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Ypres (ベルギー)_4
イーペルはベルギー、フランドル地方西部の都市で、中世はイギリスとの亜麻布(リネン)の貿易により栄え、同地方第3の都市に成長しました。その後、17・18世紀のハプスブルク家とブルボン家の争いなどにより町は徐々に衰退、第一次世界大戦では、連合軍とドイツ軍の激戦地となり廃墟となりました。現在のイーペルの町並みは、戦後、以前のものに近い外観で復興されたものです。 掲載の地図はLodovico Guicciardini作の「Discrittione di tutti i Paesi Bassi」(1581年初刊)所収のものです。
Discrittione di tutti i Paesi Bassi 銅版画 40.6cm × 33.4cm 1613Roku
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Gravelines (フランス)
グラヴリーヌはフランス最北部、アー川が北海に注ぐ河口の町です。 元々はガリア人の小さな居留地でしたが、800年頃の干拓により後背地が広がり、更に12世紀半ばにはフランドル伯により港が整備されたことから、ニシン漁の町、そして陸側の当時繁栄していたアー川上流のサントメールの商人による果物・ワイン・塩の中継港として繁栄しました。しかし、その繁栄も港の堆砂により失われていく中、一方でイングランド、フランス、スペイン領オランダによる係争地として度々占領と破壊が繰り返されましたが、1659年のピレネー条約によりフランス領となりました。 掲載の地図はLodovico Guicciardini作の「Discrittione di tutti i Paesi Bassi」(1581年初刊)所収のものです。
Discrittione di tutti i Paesi Bassi 銅版画 39.4cm × 33.4cm 1613Roku
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Calais (フランス)
カレーはフランス最北部、ドーバー海峡に面した港町です。 この町は古来よりブリテン島への渡航地点として重要な位置を占めており、当時島だったこの地はシーザーのブリテン島侵攻の出帆地点でもありました。その島であった特性からヨーロッパ本土からの支配が難しく長らくイングランドの支配下にありましたが、堆砂により後背地が陸地化されるにつれ、グラーヴリーヌ、ダンケルクと共に陸地と繋がった町となりました。そのイングランドの支配を離れた後、997年にフランダース伯により、1224年にブローニュ伯により要塞化されました。しかし、百年戦争中の1347年にイングランドに再度占領され、1363年にイングランドの羊毛の指定市場がブルージュからカレーにいつされたことから羊毛、またそれ以外にもブリキ、鉛、布地の貿易拠点として大いに栄えることになりました。フランスとブルゴーニュの国境近くに立地した恩恵で、イングランドの統治は1558年まで続きますが、フランスと神聖ローマ帝国間で争われたイタリア戦争の中で、フランス領となりました。 掲載の地図はGeorg Braun及びFranz Hogenberg作の「Civitates Orbis Terrarum」(複数年に亘り、数か国語で刊行)の内、Vol. V(1598年初刊)のラテン語版になります。
Civitates Orbis Terrarum V 銅版画 47.6cm × 38.1cm Braun & HogenbergRoku
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Cambrai (フランス)
カンブレはフランス北部、エスコー川沿いの町です。 4世紀中頃はローマ帝国ネルヴィイ属州の都市でしたが、北方からのフランク人の圧力が強まるにつれ要塞化され、戦略上の重要拠点となりましたが、430年にはフランク人の支配下となり、フランク王国の一部となります。メロヴィング朝時代に司教座が置かれたことや、毛織物やリネン等の繊維産業の勃興により町は成長しますが、870年にノルマン人の侵攻により町は破壊されます。その後、中部フランク王国時代を経て神聖ローマ帝国の一部となり、948年には司教領となりますが、地理的に大国の間にあることから度々領土争奪の係争地となり、1677年以降にフランス領となります。経済的には15世紀に北方のブルージュの北ヨーロッパ中心地としての地位が衰退するにつれカンブレも衰退を始めますが、文化的にはこの時代にブルゴーニュ音楽学校を中心として多くの音楽家を輩出しました。 掲載の地図はGeorg Braun及びFranz Hogenberg作の「Civitates Orbis Terrarum」(複数年に亘り、数か国語で刊行)の内、Vol. IV(1588年初刊)のドイツ語版になります。
Civitates Orbis Terrarum IV 銅版画 52.3cm × 38.5cm 1597Roku
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Kampen (オランダ)
カンペンはオランダ中部、北海に繋がるアイセル川が湖に変わる地点に位置する町です。 北海貿易の交流と共にライン川の支流に当たるアイセル川の重要性が増したことから栄え、1236年に都市権を獲得し、1441年にをハンザ同盟に加入します。しかし、15世紀中盤から、堆砂に伴い徐々に衰退していきます。その後、八十年戦争、仏蘭戦争を経てオランダが独立を達成していく中で、カンペンの力は更に大きく失われていきます。 掲載の地図はGeorg Braun及びFranz Hogenberg作の「Civitates Orbis Terrarum」(複数年に亘り、数か国語で刊行)の内、Vol. II(1575年初刊)のラテン語版になります。
Civitates Orbis Terrarum II 銅版画 52.5cm × 39.0cm Braun & HogenbergRoku
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Hesdin (フランス)
エスダンはフランス北部の町です。 フランダース伯爵領下のアルトワ伯の領地でしたが、1180年にフランダール伯爵家の姪にあたるイザベラがフランス王フィリップ2世と婚姻した際に、当地は持参金としてフランス領となりました。その後、ブルゴーニュ伯領になったことから神聖ローマ帝国の一部となりましたが、1639年にフランスの侵攻を受け、以後フランス領となりました。 掲載の地図はGeorg Braun及びFranz Hogenberg作の「Civitates Orbis Terrarum」(複数年に亘り、数か国語で刊行)の内、Vol. IV(1588年初刊)のラテン語版になります。
Civitates Orbis Terrarum IV 銅版画 54.5cm × 42.0cm 1588Roku
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Gallipoli (イタリア)
ガッリーポリはイタリア南部のサレント半島西岸、イオニア海ターラント湾の島に築かれた城塞都市です。 神話によるとクレタ王イドメネウスによって町が造られたと言われています。史的にはギリシア王国の都市でしたが紀元前265年にローマとの戦いに敗れ、ローマの植民都市となりました。中世初期にはゲルマン系のゴート族の侵入を受けて破壊されましたが東ローマ帝国により再興され、その立地から経済的に反映しました。その後ローマ教皇領となり、貴族制ギリシアへの対抗拠点となりました。11世紀に入るとノルマン人に占領され、さらに1295年にアンジュー公に占領されたことから町の人口は激減しますが、ターラント公の下14世紀初頭には復活します。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Itinerarium Italiae」(1640年初刊)所収のものです。
Itinerarium Italiae 銅版画 32.5cm × 20.0cm 1640Roku
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Montereau-Fault-Yonne
モントローはフランス中部、セーヌ川とヨンヌ川の合流地点に位置する町です。 この町はシャンパーニュ公国に属しており、1419年に当時のシャンパーニュ―王がこの町の橋上で殺害されるなどの悲劇がありました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 37.1cm × 32.9cm 1655Roku
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Broad Street Ward, London (イギリス)
銅版画 50.7cm × 39.6 cm 1755 Benjamin ColeRoku
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Avignon (フランス)_2
アヴィニョンはフランス南部、ローヌ川沿いの町です。 町の起源は、紀元前6世紀半ばにギリシア人が交易の拠点として居住したことに始まります。その後ガリア人の国の首都となりますが、紀元前120年にローマの統治下に入り、紀元前43年にはローマのコロニーとしての地位を得、70年には司教座が置かれます。その後、ゲルマン人の攻撃、フランク王国による支配など目まぐるしく統治者が変わる中で町は衰退していき、1226年にフランス王ルイ八世に占領されます。1309年には、フランス王の後押しで教皇の地位に就いた教皇クレメンス五世が当地を教皇庁所在地とし1377年まで続きました。また、1348年に教皇庁はプロヴァンス伯から当地の譲渡を受け、フランス革命まで、フランス国内の教皇領の飛び地となっていました。 掲載の地図はGeorg Braun及びFranz Hogenberg作の「Civitates Orbis Terrarum」(複数年に亘り、数か国語で刊行)の内、Vol. II(1575年初刊)のラテン語版になります。
Civitates Orbis Terrarum II 銅版画 53.8cm × 40.9cm Braun & HogenbergRoku
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Mons (ベルギー)_2
モンスはベルギー中西部、フランス国境近くの町です。 シーザーが丘の上に要塞を築いたことが語源です。1515年この地方を支配していたエノー伯が神聖ローマ帝国に入り、この頃モンスは繁栄します。その後16世紀後半の宗教戦争で被害を被った後、南ネーデルラントの首都となります。その後、オランダ領、フランス領等の変遷を経て、1830年のベルギー独立の際にベルギー領となりました。 掲載の地図はGeorg Braun及びFranz Hogenberg作の「Civitates Orbis Terrarum」(複数年に亘り、数か国語で刊行)の内、Vol. Ⅲ(1581年初刊)のラテン語版になります。
Civitates Orbis Terrarum III 銅版画 53.3cm × 40.3cm 1581Roku
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Tienen (ベルギー)
ティーネンはベルギー中央部の町です。 古くはドイツ系貴族のティーネン家が統治する町だったようですが、中世においてはスペイン領オランダでしたが仏西戦争中の1635年にフランスにより占領され、結果、プロテスタント教徒の強い町になりました。そして、その後のスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約により1714年にオーストリア領オランダとなりました。 掲載の地図はWillem Janszoon Blaeu作の「Novum Ac Magnum Theatrum Urbium Belgicae Liberae Ac Foederataee」(1649年初刊)所収のものです。
Novum Ac Magnum Theatrum Urbium Belgicae Regiae 銅版画 64.8cm × 54.6cm 1649Roku
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Leeuwarden & Franeker (オランダ)_2
レーワルデンはオランダ北部の町です。元々は海に面した港湾都市でしたが13世紀に始まる干拓により内陸都市となりました。港湾都市であったときは海上交易で栄え、1435年に都市権を得ます。17世紀前半にはユダヤ人コミュニティが形成され、金銀細工が盛んになります。 フラネケルもオランダ北部の町で、8世紀後半のカロリング朝フランク王国の時代に造られた要塞が起源です。1374年に都市権を得ますが、徐々にレーワルデンに繁栄を奪われていきます。 掲載の地図はGeorg Braun及びFranz Hogenberg作の「Civitates Orbis Terrarum」(複数年に亘り、数か国語で刊行)の内、Vol. Ⅲ(1581年初刊)のラテン語版になります。
Civitates Orbis Terrarum III 銅版画 52cm × 34.5cm 1581Roku
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Caen (フランス)
カーンはフランス北西部、イギリス海峡近くの町です。 ローマ時代はガリア人の小さな村落でしたが、1060年にイングランド王兼ノルマンディー公ウィリアムが巨大な要塞を築き、その後修道院等も建設したことから発展します。1204年になるとフランス王フィリップ二世が侵攻し、以後フランス領となります。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 37.6cm × 32.6cm 1655Roku
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Rennes (フランス)
レンヌはフランス西部、イル川とヴィレーヌ川の合流地点に位置する町です。 その要衝としての重要性から、ローマに占領される前の紀元前にはケルト人のアルモリカ王国の首都でした。シーザーによる占領によりローマ統治下に入っても立地上の重要性は失われませんでした。ローマ帝国滅亡後はブリトン人やフランク人による侵攻を受けましたが、9世紀にはブルターニュ王国(後に公国)の成立に伴いその首都となります。1491年にフランス王シャルル八世による攻撃を受けたブルターニュ公国は劣勢で、最後にはアンヌ女公がフランス王と婚姻することにより、フランス領に組み込まれることとなりました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 39.1cm × 32.7cm 1655Roku