「旅顺口大观(旅順口大観)」(中国摄影出版社 China Photographic Publishing House)

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2000年頃だったか、旅順市に要塞遺構探索に行った時に、資料館の売店にて購入。
中国側が制作した旅順口(要塞跡、港湾、市街、周辺地域)の写真集。

いまだに残る数々の要塞の遺構のカラー写真が豊富に掲載されており、資料としてとても貴重。

東鶏冠山、ニ龍山、松樹山、椅子山、太陽溝、案子山、高崎山、水師営など、著名な地点の写真が多数。

完全に土産販売を意識しており、英語と日本語も併記で分かりやすくて助かります。

本書の前書き

神秘的なベールに覆われた旅順は、遊東半島の最南端に位置し、海を隔てて山東半島と向かい合っている。ここは渤海湾の咽喉部に当たり、昔から「京畿の門戸」と言われており、戦略的地位が極めて重要である。
長い歴史を持っている旅順は、漢の時代から「沓津」「馬石津」「都里鎮」「獅子ロ」などと呼ばれていた。明王朝の初期、明の軍隊が違東地域を回復すべく、海を渡って平安無事に獅子口に上陸した。これを記念するために、旅途平安、順調到達の意味から、獅子口を旅順に改称したのである。
清らかで優美典雅な旅順は、黄海と渤海の白波に囲まれ、景色が優れ、天然景観が多く、今や遠くまでよく知られている国家レベルの名勝地となっている。
旅順は帝国列強による幾度の侵略などで、いやと言うほど心配をなめている。
1894年に爆発した中日間の中日甲午戦争(日清戦争)の際、旅順がその主戦場となり、約二万名にも上る無の百姓が無惨に殺戮された。1898年、ロシアは強制に旅順を借用し、7年間も占拠した。1904年、旅順がまた日露戦争の爆発地となり、328日も続く日露間の旅順争奪戦によって、旅順が戦争の廃墟とな見渡す限りの人が傷をこうむっているのである。その後、旅順がまたとも四十こも亘る日本の植民地とされた。それがゆえ、「一つの旅順は、半巻の歴史でという説が生まれたわけである。

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