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写真乾板用ステレオカメラとステレオスコープ@明治後期の写真器材カタログ
20世紀初期の写真器材綜合カタログでは、まだ乾板を使う器械の方が幅を利かせていて、フィルムカメラの方はやっと関連製品が増えつつある途上だったようだ。 100年以上も前の写真のことについてよくご存知の方には説明するまでのことでないだろうが、この当時はレンズはもちろんのこと、暗箱・シャッタ・ファインダなどがそれぞれ別々の器械で、撮影するにもまずそれらを択んで買いそろえて組み立てて使う必要があったし(セットになっている商品もあるにはあったが)、現像・焼付などおこなうにも危ないものを含む色々な薬品や周辺器材を調達して自ら調合し、必要があれば手作業でレタッチし、鍍金をほどこし、仕上げに艶出しローラをかけ……という具合に、非常に手間とお金とがかかる、趣味としてはもっぱら「ゆとりある階級向け」のものだった。 そうした乾板用の器械で、立体視ができる撮像が得られるいわゆる「ステレオカメラ」と、それからそれを焼き付けた作品を鑑賞するための「ステレオスコープ」のところをみてみよう。 1・2枚目は同じ焦点距離の鏡玉(レンズ)2本と、双眼ファインダのついた「携帯用」暗箱、つまり野外撮影などに使うカメラ本体。 3・4枚目はステレオ撮影用シャッタ単体。管の先についているゴム球を握ると、当然ながら二つとも同時に動作する。左側のものには、レンズを取り付けるための「前板」がついている。 5・6枚目はステレオカメラで撮影した写真を焼き付けたものをレンズの向こう側の枠へ挿し込んで、立体視するためのステレオスコープ。当時は「双眼寫眞覗」とも呼んだようだ。顔の大きさ……というか両目の離れ具合に合わせて、左右のレンズの位置を細かく調整できるものらしい。 7・8枚目はこれの簡易版で、片手で持ち支えて見る「實體鏡」。これが今回のうちでは、最も実物を目にする機会があるシロモノだろう。 現代では考えにくいだろうが、こうした器械の筐体はだいたいが金属製ではなくて、綺麗に表面仕上げされた木の箱だった。もちろん、プラスティック製のパーツなどは使われていない。あってもセルロイドとか、だったろうか。暗箱の蛇腹部分は革製だ。 当時のカメラ関係器材などは、ほとんどが輸入品だったこともあって、図版も輸出元のカタログから持ってきたものが多いのだが、今回取り上げたカタログをよぉく見ると中には「S. KUWADA」と添えてある絵もあって、これはカタログを編む際に新たに彫刻した、日本製の細密版画であることがわかる。 なお国会図書館デジタルコレクションには、このカタログの明治34年(1901年)版が公開されているのだが、これにはまた別のステレオカメラがいくつか出てくる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853871/84 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853871/92 かつてのデジタルライブラリー時代のスキャニング画像は画質がひどく粗いものが多く、図版の細かいところが潰れてしまっていてよくわからない。こうした稀少資料の現物が覧られないのは残念なことだ。
桑田寫眞要鑑 明治四十一年 明治41年(1908年) 銅版+活版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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日本の古い視力検査表いろいろ@昭和初期の医療器械カタログ
今ではちょっと考えられないことかも知れないが、戦前には医療器械のメーカーが共同で作った綜合カタログというものがあった。かつては小規模の企業……というか個人商店が非常に多かったため、手間もコストもかかるカタログを同業組合で出す、という形が明治の終いあたりからみられるようになった。 今回は昭和10年代のそうしたカタログに載っている、古い視力検査表のヴァリエーションをみてみよう。 1・2枚目は、試視力表を均等に明るく見せるための「中泉氏試視力表照明裝置」。それぞれ壁面固定式と、キャスタで転がせる移動式。地方の古い個人病院などには、もしかしたらまだあるのかも? 3枚目は、今でもひろく使われている「石原氏萬國式日本視力表」で、右側が幼児向けの「小兒視力表」。大人向けが「日本」と冠されているのは、カタカナが使われているから。 二十世紀初めにアメリカで作られた、さまざまな言語の文字が使われた万国式試視力表が、だいぶ前に「カラパイア」記事で紹介されていたことがある☟ ----- 「視力検査表の先駆けとなったあらゆる国籍の人々に対応した視力表(1907年)」@カラパイア https://karapaia.com/archives/52252504.html ----- この記事に出てくるレプリカ商品は、今でも売っているようだ。 4枚目は右側が「井上氏萬國式環狀試視力表」、今では「環狀」というよりも「ランドルト環」という方が一般的だろう。左側が「伊藤氏最新萬國式試視力表」。この「最新」の方は今ではあまり見かけないとおもう。 5枚目は「井上氏萬國式鉤狀試視力表」と「井上氏萬國式小兒試視力表」。この「鉤狀」の方は「スネレン試視力表」と呼ばれるもので、こういう「コ」の字形のほかに「E」字形も使われる。 6枚目が価格票、試視力表そのものはどれも65銭均一。照明装置の方は固定式が50円、移動式が90円だから、だいぶ値が張る。 比較のために週刊朝日編『続値段の明治大正昭和風俗史』(昭和56年 朝日新聞社)を引っ張ってみると、「英和辞典」項「値段のうつりかわり」表によれば当時の三省堂『コンサイス英和辭典』が昭和9年2円50銭、昭和13年に3円。『続続値段の明治大正昭和風俗史』(昭和57年 朝日新聞社)の「週刊誌」項では『週刊朝日』が昭和10年8月13銭、昭和12年7月15銭、となっていた。現行価格は『コンサイス英和辞典』第13版3520円、 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dict/ssd10146 『週刊朝日』2022年6月3日号440円。 https://publications.asahi.com/ecs/24.shtml 7枚目は左上が「草間氏照輝試視力表裝置」(35円)、左下が「伊藤氏試視力表照明裝置」(20円)。どうやら現行品のように試視力表の裏側から照らすのではなく、手前に立っている黒い筒状の覆いの内側に照明灯が仕込んであるようだ。そして右側は「小川氏試視力表裝置」(20円)。「裝置」という語が連想させるようなメカメカしさをあんまり感じない見た目だが、裏側にも試視力表がついていて、くるっと廻して切り換えする仕組みらしい。 8枚目は、まるで操り人形のように糸で引っ張って切り換える「井上氏絲引試視力表裝置」(35円)と、それの簡易版のような「前田氏絲引視力計」(20円)という超アナログ視力検査器械、そして金属じゃなくて木でできた「東大式遮眼器」(1円50銭)。この辺になると、今日の検眼現場ではもう全く考えられないようなシロモノだろう。 こういう忘れ去られた、現物などおよそ残っていそうもない昔の道具を、古い図解カタログたちは教えてくれる。
日本醫科器械目錄 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 活版刷り図版研レトロ図版博物館
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あぶない(!?)ヴィデオカメラ@昭和初期の一般向け科学雑誌
昭和初めの娯楽科学雑誌巻頭グラヴィアに出てくる、ドイツ人放射線医と技術者とがタッグを組んで考案なさったという小型連続撮影用カメラ。 といっても普通の映画を撮るためのものではない。なんと、エックス線撮像を連続して写すことができる、という「レントゲン活動写真機」なのだ。 写される側の患者や付き添っておられるドクトルは、当時のエックス線撮影のときにフツーにつかわれていた装備(表面はゴム製で内部に鉛の板が仕込んであるもの)のようだが、肝腎のカメラを構えておいでの技術者氏はどうも何も放射線を防護するようなものを身につけておられないように見える。放射線はレンズが向いている方にしか飛ばないからだいじょーぶ☆ ということなのだろうか……。 この時代のライヒスマルクはハイパーインフレのあおりをもろに受けていたのではないかとおもうのだが、果たしてこの「一マルク」はどれくらいの価値だったのか……ともかく、それまで局部を1枚撮るだけで十数マルクかかったものが、この新案装置を使えばたったの1マルク! しかも操作も簡便! とくれば医療界がこぞって飛びつきそうな画期的発明だ。 しかし、実際そういうブレイクスルーがあった、というお話は聞いたことがないから、ウィーンで開催された放射線医療学会で紹介されたこの器械は、恐らく何らかの致命的な問題があって、歓呼をもって迎えられることなく消えてしまったのだろうとおもわれる。 いや〜、どう考えても危ないでしょ、これ。撮影者の命がいくつあっても足りなさそう。 オマケの7枚目はご参考までに、同じ号に載っている小型撮影機の広告。こういう器械が、当時の庶民はともかく富裕層には「手の届く実用品」になっていた。
科學知識 第九卷第七號 昭和04年(1929年) グラビア刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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かわいいイラストの近現代史年表@昭和初期の少年ヴィジュアル百科事典
国家総動員法が制定され、いよいよきな臭くなってきた昭和13年に刊行された、少年向けヴィジュアル百科事典に載っている「現代の繪話」というタイトルの、明治初頭から昭和初期にかけてのカラーイラスト年表。 子どもたちの興味を惹くためだろう、かなりトリビアルなネタも取り交ぜてあって、かわいらしい彩色の絵も親しみやすく、面白い仕上がりになっている……が、しかしこうしてみると、ひと昔ふた昔前の日本は結構物騒な世界だったんだな、と改めて感じさせられる。 この本全体が、装幀デザインからして「たのしく国威発揚・戦意昂揚」を目指した編集方針なのがみてとれる、ある意味「わかりやすい」方向性の百科事典なのだが、図版が(巻末の政治家や軍人などのおエラ方顔写真は別として)全般的にかわいい感じで、なかなか魅力的。 それにしても、この絵を眺めて眼をきらつかせていた少年少女たちが、その数年後にどのような人生を歩んでいたのかは知る由もない。ただ、少なくともこの当時に思い描いていた将来とは、かなり違ったものであったろうことは、想像に難くない。 文化によって得られたものは千年、二千年経って、その価値をいよいよ増して残り得る。しかし戦争によって得られたもののうち、千年経ってなお残っているものは、「破壊の傷痕」と「消しがたい遺恨」がほとんどだろう。 それでも為政者が敢えて戦争に踏み出す選択肢を決して棄てようとしないのは、短期的には自身の立場や権益をまもったりつよめたりするのにおおいに役立つことを知っているからだろう。殊に、自国内や自身のまわりに、国民の視線を一刻も早く逸らさせたいような問題を抱えている塲合には。
少年百科寶鑑 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版刷り図版研レトロ図版博物館
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高山大河に囲まれた東西両半球の世界地図@明治中期の地理教科書
「ドイツ式」に倣ったことを謳う、明治二十年代の地理教科書の彩色世界地図。それまでに出ていた地理書があまりにもつまらないので、もうちちょっと何とかしたい、と考えて新機軸を打ち出したことが、この本の序文に綴られているのだが、巻頭近くにあるこの折り込み地図も「ドイツ式」なのかどうかは不明。 十九世紀の教科書に載っている世界地図は、だいたい例外なく宇宙空間から地球を眺めたような正射図法による、東西両半球が描かれていた。 それは、教える対象となる若者たちが、「地球は円い」というのが決して常識ではなかった世代を親に持っていた、ということもあろうし、これから未知なる広い世界に目を向けるにあたって、我が版図の大きさや海外諸国との位置関係などを把握させることが取り敢えず第一の課題だったから、実際に外洋航海をするに欠かせない海図に使われるメルカトル式正角円筒図法へはなかなか切り換えられなかったのだろうとおもう。 四角い紙に両半球図を描くとなると、どうしても周りには結構な余白が生じることになる。そのまま何もなし、という地図も少なくはないが、この地図のように世界の著名高山の高さ較べ、大河の長さ較べを図解して興味を惹こうと工夫された例もときどき見かける。実際、資料としてもデザインとしても、今日でも魅力ある図版ではないだろうか。色遣いや標題文字の排列など、全体としてなんとなく「たのしさ」や「かわいらしさ」が感じられるような気がする。 東半球の右端のところに「大日本帝國」、そしてその左手には「支那帝國」と書かれている。単に「日本」と国号が書かれているものが多いが、このように「帝國」までくっつけてある例はあまり憶えがない。このころになると、南極大陸はかなりそれらしく描かれるようになる。もう少し古い本になると、海岸線の極く一部だけ描いてあったりする(さらにその前は、何も描かれていなかったりする)。
萬國地理指要 明治26年(1893年) 明治26年(1893年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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ガラス製レトルトの肖像@明治初期の薬学系無機化学入門書
今日「レトルト」というと、銀色のプラ袋に密封されたカレーとかが条件反射的に思い浮かんじゃう人の方が多いのでは、とおもうのだが、本当はそれは「レトルト食品」の略であって、そうしたプラスティック容器に密封された食品を加圧加熱殺菌するための釜の方が「レトルト」そのものなのだ。 複層のプラ袋に入った常温保存可能な食品製品は、我が国では昭和43年(1968年)に発売された大塚食品の看板商品「ボンカレー」が最初とされるが、同製品特設サイトの記事によれば、これはアメリカの包装資材専門誌に載っていた軍携行食ソーセージ用パッケージの記事にヒントを得て、釜や袋の設計から独自開発された世界初の市販レトルトパウチ入り食品だったという。 https://boncurry.jp/column/brand/667/ なお、現在のレトルト食品がどのようにして作られているかについては、北海道大学水産科学研究院で公開しておられる動画がすっごく懇切丁寧な解説でわかりやすいので、ご興味がおありの方は是非ドウゾ。 https://repun-app.fish.hokudai.ac.jp/course/view.php?id=976 最後に1本だけ載っている「裏側」に出てくる缶入りーヒーの「デザイン缶」のお話など、「へぇ〜、そうだったのか〜」とおもわず感心してしまう。 ところで「レトルトパウチ」という名は英語の 'retort pouch' からきているのだろうが、フツーに考えれば「リトートパウチ」と音写されそうなものだ。それが「レトルト」となっているのは、実は幕制時代の蘭学ですでにこの語が、同じ綴りのオランダ語として入ってきていたのを引き摺っているかららしい。 https://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/essay/7719/ ただしここ☝にも書かれているとおり、この「レトルト」は加圧殺菌釜ではなく、蒸留器を指していることばだった。 https://books.google.co.jp/books?id=gbBZAAAAcAAJ&pg=PP10&lpg=PP10 宇田川榕庵の『舎密開宗』をみてみると、たしかに「列篤爾多〈レトルト〉」というのがぞろぞろ出てくる。なお、ここに出てくる「蒸餾」というのは、「蒸留」の古い書き方。 「長い曲がった首のついた『蒸留器』」といえば、ウィスキーなどの製造工場にならぶ巨大な銅製のポットスティルを思い浮かべられる向きもあるかもしれない。 https://tanoshiiosake.jp/6163 お酒の単式蒸留は、原理としては全く同じだから、それは当を得た連想、ということになる。 https://www.suntory.co.jp/whisky/museum/know/jouryu/houhou1.html ただ、「レトルト」は元々ガラスでできた、もっと小さな容器だった。 ……と、まぁここまではググれば誰でもわかることだけれども、じゃあそのガラスの「レトルト」をどうやって使っていたのか、というのは何に載っているのかわからないと、なかなか見つけられないのではないかしらん。 西洋の古いものは、錬金術や化学史などの図版などにはときどき出てくるから、まだ目にする機会もあろう。 https://etherealmatters.org/media/7 だが、もっと時代が下って日本に持ち込まれた後のものとなると、却ってむずかしいかもしれない。 ということで前振りが長くなったが、今回は明治10年代に描かれた化学実験装置として登場する、細密な木口木版画による「レトルト」たちの姿をいくつかご紹介しよう。 1枚目は「尋常燐酸」(H3PO4)をつくる装置。硝酸(HNO3)を入れた「有喙レトルト」に赤燐(P)を加えて、沸騰させないように注意しながら加熱し、水で冷している右手の「受器」に蒸発したものを液体に戻しつつあつめているところ。 炉の熱源は炭火で、本文には特に解説されてはいないがレトルトのおしりに均等に熱が加わるよう、熱伝導率の高い耐火材のお皿が組み込まれているマッフル炉(間接炎式炉)とおもわれる。空中からいきなり生えているような蛇口が、なんともシュルレアリスティクな感じ。 2枚目は少量の臭素(Br2)をつくる装置。「臭化那篤𠌃謨」(臭化ナトリウム NaBr)と褐石(軟マンガン鉱のこと、つまり二酸化マンガン MnO2 https://www.flickr.com/photos/lab_for_retro_illust_japan/34197978436/in/album-72157681160012770/ )とを入れたレトルトに硫酸(H2SO4)を注ぎ込んで「重湯煎」で熱し、水冷している「受器」にあつめている。少し後ろに出てくる、「沃度化加𠌃謨」(ヨウ化カリウム KI)と「過酸化滿俺」(過酸化マンガン MnO2)との「混和物」へ硫酸を加えて同じく湯煎することで少量の「沃度」(ヨウ素 I)をつくる装置としても、全く同じ図版が添えてある。 ☟の終いのところに「参考」として載せてある「臭素・ヨウ素の作り方」で図解されている、下方置換捕集の古いやり方とおもって間違いないだろう。 https://www.hyogo-c.ed.jp/~rikagaku/jjmanual/jikken/kaga/kaga40.htm 3枚目は「純粹ノ臭素化水素」(臭化水素 HBr)をつくる装置。有栓レトルトの蓋をはずして先に「臭化加𠌃謨液」(臭化カリウム KBr 水溶液のことだとおもう)で溶いた臭素を入れた球のついたガラス管をぴったりと挿し込み、レトルトの中には赤燐と水を入れてブンゼンバーナーで熱し、それからガラス管を廻して球の中身をレトルト内に落とすと「臭化燐」(三臭化リン PBr3)ができ、それが水で分解して臭化水素ガスが発生する。それを右手の「水銀槽」で水銀上置換捕集する、というやり方のようだ。 ちなみにこういう瓢箪形の水銀槽は、古い化学書ではときどき目にする。本書のもっと前の方の説明では、大理石・鋳鉄・陶器・木などで作るが、そのうち陶製のものは、かならずこのような形をしている、とある。 それから、真ん中のレトルト保持台の右手、ガラス管に熔接されている「安全管」、つまり安全漏斗管は、ガスの出が落ちてきたときに水銀が逆流してきても、うっかりレトルトに流れ込んでしまわないように取りつけてあるのだそうだ。 4枚目の図版のうち右側は「硫黄華」(硫黄泉の噴出口のところにくっついているような、硫黄蒸気の固化した黄色い粉末)を少量つくる装置。「腹部ニ副口ヲ有スル廣大ノ玻璃球」、つまり胴にもうひとつ口のついている大きな長頚丸底フラスコにごく小さなレトルトを挿し込み、レトルトの半分くらいまで硫黄(S)を入れてアルコールランプかブンゼンバーナーで焙って沸騰させてやると、レトルトのくちばしから噴き出た硫黄蒸気がガラス壁の内側に降れて急冷され、コナコナになって薄くくっつく、というもの。これは当時の硫黄製造プラントの仕組みを模したものだそうだ。 そして左側のは、いわゆるゴム状硫黄をつくっているところ。 これを試験管の手焙りでやると、結構手間がかかる☟ww https://www.youtube.com/watch?v=EepfrZACNAw レトルトだったら、振り回さなくても自動的にできるのかしらん……それだと楽ちんだけれど☆ 5枚目は「次硝酸」(次亜硝酸 H2N2O2)をどっさり作る装置。硬質ガラス製レトルトの3分の1量のよく乾いた「硝酸鉛」(硝酸鉛(II) Pb(NO3)2)の粉を入れ、くちばしの先に「U字管」(U字状に曲げた試験管)を取りつけたガラス管をぴったり挿し込み、そのU字管は「起寒混和物」(要するに寒剤)を盛ったビーカーに突っ込む。その寒剤とは、食塩または「鹽化加爾叟謨」(塩化カルシウム CaCl₂)と雪を混ぜるか、または「硫酸那篤𠌃謨」(硫酸ナトリウム Na₂SO₄)に稀硫酸(H₂SO₄)を注いでつくる、と説明されている。 そうしてレトルトの中の塩を熱灼していくと、「其將ニ紅熾セントスルニ至レハ鹽ハ分解シテ酸化鉛、酸素及ビ次硝酸トナリ……」。 ちょっとまて。「次硝酸」って、いったい何? 硝酸鉛(II)があかく熾る摂氏470度超まで熱したら、分解して酸化鉛(Ⅱ)や酸素(O2)といっしょに出てくるのは二酸化窒素(4NO2)じゃないのか!? https://www.you-iggy.com/chemical-substances/lead-ii-nitrate/#chemical-reactions ……とおもったら、この本の別のところにちゃんと立項されていた。「次硝酸 一名重酸化窒素 化學式NO2……」 https://www.flickr.com/photos/lab_for_retro_illust_japan/51670484034/in/datetaken-public/ ということで、なんと当時はこう呼ばれていたらしい、ということが判明。 https://www.flickr.com/photos/lab_for_retro_illust_japan/51669796546/in/datetaken-public/ 次のページには、「次硝酸」が硫酸製造所で多量に使われる、とある。これは今日ではおこなわれなくなった「鉛室法」という造り方を指しているようだ。 https://www.ipros.jp/technote/basic-chemical-industy2/ 6枚目の、四本脚の台が存在感を示しているヤツは、赤燐をちょこっとつくる装置。三脚架に載っているのは「油浴」、つまり植物油を温めて間接的に加熱する器械だが、本文にも割注で説明されているとおり、鍋そのものだそうだ。 レトルトの位置を高くしてあることについては、くちばしの方に挿したL字に曲げたガラス管の垂直部が「撿壓器ノ長サヲ有セサルヘカラス」、つまり圧力計の長さ以上にしておかねばならない、と説明してあるのだが、「即チ七百六十ミリメートル」と添えてあることからして、要するにこれは水銀柱ミリメートルのことをいっているようだ。なおその先が挿し込んであるのは、水銀を盛ったガラスの筒。反応が進んでレトルト内が減圧しても、逆流した水銀を吸い込んでしまわないようにしている、ということなのだろう。 有栓レトルトの口には「撿溫器」、つまり温度計を挿した栓が嵌めてある。レトルトの中には乾燥した燐(白リンか黄リンだろう)を入れ、炭酸ガスを吹き込んで大気を追い出しておいてから徐々に温め、226℃に至るとその一部が「無形燐ニ化シ洋紅色ヲ呈ス」とある。 ここ☟に書いてある製法と同じことなのだろうとおもう。 https://www.you-iggy.com/chemical-substances/phosphorus/red-phosphorus/#preparation 7枚目は「無水亞硫酸瓦斯」、つまり二酸化硫黄(SO2)を液化する装置。「イ」は洗気瓶、「ロ」は「硫化加𠌃謨」(硫化カリウム K2S)を入れた脱硫管、「ニ」は「鹽化加爾叟謨」(塩化カルシウム CaCl2)を詰めた除湿管、そして「ハ」は「食鹽」(塩化ナトリウム NaCl)の寒剤を入れてその中にY字形に分岐させたU字ガラス管「ヘ」を挿し込んである、「玻璃鐘」と呼ばれる漏斗に似たガラス容器。 レトルトの中には硫酸(H2SO4)が入っていて、これを熱してから挿してあるガラス球から水銀(Hg)を落とすと、☟にあるように硫酸水銀(II)(HgSO4)と水とともに二酸化硫黄の気体、つまり亜硫酸ガスが発生する。 https://www.you-iggy.com/chemical-substances/mercury-ii-sulfate/#preparation これが装置を通って「玻璃鐘」で冷されると液化し、「チ」の試験管内に溜まる、という仕組み。液体に凝結せず「ホ」の誘導管へ抜けたガスは「石灰乳」、つまり消石灰の懸濁液に送り込んで無害化しているそうだ。 なお、ガスバーナーで焙られるレトルトの載っているスタンドが「レトルト台」で、この名前は今でも使われるが、ここに描かれているのが本来の姿といえそうだ。 さてようやく8枚目、これは「三鹽化燐」つまり三塩化リン(PCl3)をつくる装置。 「イ」のバーナーにかけた「玻璃球」、円底フラスコから塩素が発生する、とあるので、おそらく塩酸が入っているものとおもわれる。洗気瓶として使われている「ロ」は、本書のほかのところで「三頸瓶」と呼ばれているが、これはウォルフびんという、かつては化学実験でよく使われた厚手のガラス容器。二口のと三口のとがある。 https://www.chemistryworld.com/opinion/woulfes-bottle/2500114.article 「ハ」はガス除湿のための塩化カルシウム管、「ニ」は中に砂を少々敷いた上にリンのかたまり二、三片を置いて加熱しているレトルト、「ヘ」は「ホ」の「受器」を冷すための水槽。なお、三塩化リンができたところでさっさと火をとめないと「五鹽化燐」(五塩化リン Cl₅P)になってしまう、と注意書きが添えてある。逆にいえば、この装置で五塩化リンをつくることもできるわけ、だそうだ。 いや〜、「何のためにどうやって使う道具をあらわしている図版なのか」をちゃんと説明しようとすると、けっこう骨が折れるものだww なおこの図版は、序文「第一版凡例」冒頭に「此書ハアドロフピン子ル氏グローブベゾ子ツ氏著ス所ノ新式化學書」を纂訳した、とあるうちの一冊、すなわちオーストリア生まれの化学者オイゲン・フランツ・フライヘア・フォン・ゴルプ=ベザネツ(Eugen Franz Freiherr von Gorup-Besanez) https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/7035607/ の化学教科書(Lehrbuch der Chemie)第一巻 https://www.google.co.jp/books/edition/Lehrbuch_der_anorganischen_Chemie/HD14avBvFbcC?hl=ja&gbpv=1&pg=PA151&printsec=frontcover のものを、細密な木口木版を得意とした彫工、蒼虬堂松崎留吉に写させたもののようだ。
無機化學前篇 非金屬部 明治17年(1884年) 明治11年(1878年) 活版+木口木版図版研レトロ図版博物館
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100年ばかり前のカボチャ品種@大正前期の種子絵袋見本帖
ハロウィンに冬至、と、この季節はカボチャがしばしば話題にのぼるころ合い。 ということで、だいぶ傷んでいるのでここ何日か分解修繕に取り組んでいる種子袋見本帖のうち春蒔き野菜のものの中から、カボチャのところをいくつか拾ってご覧に入れるとしよう。 刊記は何もないので断言はできないが、 ----- ☆マルに「S」の印がついていること ☆明治末に滅んだ「淸國」を冠した品種名のものが複数含まれていること ☆発芽率データが載っていないこと ----- からして、大正前期から種子の国内販売を始められている老舗種苗会社「サカタのタネ」の前身企業「坂田農園」のものではないかと推定している。 (2023年8月23日追記:中田カボチャ氏にコメント欄にてご教示いただいたところでは、マル「S」は「昇文堂絵袋」を指す由。) 2013年の創立100周年を記念して開設されたという同社特設サイトの「サカタのタネ歴史物語」 ----- サカタのタネ歴史物語|サカタのタネ 100周年記念特設サイト PASSION in Seed 100 years https://www.sakata100th.jp/story/01/ ----- によれば、「坂田農園」として創業して4年目の大正5年(1916年)に種子の販売を開始、大正10年(1921年)ごろに国内民間企業としては初の発芽試験室を設けてからは種子袋に「発芽率○○%」と書かれるようになった、ということだから、この見本帖に綴じ込まれている絵袋はその間のもの、ということになる。 袋に仕立てた際に裏側になる右手の解説文が文語体、という古風さからしても、大正期の初めごろのもの、という推測は腑に落ちるとおもう。 今日、お店などでは見かけないようなものもあるが、品種改良は絶え間なく続けられているから、とうの昔に消えてしまったものも数多くあるにちがいない。ここに掲げたうちには、家畜飼料用のものも含まれている。「ポンキン」というのはもちろん、英語の 'PUMPKIN' が訛った呼び名だろう。 栽培品種の多くは、普通の植物図鑑にはほとんど載っていない。しかし、戦前の園芸商品カタログは表紙以外モノクロ印刷なのが常で、大半はどのような色味だったのかはわからない。そういう点で、美麗な石版多色刷り図版の古い種子絵袋見本帖は、その当時の「園芸品種図鑑」の趣きがある。
最新版石版刷繪袋春季用見本帳 (多分)大正前期 石版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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間違い探し!? の名古屋港@大正後期〜昭和初期ごろの名古屋名所風景絵葉書
最近ヨーロッパの某紙モノ屋さんから調達した、多分1920年代ごろの風景絵葉書2枚。当時の名古屋港の景色だが、ぱっと見まるっきり同じように見えるけれども、よぉく視てみると細かいところが色々と違うのに気づく。それをつぶさに眺めてみたくて、ついつい両方とも手を出してしまった次第。 どちらも絵葉書セットの標題は「名古屋名所」。 右下に「A」と打ってあるセピア色の方は「中京海運の大玄関、名古屋港 THE PORT OF NAGOYA THE CENTRE OF THE SEA TRADE, NAGOYA」、モノクロームの方は「巨船織るが如き名古屋港 THE PORT OF NAGOYA, WHERE ALL THE LARGE SHIPS ARE GOING TO AND FRO, NAGOYA」と説明書きがある。 表書き側をみると、版元は別々のようだが、どちらも日本製であることがわかる。通信欄がおよそ半分になっているので大正7年(1918年)よりも後、「郵便はがき」ではなく「郵便はかき」となっていることから昭和8年(1933年)よりも前だろう、と推定できる。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000290979 (とはいえ、この通説の典拠をちゃんと調べたことはないので、イマイチ心許ない……。)旧蔵者か紙モノ屋の方か、「1924」と鉛筆で書き込んでおられるが、その根拠は不明。 それはさておき、あまりにも似た構図なので一瞬「……Photoshopか?」と思ってしまったほどだが(そんなワケはない)、実際わざわざネガ修正を施したりしたのではなくて、両方とも同じ日の、さほど違いのない時刻にほぼ同じ位置から撮られた二枚とおもわれる。つまり、撮影者は同一人物に違いない。 大きな船はどれも碇泊中らしく位置が同じだが、片方は煙を吐いたりしている。艀らしき小舟数艘は走り回っているようだ。「A」の方は下船客らしき一団がぞろぞろとこちらへ向かって歩いていて、柵のこちら側にも二人連れが二組いるのがみえる(手前の一組は三人連れかも)。桟橋の奥側に三人の人影があるが、もう一枚の方の桟橋にいる三人と同じ人物かどうかはわからない。人が少ない方は、手前に荷台つきの三輪車のような車が二台停まっている。たなびく煙や旗の様子からして海風が吹いているようだが、煙のない写真の方がやや波だっているか。セピア色の方が陽射しがあるらしく、倉庫の壁に映っている影がはっきりしている。 ……などと、細かくみていくとキリがないのだが、いったいいくつ「間違い」があるのか、ご用とお急ぎのない方は探求してみていただきたいww
名古屋名所 大正後期〜昭和初期ごろ 網版+活版刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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三省堂の理科教材ショウルーム@明治末期の理化学器械カタログ
今年の4月に創業140周年を迎えられた老舗の三省堂書店は、最初に古本屋として出発した後に新刊書店に転換して事業を拡大、次いで乗り出した出版印刷業部門が大正期に三省堂として独立したことがよく知られているが、明治40年代に理化学器械や標本などの教材を拵えて売り出しておられたというのは、それに較べたらかなりマイナー、というか寧ろマニアックな部類の話だろう。 このお店、「三省堂器械標本部」については、その後継企業を自負される教育理科機器製造販売会社「ナリカ」が創立百周年を迎えられた、平成30年(2018年)に就任なさった現社長氏が、そのご著書『ナリカ製品とともに読み解く理科室の100年』 https://www.scibox.jp/index.php?dispatch=products.view&product_id=7770 などで熱く語っておられるほかは、東日本大地震の際に津波による難を受けながらも救い出されたことが話題になった1台を含め、公式には僅か3台しか現存が確認されていない所謂「海保オルガン」 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tsunami/data/Sect02_13.pdf の表向きの製造元として取り沙汰されるくらいではないだろうか。 同店は明治38年(1905年)11月に三省堂書店本店の並び、神田區裏神保町七、八番地(今日では冨山房buildが神田すずらん通りに面する、ツルハドラッグ神田神保町店や地下のサロンド冨山房FOLIOが店開きしているところ)にできたとされる。1枚目に掲げた外観写真をみると、七番地の方は三面のショウウィンドウを持つ重厚な土蔵造りの、典型的な明治期商店建築で、手前の八番地の方はそれよりもっと簡素な造りの木造二階屋だ。 ここには実験室や、製品ショウルームとしての器械陳列室・標本陳列室が置かれていたことが2〜4枚目の画像から知れるが、どの部屋が建物のどこにあったのかは平面図などがないためわからない。とはいえ、「實驗室2」写真に写っている実験台の上の背の高い器械が、「器械陳列室1」写真の奥の部屋にあるものと同じように見えるし、窓の木枠のデザインも同じようだ。これはどちらかの建物の二階部分で、窓のあるのが通りに面している側だろう。そして「標本陳列室1」写真のライオンの剥製の後ろに写っている硝子戸は、手前側建物の入口のそれに似ている。 5枚目の巻頭序には、如何にも明治人らしい大言壮語が綴られているが、それが伊逹じゃないことを証明するためか、明治43年(1910年)にロンドンで開催された「日英博覽會」に製品を出品して「金賞牌(GOLD MEDAL)」を受けた、と誇らしげに掲げている。6枚目はそのメダルと賞状、そして7枚目は国内の博覧会や共進会で得たメダルとあわせて、「日英博覽會」の際に大英博物館長から授与された感謝状まで載せてある。ただ、どのような製品で賞を得たのか、という肝腎なところがすっぽ抜けている。ありゃま。 6枚目の賞状を拡大してよぉくみてみると一部読み取れないものの、 'Chuichi Kamei' という堂主の名、そして 'for Specimen of Stuffed Animals' と書いてあるらしいのが何とかわかる。少なくともこの金賞は、(4枚目画像のライオンのよーな)動物剥製標本に対して与えられたもののようだ。ほかにどのようなものが出品され、彼の地でどう評価されたのかはわからないが、部門発足から僅か5年で先進国の博覧会に出品し好評を得た、というのは「弊堂創業以來歳月長カラズト雖モ長足ノ進歩ヲナシ」と序文にいうのがまんざら誇張でもなかったことを示しているとおもう。 このように順調な発展をみせ勢いづいておられた「三省堂器械標本部」は、しかし短命に終わってしまわれたらしい。ナリカの中村社長が書いておられるところによると、大正2年(1913年)に起こった神田大火により焼けてしまい、その後三省堂は百科辞典刊行に傾注する方針になったこともあって、結局再建されなかったという。ナリカ社長氏のご祖父は明治41年(1908年)からここで勤めておられたが、器械標本部解散のとき「器械部」を譲り受け、それを基に大正7年(1918年)現在社屋のある場所、当時の神田區龜住町四番地にナリカの前身「中村理化器械店」を興されたそうだ。 https://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2019/06/201906_04-09.pdf ところで三省堂のその百科辞典というのは、明治41年(1908年)から刊行が始まっていた我が国最初の本格的なエンサイクロペディアである『日本百科大辭典』を指す。当初は6巻+索引巻の計7巻組で企画されたが、二百数十名の各分野専門家を動員した執筆陣、豪華な装幀造本、あくまで妥協しない編集方針、そしてあまりにも編集作業に時間を喰って途中で改訂作業にも手を着けざるを得なくなり、10巻組に膨らむことになったはいいが、結局版元の三省堂の方がもたず、大正元年(1912年)10月に経営破綻してしまわれたという。 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ayumi17 しかし第6巻で打ち切りとは如何にも惜しい、という声が引きも切らず、善意が寄せられ出資が集まって、大正2年(1913年)5月には「日本百科大辭典完成會」なる組織が立ち上がり、そして同8年(1919年)4月にめでたく全巻刊行の運びになった、と辞書研究家・境田氏がまとめておられる。なお同4年(1915年)には、出版印刷部門が「三省堂」として独立され、今日まで続いている。 件の神田大火は、このように社運を賭した一大事業が、三省堂の経営を追いつめる事態になりつつあった年の2月20日に起こったのだった。 https://jaa2100.org/entry/detail/036609.html 三省堂書店神保町本店に拠点を据える「本の街・神保町を元気にする会」が出しておられる、『神保町が好きだ!』誌第13号のp. 10「明治・大正2度の大火に見舞われた、その後の復活劇!」に、この火災の経緯が出てくる。 https://www.books-sanseido.co.jp/jimbocho/pdf/jinbocho_sukida_13.pdf また、この時校舎と、そしてそれに隣接する校長私邸が罹災した順天中學(北区王子本町にある順天学園順天中学校・高等学校の前身)校史にも「神田の大火災」として載っている。 https://www.junten.ed.jp/kousi/160nen-68.htm これらによると、20日の午前1時過ぎに今のJR中央線水道橋駅南側、東京歯科大水道橋病院の西側(裏手)の辺りにあった救世軍大學殖民部の建物から出火、折りからの烈しい北風に煽られて、今の白山通り両側の街並みを捲き込みながらみるみる南側へ燃え拡がって、神保町交叉点辺りから東へ逸れてお堀端の錦町河岸まで焼き尽くしていったらしい。 『東京日日新聞號外』の方は、拡大図が格納されていたサーヴァが今はお亡くなりらしくてすこぶる読みづらいが、「燒失の町 三崎町、猿樂町、■(仲?)猿樂町、裏神保町、表神保町、錦町」「燒失戸数 三千百九十戸」「發火!! 三崎町二丁目救世軍大學殖民部より」「猿樂町を燒き盡す」「神保町に燃出づ」「烈々たる二手の火勢」「錦町河岸へ燃え拔く」「午前八時消止む」などと書いてあるのがかろうじてわかる。 『東京朝日新聞』の方も荒れていてキビシいが、PDFを拡大し眼を凝らしてみると「二手の火勢」について「一方は三崎町一丁目二丁目を水道橋方面に■■し一方は仲猿樂町を南に走り■■■線路を飛越え裏神保町へ移り■■幅數町に亘る火の海となつて只押しに神保町方面へ■■■て學校商店其他大建築を■紙の如く無造作に燒し盡し裏、表神保町を攻めて一は東明館勸工場附近を■し其裏手より小川町方面へ出でんとし他の火先は神保町の中心を貫きて錦町二丁目へ突進しつゝ一ツ橋通りに其■■を揮はんとす……午前三時半頃には、北は三崎町より西は西小川町の■場、東は猿樂町二丁目、南は錦町二三丁目に至るまで南北十數町の■■の一大焦熱地獄と化したる光景、……」などと書かれているようにみえる。 さて、そこで8枚目の「三省堂營業所及所屬工場」を眺めてみると、全滅した裏神保町にあった「器械標本部」は惜しくも2棟とも罹災したのは間違いないだろうし、火元に近い三崎町三丁目の「商品貯藏場」も助からなかったかもしれない。 しかし美土代町三丁目の「理化器械工場」は、焼けた錦町二、三丁目の東隣の延焼しなかった錦町一丁目と、その向こうの電車通り(今の本郷通り)を挟んだ更に東に位置していることから考えると、ここは焼けなかったのではないかしらん……とおもえてくる。 ともかく、本店に加えてショウルームを兼ねた店舗と、製品もろともにストックヤードとが同時に失われたとすれば、このときの経営状態からして「器械標本部」再建は断念なさらざるを得なかっただろう、と腑に落ちる。反対に、工場はどれも被災を免れたのであれば、解雇せざるを得なくなった有能な従業員たちに設備を譲ることで先行きの補償に充てた、とみることもできよう。「中村理化器械店」が5年後に立ち上げられたのも、三省堂の製造設備が無傷だったお蔭かもしれない。 最後に余談だが、「三省堂器械標本部」扱いの「海保オルガン」について触れられた、日本リードオルガン協会長・赤井励氏の『オルガンの文化史』には「海保と思われる楽器工場の住所は、小石川西江戸川町二十二。」とある。 https://books.google.co.jp/books?id=HG9xDgAAQBAJ&pg=PA97 その隣に当たる同町二十一番地に「生理模型工場」が設けられたからこそ、海保のオルガン工場は三省堂扱いで製品を世に送ることになる縁が生まれたに違いない。最初に提携を持ちかけたのがどちらかのかはわからないにしても。
理化樂器械及藥品 天文地文氣象學器械 數學製圖及測量器械 顯微鏡及寫眞機目録 明治45年(1912年) 明治42年(1909年)? 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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日本でも売られていたヴィクトリア朝のマスク@明治初期の医療用品カタログ
前回取り上げたカタログ https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/162 を出した自動車用品店の創業時期もそうだが、ある事業や商品が「いつが最初だったのか」がはっきりしていることはあんまりない。先行きどうなるかわかったものではないときに、そんなことをいちいち記録しておこうという考えが浮かぶ余地はないのかもしれないし、当事者は当たり前のようにわかっていたとしても、彼らがいなくなってしまえばたちまちわからなくなってしまうのは仕方のないことだろう。 今や誰もが日々お世話になっている医療用マスクにしても、大正期のいわゆる「スペイン風邪」流行の際に一般に広まったことはしられているものの、日本で最初に使われ出したのがいつなのかは精確にはわかっていない。宮武外骨が大正14年に出した自著『文明開化』二 廣告篇の中で、日本橋區本町の薬種商・いわしや松本市左衛門が自家製マスクの売り出しをしている広告を紹介している https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182351/42 のはよくしられているけれども、「遅くともこの頃には、我が国でも作られるようになっていた」ということがわかるばかりだ。 なお同書では、外骨は新聞広告についてはちゃんとその出典を明記しているので、括弧書きで「(明治十二年二月)」としか書き込んでいないからには、この広告は恐らく引き札のたぐいなのだろう。松本一族のいわしやは大正期あたりまで、屋号の「わ」を変体仮名で書き表すのが常だから、文の文字組みはオリジナルではなく、この本のために新たに組み直していることがわかる。 と、前置きがちょっと長くなってしまったが、今回はそのいわしやが明治11年に刊行した医療用品のカタログに載っているマスクをみてみよう。 図解してあるのは表側が真っ黒で、口だけを覆うものと、それから鼻と口とを覆うものとの2種類。今日のものと同じく両耳にかけるものと、それから頚の後ろに紐を回して留めるものとがあったようだ。品名表の方をみると、「護息器 レスピラートル」と総称されている。 49番は「英式三層護息器」、50番は「ヱフライ氏の護息器」となっていて、このほかに「單純護息器」「英式四層護息器」「英式六層護息器」「鼻口護息器」というのもあったらしいことがわかる。カタカナで添えてあるのはドイツ語のようだが、綴りがちょっと思いつかないものもあって正確な意味がつかみづらい。素材や価格なども書かれていなくて不明。 それはともかく「英式」というからには、イギリス式のマスクがこの頃には輸入販売されていたということになる。では「ヱフライ氏」とはナニモノか? というところに興味が向くが、図版研で最有力候補と目されているのが、ヴィクトリア朝のロンドンで外科医をしていたジュリアス・ジェフリーズ Julius Jeffreysだ。 彼は自身の考案した慢性呼吸器疾患対策用の「レスピレータ」、つまりマスクの特許を取った初めての人物という。インペリアルカレッジ・ロンドンやオハイオ州立大の医学史研究者の方々のお話によると、ジェフリーズは東インド会社の武官や文官の診療にあたる医師としてインドのベンガルに赴任していたが、その後ロンドンに戻ってきた際に彼の妹(でなければ姉)の喘息の発作がひどくなったため、UKの寒冷で乾燥した空気がよくないと考えて、絹布と革、そして重ねた金属製の網を用いたマスクの開発に取り組んだという。彼女は結局1838年に結核で世を去ってしまうが、彼は呼吸器疾患に苦しむ人のために「身につける人工環境」を実現する道具として改良を重ね、1864年「呼吸環境改善装置climatic apparatus」として売り出して、大いに世の支持を得たらしい。 ただし、少なくとも当初は超高級品で、当時の値段で1コ7〜50シリング、今の日本円にしてざっと2600円あまり〜2万円近くもしたという。当然一般庶民には到底手が届くものではなかったし、使い捨てなどとても考えられないシロモノだった。それでも人気を博したのは、ルイ・パストゥールやロベルト・コッホによって感染症を惹き起こす病原菌が見出されるよりも前の時代、「悪い空気が病の元凶」という考えが支配的だったからだろう。 19世紀も後半になって、スコットランドの化学者ジョン・ステンハウス John Stenhouseがロンドンの下水から発生する有毒ガスの除去で効果を挙げている木炭に目をつけ、これを用いた新しいマスクを考案したそうだ。彼はジェフリーズと違って特許登録をせず、なるべく価格を抑えるように努め、一般への普及に貢献したらしい。 https://origins.osu.edu/connecting-history/covid-face-masks-N95-respirator https://newseu.cgtn.com/news/2020-05-17/The-Respirator-the-face-mask-used-by-the-Victorians-QuthYXeI8w/index.html http://wwwf.imperial.ac.uk/blog/imperial-medicine/2020/04/27/masks-and-health-from-the-19th-century-to-covid-19/ ということで、外骨紹介の広告に「或は金屬板を以てし或は金線を以てし或は木炭を以てする等各一樣ならず」とあるように、ジェフリーズやステンハウスその他の考案した色々な種類のUK製マスクが明治初めの日本にも入ってきていたことが、このカタログから窺えるというわけだ。 因みに、大幅に増補されて倍以上に分厚くなったこのカタログの明治17年訂正再版でも、マスクのヴァリエーションは図版ともども初版と全く同じで、なぜかいわしや自家製「呼吸器」は載せられていない。
醫療器械圖譜 明治11年(1878年) 明治11年(1878年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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輸入車用の幌@昭和初期の自動車用品カタログ
昭和10年代の自動車用品カタログに載っている、US製輸入車のための幌張り替え用ゴム引き生地。 画像3枚目は組み立て成型済みの既成幌。窓のところはセルロイドが嵌まっていたようだ。 貼り付けてある現物見本のうち、一番上の合成皮革のものが既製幌の1928〜31年式フォードと1927〜28年式シボレー、次の織物のものが1929〜30年式シボレー、その下のものが1932〜34年式フォードと1931〜34年式シボレー用、とある。 測り売り生地の方は、「ヤール(=ヤード)」単位売りなのに幅が尺貫法表示なのが可笑しい……「巾四尺六寸モノ」のように尻尾に「モノ」がついているのは、ヤードポンド法ベースの寸法を尺貫法に換算したおおよその幅寸、ということなのだろう。1930年代に輸入車を乗り回すような人々でも、メートル法より尺貫法の方が馴染みがあったのかしらん、とついついおもってしまう。 こういう風に現物見本がついていると、当時の車の屋根幌や横幌がどのような見た目や感触だったのかがよくわかる。殊に複層構造や裏面の色味・テクスチャなどは、こういう資料が残っていてこそ初めてしれるものだ。 画像5枚目と6枚目は幌を取りつけるための部品や補修用品。「シネリ式幌止メ」の「シネリ」は「捻り」のこととおもわれるが、商店主が江戸っ子入っているかww 画像7・8枚目、見本のうち下3枚は座席シート張り替え用の生地。ただし下から3番目の黒いものは横幌用兼用だそうだ。 このカタログを出していた森田商會は、東京市が昭和8年に出した『東京市商工名鑑』第五回によれば、経営者が森田鐵五郎といったらしい。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115189/546 所在地がカタログ表紙では芝區田村町一丁目、☝の商工名鑑では「芝、櫻田本郷」となっているが、銀座局内の電話番号がどちらも同じなので間違いないだろう。 この人物名で商工信用録などを国会図書館デジタルコレクションで追ってみると、大正11年の東京興信所『商工信用録』第四十六版に大正10年1月調査で「森田鉄五郎」「自動車附屬品」「京、新肴、一七」「1年前」というのがある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970692/355 また大正12年の第四十八版では大正11年3月調査調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、新幸、七」というのが出てくるが、こちらも「開業年月」のところは「1年前」となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970694/327 翌大正13年の第四十九版をみると、大正13年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「3年前」 となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970693/284 試しに昭和7年第六十五版をみてみると、昭和6年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「10年前」 とある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242111/312 ……ということは、創業は大正8〜9年ごろ京橋區新肴町にて、ということになるだろうか。毎年出ている同じ出版物でこうもバラついているとなると、開業がいつだったのか特定するのはなかなか難しそうだ。 なお、帝國商工會『帝国商工録』東京府版の昭和7年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024841/89 では所在が「芝區櫻田久保町二」、翌昭和8年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023922/97 では「芝區田村町一ノ三ノ六」で、こちらはカタログの表示と同じになっている。昭和7年12月1日に、帝都復興計画の一環で大幅な町域改正がおこなわれた際、櫻田本郷町は田村町一丁目、櫻田久保町は田村町二丁目に編入されたようだから、前者の「櫻田久保町二」は「櫻田本郷町二」の誤りではないかとおもわれるが、あるいは建物改修か何かで一時的に近所に越していたのだろうか。 ともあれ、今の都営三田線内幸町駅のあたりにあった、おそらくは家族経営の中小自動車用品販売店だったのだろう。
自動車用品型録 No. 15 昭和11年(1936年) 網版+活版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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東半球と西半球@明治中期の地理教科書
明治20年代前半に版を重ねていた分厚い地理教科書の巻頭に載っている、彩色世界全図。子午線と180°線とで地球をすぱっと割った「東半球」と「西半球」の2葉に分かれている。このような世界地図が載っている地理書はたいがいが明治20年代、早くて18〜19年、晩くて20世紀が明けた明治33年(1900年)のようにおもう。こうした本の書き出しは必ずといっていいほど、「惑星/遊星は太陽のまわりを回っているまるい天体で、われわれの住む地球はそのひとつ」であって、球体である証拠としての現象が3つばかり挙げられている。というのも、それまでの日本人の大半は17世紀に入ってきた天文書『天經或問』 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2009/shiryo/kaisetsu08.html そのままの天動説か、あるいはいわゆる「仏教天文学」、つまりこの世は天地ともに平らで、世界の中心には巨大な須弥山という山がそそり立ち、太陽や月などが昇ったり沈んだりしてみえるのは実は須弥山の向こう側に隠れてしまうからだ、という考え方を信じていたから、世界地理を説くにもその前に誤った世界観をまずはただす必要があったからなのだろう。当時も他の描き方の地図がなかったわけではないのに、判で押したようにこうした東西両半球として描かれた図版が載っているのも、地球がまるく、我が国がその上にへばりついている小さな島々であることを視覚的にわからせようとしたからではないかしらん。 海岸線の形は大ざっぱには現代人の認識とあまり変わらないが、細かくみていくとかなりいい加減な感じだ。台湾など、そこだけ取り出したらどこの島だかさっぱりわからない。南極大陸はまだ海岸線のごく一部しか描かれていない。それと、国境がひとつも描かれていないのも、今ではあんまりない種類の地図ではないかしらん。 地名は漢字が宛てられているところが多く、ややわかりづらいかもしれない。オーストラリアが「豪州」の「豪」ではなく「墺」で始まっていたり、オセアニアが「亞西亞尼亞」になっていたり、ニューギニア島の東のニューブリテン島が「新貌利顚」と書いてあったりする。また、ベンガル湾やハドソン湾が「ベンゴール曲海」「ハドソン曲海」、カニャークーマリー(コモリン岬)や喜望峰が「コモリン海角」「好望海角」となっているし、マゼラン海峡は「マゲラン海峽」だがモザンビーク海峡の方は「モザンビク海岔〈かいふん〉(<大正前期の代表的な漢和辞典・上田萬年ほか『大字典』(啓成社)をひいてみたら「大きなる海峽のこと」だそうだ)」になっていたり、と今日では使われない用語が出てくる。このへんは多分支那語の借用なのだろう。ウラル海を「裏海」と書くのは、明治期の出版物にはよくみられる。 西半球図をみて、あれ? 海の難所として有名な「サルガッソ海」がアメリカ大陸を挟んで2ヶ所もある……とおもったら、あらら「太平洋」と「大西洋」とが逆じゃないの。タイヘンなポカミスだが、その所為でサルガッソ海もサンドウィッチ諸島の北方にもうひとつ出現しちゃったのではないだろうかww 19世紀の地図は色味がかわいいとおもう。地名などの「現代の地図との違い」とともに、題字の飾り罫その他のデザインもたのしめるのが、古地図を眺めるひとつの魅力だろう。
訂正萬國地理 明治25年(1892年) 明治21年(1888年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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カフェーの図案・喫茶店の図案@昭和初期の商業図案集
画家にして装幀家、博覧強記の物書きでもあられる林哲夫氏が『喫茶店の時代』(ちくま文庫) https://sumus2013.exblog.jp/31179026/ でまとめておられるところによると、東京市内の喫茶店は欧州大戦後大正9年(1920年)からの恐慌にあおられてか11年(1922年)には32軒にまで減ったものの、翌12年(1923年)の関東大震災後にはほかの飲食店などは数を減らしているにもかかわらずひとり55軒まで回復、以降年々増えていき、そのピークとなる昭和13年(1938年)には3307軒をかぞえたという。今回はその当時の売れっ子グラフィックデザイナーが世に送り出した商店や企業の宣伝向けの図案プレート集(冊子体ではなく、一葉一葉厚手のカードに仕立てられたものが函や帙などに収められている型式)から、カフェや喫茶店、ついでにバーやビヤホールのところを拾い出してみよう。 序文で著者・内藤良治〈ないとうながはる〉は「本書の内容は諸君の便宜上、商業別に致しました、(中略)幸ひに諸君の御硏󠄀究の御參考になりましたら欣快の至りで御座います。」と書いているが、目次があるわけでも各葉にタイトルがついているわけでもないので、その辺は受け手側のよいように、という考えによる構成のようだ。この手の図案集はいってみれば「素材集」なのだから、なまじいはっきりカテゴライズしていない方が先入観にじゃまされなくてよいのかもしれない。 ところでご存知の方はご存知だろうが、戦前の「カフェー」は、今いうカフェとはちょっと趣向が違った。林氏が引用しておられるところによれば、「洋風の設備を有し直調理を客に供し、連続して客席にはべり、歓興するもの」と法的に規定されていた業種だそうで、要するに酒色を伴う風俗営業店の類いだったのだ。そういう視点で眺めてみれば、おのずとどれが「カフェー」向きでどれが「喫茶店」向きなのかはわかってこよう。もちろんどちらも、化粧をばっちりきめて着飾った女給たちが立ち働いてはいたのだが。 それはともかく、和製デコに傾いた図案化の手法や配色など、当時もてはやされたデザインの趣味的方向性が、たったこれだけ抜き出してみてもよくわかるようにおもう。こうした一種の洗練が、戦局が悪化し統制がすすむにつれて次第に荒れた感じに変わっていき、戦後復興期に一時(恐らく著者に断わりなく)改題覆刻されたりしたものの、やがて消えていってしまうのだった。こうした図案が人知れず埋もれたままになっているのは、なんとももったいない話だ。7枚目は惜しいことに青版が版ずれを起こしているが、これによって緑の部分は青版と黄版とのかけ合わせではなく緑版として別途刷られている、つまり3色のプロセス印刷ではなくて多色刷りであることがしれる。出版意図や目的からして、おそらく初版からこうしたヘマがあったとはおもえないのだが、これも大東亜戦時下に突入した後の版だからだろうか。
色彩商業圖案集 昭和16年(1941年) 昭和13年(1938年) 網版多色刷り図版研レトロ図版博物館
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婦女子に愛される猫@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
ペットといえば、今や我が国で最も飼われている頭数が多いのは永年トップだったイヌを追い落としたネコらしい。一般社団法人ペットフード協会が毎年おこなっている調査によると、イヌがじりじり減りつつあり、ネコは反対に少しづつふえてきていて、3年前についに逆転したそうだ。 https://petfood.or.jp/data/chart2019/3.pdf ということで、前回ウサギについて取り上げた昭和初期のペットの飼い方の本 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/158 の、ネコのところも眺めてみよう。 今や完全室内飼いが推奨されることもあって、キャットハウスとかトイレとかいろいろ関連グッズがあるが、かつてはせいぜい首に鈴をつけるくらいだったから、図版もウサギのときのように小屋だとかは出てこなくて、かわりに1枚目の道具を使った面白写真とか、2枚目の池の中に魚でもいるのか水面を前肢でちょいちょいやっているところとかが載っている。3枚目は章の冒頭部分だが、「猫は犬と共に家庭愛物の雙璧とも云ふべきもの」とあって、当時もイヌと人気を二分していたことがわかる。イタリアのファシスト党が食糧の無駄遣いとして市民に猫を飼うことを禁じた、という話は初めて識った。まったく、しょーもないヤツだムッソリーニ。 つづいて「猫の魅力」として、「元來ネコは鼠捕りと云ふ転職はありますが、それにしても犬などに較べると利用の範圍の極めて狹いものです。それにも拘はらず、かく愛育されるのは、身體が手頃の大さで可愛いらしく、一種の魅力があるからでありませう。そして主として婦女子の愛撫を受け、その方面に絶大の人氣をもつてゐます。」と解説されていることから、女性に好まれる傾向が強かったことがしれる。5枚目はその実例として、和装の若い女の方に抱きかかえられて落ち着いている黒猫が写真に収まっている。4枚目右の方は垂れ耳の長毛種らしき下の犬も、その背の上に乗っかっている仔猫も外国種らしく見える。1枚目の「猫の學校」「猫のカメラマン」ともども、おそらくは日本国内ではなく、海外で撮影された写真を輸入書から引っ張ってきたのではないかしらん。2枚目のは三毛柄らしいから、4枚目左同様日本猫だろう。 「猫の七不思議」として、高いところからたとえ背を下に落としても必ず前肢から平然と着地すること、遠くに棄ててきてもいつの間にか戻ってきて平然と日向ぼっこなどしていること、水に濡れることを非常に嫌うくせに水中の魚を巧みに獲ってしまうこと、天候の変化を敏感に感じとるので昔は船に乗せられていたこと、三毛柄の雄は航海安全のお守りとして珍重されていたこと、暗闇でも視覚が利き、また暗がりで毛並みを逆なでしてみると火花が散ること、仕込めばかなり芸当ができることが挙げられている。このうち船に乗せられた三毛猫については、欧州大戦中の大正7年(1918年)の実話として、「郵船平野丸」にいたものがイギリスの港に碇泊中、隣の「丹波丸」へいつの間にか乗り換えてしまい、翌日出港してから猫がいないことに乗組員が気付いたその日のうちにドイツ海軍の潜航艇からの魚雷を喰らって沈没してしまった、という「面白い話」が紹介されている。なお貨客船平野丸の撃沈から100年を記念して平成30年(2018年)、当時犠牲者を埋葬したウェールズ南部の土地に慰霊碑が建てられたそうだ。 https://www.nyk.com/news/2018/20181005_01.html 5・6枚目は「種類」のところに添えられている図版で、イヌはもちろんウサギにくらべてもだいぶ少ない。当時最も多く飼われていたのはもちろん短毛の在来種「日本猫」だが、「併〈しか〉し最近は大分〈だいぶ〉歐洲種、中にもペルシヤ種が愛養されるやうになりました。」とある。そのほか、被毛の長いものとして5枚目上の「アンゴラ種」、それから「フランス長毛種」「ロシヤ長毛種」、短いものとして「シヤム種」、それから5枚目下の「エジプト種」が紹介してある。 「毛色」のところで、「日本種は白、黑、茶もしくはその斑〈ぶち〉か白黑茶の三毛に限られてゐますが、その模樣に依つて虎斑〈とらふ〉、雉猫〈きじねこ〉などの名稱があります。虎斑は虎の斑のやうなだんだらの斑があるもの、雉猫は一見雉のやうな毛並のものを云ふのです。外國種にはこのほかに赤茶、鼠、靑などの毛色もあつて、ペルシヤ猫は白、黑、金色、靑色、灰󠄁色及びそれ等〈ら〉の斑があげられます。」と説明してあり、つづいて「こゝで一つ不思議なのは、三毛の雄猫で、日本でも昔から三毛の雄は非常に數が尠〈すくな〉いために珍重されますが、歐米でも矢張りこの三毛の雄は殆んど生れず、優生學的にいろいろ硏󠄀究した學者もありますが、まだはつきりした理由は判らないやうです。卽〈すなは〉ち三毛の雄は科學的にも未だ謎の存在で、猫の七不思議が今一つ殖えた譯〈わけ〉です。」とあるのだが、三毛柄は伴性遺伝によるもの、ということがわかったのは結構最近になってかららしい。ネコの性染色体は人間と同じくXXが雌、XYが雄なのだが、遺伝の仕組みを理解させるために長年ネコの毛色について調査研究を重ねてこられた東京学芸大学附属高等学校教諭の浅羽宏氏によれば、メラニン色素(黒)かフェオメラニン色素(茶/オレンジ/黄)かを発現させるO遺伝子はX染色体に乗っているため、Xをひとつしか持たない雄は三毛にはならない(雄が三毛になり得るのは三倍体XXY)、という理屈のようだ。 http://ci.nii.ac.jp/books/openurl/query?url_ver=z39.88-2004&crx_ver=z39.88-2004&rft_id=info%3Ancid%2FAN00158465 ここに添えてある「變〈かは〉つた虎斑猫」は何種かは書いてないのだが、この太い渦巻き柄は「クラシック・タビー」と呼ばれる欧米に多い模様。今や「国産」をうたうネコ餌の容器にまで登場するほど人気の品種アメリカン・ショートヘアーなどはこの手だ。ネコの野生種と家畜種とを比較した図鑑、澤井聖一+近藤雄生『家のネコと野生のネコ』(エクスナレッジ) https://cat-press.com/cat-news/book-ieneko-yaseineko によると、13世紀にイタリアで生じた、という説と、イギリスの雑種の8割がこの柄ということから同国が発祥地なのでは、とする説とがあるそうだ。 なおネコの被毛の色柄表現にかかわる基本的な遺伝子は20種ほどあるそうだが、その仕組みについて浅羽氏のご解説を視覚的によりわかりやすくたのしく理解できるよう工夫した『ねこもよう図鑑』(化学同人) https://netatopi.jp/article/1201046.html がすこぶる面白いので、まだの方は是非ご一読いただきたい。 さて、昭和初期のネコの餌についてだが、もちろん当時は既製品のキャットフードなどはなかった。で、この本には「食物の與〈あた〉へ方」としてどのように書いてあるかというと、「普通朝夕の二囘、お飯の少量に牛乳か魚肉の煮たものを少し添へるか、その汁を交ぜてやれば喜んで食べます。非常にその點〈てん〉は樂で、魚の あら(<傍点つき) とか頭とか鰹節〈かつぶし〉の粉をふりかけて與へても喜んで食べます。味噌汁をかけてもお腹の空いた時は食べますが、一般的には菜食は不向で、その他では猫にも依りますがうどんを好んで食べるもの、鹽〈しほ〉せんべいを嚙んで與へると、これ又喜んで食べるものがあります。」とあって、要するに基本的にはいわゆる「ねこまんま」推しだったようだ。今日では、ネコの身体はナトリウムなどの金属を摂り込んでしまうとなかなかうまく排出できず、それが重なると健康を害することから塩気は極力避けることが推奨されているが、かつてはそういう知識はなかったため全く気にされていなかった。最近の飼い猫は栄養状態がよい上に家の外に出さない個体もふえていることから、前掲の「令和元年 全国犬猫飼育実態調査」によれば平均寿命が15.03歳とのこと、そういえば20年を超えたという個体の話もときどき聞こえてくるようになったが、塩分の摂り過ぎに飼い主が注意するようになったのも長生きにプラスに働いているのではないだろうか。なお、「さうした譯で食物は手近のもので間に合ひますが、食べ過ぎるとよく嘔吐することがあり、こんな場合殊更に靑草など食べて吐き出すものです。」とあるのは、毛玉吐きの習性が誤解されているものとおもわれる。7枚目のイギリスの猫病院はどうみても屋外だが、これは日本にはない形態なのではないだろうか。雨が大量に降ったりせず、そのかわり陽射しが少ない時期の長い土地ゆえかもしれない。 「飼育上の注意」として「最も大切な點は、猫の環境を住心地よくすることです。」とあるのは、今でも大いに首肯けるところ。8枚目の親ネコが仔ネコを運んでいる図は、「猫のお産」「仔猫」のところに添えてある。お産は床下などの薄暗い、外敵におそわれる心配のないところでするもの、と説いたあと、「仔猫を見たい許〈ばか〉りに、無暗〈むやみ〉に覗き込んだり、仔猫をいぢつたりしますと、母猫は不安を感じて、仔猫を啣〈くは〉へて他へ移轉することがあります。」と注意しているが、これも大事な点。トイレのしつけについては、「不淨を一定のところでさせる習慣をつけるため、戸外に出られる通路を作ってその度に外へ出すやうにするか、小箱に砂を盛つて、その中で行はせるやうに仕込みます。仕込み方は犬と同樣、繰返し行へば間もなく習慣となります。」と書かれている。箱に砂を入れてトイレにするのは座敷猫、つまりおそらくは(完全ではないかもしれないが)室内飼いの場合だろう。ブラッシングは日に一度はしてやることを奨めている。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ペットとしてのウサギ@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
明治の初め、さまざまな西洋の文物とともに舶来種のウサギももたらされ、にわかペットブームが起きたのだが、明治5年(1872年)からそれが本格化し人気の柄のものに高値がついて、投機に入れ込む人が続出し社会が混乱したという。 http://doi.org/10.15083/00031135 あまりのことに明治10年(1877年)対策として高額の課税がなされてブームはしぼんだが、ウサギの毛織物製造の産業課をこころみる動きがそのころからはじまり、明治30年代にかけていくつか会社も立ち上げられたものの、政府がバックアップをしなかったこともあって輸入製品に太刀打ちできず失敗におわったそうだ。大正も末になって、アンゴラウサギを蕃殖してその毛で商売しようという人も現われたが、昭和3年(1928年)あたりから養兎業者が増えてきて、さまざまな種類が飼われるようになったという。 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10076939&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 その一方で、利殖のためでなく純粋に生活にうるおいをあたえるためのペット飼育が、庭つきマイホームを手に入れた人々の間で流行るようになってきた。今回取り上げるのはそうした時期に出された、一般向けの総合飼育解説書のウサギのところ。 当時はペットショップなどはないから、ウサギを飼うための巣箱は自作する必要があった。1枚目の上のはビールびんの空きケース(2ダース入り木箱)を加工したもので、放し飼いができるような広い庭がない家庭用のもの、2枚目のはもっと広い敷地に拵える、庭木を取り込んで金網で囲った「兎のお家」。図には描かれていないが、金網の外から飼い犬が土を掘って中に入り込んだり、穴掘りの得意なウサギ自身が脱走したりしないよう、「尠〈すくな〉くも地下一尺位〈くらい〉は金網に限りませんが、兎の逃亡の邪魔になる亞鉛板か貫板〈ぬきいた〉を埋込んで置く必要があります。」と本文には注意書きがある。なお1枚目の下はウサギの持ち方を示している。なお今日では「耳はつかまない方がよい」という考え方に変わっているようだ。 3〜7枚目はウサギの種類についての解説に添えてある輸入種の例の図。「ベルヂアン種」はベルギー原産で野ウサギに似ていて、赤茶色の毛で耳や脚が長い。「フレミツシユ種」は「ベルヂアン」とフランス産の大型種「バタコニアン種」とをかけ合わせた中欧産の、当時最大種のウサギで灰色のが多い。「イングリツシユ種」は脊骨に添った1本の縞と、それから胴のわきと眼のまわり、鼻先、耳に黒斑がある特徴的な見た目。「白色メリケン種」は我が国在来種の白ウサギと外来種(どれなのかは書いてない)とを交配させて作った大きな白ウサギ。「ヒマラヤン種」は「露西亞種」とも呼ばれ支那北部産で、鼻・耳・脚・しっぽが黒くそのほかの部分は真っ白、というもの。「ダツチ種」はオランダ産で黒・灰・黄・白とその斑、と柄はいろいろ、写真のようにびしっと塗り分けになっているのが特徴。「ロツプイヤー種」は「耳が素適(<ママ)に大きい英國兎」で毛色は「ダツチ」に似ているが、虚弱なのが欠点。「チンチラ種」は昭和に入ってからひろまった、毛の特に柔らかい種。「シルバー種」はその名のとおり銀色の毛をもつ英国産の割と大きな品種。終いのもこもこしたヤツが「小亞細亞のアンゴラ地方の原産で、佛蘭西〈ふらんす〉で盛んに飼育され」ていたという「アンゴラ種」。白・黒・茶とそれぞれの斑があり、ご覧のとおり非常に毛が長いのが盗聴だが比較的弱いのが玉に瑕、というように解説している。このほかにフランス産のダッチ種の突然変異「ジヤパニーズ種」、イギリスでダッチ種に在来種を交配して作った斑の色が濃い「タン種」、オランダ原産で光の当たり具合により毛色が変わってみえるという「ハバナ種」、ベルギー産で白いのと青いのとがあるという「ベヘリン種」、イギリスでダッチ・アンゴラ・ローブ種などをかけ合わせて作出した緑色の毛の「インペリヤル種」も、図はないが紹介されてある。 さて、8枚目に掲げたのはこの章の最初の部分なのだが、これをお読みになるとおわかりのように、当時家庭でウサギを飼う目的は現在のように単に日常生活のともとしてかわいがるだけでなく、食肉目的もあった。輸出元の西欧諸国ではもちろん食べていたわけだし、我が国でも、鳥肉の一種という方便で昔から食べられていたから数えるときに「1羽2羽」という、とする説があるように、元から馴染みのある人々もある食材だったから、それは自然な流れといえるだろう。しかし、ここに「食肉の矛盾」として書かれているように、飼っているウサギを絞めて食卓にのせる、ということに抵抗を感じる人々が昭和のはじめには既にかなりの数あったことが知れる。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館