おおたによしつぐ・大谷吉継・1559-1600・戦国覇王12号

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●このフィギュアの特徴

大谷吉継は視力が弱かったと言われています。従いまして、顔の眼球は表現されず、閉じた状態になっています。

●表記されている生年について

大谷吉継の生年については、表記されている永禄2年(1559年)という説と、永禄8年(1565年)という説があり、現在では後者の1565年説が有力視されています。

なぜ1565年説が有力視されているのか?

史料の検証: 近年の史料の検証により、1565年説を裏付ける証拠が増えてきたためです。
享年: 1565年生まれだとすると、関ヶ原の戦いで自刃した際に36歳となり、他の史料とも整合性が高まります。
ただし、歴史上の人物の生年については、必ずしも明確な記録が残されているわけではなく、複数の説が存在することが一般的です。そのため、100%断言することは難しい面もあります。

●大谷吉継のプロフィール
大谷吉継は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、豊臣秀吉の家臣として知られています。特に、関ヶ原の戦いで西軍の主力として奮戦したことで有名です。

生誕: 永禄8年(1565年)頃
没年: 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
出身: 詳細不明(豊後国説、近江国説など)
通称: 紀之介、平馬
号: 白頭
官位: 従五位下・刑部少輔
主君: 豊臣秀吉、豊臣秀頼

人物像
豊臣秀吉への忠誠: 秀吉の小姓として仕え、その才能を認められて重用されました。賤ヶ岳の戦い、小田原征伐など数々の戦役で武功を挙げ、秀吉からの信頼が厚かった人物です。

文武両道: 武勇だけでなく、文才にも優れ、和歌や連歌を嗜みました。また、仏教にも深く信仰しており、白頭という号もその表れです。

義侠心: 家臣や部下を大切にし、義理堅い人物として知られていました。
悲劇の武将: 関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、自刃。その最期は多くの人の心を打ち、後世まで語り継がれています。

主な活躍
秀吉の小姓: 秀吉の小姓として仕え、その才能を認められて重用される。
賤ヶ岳の戦い: 秀吉に従い、柴田勝家との戦いで武功を上げる。
小田原征伐: 北条氏政との戦いで活躍。
関ヶ原の戦い: 西軍の主力として戦い、奮戦するも敗死。
関ヶ原の戦いにおける役割
関ヶ原の戦いでは、石田三成とともに西軍を率いました。家康軍の圧倒的な兵力に苦しみながらも、最後まで戦い抜きました。しかし、戦況は次第に西軍不利となり、自刃して生涯を閉じました。

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