- Beer Wagons and Miniature Models Museum
- 12F 244戦隊 3式戦「飛燕」(1/72コレクション) Type-3 Fighter “HIEN” (Tony) Models (1:72) – The 244th Fighter Squadron
- 3式戦「飛燕」1型丁…244戦隊/震天制空隊 四宮中尉機(57号機)
3式戦「飛燕」1型丁…244戦隊/震天制空隊 四宮中尉機(57号機)
こちらがこのシリーズの完成第1号機です。(これから、作った順に載せていこうと思います。)
飛行第244戦隊・震天制空隊の四宮 徹 中尉機(57号機)です。
往年の名キット「ハセガワ製1/72」で、今の目で見れば物足りないところも多いかと思いますが、私のような出戻りモデラーにはピッタリ、とてもシンプルで作りやすかったです。
(※製作当時、ある資料を基に1型丁で作ったのですが、後に読んだ別の資料では“1型丙”という説もあり、どうもいろいろ見ると“丙”型が正しいようです。ま、今更しかたない…と。。。)
この“震天制空隊”とは、第244戦隊の戦闘機3個飛行隊に加えて編成された「体当たり攻撃」を専門に担当する飛行隊でした。(当初は「はがくれ隊」と命名、後に改名。)
10,000m以上の高空を飛行するB29を撃墜することは、高性能エンジン、ターボ過給機、与圧コックピット等の技術が遅れていた当時の日本の戦闘機には困難なことでした。そこで、機銃で攻撃することを諦め、体当たりでの一撃必殺の攻撃を狙って編成されたのが震天制空隊です。
震天制空隊では高空を飛行するB29に追いつけるよう、機銃を下ろし(無線機も下ろした機もあったらしい)武装なしの軽い機体にして高空性能を上げていたそうです。
ただし、いわゆる後の特攻と異なり、決死の体当たり攻撃とは言っても、機体をB29にぶつけてその翼等を破壊して飛行不能にした後、自らは体当たり機から落下傘で脱出することが前提でした。しかし、上空での航空機同士の衝突は激しいものであったため、脱出に失敗し戦死となるケースも数多くあったようです。
244戦隊では、震天制空隊の機体の垂直尾翼には244戦隊マークは描かれず、尾翼全体が真っ赤に塗装され、その垂直尾翼に搭乗者の名前の頭文字がカタカナで書きこまれています。
この機は四宮中尉なので「シ」です。
また、両主翼の翼端が赤く塗装されているのも、この四宮中尉機くらいだと思います。
無塗装のジュラルミンの機体には、四宮中尉の趣味なのか特に派手な赤い電光マークが機種から尾翼にかけて書き込まれており、敵機に稲妻のごとく突入する気概を表したのでしょうか。
実機の逸話ですが、昭和19年12月3日、東京・武蔵野市の中島飛行機発動機工場を狙って帝都上空に侵入したB29編隊に対し、震天制空隊の四宮中尉はこの57号機をもって突入、前方から目標のB29に突進し正面衝突寸前で左に自機をひねり込み、自機の左翼を敵機の右翼にぶつけて破壊し撃墜に至りますが、自らも左翼を先端から2mも失いほとんど片翼状態となり、なんとかその機をあやつり基地に生還するという離れ業を演じます。(その機体は銀座の松坂屋デパートに国民の戦意高揚のために展示されました)
奇跡の生還を果たした四宮中尉でしたが、昭和20年に入り…、不利に傾いた戦局のもと、陸軍はエース・四宮中尉に対しても非情な命令を下します。
彼も“特攻隊”行きを命じられたのです。
調布で親しんだ「飛燕」ではなく、旧式な1式戦「隼」を与えられた四宮中尉は、調布から関西を経て九州に前進、昭和20年4月29日、特攻隊「第19振武隊」の隊長として部下数機を率いて鹿児島・知覧基地を飛び立ち、沖縄方面の米機動部隊に突入、未帰還となったのでした。
【模型製作メモ】
機体: 下地=シルバーサーフェイサー(丸サフ)、タミヤAS-12アルミシルバー(缶スプレー)
フラップ:タミヤエナメル明灰白色(筆塗)
尾翼:タミヤエナメル 光沢レッド(筆塗)
機首上面:ファレホ フラットブラック(筆塗)
キャノピー:タミヤエナメル シルバー(筆塗)
機内:タミヤアクリル自作機内色(筆塗)
プロペラ:タミヤエナメル フラットブラウン(筆塗)
タイヤ:タミヤエナメル タイヤブラック(筆塗)
デカール:キット付属+Lifelike
デカール貼り後、半つやスプレー→つや消しスプレー