黄銅鉱・磁鉄鉱 (chalcopyrite/magnetite) 別子銅山

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別子銅山の鉱床は変成岩(三波川変成帯)中の層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)で、走行長1,800m、厚さ2.5m、約45度から50度傾いて海抜約1,200mから海面下およそ1,000mにわたって広がる世界的にも稀な大鉱床で、別子型鉱床と呼ばれることもあります。鉱石中の銅含有量(銅品位)は平均約2.5%、江戸時代には10%を超え、極めて高品位の銅山でもありました(ちなみに現在チリで採掘されている銅鉱石の品位は1%前後といわれています)。
本標本では黒っぽい磁鉄鉱の中に層状に真鍮色の黄銅鉱が見られます。(1枚目~4枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の最大銅山の一つに数えられました。(秋田の小坂鉱山を加え四大銅山と呼ぶこともあります。)幕末~明治維新の激動期には、総支配人であった広瀬宰平(後に初代住友総理人に就任)が洋式技術を積極的に導入し近代化を図ってその後の住友財閥発展の礎を築くとともに、近隣の新居浜市には鉱山業から派生した金属製錬業や機械工業、化学工業や電力業、林業などの拠点施設が築かれ、瀬戸内海岸でも有数の産業都市となりました。別子銅山の坑道は全長700キロメートル、最深部は海抜マイナス1,000メートルにも及びましたが、銅品位の低下等による採算悪化に加えて、地熱の影響による坑内温度の上昇、地圧の増大による坑道の崩落現象による作業環境の悪化が顕著となり、1973年(昭和48年)に閉山しました。

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