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次元/村岡実とニュー・ディメンション・グループ
当然CD化など望むべくもないレコード。もしも実現するとしたら外国のレーベルによってでしょう。レオン・ラッセルの「鬼火」でもその演奏が聴こえる、尺八の第一人者による現代邦楽とも呼ぶべき野心作です。フリージャズ、前衛音楽、サイケデリック、エクスペリメンタル、どんな呼称も可能な極めてイマジネイティブなアルバムで、いつものように「テイク・ファイブ」とか「ハーレム・ノクターン」的なイージーリスニング企画BGM物とはわけがちがいます。この人はそちら方面の量産が印象としては強いのですが、参加している邦楽奏者とのインタープレイは当然ジャズの方法論も用いていますが、しかしそれだけにとどまらずに詞の朗読なども配し、リーダーの村岡は自身の演奏をメインに据えていないことが明白な、あくまでグループとしての作品づくりに意を払っている点がとてもクールです。こういうレコードが日常的に発売されていた時代の豊かさをつくづく痛感するのでした。
近代邦楽 LP、アルバム MCAビクター揖斐是方
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謎のイタリア人シンガー、ニコ・ヴァレンティーノ「奇蹟は一度でいい」正体は安岡ホタテ。
トム・ジョーンズや尾崎紀世彦など、男くさいヴォーカリストが一世を風靡していた71年、日本のレコード会社から一人のシンガーがデビューしました。出身地はイタリア、本名・リカルド・ニコリーノ・ヴァレンティーノ。曲は両面共鈴木邦彦によるものですが、例えば「最後の恋」などのトム・ジョーンズ路線を狙ったことは明白。しかしながら歌いまわしは緩急自在の変化などに乏しく、歌唱指導のまま平坦にただ歌わせられている印象強し。まだ世間では「濃い」男が十分通用していた時代に、これは痛い取りこぼし。万が一、この曲でなんとかなったら、この人はこのままこの名前で歌手活動を続けたのでしょうか?元・ズー・ニー・ヴーの町田義人と競作になったこの楽曲はなんら話題にもならずあえなく共倒れの憂き目に。いろんな試みをしてましたよね、あの頃の歌謡界は。何度も改名して再デビューなど当たり前の時代。この人もこのレコードからほどなくして次のシングルを出しました。そのB面のアレンジはハリスン「美しき人生」のパクリ、但し今度は日本名を名乗っての登場でした。どこかで見たことのある名前と顔、というより居直ったなホタテマン。おっかないけど。シャープ・ホークスにいただろう?後年はシェケナや勝新のボディーガード気取りでいましたよね?別にええねんけど。シンガーとしては、ニューイヤーズロックなどで和製プレスリーといわんぱかりのパフォーマンスに落ち着きましたが、もしもこの71年あたりに優秀なブレーンに恵まれていたら、ひょっとすると「歌手」として別の可能性も見いだせたかもしれません。しかし、こと音楽に関してならば結局「ホタテのロックンロール」に尽きてしまいました。
昭和歌謡 7" Single テイチク・ユニオン揖斐是方
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スティーヴ・ヒレッジによるサイケデリック・ロックの名曲カバー「イッツ・オール・トゥー・マッチ」
聴き飽きたわけでは全くないけれども、たまには別のアーティストによるカバー・バージョンで聴きたくなるビートルズ楽曲。数えきれないほどありますが、これもそのうちのひとつ。「私はジョージにギターを教えた」と 近年豪語するドノヴァンの曲がA面なのは個人的には不本意ですが、(外国では「トゥー・マッチ」がA面だったそう)ソロ・アーティストとしてゴングの後に活動を始めたヒレッジのセカンド・アルバムからのシングルです。この人に関してはこのレコードの他には後年、あのラシッド・タハの相方としての活躍の方が記憶に残っているのですが。さて、このシングルはプロデュースとミックスダウンがトッド・ラングレンで演奏がユートピアですから、やっぱりそこは押さえてましたかと。少なく無いですね、ジェフ・リンを筆頭にビートル周辺・関連仕事に積極的な人は。70年代といえばユートピアのビートルカバーは話題になったものです。 サイケデリック・ロックの頂点に君臨する曲はハリスンの「トゥー・マッチ」と信じてやまないのですけれども個人的には、ただこの曲のカバー・バージョンは多くないですね。いくつか知ってはいますが。アルバムではこの2曲、どちらも大変長い尺ですが、このシングルでは共に3分台のショート・ヴァージョンへ。オリジナルの「トゥー・マッチ」が6分あろうが8分あろうが長いと感じた経験はありませんが、この人のバージョンで長いのはちょっとあれかな笑。しかし尺のことでいえばシングルといえども5分弱あたりまでは聴きたかったところです。基本的にはオリジナルから大きな音楽上の逸脱はありませんが、ヒレッジ自身が好きな曲だったようでライブでも一時は頻繁に演奏していたそうです。
ロック 7" Single ヴァージン揖斐是方
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なかったことにされたデビュー盤「東京挽歌 b/w アーメン・ジロー」浅川マキ
1967年、それまで勤めていた地方役場の国民年金窓口係から一念発起で上京、ビクターからデビューした浅川マキのファースト・シングルです。ラーメン二郎という店名はまさかこのアーメンジローから由来するのではないでしょうね、まさかね笑。 それにしても、東芝に移籍してからコンスタントにアルバムをリリースし一定のファンを獲得、新宿アングラシーンを席巻した黒衣のシンガー、以前縁のあったフォーク歌手のライブ中、「マキの話をしたら時々変なことが起こるんですが」と言った途端、店内にディスプレイしていたCDがひとりでに突然落下、「ほらね」ということで皆が怯えながら笑ったものです。うーん、さすがは「恐怖劇場アンバランス」それは無関係か笑。長電話ではイタリアの映画監督パゾリーニしか観ないという話を延々していたという浅川さん。名古屋のホテルでの急死も、近藤等則と同様の死因が推察されますがどうなんでしょうか。のちのたくさんのアルバムと違い、セッションミュージシャンに過剰アレンジで遊ばれていない分だけシンプルでいいと思うのですが、このレコードを持っていますとファンの女性がご本人に言ったところ「すぐに捨ててください」と言い放ったという逸話も。それくらい不本意だったデビュー盤なのでしょう。ご本人には。ただ、捨ててくださいっていうのもなー、いかがなものかなー、そこそこのレア盤で高い買い物だったはずなんですけれども。西独のみならず全欧最高のバンドのひとつであるカンも、末期のアルバムを自分たちの公式ディスコグラフィーから外したほど不本意な作品があったそうですが、浅川もそれと同じ扱いをこのデビュー盤に。たしかに、あの当時同じ寺山絡みのマキのシングルを買うんなら圧倒的に「カルメン」のほうですかね、仕方ないか。ジャケットの定価表記が330円の上から400円、その上にまた500円とシールを二回も上貼りされていた事実が哀しいですが。
昭和歌謡 7" Single ビクター揖斐是方
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珍奇と脱力の昭和あさって歌謡「ミネソタの卵売り」暁テル子
過去を今日の常識やセンスで論い、嗤うことはいくらでもできますし、実際に大笑いも可能です。昭和モードの山本を現在モードの早川がダサいと言って笑いをとる千鳥の手法です。伏龍や風船爆弾を、さらにいえば竹槍での一億玉砕の覚悟も、まあ、そういう論じかたで嗤うのはいくらでもできますし、際限なく続けられる。しかしキリがありません。テリーの愛称でよばれた暁テル子は昭和20年代を代表する早世した歌手、笠置シズ子の対抗馬と目されてそれなりにヒットも飛ばしました。ちなみに、その後20年ほど経過すると、テリーといえば寺内タケシ御大になりますけど、あれは、ケーシー寺内と呼ぶのが妥当で、「寺」だからテリーというのも変な話です。それはともかく、この昭和26年2月の「ミネソタの卵売り」。いま聴いてもその突き抜けた能天気な雰囲気は 破壊力がありますね。珍奇にして面妖、わけのわからぬヒット曲、ミネソタ出身のロバート・ジンママン先生にでも、「こんな曲があったんですよ」と告げ口してあげようか。暁の遺した曲のタイトルがすごい。「ミシン娘」「チューインガムは恋の味」「ハワイ航路のマドロスさん」「港キューバのタバコ売り」「チロルのミルク売り」「リオのボボ売り」「りべらる銀座」「憧れのエアーガール」その他、戦後すぐの日本人の異国情緒、欧米への憧憬、もはや大米帝国の赤子として生まれ変わった我が国の、邪気が無いにもホドがあるこの憧れぶりと一瞬の手のひら返し。真珠湾に突っ込んでからわずか七年後には岡っパルの「ハワイ航路」だもんなあ。それにしても「皆さん卵をたべなさい 美人になるよ いい声出るよ 朝から晩まで コッコッコッコッコケッコーッ」って・・・・これが現代日本の原風景でしょう。
昭和歌謡 CD ビクター揖斐是方
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不発に終わったクラシック・ロックのコンピレイション「クラシックス」 米国テスト・プレス
今年も来た命日、何回目の蜥蜴忌なのか。もはやパリは燃えていないだろう。しかしせめてこの日くらいは、どこにいようと静かに悼んでいたいものです。1985年夏、MTV全盛期にだしぬけに現れた「ワイルド・チャイルド」のプロモ・クリップには驚倒しました。それに連動してリリースされたコンピレイションがこの「クラシックス」です。内容は「ジム・モリソンの遺産」を「13」のコンセプトで再現といったもので大ヒットを排し、比較的地味な曲を並べていました。これは米盤のテスト・プレスです。が、この後に別種のテスト・プレスも存在するはずなのです。公式リリース盤と同内容の。どういうことかいいますと、これは、最終的に発売されたものよりも1曲多く、1曲が差し替えられた「最初期案」の内容だからです。ベスト物だったからいいようなものの、これがもしもオリジナル・アルバムだったらエライことになりましたな。 テスト・プレスの段階でまだタイトルが未定や仮題であるケースは知っていますが、選曲やソング・オーダーが最終決定していないという事例は、結構あるものなんでしょうかね。具体的にいえば、本盤にはB面2曲目に「チャンスはつかめ」が入り、3曲目には「ランド・ホー!」ではなく「イージー・ライド」が収録されています。従って全14曲。シングルでのヒット曲といえば「あの娘に狂って」と「名もなき兵士」くらいしか収められていません。しかし結果的には1曲削って、過去のベスト「13」の続編的位置づけに。だからジャケット写真も、モリソンを正面からではないアングルで撮影した横顔のような一枚で準じ、かつてのベスト「13」への既視感・近似感を演出した上で新旧どちらのファン層にもアピールしようと試みたのでしょう。 米国での発売は1985年5月、(本盤の製作は同年3月20日)、折からのMTVブームに乗って、ドアーズも「ロードハウス・ブルース」と「ワイルド・チャイルド」の2曲をデジタル・リマスター+ビデオ・クリップで商戦に参入としいう運びです。しかしながら米ビルボードでは同年6月に124位が最高位でした。 なお、本盤のマトリクス・ナンバーの枝番がはA/B面ともに1である以上(プロモ盤は3)完成版リリースの為のスタンパーとは別個で独自のものだったのではと推察されます。
ロック LP、アルバム/テスト・プレス スペシャリー・レコーズ・コーポレイション揖斐是方
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プデイの詩 b/w すてきなプレゼント 唄と演奏 ザ・ハンバーグ 自主製作GS
「アニターッ」と叫んでワイルドワンズ、「ジェニーッ」と叫ぶはカーナビーツ、「ドロシーッ」だったらベアーズ、「ヒロシーッ」の場合は泉アキと相場は決まっているのですが、曲中で人名を絶叫する思い余りは60年代当時の日本の流行歌につきものでした。と、いうわけで、なんだかわかりませんが笑、ザ・ハンバーグです。この、イントロで名前を絶叫してツカミを試みるならわし、そうした楽曲中、最も知られていないマイナーな一曲かもしれません。叫ぶんだ「プディーーーッ」ととりあえず。そこから始まる和製ガレージパンク。いや、グループサウンドという表現のほうが正しいかもしれまん。歌い出しのメロディーは、世代的にも否応なく「白いマットのジャングルに」とタイガーマスクの歌を被せてしまうほどの出来。大笑い。何度聴いても、これはどうしてもそうなるのです。ものの本によると、ザ・サイレンサーの「恋の夜汽車」と続き番号の一枚、おそらく京阪神地区での68,9年あたりの自主製作レコードだろうと。プロ・デビューに至らなかったローカルGSの遺した貴重な自主盤という点では、サイレンサーと双璧かもしれません。この盤に限りませんが、当時のグループ・サウンズのレコード、しかも大メジャーで成功しなかった人々のレコードにつきものの、衝動だけで突っ走るイノセントな情熱、今となっては本当に貴重です。1970年をまたいだ後には、曲中の絶叫、ガヤ、科白などが激減していきますよね。それにしてもハンバーグというバンドもなあ、まさか「三日前のハンバーグ」なら菅原洋一だし、プロコルハルムから由来するとしたら、アダムスの「旧約聖書」みたいな曲が連想されて、とてもこんな曲調とは不釣り合いだし・・だいたいメンバーのプロフィールにはみんなビートルズファンだとあるし。ちなみにメンバー四人のうち、二人が好きな食べ物が「てっちり」というのも凄い。「ラブ・ミー・ドゥ」以降の欧米のロック、ガレージ、ビート、サイケデリック、その他雑多なものをいろいろと聴いてきましたが、外国の60年代の楽曲で「人名絶叫」物はちょっと思いだせません。何かあるとは思うのですが、すぐにででこないのです。だからやっばり「プディーッ」とか「アニターッ」に戻ってしまうのでした。
グループ・サウンド 7" Single 日本芸能クラブ揖斐是方
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自主製作 カルトGS 「ふたりの愛/ロンサム・チャイルド」ザ・キックス
北海道のローカル・グループ・サウンズ、ザ・キックス。やはりレイダースの曲名からなのでしょうかバンド名は。コロムビアに委託されプレスされて製作されたこのシングルは1968年か9年あたりではと思いますが、ジャケットが作られる前に発売中止となったようです。A面は歌謡曲ですが、B面は「夜をぶっとばせ」を聴いたあとに思いついたと思しき英語のガレージ・ナンバーで悪くない出来です。とにかく情報が乏しい。どちらさまか、このバンドのプロフィールや、盤までつくられながら、いったいなぜ正式リリースに至らなかったのかなど、御存知の方がいらしたら是非ご教示ください。カンパニー・スリーブもレーベルもれっきとしたコロムビア。しかしジャケットが存在しない。これは可哀想です。この写真はやはり本格プロデビューを控えてのプロモーション用の撮影だったと思うのですが。
グループ・サウンド 7" Single コロムビア揖斐是方
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スーパーソニック・ロケット・シップ/キンクス
70年代に入り五人編成となり、日本では相変わらずヒットのでなかったザ・キンクスですが、それでもこの曲が象徴するような文字通りの捻くれぶりは流石。今から50年以上前に見た深夜の音楽番組「ナウ・エクスプロージョン」、御記憶の方もいらっしゃると思いますが、その番組でこの曲のプロモーション・フィルムが流れました。曲のタイトルに反して、人類が様々な形状の飛行機を創り実験しあえなく失敗していくという御馴染みの古いモノクロ映像をつなぎあわせたそれは、なんとも「ロック」らしからぬ、しかしどこかで人懐っこいメロディのこの曲とともに、すぐに記憶にとどまりました。が、世代的にはそれどころじゃなく、優先して買うべきレコードが膨大にあった頃、何十年もこの曲は保留扱いにしていたわけです。そのうち、当然初期キンクスのすばらしさに開眼、「フェイス・トゥ・フェイス」「サムシング・エルス」あたりまでは手離しで支持するファンにはなりましたが、なにか一曲忘れて居る。それがこれでした。1972年の発売。
ロック 7" Single RCA揖斐是方
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料亭「川浪」で井上堯之バンドが出会った板前・片島三郎の唯一作「Nadja 愛の世界/萩原健一」
「あ、いやーっ・・・冗談じゃないっすよ・・・歌なんか・・俺・・そういうの困りますから・・・」 「サブ、まあ聞けよ。折角井上さんも速水さんもこうやって熱心に誘ってくれているんだ。面白いじゃないか、 やってみろよ・・俺も昔は若気の至りで「シンボルロック」なんていうレコードを出したもんだよ・・・サブ、お前だって半妻さんとこのヒロシとバンドをやっていたそうじゃないか、レコードもだしたんだろう?半妻さんだって利夫やうちの修と一緒になんとか軍団ってレコードを出してる。海ちゃんも、かすみちゃんも、冬子お嬢さんだって出してるんだ・・・政吉も出してるよ、お前のモノマネなんか吹き込んで。平吉さんなんかジャズバンドのピアニストで山ほどレコードを出してヒットさせてきたんだ。郷里の春子ちゃんだってレコードくらい出しているんだぞ。いい機会じゃないか、サブ」 全国ツアーを終えて深川の料亭「川浪」を借し切り打ち上げの大宴会に興じていた井上堯之バンドの面々は、その絶品の料理に驚き、部屋に秀次とサブを呼んで談笑しているうちに、片島三郎という板前の青年に不思議な可能性を感じて是非一緒にレコードを創ろうと持ち掛けていた。 浪花節と北島三郎くらいしか歌には縁のないサブも、秀さんの熱心な勧めにほだされ、製作に踏み切ったアルバム、それがこの1977年の春にリリースされたショーケンのセカンド・ソロ。あたかもこんな経緯で創られたのではないかと妄想するほど、本作はドラマ「前略おふくろ様」の延長線上にあるスピンオフ企画的な側面を感じさせます。 口下手で何事にも気後れし、自信なさげで、朴訥な青年「片島三郎」そのままのキャラクターで歌っているような印象、テンプターズ、PYGまでとは異なり、素直に控えめに、オフ気味のミックスで訥々と歌うサブもといショーケン。「ドンファン」期から晩年にいたるまでのピッチの外れを逆手にとったジョン・ライドン、シャンソン、ディランのような芝居ががった大仰な唱法でもない。 「兄貴のブギ」が萩原・水谷のレコードというよりもコグレオサムとイヌイアキラの作品だったのと同様、実はこれもショーケンが片島三郎というキャラクターのまま臨んでつくられたような妄想をいだかせるのです。レノンの「アイソレイション」的過ぎるけれど笑、井上・萩原の畢生の名曲であることは間違いない「男の風景」に始まり、まるでかすみちゃんとの物語を唄っているような、大野克夫によるシングル・カットもされたラストの「別れの詩」まで。 役者が、物語のキャラクターとして吹き込んだレコードとなると勝新の座頭市など真っ先に思い浮かべますが、今となってはこれは、ショーケンならぬ片島三郎がマイクに向かった一枚のようにも思えてならないのです。このレコードは1977年3月、つまり「前略おふくろ様」が最終回を迎える寸前にリリースされました。初回放送時から血反吐を吐くほど再三再四観返して、このアルバムもリリース直後から愛聴しつづけている者としては、ここでのショーケンは実は片島三郎だったのではないかと、(ジャケットに写る短髪のショーケンもサブそのもの)膨らませ過ぎた妄想に遊んで聴き続けているのです。 唯一、そぐわないのは北島三郎ファンの片島三郎がアンドレ・ブルトンからタイトルを引用しているところかな笑。
ロック CD アナログシングル ミノルフォン揖斐是方
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2種類の「ウォーク・アウェイ/ジェームズ・ギャング」シングル盤
同じ曲が違うレコード会社で、ジャケット違いで二種類販売されていたケースは、御記憶の方もいらっしゃるのではないでしょうか。物によっては、同時期に店頭に出回っていて、同じコーナーに入っていたりしました。有名なところではキングとポリドールのプロコル・ハルム「青い影」、東芝とポリドールのTレックス「ゲット・イット・オン」とか。みな、本国でのレーベル移籍だの出版社の権利移譲などに起因するのでしょうが、ユーザーとしてはそんなことよりも、ジャケットなどの選べる愉しさが伴っていました。このジェームズ・ギャング盤二種も、日本での販売元の移動からこうなり、キングからリリースされた左のものが最初のようです。楽曲そのものは日本ではヒットしませんでしたが、マウンテンやBOCやZZトップなどに通ずる、シングル尺のコンパクトな時間の中で、ポップでキャッチーなメロディとバンド本来の豪快でハードなサウンドの併存に成功している佳曲です。今やサー・リチャード・スターキー翁の義弟として行動をともにする感の強いウォルシュですが、そりゃあイーグルス「カリフォルニア」でのソロで有名なのも当然ですが、まだイーグルス加入前夜のパワートリオで頑張っていた時期のこの名曲、忘れがちになっている感強く、残念ではあります。さすがにもう大統領選にはかつてのようには出馬しないのかな笑。
ロック 7" Single キング・東芝揖斐是方
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空耳邦題の名作「マイコさん/フリートウッド・マック」
空耳で有名なブルース・マグース、とくれば、そこからのつながりで連想するのはやはりこれでしょう。『ゼン・プレイ・オン』が愛聴盤であるフリートウッド・マックの国内盤シングルです。1970年4月の発売。原題はComingYourWayですが、歌詞を聴いた当時のワールド・グルーブの担当ディレクター氏かな、大胆にも空耳マナーで「マイコさん」と邦題をつけ、ご覧のようなジャケットでリリース。快挙であります。こういう遊びがあるからこそ、当時の邦題の愉しさ・面白さがあると思います。カーワン・グリーン・スペンサーのトリプル・ギター時代、かれらはブルース・ロックから次第に脱却しつつあり、非常にユニークかつツカミどころのない笑サウンド構築期へ。「アルバトロス」などは「サン・キング」への影響を指摘されているし、個人的にはこのアルバムで俄然興味深いバンドへと変貌しました。(あとが続かなかったけど)裏面が「がらがらへび」というのも良い。外国ではこちらがA面扱いされたとか。1969年の、サイケなんだかブルースなんだかプログレなんだかブラスなんだかわからなくなってきた、なんでもアリの混沌とした状況が当時のフリートウッド・マックにもそのまま反映している、だからこそユニークで面白い、そんな作風のアルバムでした。実際に聴いていただくと、どこで「マイコさん」と聴こえるかは明白、シングル曲にしてはパッとしない単調で煮え切らない中途半端な曲調に聴こえるかもしれませんが、そここそがこの曲の魅力だと思います。https://www.youtube.com/watch?v=i4x9MjFQoA4
ロック 7" Single リプリーズ揖斐是方
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「何故か本出した何故かヒットした」の空耳でお馴染みブルース・マグース・本邦デビュー盤 『タバコ・ロード』
それ以前から何度も聴いてきた曲なのに全く気付くことなく、「空耳アワー」で流れた時には爆笑しました「恋する青春」のこの一節。ヴィダル・サスーンがヘアーデザインをしたというニューヨークのサイケデリック・ロック・バンドの全米で五位を記録した最大のヒット曲でした。勿論日本でもシングルは発売されていましたが、アルバムの方は、本邦独自のジャケットとタイトル、そして、セカンド・アルバムの『エレクトリック・コミック・ブック』からの楽曲とともに収録、つまり1stと2ndのダイジェスト2in1というコンセプトでリリースされたアルバムです。60年代当時は日本独自のジャケットに差し替えて発売するケースもあったし、わが国だけの編集によるコンピレイションも多々でていました。但し、二つのアルバムから選曲して、一枚のファースト・アルバムに仕立て上げたなんていうのは、あまり他に聞いたことがありません。オルガンをフィーチャーした所謂60'sガレージ・サイケの代表的なバンドで、「タバコ・ロード」や「グローリア」では混沌とした熱演を。バンドは四作目とラストの五作目で大幅なメンバーチェンジと全く異なる音楽性に転身、途中参加のエリック・ジャスティン・カズが主導権を握って凡庸なアメリカン・ロックを模索するもそこまで。つまりオリジナル・メンバー五人による三作目までが「ブルース・マグース」の本姿でしょう。後期・末期になり、メンバーも音楽も全く異なったりするもバンド名はそのまま、そんな例はプルーンズやブルー・チアー、チョコレート・ウォッチなどでお馴染みですが、そこもまた当時のシーンならではのいかがわしさ、うさん臭さがありますね。彼らの末期の姿を見て、もうこれは違うバンドだ。なんて言うのは簡単ですけれども、昔の名前で出ています状態をキープしないと商売上まずかった、まったく売れなかったけど、一応やってみたと。
サイケデリック・ガレージ LP、アルバム マーキュリー揖斐是方
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T.B.シーツ/ヴァン・モリソン 国内盤・ビクター・レーベル
ご案内の通り、モリソンには二通りおります。一人は青少年向けで早世した絵にかいたような典型的なロック・シンガー。もう一人は音楽上の感受性が成熟に達したリスナー向けの、ホワイトR&Bシーンの老練な現役シンガー。前者に時間と金を費やしすぎた後悔など微塵もありませんけれども、加齢は後者の凄さを実感させるものであるのは確かなようです。ただし、ゼムはともかく、単に好みの問題で言えば「アストラル・ウィークス」だけに尽きるのですが。そしてこのアルバム。ゼム脱退後から「アストラル・ウィークス」までの間をつなぐ、例のバート・バーンズのニューヨーク時代、いわゆるバング・セッションのマテリアル、「茶色の眼の女の子」の頃の録音をまとめて1974年あたりに日本でも発売された一枚です。モリソンのオフィシャルなカタログではカウントされていないのかもしれませんが、何にせよ混乱期のレコーディングを取りまとめてアルバム化された作品。それほどフックの強いパっとした曲があるとも思えない、しかしトータルで聴けばそこはかとなく滋味が感じられる、そんなアルバムです。当然そのへんのテイストは次の「アストラル・ウィークス」にも繋がっていくのでしょうが。全曲、今となってはCDで容易に入手でき、かつ詳細なデータなども参照できるようですが、やはり白眉なのはタイトル・ナンバーの「T.B.シーツ」でしょう。結核で亡くなっていった女性への想い、まだ闘病下だった彼女の病室の閉塞感、死が間近に迫りつつある彼女との遣り切れない対話。そうしたヘヴィーな歌詞がトーキング・ヴォーカルでおよそ10分、淡々とつづられていくわけです。そして歌い終わったモリソンはスタジオのその場で泣き崩れたという。壮絶な「歌」と「歌い手」との相克。やはりこっちのモリソンはあの頃から既に「大人」だったんだなあと嘆息。
ロック LP、アルバム ビクター揖斐是方
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「からっ風野郎//三島由紀夫」見本盤7インチ+台本、その他。
最後の一日だけは犯罪者、それ以前は作家、映画監督、ボディビルダー、評論家、タレント、武道家、モデル、私設軍隊の総裁、歌手、似非自衛官、俳優、LGBTQにおけるG、様々な横顔を持っていた三島由紀夫。30代前半にして初めて発売したレコード、主演映画の主題歌「からっ風野郎」のシングルは以前にも紹介しましたが、これはそのジャケット無しの見本盤。B面はレギュラー盤同様に春日八郎の「東京モナリザ」です。その他、当時のロビーカード、縮小ポスター版チラシ、未使用のの台本など。あの映画もこの曲も、ノーベル文学賞候補にまでなった世界的文豪の遺した表現としては、散々な酷評をされる傾向で定着しています。ある面では実に不器用、見ていて気の毒なほど不格好でセンスのない人物だったが、愚直に一所懸命とりくむ姿が余計見ていられなかった、などという関係者の回想を読みますと、たしかに説得力を感じさせます。しかし、トリックスターでもあった三島という仮面をかぶった不器用な人間・平岡公威さんの、キッチュで通俗的で、どこか自己客観視しながら楽しんでいるような風情は、これなりに極めて興味深い。「太陽と鉄」や「文化防衛論」から自決のポジティブな意味を論うのも勿論アリですが、今では、本当にこの人は昭和という時代に通り過ぎていった一陣のからっ風だったのではと思います。それにしても、深沢七郎のギターが大きく明瞭に聴こえるようなリミックス作業をどちらさんか・・などと思いついて大笑いしてしまう、そんな時代になりました。
映画音楽 カルト歌謡 7" Single その他 キング揖斐是方