISS ARMY ① GENE SIMONS ジーン・シモンズ
久しぶりに部屋を整理していたら懐かしいフィギュアが。。。あっ『KISS』! 高校時代に『KISS』と巡り会ってから、 世界観が変わりました。 小学時代で、ピンキーとキラーズ、天地真理。 中学時代で、ビートルズ、ミッシェル・ポルナレフ、カーペンターズ、サイモン&ガーファンクル。 高校時代1年まで、岡田奈々。 と、好きな歌手、アーチストは、国内外問わず割とミーハー・ソフト路線を歩んでいました。が、高校時代2年で『KISS』が降臨、ハードロックに目覚めました。 それから、毎日寝ても覚めても 『KISS』『KISS』『KISS』でした。 そして、今でも好きです😊 さて、ご存知、悪魔のジーン・シモンズ! 火を吹いたり、血ヘドを吐いたり、長い舌をベロベロしたり、人気者のボーカル・ベーシスト! #kiss #キッス #figure #フィギュア
FIGURE キッス・ウルトラ・アクション・フィギュア McFARLANE TOYSsennakazu
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SAUBER C16 FERRARI N.LARINI 1997
ザウバー・C16は、1997年のF1世界選手権に投入したフォーミュラカーです。 前年までの2年間使用したフォードのワークスエンジンZetec-Rの使用権がスチュワートグランプリチームに移ることになり、新たにフェラーリと契約を結んで、カスタマーエンジンユーザーとなりました。フェラーリが前年使用したティーポ046/1エンジンの供給を受け、スポンサーのペトロナスのバッジネーム(自社以外のメーカーが製造したエンジンの命名権を買い取り、自社の名前でコンストラクター登録を行うこと)を付けて、「SPE-01」と呼称しました(SPEは「ザウバー・ペトロナス・エンジニアリング」の略)。フェラーリエンジンの搭載は2006年にBMWがチームを買収するまで続けられました。 ドライバーはチーム2年目となるジョニー・ハーバート選手に加えて、エンジン供給の関係から、フェラーリのテストドライバーであったニコラ・ラリーニ選手がセカンドシートを獲得しました。 C16はシーズン当初競争力を発揮しましたが、シーズンが進むにつれて潤沢な資金を持つライバルたちに比べて開発が進まず、その戦闘力は低下していきました。 1997年のシーズン成績は、計4人のドライバーが出走しましたが、このモデルのニコラ・ラリーニ選手は全17戦の前半5戦のみ出走して解雇となりました。また、チームのポイントのほとんどが相方のジョニー・ハーバート選手の活躍によるもので、コンストラクターズは7位でした。 (参照ウィキペディア) このモデルは、長年、ONYX製でしか製品化されていませんでした。他のザウバーモデルは全てミニチャンプス製で製品化されていたのですが、このC16だけ版権の問題だったのでしょうか、当時F1ミニカー=ミニチャンプス派だった私にとっては、スッキリしない悶々とした日々を送っていました。 数年前にやっと製品化されて喜んだのですが、ダイキャスト製の価格高騰により、今度は価格的に手が出せず、再び悶々とした日々を送っていました(笑)。 で、それから数年を経てやっとのことショップのセールで手に入れることが出来ました。 たったそれだけなのですが、私にとっては思い出深いモデルの1台です。 #minichamps #sauber #ザウバー #ferrari #フェラーリ #germany #ドイツ #italy #イタリア
17 FORMULA 1 1/43 SAUBER PETRONASsennakazu
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LOTUS FORD 72D SCUDERIA SCRIBANTE LUCKY STRIKE RACING #29 DAVID CHARLTON BRITISH GP 1972
ロータス・72は、チーム・ロータスのコーリン・チャップマン氏とモーリス・フィリップ氏がデザインしたF1マシンで、1970年スペインGPでデビューし、1970年にはヨッヘン・リント選手が、1972年にはエマーソン・フィッティパルディ選手がドライバーズ・チャンピオンを獲得し、また3回のコンストラクターズ・チャンピオン(1970年、1972年、1973年)を獲得しました。 1970年、デビュー後のマシン性能の不調は何度かの改修(72→72B→72C)で大きく改善され、リント選手は4連勝を収めましたが、イタリアGPの予選を走行中に、部品破損が原因とみられる事故で死亡しました。リント選手の後任となったフィッティパルディ選手の活躍でリント選手が死後のチャンピオンになるのに貢献をしました。 1971年、リア・サスペンションやリア・ウィングのデザインなどが手直しされ「72D」となりましたが、このシーズンは不調に終わりました。 1972年、フィッティパルディ選手の活躍により、「72D」で5勝を挙げ、F1史上最年少のチャンピオンとなりました。 なお、この1972年のシーズンから、ロータスのスポンサーであるインペリアル・タバコ社が、ロータスのカラーリングを、それまでの赤・白・金のゴールド・リーフ・カラーから、黒地に金色のストライプのあの有名なJPSカラーに変更されました。 (参照ウィキペディア) このモデルは、1972年から73年まで、ノンワークスのプライベートチーム(スクーデリア・スクリバンテ・ラッキーストライク・レーシング・チーム/南アフリカ)として参戦していたマシンで、ドライバーは、南アフリカのデイブ・チャールトン選手でした。 1972年シーズンは、4戦のみ出場し、結果はリタイア及び予選不通過でした。 (参考までに翌年1973年は、1戦のみで、リタイアでした。。) カラーリングは、ロータスとしては大変珍しい、赤と白のツートンのラッキーストライクカラーです。JPSカラーのブラックと対比してみると別物のマシンに見えてきますね。 #minichamps #lotus #ロータス #ford #フォード #uk #イギリス #usa #アメリカ
29 FORMULA 1 1/43 SCUDERIA SCRIBANTE LUCKY STRIKE RACINGsennakazu
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AYRTON SENNA KART MODELLE ①1980(右) / ②1993(左)
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年の計3度のワールドチャンピオンを獲得した以外にも、数々の偉業を成し遂げた私が最も敬愛したドライバーであるが、彼のレースの原点は、カートレースから始まっています。 セナに与えられた初めてのレーシングカートは父ミルトンが自作したもので、1馬力の小さな芝刈り機用エンジンを載せていました。セナが13歳の時、インテルラゴス・サーキットで初めてレーシングカートの競技会に参加し、彼は先頭から初レースをスタートし、自分より数歳年上のライバルたちを相手にレースの大半をリードして見せました。最終的には、ライバルの1人に接触されてリタイアとなってしまいましたが、父ミルトンがその後の息子のレース活動をサポートするには十分な結果でした。 セナは1977年に南アメリカ・カート選手権を制し、その後、1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦し、1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となりました。また、1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位に入賞しました。 このモデルは、①1980年カートレース時代(右)と②1993年F1時代(左)の彼のカートレース時のモデルを1/43で再現したものです。眺めているだけで、涙が出て来ますね。。。 #minichamps #cart #ayrtonsenna #アイルトンセナ
9 / 2 CART 1/43 AYRTON SENNAsennakazu
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RENAULT DP WORLD F1 TEAM R.S.20 E.OCON 2nd PLACE SAKHIR GP 2020
2020年のルノーは、ドライバーとして、残留したダニエル・リカルド選手と、前年はF1のレギュラーシートを失い、メルセデスのリザーブ兼テストドライバーを務めていたエステバン・オコン選手で戦いました。 同年は、コロナウイルスの世界的流行の影響が深刻化し、F1は休止状態となり、開幕戦となった7月のオーストリアGPまでの間には、リカルド選手が今シーズンを以てチーム離脱することや2021年以降の参戦が不安視されるなど、マシンよりチーム運営が不安視される情報が相次ぎました。 しかし開幕戦からチームとして5戦連続入賞を記録、マシンの信頼性の不安も前年より改善し、大きなトラブルは起きておらず、前年の問題点はいくらか改善されました。またマシンの特性的に前年に続き高速サーキット寄りのGPで強い結果を出しています。 同シーズンの成績は、オコン選手9回入賞と、リカルド選手3位2回を含む14回入賞で、ランキング5位となりました。 (参照ウィキペディア) なお、コンストラクターズとしてのルノー名は最後で、翌年からはアルピーヌ名となりました。 このモデルの艶消しブラックとルノーイエローの組み合わせがとても好きでしたね。またリアカウル両サイドには、ルノーグループの日産が海外で展開するラグジュアリーブランドである『インフィニティ』のロゴがありますが、同年でルノーF1との5年間のコラボレーションを終了し、F1から撤退しました。 #minichamps #renault #ルノー #france #フランス
31 FORMULA 1 1/43 RENAULT DP WORLD F1 TEAMsennakazu
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FERRARI F138 CHINESE GP 2013 FERNANDO ALONSO
フェラーリF138という車名は「西暦2013年+V型8気筒エンジン」から命名され、このネーミングには、現行のV8エンジンが最終年という意味も込められていました。 カラーリングはシンボルカラーの深紅の下に白と黒のラインを加えてイメージを変え、全体的に深みのある感じになりました。 2013年のフェルナンド・アロンソ選手は、開幕から好調で、タイヤに優しいF138の美点を活かして第3戦中国GPとスペインGPで優勝しましたが、地元スペインGPでの勝利は2006年以来であり、また現在までのところ最後の勝利となっています。(そろそろ勝利しそうな機会は多いのですが。。) 全19戦中2勝及び9回の表彰台で2位の成績で、またコンストラクターズは、セカンドドライバーのフェリペ・マッサ選手の活躍もあり3位でした。(参照ウィキペディア) フェラーリF1のミニカーを収集していて、1987年以降で空白になっていたモデルが、このF138でした。発売時に予約をし忘れたことが原因で、その後も私の思う価格での巡り会いが無く、ショップでもヤフオクでもなかなか手に入れることが出来ませんでした。が、約10年を経てやっと出会えて、今回こうやって展示することが出来ました。パズルの最後のピースがピタッとハマった感覚で嬉しさいっぱいです。 ただ、マテル製は昔から台座とミニカーの間隔が広く、タイヤが台座から離れています。まるで、レース中に縁石を飛び越してしまい宙を舞っているような感じです。 いつか削って直したいと思います。。 #mattel #マテル #hotwheels #ホットホイール #ferrari #フェラーリ #italy #イタリア #alonso #アロンソ
3 FORMULA 1 メーカー名 SCUDERIA FERRARIsennakazu
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RIAL ARC1 JAPANESE GP SUZUKA 1988 A.D.CESARIS
リアル・ARC1は、リアル・レーシングチームが1988年のF1世界選手権用に製作したフォーミュラ1カーで、デザイナーは有名なグスタフ・ブルナーです。 リアル・レーシングは、ドイツ人企業家のギュンター・シュミットが創設しました。 ARC1はブルナーが前年担当したフェラーリ・F187にモノコック形状など似た部分を持っており、「青いフェラーリ」の異名を取っていました。私の好きなところは、低いサイドポンツーンとエンジン剥き出しのリア部分に惹かれます。 この年、リアルは、経験豊富であるが壊し屋の異名を持つイタリア人ドライバーのアンドレア・デ・チェザリス選手を起用し、1台体制でシーズンに臨みました。 ARC1は信頼性が低く、多くのクラッシュの原因となったため、デ・チェザリスは「デ・クラッシェリス "de Crasheris"」というありがたくない渾名を頂戴していましたね。シーズンを通して完走は5回のみでしたが、しかしながら市街地コースを得意とするデ・チェザリスは第6戦デトロイトで4位に入賞し3ポイントを獲得。この入賞によりコンストラクターズランキングは9位となりました。(参照ウィキペディア) 余談ですが、第15戦日本グランプリでは、スポットスポンサーとして「BOBSON」がチームを支援し、ブランドロゴをコクピットサイドとリアウイングに掲載して参戦しました。 しかし、80年代後半から90年代前半に掛けてのF1マシンは、オイルの匂いがぷんぷん、耳をつんざく金属音、タイヤの燃える臭いなど、これぞスポーツカーって感じでとても愛着があります。 #spark #rial #リアル #germany #ドイツ #suzuka #鈴鹿
22 FORMULA 1 1/43 REAL RACINGsennakazu
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CHEVROLET PENSKE RACING PC-22 CART TEST DRIVE 1993 AYRTON SENNA
1993年、マクラーレンは、F1から撤退したホンダエンジンに代わって、旧スペックのフォード・コスワースエンジンを搭載することになり、苦戦を強いられることが予想されていました。 嫌気が刺しモチベーションが低下したアイルトン・セナ選手は、1993年中の休養もほのめかすようになり、前年チャンピオンとなったナイジェル・マンセル選手がCART(現インディカー)に転向したことに続き、セナもまたCART転向を検討しシーズン前には同郷の先輩エマーソン・フィッティパルディ選手のペンスキー・PC22をテストドライブしていました。最終的には、開幕直前にマクラーレンと1戦ごとに契約を結ぶ異例の契約方式で残留しました。 (参照ウィキペディア) その時にテストドライブしたマシンがこのモデルになります。 この年のセナは、精神的にも肉体的にもボロボロになっており、発言内容もまともではありませんでした。ホンダが撤退したことが大きな原因であり、マスコミ嫌いにもなり、このまま引退してしまうのでは、、、と心配していましたが、翌年、かねてから望んでいたウィリアムズに移籍して、これからだな!と思っていました。でも、まさかの悲しみのサンマリノでした……。 #minichamps #chevrolet #シボレー #penske #ayrtonsenna #アイルトンセナ #cart #indycar #インディカー #usa #アメリカ
4 AYRTON SENNA RACING CAR COLLECTION EDISION 43 NO.4 INDY 1/43sennakazu
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MERCEDES BENZ 300SEL 6.8 AMG 24h PAUL RICARD 1971
1971年、ヨーロッパで人気のあった欧州ツーリングカー選手権(ETC)において、AMGは満を持してメルセデス・ベンツ 300 SEL 6.3を持ち込みました。 ノーマルで最高出力230psだった6.3L V8SOHCエンジンを6.8Lに拡大しDOHC化、そのパワーは428psに達していました。 そのAMGですは、4年前の1967年にダイムラーベンツ社でレース用エンジン開発部門にいた人々によって誕生、1999年にはメルセデス・ベンツの傘下に入り、同社のハイパフォーマンス部門として高性能エンジンを搭載したモデルを担当するほか、アルミホイールやエアロパーツの開発も行っています。 F1やDTMなどメルセデス・ベンツのモータースポーツ活動の「顔」ともなっているAMGにとって、この300SEL 6.8 AMGは、忘れることのできない記念碑的モデルだそうです。 (参照モーターマガジン) #minichamps #mercedesbenz #メルセデスベンツ #amg #germany #ドイツ
11 24h ETC 1/43 MERCEDES BENZ AMGsennakazu