-
生物ドローンカメラ@昭和初期の中等教育用理科図解参考書
最近はドローンを使って一般人でも割と気軽に空撮ができるようになったが、かつては伝書鳩に專用のカメラを取り付けて撮影させていたことがあった。明治40年(1907年)、ドイツ人薬剤師J.ノイブロンナーが初めて考案した「鳩カメラ」は、パノラマ撮影用だったそうだ。 http://blogbu.doorblog.jp/archives/52402641.html いわば「生物ドローンカメラ」といったところだが、いくら軽量機とはいえかなりデカいし、こんなじゃまくさいものを取りつけられて、ハトにはさぞや災難だったことだろう。 今回は、前にジュラルミンのところ https://muuseo.com/home/734046 を取り上げた昭和十年代の中等教育理科の図解参考書から、その「寫眞機」項に載っている図版を眺めてみることにしよう。ここに鳩カメラが出てくる。1枚目のページ中の「3」のハトと6枚目のページの左上のハトは構図がそっくりでカメラの向きとか右側に鉛管がくくりつけられている脚とかも似通っていて、ぱっと見まるっきり同じ写真のようにも見えるが、よ〜く視ると前者は頭から何か被せられているようだ。 8枚目にご参考までに掲げておいた「航空寫眞」解説には、「之〈これ〉は歐洲大戰以來,大いに發達して來たものであるが,今日では,平時に必要缺〈か〉く可〈べか〉らざるものとなつて來た」とあるが、図版の方はキャプションに「軍用鳩の體につける寫眞機」とあるように、新聞社などの民間企業ではなく陸軍の鳩を撮ったものとおもわれる。背負いケージや車輪つきの鳩小屋の図が写真ではなくイラストなのは、恐らく「撮影場所を特定されては困る」とか、何かしら軍機に引っかかるからなのだろう。
解說實驗應用理科講義 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
-
ジュラルミンと飛行船@昭和初期の中等教育用理科図解参考書
中学校・師範学校でおこなわれる5年制の中等教育では、昭和6年度(1931年度)より実施された改正中學校令施行規則により大幅な教科の変更があったが、それまでの「博物」「物理」「化學」に加えて「一般理科」「應用理科」を設け、ひっくるめて「理科」という科目になった。最終学年におかれた応用理科では、それまで学んできた理科知識と実際の世の中のあれこれとのかかわりをより具体的につかむことに主眼がおかれていたようだが、その理解をたすけるために編まれた図解参考書のなかから、合金のひとつジュラルミンのところを今回はみてみることにしよう。 軽くて引っ張り強度のたかいアルミニウム合金は今日でも航空機を造るのにかかせない材料だが、その最初のものは明治39年(1906年)ドイツで生まれた、アルミニウム・銅・マンガン合金にマグネシウムをちょこっと加えて焼き入れしたものだった。加熱処理をしてから時間をおくと強度が格段に増す「時効硬化」が、たまたま実験途中に週末がはさまったために発見されたのだそうだが、この合金がまず実用されたのが同国のフォン・ツェッペリン伯が19世紀末に考案し、自ら会社を立ち上げて明治33年(1900年)に第1号機を造った新しい乗りもの・飛行船の機体だった。当初は鉄骨で組み立てる考えだったのが、軽量化をはかるためアルミニウム材を用いる方針に切り換え、その時に最も強度のあった亜鉛アルミニウム合金を使ったという。それよりもすぐれた材質である自国の技術者による特許ジュラルミンに早速跳びついたのは自然なことだったろう。なお、ジュラルミンの語源はフランス語の「かたい」を意味する「Dur-」を冠した、という話は意外だが、これは国際展開を見据えてのことだった、ときけばなるほどと納得がいく。 https://www.uacj.co.jp/review/uacj/vol4no1/pdf/vol4no1_15.pdf ジュラルミンは明治44年(1911年)からイギリスでも生産がはじまり、また第一次欧州大戦中の大正5年(1916年)にはドイツ軍の飛行船が同国内で撃墜され、以降その残骸を参考に日本を含む各国で飛行船の製造がはじまった。一方ドイツではその翌年大正6年(1917年)から飛行機の材料としてもジュラルミンが使われはじめた。この本が出た前年の昭和12年(1937年)には、アメリカに寄港中のヒンデンブルク号の有名な事故が起き、それからいくらもしないうちにドイツの飛行船はすべて解体されて飛行機の材料になってしまったというから、ここに書かれている内容は早くもやや時代遅れ、ということになってしまいそうだが、そんなことはさておいてこの飛行船内部を描いた図版イラストが文句なくかっこいいのだ。大正〜昭和初期の教科書などにも飛行船の機体の図はときどき載っているが、内部の様子がわかるものは多くない。それに、これもジュラルミンを使っているらしい巨大な格納庫に収まっているところ(3、4枚目)や、その内部で骨組みの組み立てをおこなっている場面の図(5枚目の下、7枚目)はほかには目にしたことがないようにおもう。その上の図版(5枚目の上、6枚目)にはキャプションがないが、これは操縦席部分だろうか。 なお、8枚目の丸いのはジュラルミンの球ではなくて、合金の顕微鏡写真を模写したもののようだ。熱加工の過程で粒子の状態が大きく変わっているのがわかる。
解說實驗應用理科講義 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 三色版刷り・活版+銅版刷り図版研レトロ図版博物館
-
1920年代の観賞植物@昭和初期の女学校用植物学教科書
家庭でのガーデニングが日本でひろくおこなわれるようになったのは、家政学の観点からの研究 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhej/59/2/59_2_69/_article/-char/ja/ によれば20世紀に入ってからのことになるようだが、家庭団欒を主宰する主婦のたしなみのひとつとして、学校教育でも採り上げるようになったらしい。植物学教科書でも明治後期あたりから、植物と人間とのかかわりのひとつのカタチとして、園芸植物が必ず登場するようになる。 今回紹介するのは大正12年(1923年)の関東大震災の後、都心部の復興とともに住宅地が郊外に開発され中産階級以上の人々が移り住んで、それまでよりも広くなった自宅の庭で植物を育てる趣味がいよいよさかんになった昭和初めの観賞植物の図版。綺麗なオフセット多色刷りの一枚に載せてあるのは、当時最も流行っていた品種ではないかとおもわれる。たとえば黄バラが世界ではじめて登場したのは19世紀末とも20世紀初頭ともいわれるようだが、最初期のものはここに見られるような淡い色ではなくてもっと赤みがかっていたそう http://mohri.la.coocan.jp/rose/jkrs/26/jkrs2613.html だから、その後の品種改良によってようやく作出されたものが、この当時に我が国へも入ってくるようになったことを示しているのかも。ほかにもいろいろあるよ、ということで銅版線画の花々の図版が2枚添えてある。こうした、切り花のように植物の特に見せたい部分だけを切り取って、図鑑のように何種類も並べた図が教科書に頻繁に登場するようになるのは大正10年代くらいからのようにおもう。 樹としての観賞植物の例として、枝垂れマツと斑入り葉のマサキを示したのが7枚目。なお本文の解説では、「斑葉」は「イサハ」とルビが振ってある。また野生種と園芸種との見た目の違いの大きさの例として掲げられているのが、8枚目の「のぢぎくときく」図だ。
女子中等教育最新植物學 昭和03年(1928年) 昭和03年(1928年) 三色版刷り・活版+銅版刷り図版研レトロ図版博物館
-
宝石とその原石の図@大正期の鉱物学教科書
梅雨入りが近づいていてどうもぱっとしないお天気とか、識れば識るほどモヤモヤする世の中の仕組みとか、いろいろ気ふさぎなので綺麗な石ころの絵でもながめて、せめて気分だけでもさわやかにさせておきたい。 ……ということで、100年ばかり昔の鉱物の教科書を1冊引っ張り出してみた。巻頭には宝石にする代表的な非金属鉱物の原石と、カットした石とを対比した図が載っていて、被せてある薄葉紙にそれぞれの名称が書いてある。右上から「紅寶石(=ルビー)」「金剛石(=ダイアモンド)」「黃玉石(=トパーズ)」「蛋白石(=オパール)」「綠柱石(=ベリル)」「藍寶石(=サファイア)」「紫水晶(=アメジスト)」。これは写真ではなくてイラスト、色鉛筆かチョークか、固形の画材で描かれているようだ。拡大してみると意外ともんやりした感じなのだが、ちょっと離れてみると結構それらしい質感が出ている描き方とおもう。極く薄い青の背景が絵を引き立たせている。こんな立派な標本は、現物ではなかなか用意できないだろうが、イラストで描けば理想通りのものが見せられる。だからこそ、写真にはしなかったものとおもわれる。なおHBプロセス方式による三色版が国内のオフセット印刷に導入されたのは大正8年(1919年)だそうだから、この図版は手間のかかる網版多色刷りの最後の方、ということになるだろうか。 本文の「非金屬實用鑛物(其三)寶石類」という章に解説があって、ここに掲げた終いのモノクロ図版3枚はそれに添えられたもの。当時流行った、小さい石と細かい彫金の細身リングの図が応用宝飾製品の例としてあげられている。なお本文の「黃玉石」は身のまわりの装飾用、「金剛石」はくび飾り、えり飾り、帯留め、時計の飾りに使われる、とある。当時のダイアモンド加工品は1カラットあたりだいたい200円あまり(ちなみに、当時の小学校教員初任給が15〜20円くらいだったらしい)、とも書いてある。一方「鋼玉石(=コランダム)」については紅色のものを「紅寶石〈ルビイ〉」、青色のものを「青玉」または「青寶石〈サフアイア〉」といい、わけてもルビーの透明で濃い紅色を帯びたものはダイアモンドよりも高価、とある。それに加えて、ルビーは産出量が少なく需要が多いため、宝石商店で売られているもののうちには人造宝石やザクロ石、トパーズ、蛍石などでこしらえた模造品が少なくない、とか……。やれやれ、人をたぶらかして金もうけしようという手合いはいつの世にもぞろぞろいるものらしい。
訂正中等教育近世鑛物教科書 大正07年(1918年) 大正03年(1914年) 網版多色刷り+銅版刷り+活版刷り図版研レトロ図版博物館
-
果樹の幾何学的な仕立て方@明治の果樹栽培書
明治晩期の果樹栽培法の本に載っている、樹形のいろいろな仕立て方の図。 我が国では明治にいたるまで果物の大規模な栽培はおこなわれておらず、19世紀も終いになってようやく、ヨーロッパやアメリカで当時の最新技術を学んできた園芸家がその知識や技術をひろめ始め、各地で果樹園が作られるようになった。また一般市民も経済状態がよくなって広い庭付き一戸建てを持つようになり、そこで果樹や草花を育てる園芸趣味が流行った。この本はそうした時代に数多く出された園芸書のひとつだが、当時のヨーロッパやアメリカで流行していたこのような幾何学的な整枝法は、実益と趣味とを兼ね備えた仕立て方として紹介されたにもかかわらず、一部を除いてはほとんど広まらなかったのではないかとおもわれる。 それでもこんな人目を惹く果樹の仕立て方が、20世紀の初めに日本へ図解入りで紹介されていたことには興味をそそられる。
實用園藝學 果樹篇 明治41年(1908年) 明治37年(1904年) 木口木版刷り+活版刷り図版研レトロ図版博物館
-
初めて日本に導入されたプラネタリウム@昭和初期の子ども向け天文学入門書
大正十三年に創刊され、今も続く子ども向け科学雑誌『子供の科学』の初代編集長が書いた、やさしい天文学の本の巻末附録として載っている、大阪の「電氣科學館」へ我が国最初、世界でも二十四番目に設置されたプラネタリウムの写真とその説明。 同館は現在の大阪市立科学館の前身で、最上階に「天象館」というプラネタリウム施設が置かれて人気を博したという。そのドーム内部の巨大な投影機や客席の写真はときどき見かけるが、「講壇」つまり解説席の内側、しかもそこにある操作装置部分が写っているものはかなり珍しいのではないかと思う。ここにも書いてあるが、本書の出た前の年に据え付けられたばかりの、かなり早い時期の姿でもある。 #レトロ図版 #プラネタリウム #電気科学館 #大阪 #昭和初期
子供の天文學 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
-
彩色キノコスケッチ図版@昭和初期の菌類図鑑
日本の菌類分類学の草分けとされる著者自らが、採取してきたばかりの標本をスケッチした原図を元に作られた昭和初期の菌類図鑑から、笠の色に特徴あるのを少々。 学術的な精確さを追求して、本職の画家に任せず手ずから描き、印刷の色再現性にもこだわった図版は見る者を飽きさせない。外觀や断面のその種ごとの特徴を丹念に描いているばかりでなく、成菌と全く形が違う幼菌が育つさまなどもしっかりフォローしてあるところがステキ。 #レトロ図版 #キノコ #菌類 #担子菌 #写生図 #昭和初期
原色版日本菌類圖説 昭和05年(1930年) 昭和04年(1929年) 三色版刷り+活版刷り図版研レトロ図版博物館