鉄重石 (ferberite) 明延鉱山 赤栄𨫤露頭 #0213A/B

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本標本も#0212と同じく明延鉱山最大の錫-タングステン鉱脈であった赤栄𨫤の露頭が自然の浸食作用で斜面に崩落した鉱石塊で、黒色亜金属光沢の薄板状~葉片状の鉄重石結晶が不規則に密集しています。(1~3枚目が標本A、4~6枚目が小さめの標本B、いずれも背景をソフトウエア処理しています。)

明延鉱山は日本を代表する大規模な裂罅性充填(れっかせいじゅうてん)鉱床(鉱脈型鉱床)であると共に、ゼノサーマル型鉱脈の世界的な模式地とされ、錫、銅、亜鉛、タングステンなどの多様な非鉄金属を生産した鉱山です。ゼノサーマル鉱床は高温・低圧の条件下で形成された鉱床で、高温の熱水溶液(鉱液)が地表近くまで高温状態で上昇し、地表近くで急冷して鉱物成分を沈澱するため、高温脈(300℃以上)における錫、タングステン、中温脈(350~200℃)における銅、亜鉛、鉛、低温脈(250℃以下)における鉛、金、銀など広い温度範囲の鉱物が鉱体内に共存する特徴があります。明延鉱山は生野銀山と同じく平安時代初期の807年(大同2年)に発見されたという伝承を持ち、室町時代には銅を産出、近世には銀鉱も開かれ、1598年(慶長3年)には生野奉行が支配する天領になりましたが、18世紀後半には一旦衰えました。1872年(明治5年)に明治政府の官営鉱山となり、1896年(明治29年)に三菱資本に払い下げられてから近代技術による鉱物探査が進められ、1908年(明治41年)に鉄マンガン重石に含まれるタングステンが発見され、翌1909年(明治42年)には後に主力鉱石となる錫鉱が発見されました。1919年(大正8)には朝来(あさご)市神子畑(みこばた)に選鉱所が作られ、明延鉱山との間約4キロメートルに鉱山電車が敷かれました。第二次世界大戦後、昭和30年代の明延地域は人口約4,000人、世帯数約1,200戸を擁し、特に錫の産出量は国内第1位で、昭和40年代には全国の95パーセントの生産量を占めていました。粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から1951年(昭和26年)頃には月産35,000t、閉山前でも銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500tありましたが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、錫の市況の下落により大幅な赤字を計上、まだ採掘可能な鉱脈を残して、1987年(昭和62年)に閉山しました。

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