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1977 (37TH) EBRRO (HEROS RACING) KOJIMA KE009 K.HOSHINO
星野一義 2度目のF1参戦 1977年日本GP KOJIMA KE009 1977年コジマエンジニアリングは 前年注目を集めたKE007後継KE009を開発 同年の最終戦日本GPに登場させた 当初はダンロップタイヤでの出走予定で あったが日本グランプリのテレビ放映権を ブリヂストンが所持していたため 初参戦となるブリヂストンタイヤを装着 ドライバーはブリヂストンタイヤ系の 星野一義をHEROS RACINGとコラボで起用 予選は前年度コジマでの(長谷見)10位には 及ばなかったものの参戦した日本人3人の (高橋国光 高原敬武)中ではトップの11位 決勝はブリヂストンタイヤとの マッチングにも苦しみ2周遅れの11位 星野とコジマのF1挑戦はこの年で終了した モデルはEBRRO 星野一義の2度目 F1挑戦となった R17日本GP仕様 予選11位→決勝11位 白いボディーにコックピット前に日の丸 スポンサーのUNI-PEXは1974年設立の 電気通信機器の販売会社
240317 K.HOSHINO 1977 52FW12C
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1976 (33TH) SPARK COPERSUCAR FD03 I.HOFFMANN
コパーシュカー セカンド・ドライバ― インゴ・ホフマン COPERSUCAR FD03 1976年参戦2年目のコパーシュカーは エマーソン・フィッテパルディがエース 数戦限りセカンド・ドライバ―として 同郷ブラジルのインゴ・ホフマンを起用 下位カテゴリーでは1975年に イギリスF3で1勝を上げランキング6位 開幕戦のブラジルGPは予選20位 決勝はトップから1周遅れの11位完走 その後ヨーロッパで3戦のみ エントリーもいずれも予選落ち F1では翌1977年も同チームで2戦のみ出場 ホフマンはシルエットカーで争われる ストックカー・ブラジル選手権において チャンピオン12回と圧倒的な記録を持ち 通算76勝ももちろん最多勝利数保持者 モデルはスパーク ホフマンがこの年唯一の決勝進出となった 開幕戦ブラジルGP仕様 予選20位→決勝11位 R3までの使用可能であった高い位置の インダクションポットの仕様モデル 台座はCOPERSUCAR FD02となっているが 恐らくCOPERSUCAR FD03の間違い
231030 I.HOFFMANN 1976 31FW12C
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1989 (30TH) SPARK LEYTON HOUSE MARCH 881 I.CAPELLI
名車 LEYTON HOUSE MARCH 881 ラストレース イヴァン・カペリ 1989年マーチは新車CG891投入まで 開幕~R2まで前年のマーチ881を使用 開幕戦ブラジルGPカペリは予選7位 決勝は22/61周目にトラブルでリタイア チームメイトのマウリシオ・グージェルミンが 地元で自身唯一の3位表彰台を獲得 R2サンマリノGP予選16位 決勝は1周目に接触でリタイアしている エイドリアン・ニューウェイ 出世作ともいえるMARCH 881 前年1988年に予選最高3位 決勝では2位・3位を1回 そして何より日本GP鈴鹿での 16周目の一瞬のリーダーラップ 記憶と記録を残した名車であった モデルはSPARK 大阪のモデルガレージロム別注 ラストレースのR2サンマリノGP仕様 1989年のカラーリングで BPのグリーンがポイントとなっている 限定数300でほとんどの店で品切れ とあるお店で運よく1台だけあって購入 残念ながらインダクションポッド横の BPのデカールが斜めに曲がっていました… 修正したいのですが技量も無く… このまま雰囲気を感じるだけでも良いです https://muuseo.com/FW12C/items/168?theme_id=31437
230906 I.CAPELLI 1989 300FW12C
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1975 (31ST) SPARK WILLIAMS FW03 A.MERZARIO
イソ-マールボロから改名 ウイリアムズ・FW メルッザリオ WILLIAMS FW03 1975年前年までイソ-マールボロとして 参戦したマシンをウイリアムズ・FWに改名 厳密には現在のウイリアムズチームとは 異なるものの初めてウイリアムズの 名を付けたマシンであった FWはフランク・ウイリアムズの略 ドライバ―は前年同様の アルトゥーロ・メルツァリオ チームメイトはジャック・ラフィー FW03は既に時代遅れのマシンと なりつつあり資金難で開発も進まなかった メルツァリオは予選最高は11位 決勝は全てリタイア R5モナコGPでは前GPのスペインで 観客を巻き込む大事故があった為 決勝は18位までと急遽決定され ウイリアムズは2台とも予選落ち メルッザリオはR6ベルギーGPをもって ウイリアムズを離れ終盤のR13イタリアGPは フィッテパルディのコパシュカーで 1戦のみスポット参戦で決勝11位完走 #1975年
230727 A.MERZARIO 1975 20FW12C
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1978 (31ST) SPARK (SACHS RACING) ENSING N177 H.ERTL
1グランプリに2チームからエントリー ハラルド・アートル ENSING N177 1978年ハラルド・アートルは プライベートチーム ザックレーシングで エンサインのマシンを使用し途中参戦 初戦のR11ドイツGP 予選23位→決勝11位 R12オーストリアGP 予選24位→決勝リタイア 決勝進出は2レースのみでこれが アートルのF1レース最後の決勝レースになった R14イタリアGPはエントリーが32台となり アートルはザックレーシングで 予備予選から出場も通過ならず 予選開催時にATSチームに空きシートがあり 予選はATSから出場 こちらも予選落ち 1グランプリに2チームからエントリー しかも予備予選落ちと予選落ちを 両方経験したドライバ―となった ハラルド・アートルはこの後 1980年にATSからスポット参戦も予選落ち 1982年に自家用飛行機の事故で 残念ながら他界 享年33歳 1976年ドイツGP 自らのレースは棄てて 同郷のニキ・ラウダ(フェラーリ)を 炎上するマシンから救出した4人の ドライバ―の1人として賞賛されている #F1-1978年
230314 H.ERTL 23 1/43FW12C
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1977 (36TH) IXO FERRARI 312 T2 G.VILLENEUVE
ジル・ビルヌーブ フェラーリでの デビューマシン FERRARI 312 T2 1977年マクラーレンでデビュー後 エンツォ・フェラーリの目に留まり 1978年のフェラーリでの契約を結ぶ ニキ・ラウダのフェラーリ離脱に伴い 1977年終盤急遽 カーナンバー21で R16カナダGPに出場 予選17位→決勝12位 最終戦R17日本GP 富士SWにも出場 予選20位スタートから5周目に R・ピータソン(ティレル)に追突 ビルヌーブのマシンは宙高く舞い上がり 観客を巻き込む事故を起こしてしまう 痛ましい事故でマシンは大破したが 奇跡的にビルヌーブは無傷であった #F1-1977年 #1977年 #F1 #FERRARI
220926 G.VILLENEUVE フェラーリF1コレクション 21FW12C
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1979 (26TH) SPARK ENSIGN N179 D.DALY
F1史上 唯一無二のデザイン 最も醜いとも言われる ENSIGN N179 1979年エンサインは序盤2戦を 前年型のマシンで戦い R3南アフリカGPよりエンサイン初の グランドエフェクトカーN179を導入 誰もが驚くデザインで 冷却機器をノーズに配置 上部にオイルクーラー 下部にラジエター 階段状の3枚刃を持つ独特な形状は 別名チーズグレーター(チーズおろし器) 結局 冷却機器が機能せず オーバーヒートで予選落ち コックピットに流れ込む熱気が ドライバ―のD・デイリーを苦しめた このデザインはR3南アフリカの予選のみで R4以降は通常のノーズに戻されたが N179でのデイリーは予選通過は1度のみ (前年度のN177での決勝11位が最高位) エンサインを離脱しその後ティレルに移籍 F1の雑誌等でユニークデザイン車では 必ずと言っても良いほど話題に上がる ENSIGN N179をSPARKがモデル化 予選のみのデザインながら F1史上最もインパクトを残した1台 #F1-1979年 #F1ユニークデザイン #F1 #1979年
D.DALY 22 1/43 ENSIGNFW12C
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1976 (34TH) KYOSHO KOJIMA KE007 M.HASEMI
日本人初 日本製マシンで決勝出走 長谷見昌弘 KOJIMA KE007 目標は入賞ではなく 海外勢を迎え撃って勝つこと KOJIMA KE007は日本初開催のF1レースに スポット参戦するため開発した国産マシン オーソドックスにまとめながら 高速コースに特化したトップスピード重視 富士SW走行を目的とした富士スペシャル エンジンはフォード・コスワース・DFV ヒューランド製5速ギアボックスの 1970年代の一般的組み合わせで 当時の価格で周辺機器あわせ約850万円 タイヤは初の参戦となる日本ダンロップ 金曜日の午前予選1回目 予選4位のタイム1分13秒88で周囲を驚かせる 金曜日の午後予選2回目 さらなるタイムUPを狙い他車の スリップストリームに入り1分12秒台確実と 思われたが最終コーナーで 左フロントサスの強度不足でクラッシュ スペアカーの無かったコジマは 48時間でほぼ新車を作り上げて 予選10位から決勝に挑んだが 決勝はトップから7週遅れの11位完走 長い間KOJIMA KE007が出したとされる 1分18秒23はファステストLと記録されたが 後にJ・ラフィー(リジェ) 1分19秒97に訂正された モデルはKYOSHOの KE(コジマエンジニアリング)の ロゴ入り台座等の特別パッケージ 決勝レインタイヤ仕様バージョン 日本のモータースポーツの人々が世界に挑み 夢を乗せた1台と言えるかも知れません #F1-1976年 #KOJIMAKE007 #1976年 #F1世界選手権イン・ジャパン #F1
M.HASEMI 1976 51 1/43FW12C
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1976 (29TH) SPARK WILLIAMS FW05 M.LECLERE
もう一人のルクレール フランス出身 ミッシェル・ルクレール WILLIAMS FW05 2018年~活躍中のシャルル・ルクレール その40年以上前に同じルクレールの ミッシェル・ルクレールが参戦しています ただし2人に血縁関係は無し ミッシェルは1975年ティレルで1戦のみ 1976年はウイリアムズよりR2より参戦 TMはジャッキー・イクス ウイリアムズは前年度のヘスケスの308Cを 買取りポスルズウェイトが改修してFW05とし カナダの石油王ウォーターウルフがスポンサーで ウォーターウルフレーシングとした ウイリアムズにはめずらしい Marlboroがスポンサー ミッシェル・ルクレールの 予選最高はR6モナコの18位 決勝最高位R4スペインの10位 予選落ちもあったが6戦中5戦を完走 ◆R16日本(富士SW)未出走◆ R8フランスGPを最後にチームを離脱 ミッシェル・ルクレールはこれがF1ラスト ウイリアムズチームの1976年は資金難もあり 合計9名ものドライバ―が在籍したが 残念ながら入賞は一人もなくシーズン終了 #1976 #F1-1976年 #ルクレール
M.LECLERE 1976 21 1/43FW12C
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1988 (30TH) SPARK WILLIAMS JUDD FW12 J.L.SCHLESSER
ジャンールイ・シュレッサー フランス出身 叔父のジョー・シュレッサーも 1968年ホンダでR6フランスGPに出場 残念ながらこのGPで事故死している 1983年RAMにて参戦時は予選不通過 1988年は病欠のN・マンセルの代役として R12イタリアGPに出場 予選はTM R・パトレーゼから 約2.1秒遅れの22位で通過 決勝はラスト2週 周回遅れで走行中に第1シケインで トップ走行のA・セナ(マクラーレン)に タイヤをロックさせて接触 セナはリタイヤ(10位完走扱い) シュレッサーは11位で完走 結果的ではあるがこれが マクラーレン・ホンダの16戦全勝を阻んだ シュレッサーは2001年ダカールラリーで 日本人で優勝目前の増岡浩に妨害 計測ミスもあり総合2位に 追いやったことでも話題に上がった 世界耐久選手権では ザウバー・メルセデスで 1989年.1990年と連覇している
J.L.SCHLESSER 5 1/43 BARCLAYFW12C
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1994 (33RD) SPARK LIGER RENAULT JS39B F.LAGORCE
1994年は46名のドライバ―がエントリー (A.モンテルミニのみ決勝未出走) 46名のドライバ―の出身国ランキング 3位 イギリス 7名 2位 イタリア 9名 1位 フランス 11名 11名のフランス人ドライバーで 最後にエントリーしたのが フランク・ラゴルス 1992年フランスF3チャンピオン 1994年国際F3000で2位 リジェのテストドライバーから J・ハーバートの移籍問題により R15日本GP 予選20位→決勝R R16オーストラリアGP(モデル仕様) 予選20位→決勝11位 の2戦のみの出場 1995年リジェ 1996年フォルティの テストドライバーもF1参戦はできず F1生涯出走回数は2回のみですが SPARKによりモデル化されました #1994
F.LAGORCE 25 1/43 GITANESFW12C
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1994 (34TH) PMA SIMTEK FORD S941 R.RATZENBERGER
ローランド・ラッツェンバーガー オーストリア出身 日本では全日本F3000や ツーリングカー選手権で活躍 F1新規チームシムテックとは 5戦の契約(序盤4戦+鈴鹿) 画像2枚目の初期版は流行の サイドディフレクターが装備 しかしローランドの搭乗時は 本来は未だ装着されておらず 画像1枚目ディフレクター無しの ニューバージョンで 再販された珍しパターン (ドライバ―フィギュアも変更) ローランド亡き後 S941は 彼を偲び【for ROLAND】と 入った彼のヘルメットの デザインされたインダクションポッド 上段になった(画像5枚目) 画像2枚目の初期版はMuuseoではおなじみの 【アダムスキー(当時はサイケデリア)】で購入 2009年6月20日 2500円 #1994 #ラッツェンバーガー #F1 #アダムスキー(サイケデリア)
R.RATZENBERGER 32 1/43 SIMTEKFW12C
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1993 (30TH) ONYX CASTROL LOTUS 107B P.LAMY
ペドロ・ラミーはポルトガル出身 1992年ドイツF3チャンピオン 1993年はロータスのテストドライバー ピンク色のヘルメットが特徴 R13イタリアGPよりザナルディの代役で 初出走 予選最下位→決勝11位 その後は接触・スピンなど 見せ場なく終了したが 次年度は開幕戦よりロータスの レギュラーシート獲得 古館語録では 音速のフランシスコ・ザビエル リスボン特急と表現されていました R15日本GPでは終盤に アクティブサスペンションの影響で 派手にクラッシュ(画像4枚目) 13位完走扱い #1993
P.LAMY 12 1/43 LOTUSFW12C
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1989 13TH ONYX LARROUSSE LOLA LC89 M.ALBORETO
ティレル離脱でラルース移籍 ミケーレ・アルボレート LOLA LC89 1989年資金難のティレルは フランスGPよりタバコブランドCAMELの スポンサーを獲得 これに伴い個人Marlboro契約ドライバーの ミケーレ・アルボレートはMarlboroとの 契約を破棄してチームに残るか チーム離脱するかを迫られた アルボレートはフェラーリ時代からの Marlboroに恩義がある為チーム離脱を決断 しかしラルースからの熱烈なオファーを受け 結局はMarlboro個人契約を破棄して CAMELスポンサーのラルースに加入 R9ドイツGPより予備予選からの参加となり 序盤は予備予選は通過も決勝レースは苦戦 5戦中完走はR13ポルトガルの11位のみ 終盤3戦は予備予選落ち2回 予選落ち1回 この間にチームメイトのP・アリオーが この年唯一のポイントを獲得した アルボレートは翌1990年は フットワークのスポンサーのアロウズに移籍 モデルはONYX CAMELのデカールが元々貼られているモデル ONYは LOLA LC89はアリオーと アルボレートの2人のラインナップ発売 パッケージにスポンサー各種が印刷
M.ALBORETO 1989 29 1/43FW12C
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1992 (30TH) PMA BRABHAM JUDD BT60 D.HILL
デーモン・ヒル デビューマシン #F1-1992年
D.HILL 8 1/43 BRABHAMFW12C