黄銅鉱 (chalcopyrite) 足尾銅山 連慶峙河鹿 #0556

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黄銅鉱の表面は黒変していますが、破面から新鮮な黄金色が現れています。共生している透明感のある水晶も様々なサイズがあって楽しめます。「河鹿」は通常の鉱脈とは別の、塊状、レンズ状あるいは筒状などの形態の富鉱体を指します。1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。

足尾銅山は1550年(天文19年)の発見と伝えられ、1610年(慶長15年)以降、江戸幕府直轄の鉱山として銅山奉行の代官所が設置され、本格的に採掘が開始されました。採掘された銅は日光東照宮や上野寛永寺・芝増上寺の部材などに使われたほか、長崎からオランダなどへも輸出されました。江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、1684年(貞享元年)の生産量は1,500トンに達しましたが、その後寛保~延享期(1741-1748年)には産銅量が減少、このため足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された「足字銭」が鋳造されるなどしましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態になっていました。1871年(明治4年)に民営化され、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)の鷹之巣直利、1884年(明治17年)に横間歩大直利など、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。1905年(明治38年)以降は古河鉱業の経営となり、明治政府の富国強兵政策を背景に急速に発展、20世紀初頭には、日本の銅産出量の約40%を生産する大銅山に成長し、1916年(大正5年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も38,428人に達しました。
しかし銅山と金属製錬事業の発展の一方、足尾山地の樹木は坑木・燃料用に伐採され、製錬所が排出する煙が深刻な大気汚染を引き起こしました。また、荒廃した山地を水源とする渡良瀬川では洪水が頻発し、製錬廃棄物が流域の平地に流れ込んで水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件と呼ばれる広範囲な環境汚染(公害)問題を引き起こしました。
1940~1945年(昭和15~20年)の戦時下に政府による非常時増産運動により足尾銅山も増産を余儀なくされましたが結果的に無計画な乱掘を招き、戦後の産銅量は徐々に増加したものの、最盛期の産銅量には遠く及ばず、最終的に優良鉱脈を掘り尽くして急速に生産が減少、1973年(昭和48年)に採鉱を停止し、閉山しました。製錬部門については閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、1988年(昭和63年)に事実上廃止されました。

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