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Aroma Di Amore “Koude Oorlog”
これまた「謎物件」です。ベルギーのニューウェーブ・バンドAroma Di Amoreを紹介します。これは、当時、非英語圏のバンドに関心があって、購入したものだと思いますが、今回、その背景なども調べてみました。先ず、彼等の内、コアメンバーと言われているのが、Elvis PeetersことJos Verlooy (Vo), Fred AngstことGerry Vergult (G), Lo Meulenこと本名Lode Vandermeulen (B)の3人で、結成は1982年で、その時には、コアメンバー以外に、Andreas Smits (Organ, Synth)やFrits De Cauter(Sax)も在籍しており、Luc Van CapellenとMiet Van Spittaelと言ったメンバーも極初期には関係していたようです。それで、彼等は結成後、直ぐに、Humo’s Rock Rallyと言うコンテストに参加、ファイナルまで残ります。そして、Antwerpの伝説的ヴェニューDe Muzeでライブ・デビューしてから、40年間もベルギー国内外で活動し、2022年にBrusselsABで最後のライブを行って、その活動を停止しました。その間に、6枚のアルバム、数多くのマキシ・シングルやシングルをリリースし、何百回と言うライブもやってきましたが、毎回、ファンや音楽メディアによって支えられてきています。そして、2018年には、フラマン語とオランダ語の音楽についてのエキビジョン(Lang lebe de muziekとSint-Pietersabdij)で、彼等はその代表として選ばれており、活動停止した2022年には、彼等の1980年代のレコードを全て詰め込んだボックスセット”Zwarte Doos”がリリースされています。資料のフラマン語は良く分からないので、大体の流れは以上のようになります。 それで、今回、紹介するのは、1984年にリリースされたAroma Di Amoreのファースト・アルバム“Koude Oorlog”です。ファースト・アルバムと言っても、ミニアルバムで、A面4曲、B面3曲が収録されています。歌詞は全てフラマン語と思われます。ドラムは生かマシンかはちょっとよく分かりませんが、多分、マシンかな? 曲調は、シンセを多用した、典型的な1980年代初頭のニューウェーブで、比較的ミニマルな流れと吐き捨てるようなヴォーカルが特徴的でしょうか。A1 “Het Gesticht”, A3 “Koning Der Belgen”やB2 “Wir Haben Es Nicht Gewußt”のビート感覚やポップなハーモニカ/オルガンなんかはカッコいいです。A2 “De Schaarmeester”のベース・シンセの使用や多分「ふざけている歌詞」のヴォーカルもいい感じです。逆に、B3 “Een Mens Met Een Mes”のような気怠い陰鬱な曲とサックスのメロディも懐かしいですよね。まあ、こう言った「オモチャ」みたいなニューウェーブって、この時代には流行りましたが、そこにフラマン語を持って来たのが特徴でしょうか?皆さんも気に入るかもしれませんよぉー❗️ https://youtu.be/voMsEC44N8k #AromaDiAmore #KoudeOorlog #PlayItAgainSamRecords #NewWave #BelgianRock #FirstAlbum #FlemishLyrics #Synthesizers #Organ #DrumMachine #ElvisPeeters #FredAngst #LoMeulen #AndreasSmits #FritsDeCauter #LucVanCapellen #MietVanSpittael
NEW WAVE Play It Again Sam Records 不明Dr K2
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The Police “Outlandos D’Amour”
また、今更ですか⁈とは言わないで下さい。パンク/ニューウェーブ期に出てきたバンドであった為、最初は、そのような系統の音楽を演るバンドだと思われていたThe Policeのファースト・アルバム”Outlados D’Amour”です。当時、これからシングルカットされた”Roxanne”が、ラジオから流れてきた時、私は結構気に入ってました。でも何故かアルバムば買っておらず、後になって、中古レコード屋で安かったので購入したと言う経緯があります。今や、Vo/BのStingはソロ・シンガーとして不動の位置を築いていますね。なので、私よりも詳しいリスナーの方はいらっしゃるとは思いますが、先ずは簡単に彼等のバイオグラフィーを少し。The Policeは、1977年に英国Londonで結成されたロックバンドで、Sting (Vo, B), Andy Summers (G), Stewart Copeland (Drs)が不動のメンバーで、1970年代後半〜1980年代前半に活動していました。そのキッカケは、1976年9月に英国プログレバンドCurved Airのツアー中に、その米国人ドラマーStewart Copelandが、Last Exitと言うジャズ・ロック・フュージョン・バンドでベースを弾いていたStingことGordon Sumnerと連絡先を交換したことから、始まりました。それで、1977年1月に、StingはLondonに移り、Copelandとジャムセッションをしています。その内、Curved Airは解散し、Copelandは当時のパンクムーブメントに乗っていこうと考え、伊人ギタリストHenry Padovaniを誘って、1977年3月にライブデビューを飾っています。1977年5月に、彼等はIllegal Recordsより、デビューシングル”Fall Out”をリリース。その頃、1977年5月にGongのMike HowlettがStingを新バンドStrontium 90に誘いますが、その時に、HowlettはドラムはChris Cutlerを想定していました。しかしながら、StingはCopelandの方を選んで、更に、自分達よりも10歳も年上のAndy Summers (彼はEric Burdon & The AnimalsやKevin Ayers等とも共演しており、何より音楽産業界にも詳しかった)を4人目のメンバーとしてリクルートしています。Summersは音楽的にStingとも気が合いましたが、段々とPadovaniの稚拙さがフラストレーションになってました。そんなこともあって、4人でのライブは2回だけでした。そして、SummersはPadovaniに最後通知を叩きつけ、Padovaniは解雇されます。こうして鉄壁のロック・トリオとしてのThe Policeとなり、1977年8月に、このトリオとして初のライブをRebecca’s clubで行いますが、彼等は早々とreggaeやjazzはたまたprogressive rockやpub rockの要素も取り入れていきます。また、ブリーチしたブロンド・ヘアーも3人の特徴にしました。それで、Copelandの兄Milesの援助で、£1500を得て、彼等はデビューアルバムである本作”Outlados D’Amour”の作製に取り掛かりますが、中々難航したようです。そんな中で、Milesが”Roxanne”を初めて聴いた時に、これはイケる!と判断して、即座に、A&M Recordsに掛け合い、こうして、彼等のメジャーでのファースト・シングル”Roxanne”が1978年春にリリースされます。ただ、BBCでは放送されていませんが、これは特にバンされた訳ではないようです。そして、1978年10月には、The Policeはファースト・アルバムのプロモーションも兼ねて、BBC 2のThe Old Grey Whistle Testと言うTV番組に出演します。しかしながら、セカンドシングル”Can’t Stand Losing You”に関しては、BBCは放送禁止にしています。また、”Roxanne”は最初、英国ではそれ程受けていませんでしたが、カナダや米国でじわじわと人気が出てきたこともあり、BBC1のTop of the Popで、”Roxanne”を演奏したこともあって、英国でも逆輸入的にチャートインしています。とまあ、ここら辺が初期The Policeの足跡となります。その後については、またの機会にします。 それで内容なんですが、いやー正直言って、プリミティブな演奏ですね。時代が時代だった訳ですが、別に下手って言う訳ではなく、寧ろ上手く簡素な演奏にしていると言った具合でしょうか。A面は割と良く知られた曲が中心になっており、MTV世代にもアピールできそうです。に対してB面はやや彼等のルーツミュージック(B3 “Born In The 50’s”はモロだし、B4 “Be My Girl —Sally”とかのジャジーな間奏)と言うか渋い曲が多く、初めて聴くものも多いです。そう言う意味では、レコードの特性(A面とB面がある)を上手く利用しているようにも思えます。A3 “Roxanne”は当時、ラジオで聴いて気に入った曲だったので、これが聴けるだけでも嬉しいですね。あとB1 “Can't Stand Losing You”とかA2 “So Lonely”なんかも良い曲です。まあ、彼等は、段々とメジャーで登り詰めていく訳ですが、最初はこんな簡素な音だったと認識できて良かったです。私のMuuseoを読んでいるリスナーさんは興味がないかも知れませんが、こう言うアルバムも偶には良いんじやないかな? “Roxanne” https://youtu.be/3T1c7GkzRQQ [full album] https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_lC4vwAZM8FzHZ4rTxdaVnryJtOMAv-xY4 #ThePolice #OutlandosD’Amour #A&MRecords #NewWave #Reggae #Rock #FirstAlbum #Trio #Sting #StewartCopeland #AndySummers #Major
NEW WAVE A&M Records 不明Dr K2
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Ruins “New Record”
今回、ご紹介するのはRuinsです。でも、あの超絶ドラマー吉田達也氏の方ではなくて、伊の2人組の方です。このバンドは、 1978年9月にAlessandro Pizzin (Kbd)によって結成されたバンドです。その時のメンバーは、Alessandro Pizzin (Kbd)に加え、Franco Moruzzi (Drs)とGirogio Salvedego (B)及びAlex Masi (G)でしたが、その編成に、時々、マルチ奏者Alessandro Montiが加わっていました。バンドは直ぐに伊地下音楽界に参入していきます。1979年春に、Masiが脱退し、1980年初頭に、Piergiuseppe Cirannaが新たに加入します。この頃、CirannaとPizzenの中心に、実験的電子音楽バンドRuinsが活動し始めます。彼等は、Gianni VolpatoとAlessandro Rigatoによる写真やファインアートからの着想で、電子楽器とメディアミックスに焦点を当てて、オリジナルな非ダンスミュージックやダークなポスト・プログレと言ったポップソング傾倒していきます。1981年5月に、Ruinsは”Elegant Shout”や”Short Wave”と言った新曲を録音しますが、これらが彼等の丁度分岐点になります。同年6月初旬に、Ruinsは、”Restless House”と言う短編映画の劇中歌や”Short Wave”と言うビデオ作品や16mmフィルムに集中しますが、結局、これらの映像作品はうやむやになってしまいます。1980年9月4日にArt Retro Ideasが、伊のコンピ・アルバムに彼等の曲を加えたり、同年11月21日には、Ruinsのファースト・シングル”Short Wave” c/w “You’re Like A Cigarette”をリリース、共に良い評価を得ます。それで、1981年に、彼等は新曲の為にオーディションを行い、1982年初頭には、CirannaとPizzinに、Franco Moruzzi (Drs), Massimo Bertatto (B), Moreno Barbazza (Perc, Back-Vo)を加えた新ラインナップで活動します。1983年にはバンドはメジャーレーベルと契約し、シングル”Fit of Nerves” c/w “Stoll of Girls”をの同年1月に録音、リリースしています。一方、PizzinとCirannaはサイドプロジェクトを始動し、伊のプログレバンドLe Ormeのアルバム”Ad Gloriam”のカバーをやっています。しかしながら、5人体制だったバンドは突如解散してしまい、CirannaとPizzinのデュオになります。1983年に、Fricchetti Productionは、限定版のテープとブックレット作品”Side Raids”をリリースしますが、これには彼等の実験的な面とよりポップな面/未発表ソロなどの面が含まれています。その後、バンドは、2つのプロジェクトを開始します。一つはDevoやThe Residentsに影響を受けたもの、もう一つはラテン・アメリカン・ソングを電子楽器で演奏するものです。Ruinsの方はPippo Monaro (B)がヘルプで加入しますが、あくまでもデュオの形は崩しません。その後、Ruinsはドラムマシンとシーケンサーを導入し、ヘビーなKorg MS20 シンセのベースラインがリズムセクションを担当します。バンドは、independent management company (BSR)とコンタクトを取って、Ruinsをプッシュしてもらい、彼等のフィースト12㌅EPをリリースします。そんな中、ヴェネチアの画家Luigi Violaの作品とのタイアップなリリースの機会を得、アルバム”Merea / Tide”を1984年11月にリリース、BSRはこの中の”Fire!”と言う曲を米国ビデオ会社にプッシュし、ビデオが製作されます。1985年9月に全国O.I.L.協会の25周年祭の際、最早、デュオとしては演れなくなり、Ruinsは同年10月1日に解散しています。Alessandro Pizzinはその後、プロの音楽家としてHakkah and Hexのようなバンドもやりつつ、1980年代後半に新しいRuinsをも立ち上げています。Piergiuseppe Cirannaもまた違った方向性でプロとして活動してしています。 ちょっと長くなりましたが、これが伊のRuinsの略歴です。今回、ご紹介するのは、Ruinsとしては、カセットアルバムを含めると、5枚目にして最後のアルバム”New Record”です。ここでは、先述のように基本的には、CirannaとPizzinのデュオの形態を取っています。Piergiuseppe Ciranna (G, ARP Synth, B, Casiotone, Vo, Tapes, Drum Machine)とAlessandro Pizzin (Kbd, Fender Rhodes 88 e-Piano, Korg MS-20, Pizzynth, Tapes, Drum Machine)が参加しており、B5ではFranco Moruzzi (Drs)、A4ではClaudio Cerroni (Vo), B2では、Francisco Calabro (B)が客演しています。ここに収録された曲は1981年初頭〜1983年初頭に録音されたもので、その一部はかつて”Side Road”と言う限定版でもリリースされています。なお、B2 “The Try”は1981年1月のライブ音源です。全体の印象は、所謂、1980年代の欧州で見られたシンセ・ウェーブなんですが、何ともチープなところに味がありますね。ドラムマシンって言っていますが、これは一番安いDR-55でしょ(私もずっと愛用してました)? Voパートはあるものの、どちらかと言うとインスト曲が中心なのかな? それとあんまり音を重ねていないようで、スカスカなシンセウェーブですね。まあ、録音が初期のものだからと想像します。それと基本的にミニマルですが、シンセ音だけでなく、ギターやベースなんかの音も効果的に使っています。また、インスト曲が多いこともあって、シンセによるSE的な曲や、B2 “The Try”などの即興演奏的な曲(特に冒頭のピアノなど)も含まれており、全体的に短い曲が多くても、飽きさせません。どちらかと言うとA面は習作的で、B面は実験的な印象も持ちますが、世界中に溢れていたシンセ・ウェーブの一端を担っていたRuinsも聴いてみませんか❗️ A7 “I Love You” https://youtu.be/c2fHFG__T4U A5 “New Record” https://youtu.be/3i9YvMGqBq0 B5 “Freak Song” https://youtu.be/p28FpLZyWl0 #Ruins #NewRecords #MothballRecords #Italian #Duo #SynthWave #DR-55 #MinimalWave #Experimental #PiergiuseppeCiranna #AlessandroPizzin
New Wave Mothball Record 不明Dr K2
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The B-52’s “s/t”
The B-52’sが初めて、紹介された時に、なんちゅう名前、つけとんのや?と非難されかけましたが、これは第二次世界大戦の時の爆撃機のことでは無く、ヘアースタイル(ウィッグ)の型番だそうです。そんな彼等は、当時のニューウェーブ・ブームの中で結構、日本でも人気でしたね。そんな彼等のファーストアルバムを紹介します。その前に、彼等のバイオグラフィーを少しだけ。The B-52’sは、米国ジョージア州Athensで、1976年に結成されたバンドで、オリジナル・ラインナップは、Fred Schneider (Vo, Perc), Kate Pierson (Vo, Kbd, Synth-Bass), Cindy Wilson (Vo, Perc), Ricky Wilson (G), Keith Strickland (Drs, G, Kbd)の5人組で、ベースレスのバンドでした。元々は、この5人でジャムセッションをしていたのが始まりで、1977年に、友人のヴァレンタイン・パーティーで演奏したのが、最初です。また、バンド名は、PiersonとCindy Wilsonの髪型から取られていますが、これはStricklandが夢の中で啓示を受けたらしいです。それで、彼等は、ダンスミュージックとサーフミュージックとを合わせたようなサウンドとthrift-store chicと言うレトロな衣装で、直ぐにニューウェーブの波に乗り出します。因みに、Ricky Wilsonのギターは変則チューニングがしてあったこのこと。彼等のファースト・シングル”Rock Lobster/52 Girls”は1978年にDB Recordsからリリースされますが、これが大ヒットし、それでCBGBやMax’s Kansas Cityとかにも出演するようになります(ただし、このシングルヴァージョンはアルバムとは違っています)。このシングルは再録され、英国や独逸でも配給されます。それで、彼等はIsland Recordsと契約し、1979年にバハマNassauのCompass Point Studiosで、創設者のChris Blackwellのプロデュースの下でファースト・アルバムの録音を開始しますが、Blackwellは、殆どオーバーダブせずに、なるべくライブに近い形で録音をします。そうして、1979年7月に、彼等のファーストアルバム”The B-52’s”がリリースされます。これには、Petula Clarkのヒット曲”Downtown”も含まれています。このアルバムは大ヒットし、シングルカットされた”Rock Lobster”は米国でもビルボード・ホット100にもチャートインして、1980年には、本アルバムもプラチナディスクにもなります。それで、1980年4月にThe B-52’sは、再びCompass Point Studiosで次のアルバムの録音に掛かりますが、Rhett Daviesが一部プロデュースに関わった関係で、より洗練されたサウンドになりました。そうして、同年8月に、セカンドアルバム”Wild Planet”がリリースされますが、批評家やファンにも好評で、ビルボード200の内、18位までつけます。また、テレビやHeatwaveフェス(カナダで行われたニューウェーブのウッドストック)にも出演しています。1981年に、彼等はTalking HeadsのDavid Byrneとコラボしますが、どうもベクトルが違い、アルバムではなく、1982年にEP “Mesopotamia”としてリリースされます。その後、1982年12月に、Piersonの意見で、ドラムマシーンを導入し、Stricklandはドラムを叩かず、ベースやオルガンなどを演奏、またシンセを大々的に導入してのサードアルバム”Whammy!”を作製します。1985年1月に、バンドはブラジルのRock In Rioに参加、同年7月に次のアルバムを録音していましたが、Ricky Wilson (G)が、AIDS関連で、同年10月12日に32歳と言う若さで他界してしまいます。バンドは、1986年に、アルバム”Bouncing Off The Satellites”をリリースしますが、Rickyの死もあって、ツアーは控えています。1987年に、メンバーはバラバラになりますが、1988年に、Stricklandが戻ってきて、再びThe B-52’sは再始動します。その後も、活動を続けて、未だ現役です。 それで、彼等のファーストアルバムである本作品についてですが、これはもう完全にニューウェーブと言うかダンスミュージックですね。特に、シングルカットされたA1 "Planet Claire", A4 "Rock Lobster", A3"Dance This Mess Around"は独特のノリで、ポップかつダンサブルな音楽だと思います。B面はやや抑え気味ですが、それでも、女性Voの絶叫なんかも聞こえてきて、中々侮れません。そして、B面最後には、英語シンガーで女優のPetula Clarkのヒット曲"Downtown"も収められており、彼等のルーツを垣間見ることができます。彼等と一緒に米国ツアーをしたPlasticsは、「ずっとダンスバンドでやっていくThe B-52’sのエンターテイナーとしての凄さを感じた。自分達には真似できない。」とコメントしています。そんなダンサブルな音楽をやり続けているThe B-52’sのファーストを聴いて、踊り狂いましょう❗️ クレジット曲順 A1 “Planet Claire” (4:35) A2 “52 Girls” (3:35) A3 “Dance This Mess Around”’(4:35) A4 “Rock Lobster” (6:50) B1 “Lava” (4:55) B2 “There's A Moon In The Sky (Called The Moon)” (4:55) B3 “Hero Worship” (4:10) B4 “6060-842” (2:50) B5 “Downtown” (2:55) https://youtu.be/PtH-tWjB_aQ?si=olkMU8lPRLbzC5Yp #TheB-52’s #FirstAlbum #IslandRecords #NewWave #DanceMusic #USA #Bassless #RockLobster #PlanetClare #DanceThatMessAround #Downtown #FredSchneider #KatePierson #CindyWilson #RickyWilson #KeithStrickland
NEW WAVE Island Records 不明Dr K2
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Fashion “Fabrique”
このFashionと言うバンドを知ったのは、確か阿木譲氏の「モダーン・ミュージック」であったように思います。それに、このバンド名もちょっと恥ずかしいし、偶々、ヤフオク見ていたらあったので、競り落としました。先ずはFashionは、1978年〜1984年に活動していた英国のニューウェーブ・バンドです。John Mulligan (Synth. B)とDik Davis' (Drs)はコンスタントに在籍したコア・メンバーですが、フロントマンはアルバム毎に異なっていました。1978年にバーミンガムで結成された時には、Fàshiön Musicと名乗っており、メンバーは、John Mulligan (B, Synth), Dik Davis (Drs)及び Al James (Vo, G)で、JamesはLuke Skyとか簡単にはLukeあるいはLûke (Star Warsに出てくる役柄にに似ていた)と呼ばれてました。1978年に、彼等は、自身のレーベルFàshiön Music labelを作り、自分たちのバンド名を単純にFashionと改名しています。それで、彼等は2枚のシングルを1978年に”Steady Eddie Steady”と1979年に”Citinite”をリリース。直ぐに米国こレーベルI.R.S. Recordsが飛びついて、1979年9月に3枚目のシングル”The Innocent”を米国でリリースしています。その時の曲はパンク、ポストパンク、インディーロックと幅広く演奏していましたが、Mulliganは後のSynth Popのような弾き方をしていました。それで、このトリオはI.R.S. Recordsと契約し、デビューアルバム” Product Perfect”をリリース。1978-1980年の間に、彼等はUB40, Billy Idol, B-52’s, Duran Duranなどと対バンやサポートでライブをやっています。それで、1980年3月には自分達のレーベルよりシングル”Silver Blades”をリリース。しかしながら、1980年6月にJamesは米国に移住する為に脱退してしまいます。それで残った2人は、Tony Dial (Vo, G: 元Neon Hearts)とIan Moore (B)を加えて、ライブを続けますが、直ぐにDialとMooreは脱退します。1981年にバンドはArista Recordsと契約。その時のメンツは、De Harriss (Vo, G), Martin Recchi (B), Mulligan (Synth)及びDik Daviss (Drs)で、同年11月にシングル”Move On”をリリースしますが、チャートインはしなかったとか。それで1982年にZeus B. Heldのプロデュースで、本作品でもあるセカンド・アルバム ”Fabrique”をリリース、そこからのシングルカット2枚はちょっとだけ英国でヒットします。Harrissは元々作曲も出来たので、このアルバムではプロデューサーのHeldと共作しています。その後、Harrissが脱退し、代わって、Troy Tate (Vo) とAl Darby (G) が加入しますが、Tateは自分の歌が歌えないとのことで、疎遠になっていき、TateはDarbyと共に脱退します。その時、バンドはEpic Recordsと契約し、1984年にアルバム”Twilight of Idols”をリリースしています。しかし、ライブができなかったこともあり、バンドはその年に解散します。ただ、メンバーや元メンバーは当時流行っていたニューロマンティック路線の有名どころ(Kajagoogooなど)やPink FloydのRichard Wrightとかとコンタクトもあり、それぞれが単体で活動しています。その後、2009年に、バンドの最初のVo/GだったJamesがFashionとして新アルバムをリリースしますが、もはやコア・メンバーもいなかったので、短期な復活となります。 それで、本作品”Fabrique”ですが、正に英国のニューウェーブと言うか、メジャー狙って、一攫千金みたいな臭いがします。ちょっとダークな演奏にふわっとしてはいるが艶やかなVo、更に、泣きのシンセがトドメを刺してくれます。テンポはミドルで、ディスコティックな感じ。とすると、何か華が無いところで、メジャーでやって行けなかったのかな? 良い曲も書けていたのに、芽が出なかったので。そう考えると、非常に惜しいバンドですね。それからライブ動画観てみたら、Harrissは、ダブルネックのSG、弾いてる‼️ このバンドはライブは面白そうだと思いました。しかしなから、阿木譲氏、当時から、こんなバンドをよく掘ったなと思いますよ。 “Move On” live https://youtu.be/6jxX9SY5lfE [full album] https://youtu.be/svuso_WyRs0 #Fashion #Fabrique #AristaRecords #NewWave #NewRomanticMovement #Synthesizers #JohnMulligan #DikDavis #DeHarriss #MartinRecchi #ModernMusic #YuzuruAgi
NEW WAVE Arista Records 1450円Dr K2
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Talking Heads “Talking Heads: 77”
何故か、ファースト・アルバムだけ持っているTalking Heads。当時はパンク/ニューウェーブの文脈で語られてた米国のバンドで、メンバーは David Byrne (Vo, G), Chris Frantz (Drs), Tina Weymouth (B), Jerry Harrison (Kbd, G)で、1975年にNYCで結成、1991年に解散していますが、最近では映画”American Utopia”で有名になりましたね。それではバンドのバイオグラフィーを簡単に。1973年に名門Rhode Island School of Designの学生だったDavid Byrne (G, Vo)とChris Frantz (Drs)がthe Artisticsを結成しましたが、Franzの恋人のTina Weymouthが出入りするようになります。その後、3人はNYCに移り、ベースを探してきましたが、そこで白羽の矢が立ったのが、Weymouthです。Franzは彼女にベースの弾き方を教えてます。3回のオーディションで、ByrneはOKを出して、正式にメンバーとなります。それで、WeymouthがTVを観ていて思いついたバンド名Talking Headsとして、1975年にCBGBでRamonesの前座としてライブデビューを飾ります。彼等はCBSにもテープを何回も送っていましたが、結局、1976年11月にSire Recordsと契約します。一曲、シングルを出した後、1977年3月に、Jonathan RichmanのバンドThe Modern LoversにいたJerry Harrison (G,Kbd)が加入し、鉄壁の4人となります。そうして、1977年に、彼等のファーストアルバム”Talking Heads: 77”をリリースし、シングルカットされた”Psycho Killer”がチャートインします。因みにこの曲は、当時、NYCで発生したいたシリアル・キラー「Samの息子」による殺人事件のこととされてましたが、Byrneはその事件の前に曲は書いていたとのこと。そして1977年にWeymouthとFranzは結婚しています。その後、彼等はBrian Enoとのコラボ作”More Songs About Buildings And Food”を1978年にリリースします。このアルバムでは、ポストパンクからFela KutiとPalisment-Funkadelicと言ったサイケ・ファンク、アフリカン・ミュージックに方向転換しています。更に、このコラボは続き、1979年に”Fear Of Music”をリリース、ポストパンクの暗さとファンカデリアの明るさが同居した、奇跡のアルバムとなります。更に、1980年にはFela Kutiの影響をモロ受けたアルバム”Remain In Lght”をリリース。西アフリカのポリリズムや北アフリカ〜アラビアの音楽を取り入れたディスコ・ファンクの金字塔的作品になっています。バンドはAdrian BelewとErnie Wardellをヘルプに加えて、ツアーを敢行、その時のツアーの様子は、後年、”Stop Making Sende”としてリリースされています。この時期に、Tina WeymouthとChris Frantzは、Hip Hopの影響を受けで、よりポピュラーなバンドTom Tom Clubを結成しており、また、Harrisonもソロアルバムを、またByrne自身も、Enoとのコラボ作”My Life in the Bush of Ghosts”をリリースしたりしています。その後、何枚かアルバムを出して、シングルもリリースしていますが、1991年12月に正式に解散を宣言しています。2002年には「ロックの殿堂入りを果たしてますが、再結成はしないと明言しています。 ザッと書くとこんな感じなんですが、本作品の内容について紹介したいと思います。まあ、B4 ”Psycho Killer”は本当に良くできた曲だとは思いますが、それ以外にも良い曲はあるのですが、いかんせん、”Psycho Killer”のキャッチーさに負けてしまいますね。まだ、ファンクな風味を持っていない曲はどちらかと言うとニューウェーブあるいはアートパンク的な曲が多く、それなりに凝った作りにはなっていますが、今ひとつ、個性に乏しい印象ですかね?それでもA2 ”New Feeling”やA6 “No Comparison”或いはB1 “The Book I Read”やB5 “Pulled Up”なんかは良い曲だと思いますね。やっぱりTalking Headsは頭の良いバンドなんでしょうね。ジャケもシンプルだし。曲もヴァライティーに富んでいて、それぞれの曲を楽しめるし。そんな訳で、 https://youtu.be/OqI7u40HM8g #TalkingHeads #TalkingHeads77 #SireRecords #PostPunk #NewWave #PsychoKiller #DavidByrne #ChrisFranz #TinaWeymoutb #JerryHarrison #FirstAlbum
NEW WAVE PHILIPS 不明Dr K2
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Magazine “Secondhand Daylight”
続きまして、Magazineのセカンド・アルバム ”Secondhand Daylight”です。この時はメンバーは、Howard Devoto (Vo), Barry Adamson (B), John McGeoch (G, Sax,Kbd), Dave Formula (Kbd), John Doyle (Drs, Perc)で、ドラマーが代わっています。彼等のバイオグラフィーは前回書きましたので、そちらを参考にして下さい。 それで内容ですが、全体にやや落ち着いた印象で、目立つのはベースの音色ですね。Barry Adamsonの演奏能力が高いのもそうなんですが、結構、ベースラインが曲を率いていく曲が多いです。あと、Howard Devotoのヴォーカルについては、少し粘着質なところが弱まっていますし、曲もより複雑になっています。それに伴って、キーボード(生ピアノやシンセなど)が幅を聴かせるアレンジになっています。なので、John McGeochにとってはやや不完全燃焼であったかもしれないですね。ここら辺のアレンジやプロデュース力(プロデュースはColin Thurstonですが、私はこの人のことは良く知りません)が影響しているのしようか? この時代のバンドとしては、似たものがなく、独自の路線であったようですが、今、聴き返しても、そう断言できますね。ただ、彼等の音楽は後進に大きな影響を与えており、ニューウェーブからネオサイケデリア(これがどうも良く分かりませんが)への橋渡しをしたバンドとして、Radioheadなどは、Magazineの名前を挙げています。また、John McGeochのギターは、U2のThe Edge、The SmithsのJohnny Marr, RadioheadのJonathan GreenwoodやThe Red Hot Chili PeppersのJohn Frusciantなどのギタリストには大いには影響を与えたと言われています。またBarry Adamson (B)はこのバンドの後、Nick Cave and the Bad Seedsに参加することになります。 今ひとつ、盛り上がらなかったセカンド・アルバムですが、彼等の進化を探る上で大切なアルバムと言えるでしよう。なので、皆さんもこの機会に聴いてみては如何でしよーうか❗️ “Permafrost” https://youtu.be/fCzSeeiAFqQ [full album] https://youtube.com/playlist?list=PLOJWuc3CN302PFvZZ6IgUbWiz7OCTPPUq #Magazine #SecondhandDaylight #VirginRecords #NewWave #HowardDevoto #JohnMcGeoch #DaveFormula #BarryAdamson #JohnDoyle #SecondAlbum
New Wave Virgin Records 不明。Dr K2
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Magazine “The Correct Use of Soap”
確か、Magazineを買ったのは、田舎の高校生の時でした。まあ、キーボードのメンバーのいるニューウェーブ・バンドだったからだと思います。しかしながら、その時はそんなに気に入らなかったんですが、今回、久しぶりに聴き直してみました。その前に、Magazineのバイオグラフィーを少し。元々は1977年初頭までパンクバンドBuzzcocksに少し在籍していたHoward Devotoが、より先鋭的な音楽をやろうとして、ギターのJohn McGeochと共に結成したのが、Magazineです。Howard Devoto (Vo), John McGeoch (G), Barry Adamson (B), Bob Dickinson (Kbd), Martin Jackson (Drs)がオリジナルなラインナップです。しかしながら、クラシックや前衛音楽の素養のあったBobは、1977年終わり頃にすぐに脱退しています。バンドは4人でシングル”Shot by Both Sides”をリリース、その後に、元St. Louis UnionのDave FormulaがKbdで加入します。因みに、このシングルはBazzcocksの曲でもあるとPete Shellyが指摘しています。1978年にデビューアルバム”Real Life”をリリース、英国チャート30位に入っていますが、7月末にMartin Jacksonが脱退し、代わりにPaul SpencerがDrsで加入します。この頃になるとギグやTV出演することが多くなりますが、Paul Spencerはツアー中にSpencermetersに加入する為に直ぐに脱退し、同年10月にはJohn Doyle (Drs)が加入します。翌年1979年にセカンドアルバム”Secondhand Daylight”をリリース、英国チャート40位に入ります。このアルバムでは大々的にシンセが使われています。1980年にバンドは、本作品でもあるサードアルバム”The Correct Use of Soap”をMartin Hannettのプロデュースでリリース、トップ30にはランクいんします。しかしながら、John McGeochは、それ程売れなかったこと及び余りギター重視でない曲作りであったと言う理由で、脱退し、Siouxsie and the Bandheesに加入しています。一方、Magazineには、Ultravox!にいたRobin Simon (G)が加入しています。バンドは欧州・豪州ツアーを敢行し、ライブアルバム”Play”をリリース。しかしながら、またしてもRobin Simonも、John Foxxのソロアルバムに参加するためにバンドを脱退します。Hawardは、大学時代の友人でAmazorbladesのBen Mandelson (G)を加入させて、1981年に”Magic, Murder and the Weather”を作製しますが、リリース前の数ヶ月、リリースをストップをかけます。そんなこともあって、他のメンバーも解散することを決めます。メンバーはそれぞれ、他のバンドなどで活躍しますが、Howard Devotoは音楽を止めて、写真家として活動していました。John McGeochは2004年に48歳と言う若さで他界しています。それから、2008年7月にHowardはMagazineを再結成することを考え、2009年2月にHoward Devotion, Dave Formula, Adamson, John DoyleとJohn McGeochの代わりにThe RadioheadのJohnny Greenwood (G)で再結成を行い、ツアーメンバーも加わって、現在でも活動中です。 それで、本作品ですが、良くも悪くもニューウェーブ的な音作りなんですが、兎に角、Howard Devotion の抑制したような、絡みつくようなエロいVoが特徴ですね。ギターとシンセを配合良く調剤したメロディアスな曲調も本作、と言うかMagazineの特徴と言えるでしょう。その分、爽快感は抑えられていますが、それはHoward自身が言っているように、「ロックンロールは音楽的スターでもなく、モダーン・ミュージックに興味があるだけだ」と言うことも強ち言い過ぎではなく、常に新しい音楽——その時代時代の音楽—-を目指していたからだと思います。私も、正直、聴き直してみて、中々、良いじゃないか!とも思いました。ただ、HowardのVoスタイルや声質には好き嫌いが分かれるところではありますが。次回はファーストアルバムやセカンドアルバムを聴いてみたいですね。また歌詞が文学的との評もありますが、英詩なので良く分からなかったです。そんな時代に対してモダーンであり続けたMagazineの円熟した音楽を聴いてみてください。 https://youtu.be/3c5Yxi98umI #Magazine #TheCorrectUseOfSoap #VirginRecords #NewWave #ArtPunk #HowardDevoto #JohnMcGeoch #Manchester #Keyboards
New Wave Virgin Records 2500円Dr K2
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Squeeze “Cool For Cat”
皆さんはこのバンドを知ってますかぁ? Squeeze の登場ですよ。このバンド、日本ではあんまり人気無いんですねぇ。まずはバイオグラフィーを。Sqeezeは英国のロックバンドで1970年代後半からずっと2010年代まで活動しているニューウェーブバンドです。1974年3月に結成メンバーであるChris Difford (G, Vo, lyrics)とGlenn Tibrook (Vo, G, music)がいましたが、Chrisは、母親の財布からくすねたお金で、「ギタリスト求む」とスイーツ屋のガラスにメン募を掲示しただけで、まだバンドはやっていませんでした、それに反応したのが、Glennで、2人は一緒に曲を書き始めます。すると直ぐにJools Holland (Kbd)とPaul Gunn (Drs)が加入し、実際にバンド活動を始めますが、色々な変名(Captain Trudlow’s. Sky CompanyとかSkycoなど)を使っています。その中で彼らが選んだのが、Squeezeであったと言う訳です。これは、 Velvet Undergroundの1973年のアルバム名に由来します。その後、ドラムはPaulからGibson Lavisに交代し、更に1975年には、 Harry Kakoulliが加入します。 バンドはLondonの南東部のAdept Ford周辺で活動したおり、最初はMiles Copeland IIIのBTM Recordsと契約しますが、レーベルが傾きだしたので、Deptford Fun Cityレーベルと契約し、数枚のシングルとデビューEP“Packet of Three”をリリースしています。彼等のEPと1078年のデビューアルバム”Squeeze”はJohn Caleがプロデュースしていますが、アルバムからのシングルカット2枚は彼等自身でプロデュースしています。また、米国やカナダでは似た名前のバンド(Tight Squseze)がいた為に、UK Squeezeと名乗っていました。まだ豪州でも同名とバンドがいた為に、UKをつけていました。1979年には、本作品でもあるセカンドアルバム”Cool For Cats”をリリースし、その中から”Cool For Cats”と”Up The Junction”がシングルカットされ、英国シングルチャートの2位までになっています。またこのアルバムの後にJarry KakoulliがJohn Bentley (B)に代わっています。この後も、彼らは1980年代、1990年代、2000年代と活動を続けていますが、今回はここまでとしておきます。 それで本作品ですが、リリースされた時の英国では、結構、評判は良かったです。確かにシンセを使ったパワーポップ調の曲で聴き易いですし、キャッチーでもあります。シングルカットされた曲も独特の跳ねるリズムで、正にニューウェーブと言う感じで、キャッチーです。ただし、容姿が若いニューウェーブバンドとは違っていたので、恐らく日本ではそれ程人気が出なかったのてめは?と想像します。しかしなから、手だれでもあるので、私なら全曲、推薦しますね。歌詞はChrisが全曲書いており、曲は全てGlennがかいているので、さながらLennon & McCartneyのようですね。そんなSqueeze、聴いてみて下さい。 “Cool For Cats” https://youtu.be/iTVHOarV338 #Squeeze #CoolForCats #A&MRecords #NewWave #PowerPop #ChrisDifford #lGlennTibrook #UKChart
NEW WAVE A&M Records 不明Dr K2
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Human Switchboard “Who’s Landing In My Hanger?”
Human Switchboardと聞いて反応する人、何人いますか?多分少ないでしょう。私も高校生時にロックマガジンの増刊号Modern Musicにちょっとだけ書いてあったのを読んで、どんな音楽だろうと長年、妄想していたバンドなんですよ。当時はDiscogsもYouTubeも無かったですし、こちらもスマホもPCも無かったですからね。偶々、ヤフオクでHuman Switchboardの名前を見た時、狂喜乱舞しましたね。それで、やっと手に入れた訳です。まあ、このバンドは知る人ぞ知るバンドだったので、ちょっとバイオグラフィーを調べてみました。Human Switchboardのメンバーは、Bob Pfeifer (G.Vo), Myrna Marcarian. (Vo, Farfisa Organ)と Ron Metz (Dr, Perc)のトリオで、Steve Calabaria, Doug MorganやPaul HamannらがヘルプでBで参加していました。結成は1977年、オハイオ州のCrevelandで。元々はSyracuse大学で、BobがMyrnaと会ったことから、始まり、Clevelandに戻った時に、ドラムのRonを誘ってできたのが、Human Switchboardです。その時に4曲EPを録音し、David Thomas (Pere Ubu)がテープをミックスしています。このEPは1977年秋に自分達でリリースしています。バンドは次のシングル”I Gotta Know”を1978年にAkron‘s Clone Recordsの為に録音しています。また、ライブも始めており、最初のライブはColumbusのHigh Streetのレコード屋Magnolia Thunderpussyの地下でした。その後も近い州でのライブも行っており、1979年には、Kentの有名なバンド(15-60-75)のヘルプで、次のシングル”Prime of My Life”/“In My Room”を録音し、バンド自身のレーベルSquare Recordsからリリースしています。バンドは、段々と知名度が上がってきて、現Yo La TengoのDave SchrammをヘルプのBとして、NYやWashington, Boston, NJなどで定期的にライブをやっています。ただ、アルバムがまだ大手から出すことが出来ていませんでした。1980年にRough Tradeが、3曲入り12㌅シングルを出さないかと興味を示し、Doug Morgan (B)のヘルプで、'Who's Landing in My Hangar?'と”I Can Walk Alone”に”In My Room”の再録を加えて3曲を録音しましたが、レーベル側の突然の契約却下で、このシングルは流れてしまいます。しかし、バンドは、米国レーベルIRSの英国部門であるFaulty Productsと契約し、彼等の最初にして最後のスタジオ・アルバム”Who’s Landing In My Hangar?”を1981年にリリースします。これが本アルバムをなります。その後、Human Switchboardは、Polydorからも声をかけられたりしますが、1985年に解散してしまいます。大体のバイオグラフィーはこんな感じです。どうもCleveland辺りではちょっと有名だったみたいですね。 それで本作品ですが、このバンドを一言で言うと、編成から分かるように、チープなオルガンがフィーチャーされたニューウェーブですね。本アルバムへはバンド・メンバーとしてRobert Pfeifer (G, Vo), Myrna Marcarian (Farfisa Organ, Piano, Vo), Ron Metz (Drs, Perc)で、ヘルプとして、Doug Morgan (B [A2, B1]), Paul Hamann (B [A1, A3, A4, B3, B4]), Steve Calabria (B [A5, B2, B5])が参加しています。私は、こう言う音楽は、個人的には大好きですので、存分に楽しめました。まあ当時のRolling Stone誌では「全くのクラシック!このバンドはVelvet Undergroundのギターと60年代のガレージのオルガン、Pere Ubuのようなベースライン、がなりたてるようなSax、がむしゃらに叩いてるドラム。まるで、Robert PfeiferはLou Reedの大ファンで、Myrna MarcarianはPatti Smithのように歌っているようなもんだ」と評されていました。でも、私はそんなことは余り感じなかったですね。寧ろ、あまりにニューウェーブっぽかったので、びっくりした位です(特にベースラインがPere Ubuっぽいとは思えませんが、、。)。元々は阿木譲さんが紹介していたバンドですが、私は最初、「インダストリアル・ミュージック」を想像していたので、思いっきり期待を裏切られました(勿論、良い意味です)。ある意味、理想的なパワーポップ・バンドと言っても良いでしょう。皆さんも是非是非、Cleveland産の良質のニューウェーブを聴いてみてください‼️ A1 “(Say No To) Saturday's Girl” (3:10) A2 “Who's Landing In My Hangar?” (2:35) A3 “In This Town” (3:10) A4 “No Heart” (3:09) A5 “Refrigerator Door” (7:30) B1 “I Can Walk Alone” (2:59) B2 “(I Used To) Believe In You” (3:55) B3 “Don't Follow Me Home” (4:33) B4 “Book On Looks” (2:34) B5 “Where The Light Breaks” (3:50) [demo: A2 “Who's Landing In My Hangar?”〜B1 “I Can Walk Alone”] https://youtu.be/eEYdRG4aWNg?si=J1FaDh1iPNnxDYxj [full album] https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_miP2d7unGYMPSYTOywJGCH2qUZDfBqE64&si=fS1PCeKSHRjD9Ris #HumanSwitchboard #Who’sLandingInMyHanger? #FaultyProducts #Cleveland #NewWave #Organ #BobPfeifer #MyrnaMarcarian #RonMetz #GuestBassPlayers #DougMorgan #PaulHamann #SteveCalabria
NEW WAVE Faulty Products 4500円Dr K2
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Blondie “s/t”
またまた、聴いちゃった!Blondieのファースト・アルバム。でも、私、何故か、問題の曲が入ったシングル”Rip Her To Shreads (邦題「汚れた天使」)”も持っているんですが、何故か知らぬ間にアルバムも買っていたんですよ。Blondieのバイオグラフィーは前々回と前回に書きましたので、ここでは省略することにします。まだ5人組だった頃のBlondieです。メンバーはDebora Harry (Vo), Chris Stein (G, B), Gary Valentine (B, G), Clem Burke (Dr), Jimmy Destri (Kbd: Organ, Piano, Synths)です。それで、中々目の出なかった彼等が一気に売れたのは、このアルバムからシングルカットされた”X Offender / In The Flesh”に端を発します。1977年にこのシングルばリリースされたのですが、豪州のTVの音楽番組Countdownで、A面が”X Offender”であったシングルの本来B面の”In The Flesh (愛して欲しい)”が、A面とB面が間違って放送されてしまいました。それで人気に火がついてしまったのです。後からClemはDJのMolly Meldrumに「間違った曲を流してくれて有難う」と言ってます。またChrisも「”X Offender”はヒット曲にするにはちょっと過激で激しいかな?でも”In The Flesh”はパンクな感じは全然ないよな」と述懐しています。てな訳で、暖簾に腕押し的に、このシングルは両A面扱いになります。まあ、何が起こるかは分かりませんね。Clemも”In The Flesh”は「パワーバラード」の先駆的な位置にあると述懐しています。 それでこのアルバムですが、初期の彼等のガレージ的な面が主に出ていますが、曲はいつも通り、色んなことにもチャレンジしています。Debbieのキッチュなヴォーカルを中心に、ポップ・パンクなチューンが並んでいます。今から思えば、”X Offender”もヒットしてもいいように思えますが、、、。あと個人的には”Rip Her To Shreads (邦題「汚れた天使」)”は外せませんね。あと、JimmyのKbdが良いアクセントになっています。このアルバムは、パンクか?言われると「ちょっと違うね。」と答えざるを得ない程の、ニューウェーブ臭がありますね。こんなバンドも当時はMax’s Kansas CityやCBGBに出ていたのは、世の中分からんものですね。初期のポップスを堪能できるアルバムですので、”Call Me”だけじゃなくて、ちゃんと基礎を復習しましょう!因みに、Clem Burkeのドラムのテクは凄いですね。はっきり言って上手いです。 [full album] https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_mT96ExWy1z8tYKMcKakqKGZ6Se7GXdODc #Blondie #PrivateStock #NewWave #X-Offender #InTheFlash #RipHerToShreads #Pop #PowerBallad
NEW WAVE Private Stock 不明。Dr K2
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Blondie “Eat To The Beat (邦題「恋のハートビート」)”
またまた出ましたよーん?くどい? でしようね。今回もニューウェーブ・バンドBlondieの4枚目のアルバム”Eat To The Beat”の紹介です。前回に引き続き、バイオグラフィーも追加します。このアルバムは1979年9月にリリースされ、前作”Parallel Lines”の音楽性を踏襲していますが、米国での成功は芳しくなかったみたいです。ただし、英国では、このアルバムからシングルカットされたシングル3枚がいずれも、トップ20位に入ると言う勢いがありました。特に”Atomic”はBlondieのシングルとしては英国1位になった3番目のシングルとなっています。しかしながら、A-1”Dreaming”はシングルカットされましたが、英国のチャートインは逃しています。そう言うこともあって、Chrysalis RecordsのLinda CarhartはJon Roseman Productions US担当部門に全ての曲にプロモ・ビデオを付けられないか?と打診し、ディレクターにDavid MalletをプロデューサーにPaul Flatteryを起用し、NYCの周辺や市内で撮影を敢行しています。Blondieの次のシングルは、大ヒットした”Call Me”で、Debbieとイタリア人作曲家兼プロデューサーGiorgio Moroderとのコラボから端を発した曲になります。彼は既にDonna Summerのヒット曲を手掛けていましたので、Blondieの起用は大抜擢ですね。この曲は、Richard Gere監督作”American Gigoro”の主題歌として録音されていますが、1980年2月に米国でリリースされると6週連続1位になって、大ヒットします。その後、一枚アルバムを出しますが、1981年頃からDebbieとJimmy Destriはそれぞれソロアルバムを出します。またClem BurkeはEurhysmicsのデビューアルバム”The Garden”でDrを叩いてます。それぞれがソロ活動を始めた頃に、Frank Infanteが前作アルバムで参加しているのに、クレジットが無いことで、バンドを訴えますが、一応、バンドに留まることで治まります。しかし、Debbieは「次のアルバムで、ジャケ写に彼が写っていても、彼の参加はもう無いわ。」と言っています。そんな中で、Debbieは女優としても活動し始め、特に有名なのが、1983年公開David Cronenberg監督作”Videodrome”ですね。翌年、Blondieのベストアルバムがリリースされ、新作もリリースされますが、商業的に今ひとつであったことや、それによってアルバムを作るプレッシャー、またDebbieばかりが注目され、他のメンバーの存在感が希薄になっている状況など問題が噴出してきており、それらが最高潮になった時、Chris Steinが稀な自己免疫性皮膚疾患である尋常性天疱瘡にかかっていることが判明。当時も彼のパートナーであったDebbieが、その看護に専念する為、バンドは1982年に解散を表明しています。治療費だけでも$100万掛かり、また、Debbieはその費用の捻出の為、ソロアルバムの売り上げや市内のマンションからダウンタウンへの引越しなどでを献身的に看護し、Chrisは何とか回復します。その後、Blondieは1997年に再結成されています。まあその後、話しはまた。因みに2006年に彼等は「ロックの殿堂」入りを果たしてます。 それで、本作品なのですが、Blondieの4枚目のアルバムで、前作と同様にMike Chapmanがプロデュースしています。一時期、私はここら辺のBlondieの曲は仕事中サブスクでヘビロテしていましたので、随分、聴いていた時期があります。曲は全然、メジャーでも通用するポップなものが多いですが、DebbieのVoに合わせるかのように、綺麗でメロウなトーンが合う曲とちょっと下品な濁声が合う激しいトーンが合う曲が、バランスよく収められており、楽しめます。やっぱりKbdがいるバンドは好きだなあ、6人組は人数多いけど。曲は粒揃いで、それぞれ良いところがありますが、タイトル曲”Eat To The Beat”の弾ける感じとかは良いですね。あと”Accidents Never Happen”も耳元で囁かれると堪らんですね。歌詞はなんか皮肉ってるようですが。”Atomic”もDebbieの朗々と歌う感じとディスコ調の楽曲がマッチしてます(Nigel Harrisonのベースソロあり)。個人的なハイライトはB-6最後の曲”Living In The Real World”の始まりの掛け声ですね。矢張り、彼等の出自はNYのダウンタウン(Max’s Kansas CityやCBGB)だっだのだなあと感じます。まあ、こんなメジャーなニューウェーブなんて興味がないと言う方もいるでしょうが、まあそう言わずに聴いてみて下さい。何かが発見出来るかも? [full album] https://youtube.com/playlist?list=PLI6kLIhBBwmSBpZF38dkgNuC7oBBMbj5p #Blondie #BeatToTheEat #ChrysalisRecords #NewWave #NY #DebbieHarry #ChrisStein #ClemBurke #JimmyDestri #NigelHarrison #FrankInfante #Atomic #AccidentsNeverHappen #Dreaming
NEW WAVE Chrysalis Records 不明。Dr K2
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Blondie “Parallel Lines (恋の平行線)”
Blondie、今更?と言わないでください。私、結構好きなんです(しかし、Murder CooperationとBlondieを一緒に聴くと言う振り幅も凄いけど)。1980年代の代表的ディスコ・ナンバー”Call Me”で一気に有名になった彼等ですが、実は結構古株なんですよ。では、彼等のバイオグラフィーを。元々は、ウエイトレスやPlayboyのバニーガールをやりながら、VoをやっていたDoborah Harry (通称Debbie)が所属していたガールズバンドStilettoesのバックバンドに、1973年にChris Stein(G)が加入したことから始まります(何と1960年代後半にはDebbieはフォーク・ロック・グループThe Wind In The Windowsのメンバーでした!)。二人はStilettoesをより新しい方向へ持って行こうと、創設メンバーでもあるElda Gentile、元StilettoesのBilly O'Connor (Dr)及びFred Smith (B)と新バンドを始めますが、1974年8月に2回のライブの為にAngel and the Snakeとして出演しますが、10月にバンド名をBlondieに変えます。それは、通りがかりのトラック運転手がDebbieに「よう!ブロンドのおねえちゃん! (Hey, Blondie!)」に声をかけたことに由来します。それで、1975年春にIvan Kral (G)及びTishとSnooky Bellomo姉妹 (Back-Vo)を含むメンバーチェンジをして、ChrisとDebbieはClem Burke (Dr)とGary Lachman (B)と共に、Max’s Kansas CityやCBGBに定期的出演するようになります。それで1975年6月にバンドは最初のデモ録音をAkan Betrockのプロデュースで作ろうとしますが、煮詰まってしまい、そこで、KbdプレーヤーのJimmy Destriを同年11月にリクルートしてきます。そして、彼等はPrivate Stock Recordsと契約、1976年11月に、彼等のデビューアルバム”Blondie (邦題「妖女ブロンディ」)”をリリースします。しかし最初は商業的成功は得られませんでした。そこで、1977年9月にはPrivate Stock Recordsとの契約を蹴って、英国Chrysalis Recordsと契約します。そして、1977年10月には彼等のファースト・アルバムが、Chrysalisから、再リリースされます。当時のRolling Stone誌は、Phil SpectorやThe Whoを引き合いに出して、彼等の音楽に電子的特徴を見い出し、2つの得意点についてコメントしています。その2つとは、1つは Richard Gottehrerのプロデュース力、そしてもう1つはDebbieの(セックス・シンボルとしての)ペルソナであると。ここら辺はまた別のところで書きます。David BowieとIggy PopはBlondieのデビューアルバムを聴いて、気に入り、1977年初頭にIggyは自身の”The Idiot”ツアーにサポートとしてBlondieを登用し、彼等の商業的成功に繋がります。そして、1978年2月にセカンド・アルバム”Plastic Letters (邦題「囁きのブロンディ」)”がリリースされますが、このアルバムは Gary Valentine (B)が1977年中盤に脱退していますので、4人で作製されました。また、このアルバムの為に、かなりハードな国際ツアーが行われています。このツアーではFrank InfanteがBで加入しますが、直ぐに英国人Nigel HarrisonがBで加入し、その為、FrankはGにスイッチします。この6人編成が最も安定したラインナップとなります。英国ロンドンのRroundhouseでのライブの成功で、「米国のニューウェーブ・バンドの中で、最も英国のメインストリームで成功した初のバンド」と言われる程でした。そして、1978年9月に、Blondieはサードアルバム”Parallel Lines (邦題「恋の平行線」)をMike Chapmanのプロデュースでリリースします。これが本作品となりますが、このアルバムが最も成功したアルバムで、世界で2000万枚が売れたとのこと。特にそれまでは今ひとつだった米国でも、ヒットシングル”Heart of Glass”でブレイクしたことが大きかったみたいです(因みに、英国では1位、豪州では2位であり、米国でも6位にまでなっています)。シングルカットされた”Picture This”と”Hanging On The Telephone (これはThe Nervesの曲では?)”は、英国ではチャートインしており、Chrysalisは米国向けにヒットするようなカバー曲としてBuddy Hollyの"I'm Gonna Love You Too (邦題「好きになりそう」)”を米国での最初のシングルとしてリリースしますが、大誤算でチャートインはしませんでした。この中では一番皆んなが知っている曲"Heart of Glass"が、1979年初頭にリリースされましたが、これが当時、流行っていたディスコでかかりまくって、英国チャートだも米国チャートでも1位になっています。後にClem Burkeが語ったのには、この曲は、Kraftwerkからの影響とBee Geesの”Stayin’ Alive”からの影響が少しあったとのこと。お陰で、Jimmy DestriのKbdセクションにシンセを導入し、大掛かりな配置換えがされた模様です。またNYCではビデオ作品も作られ、この中では、Debbieの気の強さやワガママさと同様に、ハードでかつ性的な自由奔放さが強調され、彼女は他のメンバーからとは異なり、一種のセレブ的な状況に身を置くようになります。また、米国での次のシングルカットは”One way Or Another (邦題「どうせ恋だから」)”はハードなロック調の曲で、これは米国でも24位となり、成功しています。英国では”Sunday Girl”がシングルカットされており、これも英国では1位になってヒットしました。まあ、ここら辺にしておきましょう。 もう、余り感想を書くことも無いのですが、個人的にはこのアルバムを買うキッカケになったのは、矢張り当時、良くディスコでかかっていた”Heart of Glass”(この後にイタリア人プロデューサーGiorgio Moroderとの共作”Call Me”)があったことと、彼等のファーストアルバムからシングルカットされてた”X-Offender“が気に入っていたことによると思います。その当時はBlondieって、パンク/ニューウェーブの線の上で認識していたのですが、何かちょっとメジャー志向があり、何かパンクとかとは違うなあと思ってました。もうA-1 “Hanging On The Telephone”からカッコ良くて、ポップなチューンが続きますが、”Picture This (邦題「恋のピクチャー」)”のハードなVoや”Sunday Girl”の甘いVoなど、Debbieのヴォーカルが楽しめますね。それと矢張り”Heart of Glass”のシンセが大活躍するディスコティックな曲もお気に入りです。まあ私もまだ青かったんでしょうね。そんなことを思い出させる一枚です。メジャー指向ですが、Debbie自身はいつでもセックス・シンボルでありましたし、そんな彼等が、一度は解散しているものの、まだ再結成して活動していることを嬉しく思いますね。これは私の個人的な思い入れのあるアルバムなので、皆んなが皆んな好きになる訳ではないですが、もし、興味のある方は是非聴いてみて下さい(それにしても、当時の邦題の付け方は今となっては爆笑もの的に酷いと思いますよ)。 https://youtu.be/nM7wTS182v0 #Blondie #ParallelLines” #ChrysalisRecords #NewWave #DeborahHarry #ChrisStein #JimmyDestri #ClemBurke #NigelHarrison #FrankInfante #HeartOfGlass #HangingOnTheTelephone #OneWayOrAnother #PictureThis #NewYork
NEW WAVE Chrysalis Records (東芝EMI) 不明。Dr K2
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Simple Minds “Life In A Day”
Simple Mindsって聞いて、その音楽が思い浮かぶ人は少ないのかな?私も今まで食わず嫌いみたいな感じで、聴いた覚えがありませんでした。メンバーのジャケ写見ても、何だか地味な感じで、イマいちカリスマ性に欠ける気がして、それで、あんまり当時は売れなかったのか?と想像します。本作品は彼等のファーストアルバムです。その前に彼らのバイオグラフィーをば。1977年にスコットランドのGlasgowで結成されたパンクバンドJohnny & The Self Abusersが元になっています。Glasgowのシーンを作っていたAlan Cairnduffが仕事を辞めて彼の友達のJohn Milarkyと組んで、それまで働いたことの無い詩人でシンガーのJim KerrとギタリストのCharlie Burchillと言う幼馴染の2人と共に、2人の学友のBrian McGee (Dr)とTony Donald (B)も誘います。Alanは自分がVo, G, Saxができたので、彼の友人のAllan McNeillをサードGとして加入させます。その為、JimはKbdに、CharlieはVlnにシフトしました。彼等はライブもやり、Generation Xのサポートもしていますが、直ぐにJohnとAllan McNeill派とJim, Tony, Charlie, Brian派に分裂します。その内の後者がSimple Mindsの元になります。1978年1月にSimple MindsはDuncan BarnwellをセカンドGとして加入させ、担当楽器で色々試しますが、1978年3月にはJim Kerr (Vo, lyrics), Charlie Burchill (Vln, G), Tony Donald (B), Duncan Barnwell (G), Brian McGee (Dr)にMick MacNeil (Kbd)を加えたメンバーでSimple Mindsとして活動を始めます。因みにバンド名はDavid Bowieの曲"Jean Genie"の歌詞から取られているようです。それで彼等はガンガンライブをやっていたようですが、そこに目をつけたのが、Zoom Recordsを立ち上げたレコ屋のオーナーBruce Findlayで、彼等のフルタイム・マネージャーとなり、Zoom Recordsから彼等のファーストアルバム”Life In A Day (駆け足の人生)”を1979年4月にJohn Leckieのプロデュースでリリースします。Zoom RecordsはAristaの子会社だったので、Aristaが配給を行っています。この時にTonyが脱退し、新しくDuncanの友達Derek ForbesがBで加入。また、Duncan自身も脱退します。よって5人組としてレコーディングをしています。このアルバムが本作品なのですが、実はセカンドアルバム以降の曲と大きく異なってるとのこと。ここでは割愛しますが、セカンドアルバム以降、特に1985年をピークに、彼等は、UK及びUSチャートに入るようなスタジアム級のビッグバンドに化けます。私はそこら辺は未聴なので、また聴いたら紹介したいと思います。多分メジャー寄りのややダークでミニマルなニューウェーブバンドになってるみたいです。 それで本作品”Life In A Day”ですが、確かにMagazineを思わせる、ちょいパンクっぽい音楽ですが、垢抜けてないところが、逆に新鮮だし、バンドとしてはいい感じになっていると思いますが、どうでしょうか?こちらの方がより「ニューウェーブ感」あると思うんだけどなあ。歌詞はよく分かりませんが、結構、詩的みたい。しかもキーボード入ってるし。私は断然、このアルバムの弾けるようなカラフルなポップネスを「推し」ますけどね。どうです?ちょっとは興味持ったでしょ? まあメンバーに華がないのはちと痛いが、、、後、B面の最後の曲が突然終わるのは?何故? [full album] https://youtube.com/playlist?list=PLAFB20OoL0eY9M7H6JYuXa8Veix1xXbyn #SimpleMinds #LifeInADay #ZoomRecords #Arista #Glasgow #NewWave #JimKerr #CharlieBurchill #BrianMcGee #DelekForbes #MickMacNeil
NEW WAVE Zoom Records (Arista) 968円Dr K2
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Bruce Woolley and the Camera Club “English Garden”
皆さん、知ってますかね、Bruce Woolleyが、”ラジオ・スターの悲劇”を作って、リリースしたことを。と言う訳で、今回、紹介するのはBruce Woolley & The Camera Clubのファースト・アルバム”English Garden”です。1979-1980年と言う短い期間に活動していたニュー・ウェーブ・バンドです。メンバーはBruce Woolley (Vo), Thomas Dolby (Kbd), Matthew Seligman (B), Dave Birch (G), Rod Johnson (Dr)ですが、MatthewがThe Soft Boysに加入した為、Nigel Ross-Scottがベースで加わります。Bruce自身の初のヒット曲は豪バンドThe Studsの”Dancing With Dr. Bop”ですが、英国でのヒット曲は、Bruce/Trevor Horn/Geoff Downes共作によるDusty Springfieldの”Baby Blue”になります。このような事から分かるように、Bruceは音楽家と言うよりも作曲家やプロデュース業を元々やっていました。その流れで、最初はBruceとTrevor及びGeoffの3人で1977年にThe Bugglesを結成していましたが、Bruceが自身のバンドをやる為に脱退して作ったのが、このCamera Clubになります。後に”Video Killed The Radio Star (ラジオ・スターの悲劇)”がThe Bugglesによってヒットしたことは周知の通りですが、曲自体は3人の共作になっています。リリースはCamera Clubの方が早かったのですが、全然ヒットしませんでした。そこて、1979年に本作”English Garden”をリリースして、大々的にツアーをやりましたが、このツアーに時間を費やし過ぎたこととレコード会社CBSとの意見の不一致から、セカンド・アルバムのリリースを拒否され、それらのことからパンドは解体されてしまいます。その後、Bruceは、1981年には、Trevorとの共作・プロデュースでDollarの”Hand Held in Black and White”と”Mirror Mirror”と言う2曲を提供。1983年にはBruceの曲”Blue Blue Victoria”がスウェーデンのMagnus Ugglaによってカバーされています。と言うように、1981-1994年の間は表舞台からは身を引き、作曲やプロデュースで音楽と関わっていきます。その後、1994年に、BruceはChris ElliottとAndy Visserと共にThe Radio Science Orchastraを結成し、テルミンを演奏、過去の電子音楽の誕生にインスパイアされたスペーシィーなポップ・ミュージックをやるようになります(これは聴いてみたい❗️)。まあザックリ言うとこんな感じでしょうか。 それで本作品ですが、極上のポップミュージックがたんまり収録されています。それも「UK」のポップスですね。その中でも、”Video Killed The Radio Star”やシングルカットされた”Clean Clean”は特別です。また、インスト曲としてクレジットされている”W.W.9”はあっという間に終わる小曲ですし、”Get Away William”ではウィスパーな女性Voが入っています。ただ、アレンジが当時のメジャー寄りの「如何にもな」感じなので、ここら辺は好き嫌いが分かれるところですね。因みに、共作を頻繁に行なっていたTrevor HornとGeoff Downesは1980年には大御所プログレ・バンドYESにも加入したりしています。また、KbdのThomas Dolbyは1982年にはソロ・シングル"She Blinded Me with Science"で、1984年にもソロ・シングル"Hyperactive!"でヒットを飛ばしますが、彼自身はセッション・ミュージシャンやプロデューサーとしてキャリアを積んでいきます。まあ、それはそれとして、Bruce Woolley and the Camera Clubはもう少し評価されてもいいのでは?と思うのは私だけでしょうか? https://youtu.be/jFkvd0vBXhE #BruceWoolleyAndTheCameraClub #EnglishGarden #Epic #NewWave #UK #VideoKilledTheRadioStar #BruceWoolley #ThomasDolby #TheBuggles #SongWriter #Producer
NEW WAVE Epic 800円Dr K2