黄銅鉱 (chalcopyrite) 阿仁鉱山 #0384

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細かな水晶と共生する黄銅鉱がまだ新鮮な色合いを保っています。

阿仁鉱山は当初金銀山として開け、金山は1309年(延慶2年)、銀山は1575年(天正3年)にそれぞれ開かれたといいます。阿仁鉱山は阿仁周辺で開発された複数の鉱山の総称で、小沢、真木沢、三枚、一の又、二の又、萱草の6銅山(六ヶ山)と向山金銀山、太良鉱山、加護山製錬所からなっていました。
金銀山時代は、山師による請負で経営され、秋田氏、佐竹氏は運上金銀の賦課や産金銀の強制買い上げにより領主財政の重要な基礎としていました。銅山についても当初は商人の請負経営でしたが、1702年(元禄15年)以降は、幕末まで基本的に秋田藩の直山(じきやま)とされました。
1716年(享保元年)には産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山の一つに数えられ、阿仁鉱山の名は全国的にもよく知られました。阿仁の銅は貨幣原料や、長崎の出島から海外への輸出品として重要視され、多いときには幕府御用銅のおよそ5割が阿仁鉱山から産出されたといいます。
 明治維新に伴い官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)には古河市兵衛に払い下げられました。第2次世界大戦後は休山、再開を繰り返しましたが、1979年(昭和54年)に資源枯渇や海外銅価格の低下の影響により閉山しました。

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