輝安鉱 (stibnite) 市之川鉱山 #0583

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市之川鉱山では石墨片岩が角礫化した部分に生じた富鉱体に石英と輝安鉱からなる空洞(晶洞)が発達していました。母岩の中を通る鉱脈は通常は幅が30~40cmくらいですが、時に1m前後に達し、この鉱脈の中に空洞(晶洞、ガマ)が生じることがあり、その中でマテと呼ばれる輝安鉱の柱状結晶が非常に長い年月をかけて成長し、大きなものは長さが90cmに達するものもあったということです。市之川鉱山産のまるで日本刀のように美しい巨晶は1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会(東京上野)、1878年(明治11年)のパリ万国博覧会、1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に出品され世界的に有名になり、ロンドンの大英博物館(自然史)やワシントンD.C.のスミソニアン博物館をはじめ世界各国の有名な博物館や大学で今も展示されています。
本標本は博物館に展示されるような巨晶とは真逆の極小結晶ですが、小晶洞中に輝安鉱の典型的な柱状結晶がひしめきあうように生成しています。(1枚目~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

市之川鉱山は国内最大級の輝安鉱鉱山で、1875年(明治8年)から1957年(昭和32年)に閉山するまでの間に、精鉱36,700トン、アンチモン19,000トンを産出、1882年~1897年(明治15年~同30年)にかけて国内のアンチモン生産量の約半分を産出していました(500~1,300トン/同期間における年平均900トン)。
本鉱山の発見は江戸時代の1679年(延宝7年)といわれ、更に古くは「続日本紀」に698年(文武天皇2年)に伊豫国から錫とアンチモンの合金を指すシロメ(白目、白錫、白鑞)およびスズカネを朝廷に献上した旨の記載があり、市之川鉱山をその産地とする説もあります。
江戸時代の1841年(天保12年)から1871年(明治4年)は小松藩(一柳氏)により経営され、廃藩置県後は県営、組合事業、藤田組の投資を経て1884年(明治17年)以降は愛媛県直轄となり、1893年(明治26年)に市之川鉱山株式会社が設立されました。アンチモンは鉛に添加されるとその硬度を高めることから砲弾・銃弾の弾芯などに用いられ、日清、日露、第一次世界大戦と戦争のたびに需要が高まり、鉱山は非常な活況を呈しました。
しかし昭和初年以降は生産が振るわなくなり、1946年(昭和21年)に井華鉱業(現在の住友金属鉱山)の所有となりましたが、翌年には休山、1951年(昭和26年)に事業を再開し、1955年(昭和30年)頃にボーリング採鉱を行いましたが採算上の問題等により事業を中止し、1957年(昭和32年に閉山しました。

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