金田正一 投手(ロッテ監督)

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1933年 愛知県稲沢市
享栄商高 → 国鉄スワローズ(1950年) → 読売巨人(1964年B級10年選手制度)→日本TV(1970年解説者) → ニッポン放送(1972年解説者)→ ロッテオリオンズ(1973年監督)→ フジテレビ(1979年解説者) → 日本テレビ(1981年解説者) → ロッテオリオンズ(1989年監督) → 日本名球会(1992年代表) → 2019年10月6日86歳没
愛称”カネやん””天皇””電柱””割り箸””巨人キラー”

現役時代は国鉄スワローズ・読売ジャイアンツでプレーし、日本球界不滅の400勝を記録。引退後はロッテオリオンズ監督(1973年 - 1978年, 1990年 - 1991年)を務め、1974年には前期リーグ優勝、日本一を達成している。千葉ロッテマリーンズ取締役のほか、2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所「カネダ企画」内に名球会事務局が置かれていた。

20年の現役生活において、用いた球種は速球と縦に鋭く割れるカーブのみであった。
特に速球については「手元から離れても最後まで速度が落ちない快速球」と言われるほど、凄まじい球威を持っていたとされ、数々の逸話を残している。「現役時代180キロは出ていたと発言」といった金田の伝説が紹介されると、「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と答えている。
投球術については、国鉄-巨人の現役時代を通じて捕手からのサインの指示を受けず、自らの判断のみで投球内容を決定する「ノーサイン」を貫き通した。森祗晶は、根来広光から「金田はノーサインだから捕球が大変だぞ」と忠告を受け、金田に今後の方針について相談したところ「巨人に来たからにはサインに従う」と述べたものの、実際の試合では森のサインに全く従わなかったため、最終的に森が折れる形で引退までノーサイン投球を継続したという

低迷不人気であったパ・リーグのロッテ監督になったことでマスコミの注目度が一気に上がった。好ゲームが続き、閑古鳥が鳴いていた東京スタジアムとは状況が一変し川崎球場は連日、多くのファンがスタンドに押し寄せ、土曜日、日曜日になると、札止めになることも度々あった。金田の発案でお菓子を配ったり、オリジナルグッズを作ったり、グラウンドで選手と写真撮影会をしたりと、今でこそ定着しているファンサービスにもロッテは積極的に行った。選手時代の知名度に加え陽気な語録や他球団への荒っぽい口撃、オーバーアクション、さらにカネやんダンスと呼ばれる足を高く上げたりする独特のアップ法でも話題を呼び、現役選手以上の人気を集めた。当時人気が低迷していたパ・リーグに話題を提供しようと率先してマスコミに露出し、親会社のテレビCMにも出演している

背番号 34 読売巨人永久欠番

主な記録
◆NPB記録
・通算400勝
・通算4490奪三振
・通算5526.2投球回
・通算365完投
・通算298敗
・通算1808与四球
・シーズン20勝以上:14年連続14度(1951年 - 1964年、回数・連続回数ともにNPB記録)
・64.1イニング連続無失点(1958年4月30日 - 1958年5月27日)
・最年少200勝達成:24歳309日
・公式戦開幕投手:14度(国鉄10度・巨人4度)
・連続シーズン100奪三振以上:16年(1950年 - 1965年)
◆セ・リーグ記録
・通算569先発登板
・通算82完封
・通算4120被安打
・通算1706失点
・通算1434自責点
・シーズン34完投(1955年)
・シーズン197与四球(1952年)
・1試合16奪三振(1967年6月7日)
・1試合10与四球(1950年11月4日)
◆その他記録
・投手三冠王:1回 (1958年)※史上7人目
・オールスターゲーム出場:17回(1951年 - 1964年、1967年 - 1969年)
・ノーヒットノーラン:2回
・1951年9月5日、対大阪タイガース戦、大阪スタヂアム ※史上最年少記録(18歳35日) 史上17人目
・完全試合:1回 1957年8月21日、対中日ドラゴンズ戦、中日スタヂアム ※元号「昭和」と「平成」における日本プロ野球で左投手唯一の達成者である。史上4人目
・1000試合出場:1968年7月9日(131人目)
・通算退場回数:8回(2005年5月29日に巨人のタフィ・ローズに抜かれるまでは日本記録)
・3者連続3球三振:1955年6月22日、対中日ドラゴンズ戦の2回 史上2人目
・7者連続三振:1954年6月8日、対洋松ロビンス戦(横浜公園平和野球場)。球団記録、当時のセ・リーグ新記録
 

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