艦船模型(かんせんもけい)は、造船会社や愛好家によって製造されたり、製作される実際に航海を行っていた、または歴史上に実際に存在していた艦船の縮小再現模型のこと。
艦船模型のタイプには元々組み立て済みである完成品と組み立てキットの2種類がある。
歴史は古く、昔から造船会社などで実物の検討を行う際に作られたりしていたが、こちらはCG技術の発展により近年減りつつある。
逆に愛好家たちによるコレクションは近年「艦これ」などによって売り上げが伸びている。
ミューゼオでは様々艦船模型のコレクションを眺めることができます。
金剛(こんごう/こんかう)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦。イギリスに発注された最後の主力艦である。2度の改装後は高速戦艦として、太平洋戦争でも活躍した。なお金剛は、日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製日本戦艦でもあった
QuuMa-8
民間で使用されていた優秀な客船を海軍が徴用し潜水母艦としての改造を行い、任務に就けたものが特設潜水母艦平安丸(へいあんまる)でした。昭和5年に建造され日本郵船に所属し欧州、北米航路に就航した平安丸は、昭和16年に特設潜水母艦に徴用され、第1潜水戦隊に配属、動く潜水艦基地として潜水艦乗員の休養や潜水艦の修理、燃料弾薬食料の補給などの任務に就き、前線での作戦支援に従事しましたが、昭和19年2月、トラック島で米軍機の攻撃により沈没しました。 #ハセガワ #潜水母艦 #日本軍
ちょこ大佐
妙高(みょうこう)は大正15年10月25日に起工、昭和4年7月31日に横須賀海軍工廠で竣工しました。第2次改装後、第2艦隊第5戦隊に編入され昭和16年11月に呉を出撃しフィリピン攻略作戦の任務に就き、その後珊瑚海海戦、アリューシャン攻略作戦、マリアナ海戦などに参加しましたが、昭和19年12月13日、サンジャック沖にて米潜水艦の雷撃により中破、羽黒に曳航され到着したシンガポールにて終戦を迎え、昭和21年7月に英軍によりマラッカ海峡で海没処分されました。 #ハセガワ #巡洋艦 #日本軍
ちょこ大佐
若竹(わかたけ)型は、先に建造された樅(もみ)型の欠点である高速旋回時における船体傾斜の大きさを改良した改樅型といえる二等駆逐艦で大正11年9月30日川崎造船所で建造されました。当初23隻の建造予定がワシントン軍縮条約に伴う計画変更によって8隻で打ち切られ、長年続いた大型と中型駆逐艦の平行建造は若竹型で終了し、以後大型駆逐艦に重点がおかれたため海軍最後の二等駆逐艦となりました。 #ハセガワ #駆逐艦 #日本軍
ちょこ大佐
戦艦日向(ひゅうが)は、三菱長崎造船所で初めて建造された戦艦でその起工は大正4年5月6日、進水は大正6年1月27日、竣工は大正7年4月30日です。新造時の要目は伊勢と同じで基準排水量29,900トン、23ノット、36センチ砲12門、8センチ高角砲4門でしたが昭和9年10月24日から11年9月7日にかけて呉工廠で近代化大改装を行い、性能、外容とも一新しました。日向は、長門級竣工までまでの大正時代の約2年間は最新鋭戦艦として連合艦隊旗艦、お召し艦などに使用される光栄をにないました。太平洋戦争においては、ミッドウェー海戦に参加、その後航空戦艦に改装されました。昭和19年のレイテ湾海戦では、空母艦体に属し出撃、搭載機を持たぬ囮艦隊として使用されました。エンガノ沖海戦においては敵空母機の集中攻撃を受けましたが、これを切り抜けて生還しました。エンガノ沖海戦後、日向は呉にありましたが米英空母機動部隊の呉空襲において米空母タイコンデロガ搭載機の攻撃による11発の命中弾を受けて大破着底しました。終戦後引き上げられて解体され、その生涯を閉じました。 #ハセガワ #戦艦 #日本軍
ちょこ大佐
巡洋戦艦金剛(こんごう)は、明治44年1月17日に起工され大正2年8月16日に竣工し、同年11月5日に横須賀港に到着しました。太平洋戦争開戦前、金剛型4隻は巡洋艦、駆逐艦等を支援する任務に応じるため第二次改装を受け、30ノットの高速力を誇り各武装も強化された近代的な高速戦艦として生まれ変わりました。金剛は昭和19年10月のサマール島沖海戦に榛名と共に栗田艦隊の1部として参加し、護衛空母や駆逐艦を撃沈する等の戦果を挙げましたが、かなりの損傷を受け修理の為内地へ向かう途中の昭和19年11月21日、台湾の北方において米潜水艦シーライオンに雷撃を受け魚雷4本が命中し、午前5時30分浸水により沈没しました。 #ハセガワ #巡洋戦艦 #日本軍
ちょこ大佐
古鷹(ふるたか)は大正11年12月5日に起工、大正15年3月31日に三菱長崎造船所で竣工しました。古鷹型の特徴は波形甲板と呼ばれた2か所で傾斜して艦尾に行くほど低くなる甲板で重量を軽くするために採用されました。またこのクラスの艦として初めて大口径の20.3センチ砲が装備されました。開戦時には第1艦隊第6戦隊に所属して中部太平洋方面の作戦に従事し、第1次ソロモン海戦に参加、夜戦の奇襲攻撃でアメリカ艦隊に大勝利を収めました。昭和17年10月12日、サボ島沖海戦で命中弾を浴びで沈没、その艦命を終えました。 #ハセガワ #重巡洋艦 #日本軍
ちょこ大佐
第二次大戦中、常時主力として建造されたUボート7型Cは、外洋に進撃できる最低限の大きさ、十分な航続力を整え予備魚雷格納庫と強力な対空兵装を搭載した信頼性の高い中型潜水艦です。開戦時は主にイギリスの生命線を断つためにイギリス沿岸まで出撃し、イギリスの対潜作戦の立ち遅れも手伝って多くの戦果を挙げました。建造された7型Cは572隻にもなります。 フランスの降伏によってUボードの活躍範囲はさらに広くなり、大西洋全域に及びました。このために建造されたのが外洋型の大型Uボート9型です。9型の主力となった9Cはアメリカ東岸カリブ海にまで姿を現し、輸送船や商船を攻撃する通商破壊作戦に活躍しました。特にUボートならではのウルフパック作戦が有名です。7CとともにUボートを代表する9Cはまさにドイツ潜水艦技術の結集でした。 #ハセガワ #潜水艦 #ドイツ軍
ちょこ大佐
夕雲(ゆうぐも)型は改陽炎型として計画された艦隊型駆逐艦の傑作です。主砲をD型砲とし、高角測距儀を搭載するなど対空戦闘に留意した艤装を施されています。夕雲は1941年12月に竣工、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、キスカ撤退などの各作戦に参加、直営任務に活躍しました。1943年10月、ベララベラ近海で米駆逐艦と交戦、壮烈な最期を遂げました。 #ハセガワ #駆逐艦 #日本軍
ちょこ大佐
氷川丸(ひかわまる)は昭和5年に日本郵便がシアトル航路の船質の改善を目的として建造した12,000トン級の貨客船でしたが、昭和16年11月に日本海軍に徴用され病院船として働くことになりました。これによって特徴でもあったフランス式の装飾をほどこした船室の多くは改装され病室や診察室、手術室となり、またその黒い船体は一面白く塗り替えられ船腹には緑の帯と病院船であることを表す赤十字が描かれました。こうして艤装を終えた氷川丸は同年12月の初出動を皮切りに多くの負傷兵の救護にあたりました。その活躍で命を救われた兵士は3万人にも及ぶと言われています。徴用された船舶の多くが沈められていたにもかかわらず、何度も危険な目にあいながらも終戦まで働き、終戦時に残った船の中ではもっとも大型クラスのものとなりました。現在は引退し横浜港に永久係留されています。 #ハセガワ #病院船 #日本軍
ちょこ大佐
レッドホーク最新鋭機
ロボット格納庫
レッドホーク駆逐艦 #アオシマ #コミックスシリーズ
ロボット格納庫
大正11年の鳳翔以来、旧日本海軍は数多くの空母を建造してきましたが、その技術と経験の集大成として竣工し、日本空母の最後を飾ったのが大鳳です。最初から空母として建造された最後の一艦となった大鳳は、それまでの日本空母にはない多くの特徴を持った進歩的な設計がなされていました。中でも最大の特徴は500㎏爆弾の急降下爆撃に耐えると言われた飛行甲板です。空母の広い飛行甲板は敵からの目標になりやすく、ひとたび攻撃を受けて損傷を受けると離着陸が不可能になり、空母の価値は無くなってしまいます。そこで甲板に鋼板による装甲防御が施されました。また艦首の外板が飛行甲板までつながったヱンクローズドバウと呼ばれるスタイルも日本空母では唯一のものでした。昭和19年3月7日に竣工した大鳳は6月のマリアナ沖海戦で初陣を飾ることになります。しかし海戦初日の6月19日、アメリカ潜水艦アルバコアの魚雷攻撃を受けてその短い生涯を閉じることになります。 #タミヤ #刻空母艦 #日本軍
ちょこ大佐
イギリス海軍の誇り、虎の子だった戦艦がこのプリンスオブウェールズです。搭載した36.5㎝砲10門の主砲は、攻撃力という点では当時の世界の巨艦大和や長門に劣っていましたが、排水量の30%以上を防御装甲に使っており、また、いち早く航空機の重要性を予測し、副砲、高角砲に両用できる13.3㎜連装両用砲8基、単装の20㎜高角機銃を7基、8連装の2ポンド砲6基、そして多数のロケット砲を搭載、その上レーダーまで装備していました。 しかし、皮肉にもレパルスと共に出撃したマレー沖海戦にて、日本軍のツドウモ基地から発進した美幌航空隊の爆撃を受け、更に元山航空隊の96式陸攻9機の雷撃、サイゴンから飛び立った鹿屋航空隊の水平爆撃によって、1941年12月10日、高速戦艦レパルスと共に撃沈されたのです。 このモデルは現在メーカー生産休止となっています。 #タミヤ #戦艦 #イギリス軍
ちょこ大佐
駆逐艦隊の旗艦たる軽巡洋艦の力不足を感じていた日本海軍は、四計画(第四次海軍力補充計画)を立て、第132~135号艦を設計した。後に阿賀野、能代、矢矧、酒匂と命名されたこれらの新進軽巡洋艦は、夕張型以来実に18年ぶりの新造軽巡洋艦だった。最大の特徴は、強力な魚雷兵装であり、4連装の61㎝発射管2基を日本の軽巡としては初めて艦体中心線上に装備、左右どちらに対しても8射線の雷撃が可能であった上、次発装填装置が付けられ、迅速な連続発射が可能であった。当時、各国の軽巡が砲を多くし、魚雷兵装を少なくしているのと対照的なこれらの設計は、矢矧が水雷戦隊の旗艦として設計されたためである。阿賀野型3番艦の矢矧は、佐世保海軍工廠で昭和16年11月に着工され、18年12月に竣工した。初陣はマリアナ沖海戦で、次いで比島沖海戦に参加、そして昭和20年4月、菊水作戦で大和と共に沖縄特攻に出撃、わずか7,800トンの軽巡でありながら魚雷8発、12発の直撃弾を受けてもなお持ちこたえており、その脅威の防御力をいかんなく発揮したが、最後は力尽きて轟沈した。 #タミヤ #軽巡洋艦 #日本軍
ちょこ大佐
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