辰砂 (cinnabar) 大和水銀鉱山 #0321

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辰砂は硫化水銀からなり、水銀の重要な鉱石鉱物です。本標本では珪化した粗粒の石英を含む母岩に、暗赤色の辰砂が浸潤しています。(1枚目~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

大和(やまと)水銀鉱山は飛鳥時代聖徳太子が開山したとも伝えられる日本最古級の水銀鉱山です。水銀鉱床の母岩は領家花崗岩(りょうけかこうがん)類で、鉱石の大部分は水銀の硫化物である辰砂でした。古代から辰砂は赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重され、また水銀は金鍍金(めっき)の材料としても用いられました。近代に入ってからは積極的な探鉱が行われ、1909年(明治42年)に景山和民氏が有望な露頭(鉱脈)を発見、手選した高品位鉱石をレトルト炉で焙焼・製錬する形で小規模な水銀の生産を始めました。その後1931年(昭和6年)に大和水銀鉱業が米国からロータリーキルン炉(鉱石の投入と処理を随時、かつ連続的に行える回転式炉)を輸入、高品位の鉱石はレトルト炉で、低品位の鉱石はロータリーキルンで焙焼する方式を採りましたが成果は思わしくなく、山元での製錬を中止し、終戦までの間は大阪市内の他社の水銀製錬所に売鉱していました。1955年(昭和30年)に鉱山が野村鉱業に譲渡され、野村鉱業は大和金属鉱業を設立し、再びロータリーキルンなど最新設備を導入し、大和水銀鉱山産の鉱石のみならず近隣の旧鉱および全国各地の旧水銀鉱山を探鉱・試掘するなどして水銀の増産に努め、最盛期には月産水銀生産量は最大4トンに及びました。しかし、製錬過程で発生するヒ素などの有害物質が環境問題を招いたほか、1970年(昭和45年)前後には水銀公害(水俣病)が深刻な社会問題となっており、水銀需要の低迷もが重なって、1971年(昭和46年)に閉山しました。

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