シドミード 最期の言葉
2012年、L.A.からスタートし、レトロスペクティブ=回顧展と銘打った「PROGRESSIONS」はシドミードの画業50年の中から自薦した50点で北米を巡回していた。つまり亡くなる7年も前に自身の集大成としてまとめ、振り返るための回顧展(retrospective)としていたのだ。この定義と覚悟は我々シドミード展実行員会の主要メンバーのトップ3の立場として踏襲すべきだったかも知れない。
「PROGRESSIONS」50点へさらにシドミード自薦による映画のプロダクションアートと、日本でのプロジェクト65点を独自に選別し、2人のプロデューサーとキュレータによる個人蔵から50点を補完した合計165点を「PROGRESSIONS TYO 2019」としてバージョンアップ。34年ぶり3度目の日本開催となったのが昨年(2019)の「シドミード展」となった。
全精力を東京開催に注力し切ったために地方巡回の余力は無かった。当初予定になかった2週間の期間延長も、急遽前日に決まった発表となったのは撤収期間の翌日から会場がたまたま空いていたのと、次の開催国との調整に手間取り、貸出期間に空白が発生し、たまたま許されたからだ。それまでは「終わり次第、次の予定開催国まで早く搬出せよ」との指令が届いていた。なんというラッキーな偶然。
奇跡の開催としか言いようの無いのは、原画をアーカイブから出すことをスタジオが躊躇した点が挙げられる。長距離を移動すれば何らかのダメージは避けられないし、額装や梱包だけでもダメージが発生しやすい。実はマネージャーからは「全て高解像度の複製画で代用しては?」という打診まであり、開催まで半年を切っている時点で頓挫しかけたこともあった。リクエストした原画のクオリティに問題があり、別の作品に差し替えを余儀なくされたり、有ると考えられていた作品が実際はアーカイブにはもう存在しなかったり、あるかどうか分からなかった作品が発見されたり、希望リストに入れスタジオOKだったにも関わらず、日本のクライアントからNGを出されたりと、この展覧会の為だけにスタジオは新しくアーカイブ用に人員まで雇い、希望作品リストは開催3ヶ月前を切る1月末まで調整が続いた。
作品は遅れに遅れた税関チェックを通過し、都内に到着してからのダメージを記録録画しながら確認する木箱のクレートチェック。全ての原画を隅々まで目視し、過去の衝撃らしいダメージから制作途中らしいピンの跡を全作品を確認。そして中にはシーリングされ開封厳禁な作品を含む撮影。採寸し新しい額装にパッケージ作業。異物混入のクリーニング。音声ガイドの制作、図録集の解説編集とデザイン、グッズのデザイン、作品の順番に導線計画と会場設計から設営、作品搬入にライティング。プレスイベントに始まり会場オペレーション、トークショーにラジオ収録、関連イベント、ナイトミュージアムまで信じられない程の少ない人数で行われた。オープニング当日の開館時間の直前まで作品の並べ替えやギャラリー専用でないライティングの調整を行いなにもかも、そこでしかないドンピシャのタイミングで開催に漕ぎ着けた。夏でも秋でも、ましてや今年のコロナ禍では絶対に実現しなかっただろう。
閉幕後、最期になってしまったが8月にシドミードのスタジオを訪ねることが出来た。最初の1964年の東京に始まり、京都、長崎、大阪、伊豆、奈良まで数十回に渡って来日し、最後となった2012年10月の東京までありとあらゆる日本のプロジェクト、友人、スタッフ、監督との思い出、乗り物、好きな日本食や国内旅行。インタビュー、侘び寂び、歌舞伎、芸者、クラブ、居酒屋まで回想しながら4時間ものあいだ止まることなく、時より日本語も交えあらゆるエピソードを語り尽くしてくれた。床に座って見上げて聞いたあの時間、あの笑顔の為にそれまで尽くしたのだと実感でき、何とか間に合ったことは理解できた。話し疲れたのか少し遅めの昼寝に寝室に行かれ、自分は暫くマネージャーと話した後、帰り際にお別れを寝室までマネージャーと伝えに行った。帰りますね、と言うとうっすら起きておられたが起こすのは流石に忍びないと、「夢で会いましょう」と伝えるとマネージャーも同時に笑われた。それがお会いした本当に最期となる。
それから2週間後の9月、引退宣言を発表。映画「ブレードランナー」の設定の年、2019を見届け12月30日にこの世を去った。
彼の最後の言葉。
「現世では遣り終えた。
神々が私を連れ戻しにやって来る。」
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