輝安鉱 (stibnite) 中瀬鉱山 #0203

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輝安鉱はレアメタルの一種であるアンチモンの最も重要な鉱石鉱物です。比較的低温生成の熱水鉱床中に産し、結晶は柱状、針状で縦に条線があるのが特徴で、本標本でも観察することができます。(1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

中瀬(なかぜ)鉱山は明延鉱山、生野鉱山と共に「但馬三山」と呼ばれ、金の中瀬・銀の生野・銅の明延とも称されました。天正元年(1573)に八木川の大日淵で砂金が発見されたことが契機となって石間歩坑道で金鉱脈が発見され、1585年(天正13年)、天下を統一した豊臣秀吉により豊臣秀吉の直轄地として発展しました。1598年(慶長3年)には徳川家康が但馬金銀山奉行(生野奉行)を配置、中瀬に金山役所を整備して金山役人を常駐させ、中瀬金両替座を設置して金山開発に取り組み、1633年~1640年(寛永10年~17年)頃に金山として最も繁栄しました。明治5年(1872)、明治政府により生野鉱山に置かれた工部省鉱山寮生野支庁が中瀬鉱山、明延鉱山、神子畑鉱山を一体経営することになり、その後農商務省生野鉱山分局、宮内省御料局と所管が替わった後、1896年(明治29年)に三菱合資会社の経営に移り、主に金・銀・銅の鉱石を採掘しました。その後1935年(昭和10年)に日本精鉱株式会社の経営となり、金とアンチモンを産出する近代鉱山として発展しました。1948年(昭和23年)のアンチモン産出量は114,601トンで全国産出量の73.1%、金は157,793gで全国第5位の産出量を誇り、特にアンチモンについては専用の精錬所が建設され、一貫処理が行われました記録に残る1938年(昭和13年)~1969年(昭和44年)までの採鉱出量は総計約約111万トン、そこから金約7.3トン、銀約38.9トン、アンチモン約6,041トンが産出されました。。1969年(昭和44年)に採掘部門は廃止となりましたが、精錬部門は現在もアンチモンの精錬を続けています。アンチモンは工業材料として難燃剤、鉛蓄電池電極への添加剤、鉛合金、ガラス製造過程の清澄剤など多様な用途を持ちます。

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