-
月報 日本グラモフォン 1960〜1963年
1960年1月号には、前年来日したソプラノのリタ・シュトライヒ来日記念アルバムが掲載されています。今の私達の心情としては「写真をもっと大きく載せてくれれば良かったのに」などと思ってしまいます。僅かながらテレビ出演の映像も残されています。 1961年6月号には西田佐知子さんの初LP(25cm盤)が紹介されています。 1961年8月号にはムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのチャイコフスキーが載っていますが、西欧メジャー・レーベルのステレオ録音で聞くこのオケは、想像以上に合奏能力が高く、又馬力もあることを感じさせました。 デビュー前のビートルズがバックを務めた「マイ・ボニー・ツイスト」は1962年5月号に掲載されています。ツイスト・ブームの波に乗って発売したのでしょうが、ヴィッキー・スペンサーとは違って臨発ではなく、普通に5月新譜となっています。当時のグラモフォンの定期新譜発売日は20日ですので、九分九厘1962年4月20日発売です。 1962年のホープとして園まりさんがデビューしましたが、デビュー曲は「鍛冶屋のルンバ」でした。この後も洋楽カバー系が続きますので、この方も歌謡曲・演歌とは違った路線で育てようとしていたのでしょうね。 1962年9月号で「フルトヴェングラーの遺産」が紹介されていますが、この中に戦後復帰した時の「運命(1947年録音)」などライヴ音源が含まれていました。その後、巨匠のライヴ音源は続々と発掘されて行きます。 1963年3月号では、所謂「メ直盤」(メーカー直輸入盤)が掲載されています。第1弾はリヒテルとカラヤンの組合せによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ですが、これが国内でのメ直盤の第1号になります。メーカー・コメントによると「早く皆様のお手元にお届け致したい」ということが動機になっているようです。発売すればベスト・セラーになることは間違いないレコードですから、実際そうだったのだろうと思います。グラモフォンはこの後も直輸入盤に積極的で、数多くのレコードが発売されています。それらの中には、「採算面から国内盤製作は困難」なレコードのリスク・ヘッジという意味合いもあったように思います。 いずれにせよ、この「メ直盤」はメーカーによって対応が異なっていて、グラモフォンのようなメーカーもあれば、コロムビアのように全くやらないところもありました。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本グラモフォン 1960〜1963年chirolin_band
-
月報 キング 1960〜1963年
1960年に入り、4月号から新レーベル「ヴァンガード」が登場します。 1961年7月号には、邦人ピアニストの田中希代子さんの国内ステレオ盤が紹介されています。この方は1950年代に国際コンクールに入賞し、その後主に海外で活動された方ですが、難病(膠原病)のためキャリアの半ばで引退を余儀なくされてしまいました。大変貴重なレコードです。 1962年2月からウェストミンスター・レーベルが加わります。 指揮者イシュトヴァン・ケルテスのデビュー・レコード(ドヴォルザークの「新世界より」)は、1962年5月号に掲載されています。この時代は、レーベルによる音質の違いが大きく、英デッカの録音は優秀で、高弦がクリアに抜け切っていく様が「ロンドン・ハイ」などと言われていました。ケルテスのレコードも、指揮者の能力はもちろんですが、ウィーン・フィルという最高級のオケを使い、録音が英デッカということで、大変聴き映えのする出来になっていました。 1962年2月10日にザ・ピーナッツの「ふりむかないで」が、翌1963年3月20日には臨発として「恋のバカンス」が発売されています。この辺りが純国産ポップスの草分け的な楽曲になると思います。当時、歌謡曲・演歌系から外れた領域をレパートリーとする場合、どうしても洋楽のカバーが中心となり、独自性を打ち出すのが難しい時代でした。その中でピーナッツの場合は、ご本人たちの歌唱力やセンスはもちろんですが、岩谷時子&宮川泰というコンビによって強力なオリジナル曲が提供されていたこと、これが大変重要な武器になってキャリアを築いて行けたのだと思います。63年11月の「東京たそがれ」は、後に「ウナ・セラ・ディ東京」となる曲です。 1963年7月号では「セブン・シーズ」が新レーベルとして紹介されていますが、それまでキング・インターナショナルとして発売されていた様々なレーベルの窓口を一本化するものでした。これに先立って1963年2月には「ロンドン」以外のレーベル別の規格番号体系を整理し、「HIT」シリーズが登場していました。 クナッパーツブッシュ/ウィーン・フィルによるワーグナー、私が聴いたのはもっと後の時代の再発盤でしたが、正にワーグナー開眼となったレコード。ここに収められている楽劇「ワルキューレ」の大詰めの音楽が正に衝撃的な演奏でした。 #アナログレコード #レコードリスト
音楽 キング・レコード 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 テイチク 1960〜1963年
1960年に入り、かまやつひろし(当時はかまやつヒロシ)さんがレコード・デビューしています。その後「カラーに口紅」といった曲もカバーしていますが、後から振り返って誇らしいレパートリーではなかったと思います。 ブレンダ・リーの日本でのデビュー盤は「スイート・ナッシンズ」で1960年6月10日発売です。 1961年2月10日臨発として、カラオケの定番デュエット曲になる「銀座の恋の物語」が登場しています。(曲名は誤植!?)映画「街から街へのつむじ風」主題歌となっているので、映画の方の「銀恋」はその後に製作されたことが判ります。 田代みどりさんのヒット曲「パイナップル・プリンセス」は1961年2月10日臨発ですが、編曲はスマイリー小原(踊る指揮者)さんです。ただし、田代さんのデビュー曲はブレンダ・リー「スイート・ナッシンズ」のカバーでした。 クラシックではストコフスキー指揮のブラームス/セレナーデ第1番が発売されています。ジャケットは大芝居が聴かれるのかと思わせますが、全くそんなことはなく、しっとりした良い演奏です。オーケストラのシンフォニー・オブ・ジ・エアーはトスカニーニ亡き後のNBC交響楽団のことです。 1963年6月25日臨発として「東京五輪音頭」が発売されています。各社競作のなか、この三波春夫盤がダントツにヒットしたわけですが、発売当時はB面曲であり、月報上の扱いを見ても、むしろ同時に発売された「佐渡の恋唄」の方が一押しだったようです。 1963年9月10日臨発として、山内賢さんがレコード・デビューしています。和泉雅子さんとの「二人の銀座」は、その後東芝に行ってからのヒット曲です。それにしても、この時代のプロフィールには、個人情報保護とかそういう配慮は全くなかったんですね。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 テイチク株式会社 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 新世界レコード 1960〜1963年
この時代の新世界レコードは、日本ビタクーが出資すると同時に販売業務を引き受けていました。 1960年3月新譜としてリヒテルの弾くチャイコフスキーのピアノ協奏曲が出ています。アンチェル/チェコ・フィルとの組合せで、その後何度も再発されています。カラヤンとの共演盤(グラモフォン)が出るのはずっと後(1965年11月)になります。 1961年1月新譜からポーランドの「ムザ」レーベルが登場し、第1回新譜としてピアニストのチェルニー・ステファンスカが紹介されています。このステファンスカの弾いたショパンのピアノ協奏曲第1番のレコードが、間違ってディヌ・リパッティの演奏として発売されていたことがありました。それもマイナー・レーベルでなく、天下のEMIが販売していたことから、結構な騒ぎになりました。 ステレオ盤の発売は1961年7月新譜のスプラフォン・レーベルが最初、ソ連原盤は1962年11月新譜からと大幅に出遅れます。 そんな中で、1962年4月新譜として、スーク・トリオによる「大公」トリオ,マタチッチ/チェコ・フィルによるチャイコフスキーの第5交響曲がステレオで発売されています。この辺りは大変良いレパートリーだったと思います。特にマタチッチはレコードの少ない方だったので、貴重です。 1963年4月新譜にはベートーヴェンの三大ピアノ・ソナタが出ています。ありがちな企画ですが、面白いのは三曲とも演奏者が異なっている点です。ユニークな企画と言うよりも、限られた持ち駒の中から何とか売れ線のレコードを作った、ということのようです。これ以外にもカップリング替えの再発売が多く、新譜編成の苦労が伝わって来ます。 新世界レコードとしての月報がいつまで続いたのかはっきりしませんが、1963年末にはビクター(ワールド・グループ)の月報に組み込まれています。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 新世界レコード 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 日本ビクター(フィリップス系)1960〜1963年
1960年10月新譜を第1弾とし、日本ビクターからのフィリップス・レーベルが発売開始されます。オランダ・フィリップス系の音源は、日蓄工業から発売されていましたが、それはアメリカ・コロムビア経由だったため、レーベルは「エピック」となっていました。国内でフィリップス・レーベルが登場するのはこれが初めてでした。併せて姉妹レーベルのフォンタナも紹介され、月報は別立てとなっていました。 主要オーケストラであるコンセルトヘボウ管弦楽団は、長らくこのオーケストラを育て上げたメンゲルベルクは既に亡く、その後を継いだベイヌムも病気で急逝した直後にあたります。やがて若いハイティンクが常任指揮者に任命されますが(オランダ人に限るという純潔主義による)如何せん頼りなく、補佐役のヨッフムによって支えられていたところが大きかったと思います。 ベスト・セラーとなったイ・ムジチ合奏団の「四季」のステレオ盤が1961年9月新譜として出ています。 1962年に入ると、メンゲルベルクのマタイ受難曲(1939年のライヴ録音)が復刻されています。時代からしてSP盤がリソースだろうと思っていましたが、そうではなく、フィリップス独自のフィルムをベースとした素材にカッティングされているそうです。そのハンドリングが困難なためか、オリジナル・リソースに遡って復刻されたのはこの時が最初で最後、その後の盤は復刻されたテープか初版オリジナルLPの板起こしなのだそうです。 ポピュラー系ではジョニー・アリディ(当時の表記はジョニー・ハリデイ)がこのレーベルで紹介されました。 大ヒットした「ヘイ・ポーラ」(ポールとポーラ)は1963年5月号に掲載されています。 ジャズ系では、リバーサイドがフォンタナ系に加わります。 珍しいところでは「オール・スター・フェスティバル」と題した「国連レコード」なるものが発売されています。世界の難民救済を目的とし、主旨にに賛同したアーティストがレーベル枠を超えて一堂に会すという、チャリティ盤のはしりですね。利益は国連を通じて避難民救済に充てられるということで、定価も低く抑えられています。その後、クラシック版も制作されます。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本ビクター 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 日本ビクター(ワールド・グループ)1960〜1963年
1960年に入り、3月新譜で新レーベル「トップ・ランク」が紹介されています。エヴェレストやプレステッジ等を含む幅広いレーベルでした。60年11月新譜(10月5日発売)としてベンチャーズ(当時の表記はベンチュアース)の「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」が発売されています。これがベンチャーズの国内デビュー盤になります。 ワールド・グループでは、クリフォード・ブラウン,マイルス・デヴィス,ソニー・ロリンズ,ジョン・コルトレーンなどによるジャズ・レコードも重要なレパートリーとなっていました。 1961年11月新譜から、シングル盤の JET-1000シリーズ が登場します。従来のレーベル別企画体系(DOT,ATL,RANK,PFJ など)を整理する統一型の新シリーズですが、この後長く続いて行くことになります。 ポップス系でも、ベビイ・イッツ・ユー/シャイアルス(シュレルズ),スタンド・バイ・ミー/ベン・E・キングといった重要盤が発売されています。ビートルズが「アンナ」をカバーしたことで知られるアーサー・アレキサンダーのレコードも発売されていました。 1962年7月号ではリプリーズ・レーベルが登場し、第1回新譜としてナンシー・シナトラのデビュー曲「カフス・ボタンとネクタイピン」も紹介されています。リプリーズはフランク・シナトラの作った会社で、シナトラ・ファミリーのためのレーベルでした。 1963年7月新譜としてロケット・マン/スポットニックスが紹介されていますが、後に「霧のカレリア」を大ヒットさせるスプートニクスの国内初レコードです。1965年頃の電リク(電話リクエスト)ラジオ番組でも、「スポットニックス」と発音していたDJがいたことを記憶しています。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本ビクター 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 日本ビクター 1960〜1963年
1960年代に入り、ビクター・レーベルとしては考えられない「カラヤン指揮ウィーン・フィル」という組合せが実現しています。この背景にあるのが、アメリカRCAとEMI(HMV)の提携解消です(これは1950年代のキングのページでも書きました)。米RCAの新たなイギリスでの販売窓口となったのが英DECCAであり、その提携の一環として、盤上での双方のアーティスト交流が行われました。カラヤン/ウィーン・フィルのレコードもこの時の成果物のひとつで、録音はDECCA側が行ったようです。これらは1970年代にはDECCAに移され(と言うか戻され)、日本でもロンドン・レーベルとして再発売されています。 1960年12月新譜としてヘンデルのオラトリオ「メサイア」全曲盤(ビーチャム指揮)が出ていますが、これは極めて特徴あるレコードです。今の時代は原典版志向・ピリオド楽器志向が全盛ですが、これはその真逆の演奏です。いくつかある編曲の中でも最大編成のグーセンス版を現代オーケストラで演奏したもので、このレコードの「ハレルヤ・コーラス」を初めて聴いた時は、度肝を抜かれました。冒頭からシンバルが炸裂し、トランペットの合いの手が響き渡るという凄まじいものだったからです。 1963年11月号では「ダイナグルーブ」が紹介されています。いくつかセールス・ポイントが挙げられていますが、「再生系で生じる内周部の音の歪みに対し、予めその打ち消し信号をカッティング段階で組み込んでおく」というものがあります。後の東芝の「PTSクリアーサウンド」でも同様のことが謳われていました。但し、こういったことは想定通りの結果を生むかどうかは微妙なものがあります。一口に「再生系」と言っても、針先の形状(丸針,楕円針)やコンプライアンス(音溝トレース能力)の違いをはじめ、ユーザー毎の環境は様々だからです。 邦楽では橋幸夫さんのデビュー盤が1960年7月5日臨発として発売されています。加山雄三さんの初レコード(東芝の前になります)も、同年10月30日臨発として登場します。 作曲家吉田正さんの大傑作「いつでも夢を」は1962年9月20日臨発です。 洋楽では、プレスリー初めてのステレオLPが1960年11月新譜で出ました。タイトルの「エルヴィスが帰って来た」は、兵役が終わって戻ってきたという意味です。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本ビクター 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 日蓄工業(コロムビア) 1960〜1962年
1960年の時点で、日蓄工業は発売元メーカーとしての存在になっており、販売は日本コロムビアに委託していました。よって月報もコロムビアの月報の中に「エピック・レコードのページ」として掲載されています。 1960年に入り、日蓄工業には大きな事件が起こります。看板レーベルが「エピック」、主要なリソースはオランダ・フィリップス原盤で、それを米コロムビア経由で発売していたことは1950年代の項に書いた通りなのですが、そのオランダ・フィリップスが日本ビクターと直接契約を結んだのです。そして1960年10月新譜から、本家と同じ「フィリップス」レーベルとして日本ビクターが販売を開始します。日蓄工業の「エピック」は、レーベルとしては継続しますが、その中身はフィリップス系がごっそりと消えてしまい、米コロムビアが追加で入れていたリソースのみとなってしまいます。テコ入れが急務と云うことで新たに契約したのがアメリカのワーナー・ブラザースで、第1回新譜が1960年8月20日に発売されています。 これで一息付けると思いきや、今度はそのワーナー・ブラザースが東芝に引っ越すことになり、日蓄からの新譜発売は1962年3月10日が最終となってしまいます。 おそらくこの辺りで見切りをつけたのだと思いますが、日蓄工業は1962年6月には業務内容を変更し、レコード業界を離脱して行きます。日本レコード協会の資料にも「1962年6月27日に同協会を退会した」との記録が残っています。この辺り、コロムビアという親会社があったからこそ出来た芸当で、独立資本の会社だったらこうはいきませんね。 その後の日蓄工業のことは全く判りませんが、エピック・レーベルの資産はそのまま日本コロムビアに継承されました。 今になってカタログを眺めていると、「こんなレコードが当時発売されていたのか」という盤もあります。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日蓄工業株式会社 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 日本コロムビア 1960〜1963年
1960年に入ると、ヴァーヴ・レコードが登場します(第1回発売は1960年9月20日)。ノーマン・グランツによるジャズに特色あるレーベルです。 この時代、コロムビアは特別企画の組物で、品番のないレコードを少なからず発売しています。画像にあるベートーヴェン交響曲全集(ワルター指揮)もそのひとつなのですが、現代の感覚だと、アイテムを特定する品番なしでは管理が出来ないと思いますが、一般企業ではコンピュータのない時代なんですね。 ステレオ盤が普及していった時期ということで、各社(各レーベル)がそれぞれ自慢の録音方式を誇示していましたが、中でもCBS系の「360 SOUND」は良く知られていました。そのCBS系(米コロムピア)ですが、レーベル表記が従来の「Columbia」から「CBS」に変わったのが1962年9月からです。 1962年6月1日より、ユナイテッド・アーチスト・レコードが登場します。これは、ビクターからの引越です。更に1962年12月よりタイム・レコード、1963年7月よりアマデオ原盤が登場します。こういう新規登場の場合はそれなりに告知や宣伝もされるのですが、消えて行く場合はひっそりと幕を下ろします。英コロムビア原盤が1962年12月発売分をもって、日本コロムビアの月報から姿を消しています(東芝音工に移行)。この頃の英コロムビア原盤は、月報やジャケットにも「EMI」と表記されていました。 取扱レーベルが増えるにつれて、色々と変化も起こります。1962年11月号からは、従来のレーベル別編集(エピックのページ,ヴァーヴのページ等)が廃止され、大きなジャンルの括りの中で各レーベルが混在するようになります。品番体系も、従来のレーベル毎の勝手なルールを改め、洋楽シングル盤で言うと以下のような感じになります。 LL-1 CBS LL-1000 ユナイテッド・アーティスト LL-2000 MGM LL-3000 コロムビア・インターナショナル LL-4000 ディズニーランド LL-5000 MGM LL-6000 エピック LL-7000 パイ LL-8000 ヴァーヴ LL-9000 タイム 但し、この体系もそう長くは続きませんでした。(続きは1964年以降の項で) 邦楽では 1962年6月5日臨発で北島三郎さんのデビュー曲「ブンガチャ節」が発売されています。同じタイミングで畠山みどりさんのデビュー曲「恋は神代の昔から」も発売されています。金井克子さんのデビュー曲「ハップスバーグ・セレナーデ」は同年9月5日臨発です また、1963年9月には日本クラウン(株)が発足し、同年12月1日に第1回新譜を発売しています。クラウンはもともとコロムビアにいた伊藤正憲が中心となって作られた会社で、その設立に際してコロムビア所属の歌手の移動も起こっています(北島三郎さん、小林旭さん等々)。クラウンの第1号レコード(CW-1)は美空ひばりさんの「関東春雨傘」です。もっともひばりさんの場合は移籍ではなく、単発的な「御祝儀」のようなものだったのでしょう。 私は伊藤正憲さんと知己はありませんでしたが、仕事の関係でこの方の葬儀には参列しました。その時に、クラウン・レコードの歌手を代表して北島三郎さんが弔辞を述べられたことを記憶しています。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本コロムビア 2000年〜2020年chirolin_band
-
月報 東芝(東芝音楽工業) 1960〜1963年
60年代に入ると、発売レーベルがどんどん増えて行きます。 1960年02月新譜(1962.01.20 発売)より キャップ・レコード ブライアン・ハイランド、アーサー・キット、ロジャー・ウィリアムス等 後にビートルズの仕掛人となる高嶋弘之さんが、入社直後に担当したレーベルです。 1962年05月新譜(1962.04.15 発売)より リバティ・レコード ベンチャーズ、ボビー・ヴィー、ジュリー・ロンドン等 単発的にキング・レコードから発売されていましたが、レーベル全体としては初登場。 1962年09月新譜(1962.08.05 発売)より ワーナー・ブラザース(日蓄工業より移行) エヴァリー・ブラザース、ジョニー・ソマーズ、カスケーズ、ピーター・ポール&マリー等 1962年10月新譜(1962.09.05 発売)より ステーツサイド・レコード フレディー・キャノン、シフォンズ、ディオン等 1963年02新譜より イギリス・コロムビア原盤(日本コロムビアより移行) クラシックではオットー・クレンペラー、カラヤン、マリア・カラス,ジュリーニなど。 (エンジェル・レーベル) ポピュラーではクリフ・リチャード、シャドウズ、ヘレン・シャピロ、アルマ・コーガン等 この時オデオン・レーベルが登場しました。 レーベルが増えると同時にレコード番号の規格(KP,LIB,7B,Y,CM 等)も増えました。この辺りが64年からのシリーズ統一化の要因になっていると思います。 邦楽系では、坂本九(初レコードはビクター)、森山加代子、スリー・ファンキーズ、弘田三枝子など、従来の歌謡曲とは違ったタイプのアーティストが台頭します。 会社としては、東芝芝浦電気から独立し、東芝音楽工業が設立されます。 (1960年10月1日創立、同年12月より営業開始) また、月報に関しては 1961年3月号をもって一旦発行が中止されました。再開されるのは1961年10月号からで、その間はタブロイド判の新聞(東芝レコード・マンスリー)が発行されました。 最後に赤盤ヒストリーです。 アイテム限定からスタートした赤盤は、ステレオ盤の全て〜30cmLPの全てと対象を拡大し(ここから通常価格に組み込まれます)、1961年12月新譜以降は25cm盤も含めたLP全般に適用されます。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 東芝音楽工業 2000年〜2020年chirolin_band