丸の内ガラーヂ
初版 2019/10/06 20:45
「丸の内水嶼式自動車庫の外觀」@『アサヒグラフ』第十三卷第四號(昭和04年 東京朝日新聞發行所 刊)
「水嶼式自動車庫」の記事
https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/82
は、図版研が以前何冊かまとめて収蔵した昭和初期の『アサヒグラフ』誌のひとつに載っているのを、最近その補修作業をしている最中に気づいて、忘れちゃわないうちに、と思って取り上げてみた。
こういうニッチな記事、特にその図版はどこにもインデックスすらされておらず、いざ捜そうと思っても到底捜し出せるものではない。だからこそ、こうしてたまたま見つかったヤツを、インターネット上でどなたにもアクセスいただけるように公開しておくことは、大いに意義のあることと考えている。
このパーキングビル自体は、残念ながらとうの昔に惜し気もなく取り壊されて跡形もない(その後同地に立てられた銀行の建物すら既に建て替わっている)のだが、これを運営していた会社は今日まで存続している。同じ丸の内で今も「新東京ビル駐車場」を経営されている、その名も「丸ノ内ガラーヂ株式会社」だ。
同社サイトの「運営会社」のところに「丸ノ内ガラーヂについて」として、その沿革がざっと綴られている。
http://www.chushajo.co.jp/mgc.html
添えられている写真は写り込んでいる自動車の姿からして、創業よりもかなり後年のものだろう(車のブランド名とかには興味がないので、その辺はさっぱりわからない)。
実はこの記事、一般社団法人全日本駐車協会という業界団体の会報『Parking』に当時の同社社長氏が執筆された「駐車場整備の変遷」という連載記事の最初のところを要約したものらしい。これは後に同協会の創立60周年記念誌として一冊に纏められたらしい
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I028405999-00
のだが、限定非売品だったため所蔵館に出向かない限りアクセスは容易ではない。幸い、海外の画像共有サイトに(今のところ)それが公開されているのでこれを読んでみると、第1回冒頭に「実用新案第109323号の画期的駐車場」という標題で、ご開業までの詳しい経緯が書かれている。
ただ、元社長氏も特許庁までお出向きになってお調べにはなっていないようで、実用新案公告までは掲載しておられない。そこで、独立行政法人工業所有権情報・研修館が公開しておられる「J-PlatPat 特許情報プラットホーム」サイト
https://www.j-platpat.inpit.go.jp/
で該当する文書を探してみた。
同サイトは相当数の文書が公開されていてすこぶる重宝するものの、古いものについては特許や実用新案などの名称とかが登録されておらず、慣れないと見つけるまでにものすごぉく苦労するので、この記事をご覧になる方の便宜のために画像書き出ししたものを貼っておくことにしよう。
添付図面で明らかなように、建物の左右を半階分ずらしてその段差をゆるやかな斜面で接続し、運転者が自ら上階まで上げ下ろしできるようにした、というところが画期的だった。
それはさておき、先の連載記事で初代社長の水嶼峻一郎〈みずしましゅんいちろう〉氏が「大正15年9月、「水嶼式自動車庫」を設計し、実用新案第109323号を申請、昭和2年7月11日付で特許されました」とあったが、公告文書には「願書番號大正十五年一九八八五號」となっていて、なぜか番号が一致しない。公告番号の方は「昭和二年實用新案公告第七六七九號」だからなおさら遠い。参照されたという佐々木烈〈ささきいさお〉氏の『日本自動車史Ⅱ 日本の自動車関連産業の誕生とその展開」
http://www.mikipress.com/books/2005/05/post-36.html
は未見だが、この数字がいったいどこから繰り出てきたのだろうか。
あと、社名が連載記事の図版で新聞広告が「丸の内ガラーヂ」、警視庁の営業許可書が「丸ノ内ガラーヂ」、営業案内パンフレットでは「丸之内ガラーヂ」とまちまちなのは、多分競合業者が全くいなかったが故のユルさではないかと思う。いかにも復興建築らしい頑丈な建物で焼夷弾が直撃してもびくともせず、周囲の路上駐車がことごとく炎上しても庫内に預けられていた車は無傷だった、というのが評判を呼んで、「 “まるでガラガラ” の丸ノ内ガラーヂだから “丸ガラ” だと茶化され」、水嶼氏が一年半あまりで親会社の大倉財閥からクビを申し渡されるほど開業以来契約者確保に苦労しておられたのがようやく解消した、というくらいだったのだから、社名に冠した地名の表記など厳密を要しなかったのだろう。
さて、実際に拵えられた建物の姿は、建築學會『東京横濱復興建築圖集 1923-1930』(昭和06年 丸善)に載っている。図版研が一方的に敬愛する「探検コム」
https://tanken.com/
の「作者」氏が「復興建築の世界 関東大震災後の美しい建物たち」サイト
https://tanken.com/tatemono/index.html
で公開しておられるので、そちらをご覧いただこう。
https://tanken.com/tatemono/code-93/index.html
また落成当時の出版物として、工事畫報社『建築土木工事畫報』誌第五卷第十二號(昭和04年 工事畫報社)にも特集されているのだが、こちらは「土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス」
http://www.jsce.or.jp/library/archives/
の「戦前図書・雑誌コレクション」に収録されている。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/05_12.html
口絵として載せられている、建物外観。面している車道が思いの外閑散としている。
そして特集記事本文。口絵とは反対側から写したらしい写真が目をひく。
佐々木氏がご覧になったのは、この記事中の「實用新案109323號水嶼式と稱するもので」だったことがわかった。しかし、これの根拠は相変わらず不明。
これと『アサヒグラフ』の記事、「駐車場整備の変遷」記事とあわせて読むと、さらに面白くなる。
例えばこの二人がかりで洗車している人たち、
『アサヒグラフ』記事ではこの車の「運轉手君」ということになっているが、
『建築土木工事畫報』では「入庫前此處で奇麗に洗はれる。」とあって、あれ、それって運転手自身が洗うんじゃないんじゃないの? と思わされる。それにしても、駐車しおえるまでにだいぶ時間がかかりそうなシステム……利用者が少なかったからこそ成り立ったのだろう。
『Parking』誌の記事でははっきり「最も極めつけのサービスは、「無制限無料泉社サービスでした。契約者には1台何回でも、ご用命があれば洗車してあげるのです。」とあって、これは車庫側のスタッフがやっていることだとわかる。つまり、新聞記者君がそこまで確認せずに記事にしたんだな、ということのようだ。あらま。
因みに車室料金、『アサヒグラフ』誌記事に「一ヶ月の室料三十圓から三十五六圓内外です」とあるが、当時の大卒初任給が70円あまりだったらしい。
車室や斜路の広さ、擦れ違いの具合なども、『アサヒグラフ』と見較べるとよくわかる。
斜面の中央には浅い溝が切ってあって、そこへ向かって左右の通路がやや傾斜しているようにみえる。おそらく雨の日などには、ここを伝って水が流れくだっていったのだろうと思われる。
天井は現在の屋内駐車場と違って、車体の大きさに較べずいぶん低いようだ。駐車スペースも結構ぎりぎりの感じがする。
この写真の手前の車、よくみると運転手が乗っていない……恐らくは朝日新聞社の社有車で、取材記者氏がこれで最上階まで昇ってみたのだろう。
最上階にあったのではないかと思われる、運転手用食堂とかも取材してくれたらもっとよかったのに。
たしかに2階以上はみな同じ造りのようではあるが、
新聞広告に出てくる「運轉手休憩室、食堂設備あり」というところを図面でも写真でも全く確認できないのが、ちょっと残念。
……てな具合に、ちょっとした記事でも細かいところを視たり資料をあれこれ調べ始めたりするとキリがなくなるのだが、そこがレトロ図版蒐集のたのしいところでもあり、オソロシいところでもある。
#コレクションログ
#比較
#参考
図版研レトロ図版博物館
「科学と技術×デザイン×日本語」をメインテーマとして蒐集された明治・大正・昭和初期の図版資料や、「当時の日本におけるモノの名前」に関する文献資料などをシェアリングするための物好きな物好きによる物好きのための私設図書館。
東京・阿佐ヶ谷「ねこの隠れ処〈かくれが〉」 のCOVID-19パンデミックによる長期休業を期に開設を企画、その二階一面に山と平積みしてあった架蔵書を一旦全部貸し倉庫に預け、建物補強+書架設置工事に踏み切ったものの、いざ途中まで配架してみたら既に大幅キャパオーバーであることが判明、段ボール箱が積み上がる「日本一片付いていない図書館」として2021年4月見切り発車開館。
https://note.com/pict_inst_jp/
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