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オフコース『I LOVE YOU』
【2024年12月7日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 12月は1982年にDate fmが開局したメモリアルな月という事で、今月は“Fantastic 80's”と題して、開局当時80年代初期のJ-POPをお送りします。初回は仙台との縁も深いグループ、オフコースが1982年にリリースしたアルバム『I LOVE YOU』をお届けします。 オフコースのリーダー小田和正は、1947年9月20日横浜に生まれました。高校時代に友人たちと組んだ学園祭のフォーク・グループがそのルーツです。1967年、小田和正、鈴木康弘、地主道夫の3人でジ・オフコースを結成しました。 その後、東北大学に進学した小田と地主は、アマチュア時代にけじめをつけようと、1969年の第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場。東北大会を1位で通過し全国大会へ進出するも、「赤い鳥」についで2位となります。 これがかえって小田のハートに火をつけ、音楽の道へと進むきっかけになったそうです。1970年「群衆の中で」でデビューに至りましたが、全く売れずに低空飛行を続けます。72年からは小田・鈴木の二人体制となり、73年4枚目のシングル「僕の贈り物」で再デビューの形をとりましたが、状況は変わらず。 76年頃からドラム、ベースなどサポートメンバーを加えて、バンド・サウンドを目指します。79年、バック・メンバーだったドラムの大間仁世(ジロー)、ベースの清水仁、そしてギターの松尾一彦が正式加入して、オフコースは5人編成のバンドとなりました。 地道にライヴ活動を続け、ファンの心を掴んできた彼らに漸くスポットライトが当たります。苦節10年、1979年12月1日にリリースされた17枚目のシングル「さよなら」が大ブレイク、オフコースは、ニューミュージックを代表するアーティストとなりました。 1980年には全国15ヶ所計21ステージのツアーを行い、ソロとしては初の武道館公演も開催、この年リリースしたアルバム『We are』で、とうとうオリコン・チャートの首位を獲得します。その後も『over』、そして『I LOVE YOU』とオリジナル3作連続で1位となりました。 82年には日本武道館連続10日間公演を行いますが、翌年オリジナル・メンバーの鈴木康博が脱退。その後しばらく活動を休止しますが、84年にはファンハウスに移籍して4人体制でのシングル「君が、嘘を、ついた」をリリース、85年からはツアーも再開します。 その後もイヴェントへの出演、メディアへの露出など活発に活動を続けますが、ファンクラブへの発表後、89年2月26日東京ドーム公演をもってオフコースは解散しました。 ソロとなった小田和正は、91年「ラブ・ストーリーは突然に」が自身初のミリオンセラーとなり、2001年からはほぼ毎年、年末に「クリスマスの約束」と題した音楽番組を続けています。 オフコースのアルバム『I LOVE YOU』 SIDE A 「YES-YES-YES」 「素敵なあなた」 「愛のゆくえ」 「哀しき街」 SIDE B 「揺れる心」 「きっと同じ」 「かかえきれないほどの愛」 「決して彼等のようではなく」 「I LOVE YOU」 オフコースのアルバム『I LOVE YOU』いかがでしょうか? ちなみに、ハイトーン・ヴォイスの小田和正ですが、東北大学在学中は混声合唱団のテノールとして活躍していたのだそうです。 https://www.fareastcafe.co.jp/index.htm ★小田和正 オフィシャルサイト
アナログレコード 1982年澁谷彰一
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クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル『ペンデュラム』
【2024年11月30日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りして来ました。題して“渋ロック”シリーズ最終回は、カリフォルニア出身ながらスワンピーでルーツなバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『ペンデュラム』です。 CCRのリーダー、ジョン・フォガティは1945年5月28日カリフォルニア州バークリー生まれ。幼い頃からブルースを聴いて、南部のディープな音楽に影響を受けました。同じ高校に通うスチュ・クック、ダグ・クリフォードの3人で1959年ブルー・ベルベッツを結成。ジョンの兄、トム・フォガティが加わって、64年にゴリウォッグスとしてデビューします。 資金難にあえぎ、場末のライブハウスで演奏を続ける彼らに幸運が訪れます。後にアカデミー賞プロデューサーとなるソウル・ゼインツがゴリウォッグスが所属するファンタジー・レコードを買収、バンドにも融資してくれたのです。 レーベルが勝手につけた差別的なバンド名に不満を持っていた彼らは、ゼインツのアドバイスを受け、1968年にクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルと改名。同年リリースしたシングル「スージーQ」は、A~B面に渡る長尺ながら全米11位まで上昇し、同タイトルのアルバムも全米52位と、CCRにとって初のヒットとなりました。 2ndアルバム『バイヨー・カントリー』から、名曲「プラウド・メアリー」が生まれ、アルバムも全米7位の大ヒットとなりました。立て続けに発表した3作目『グリーン・リヴァー』から、「バッド・ムーン・ライジング」が全米2位、アルバムではついに初の全米1位を獲得しました。 順調に見えたものの、リード・シンガーでソングライターでもあるジョンの独占体制がすすむとメンバーとの軋轢が生まれ、70年の『ペンデュラム』をもってトム・フォガティが脱退。3人態勢となった72年の7作目『マルディ・グラ』は、メンバーの楽曲やヴォーカル曲も取り入れた民主的な作品となりますが、失敗に終わりあっけなくバンドは解散してしまいます。 1973年にジョン・フォガティは、ソロ・アルバム『ザ・ブルー・リッジ・レンジャーズ』を発表。75年に『ジョン・フォガティ』をリリースしますが、所属レーベルとの契約問題で訴訟を起こされ、CCR時代の楽曲を歌えなくなってしまいます。 そんな状況から一時は音楽活動から遠ざかってしまいましたが、84年にレーベルを移籍して9年ぶりに発表した『センターフィールド』が全米1位を獲得。見事に復活を果たしますが、86年の『アイ・オブ・ザ・ゾンビ』が失敗、さらに『センターフィールド』収録曲を巡ってまた訴訟を起こされ、10年以上にわたって再び沈黙。 その後ジョンは、ルーツ帰りした1997年の『ブルー・ムーン・スワンプ』でグラミー賞を獲得。2005年にはソングライターの殿堂入りを果たし、現在も活動を続ける現役ミュージシャンです。 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『ペンデュラム』 SIDE A 「ペイガン・ベイビー」 「水兵の嘆き」 「カメレオン」 「雨を見たかい」 「ハイダウェイ」 SIDE B 「ボーン・トゥ・ムーヴ」 「ヘイ・トゥナイト」 「イッツ・ジャスト・ア・ソート」 「モリ―ナ」 「手荒い覚醒」 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『ペンデュラム』いかがでしょうか?ちなみに、CCRは「プラウド・メアリー」はじめ全米2位のヒットが5曲、という記録を持ちながらシングル・チャートではついに1位を獲得することが出来ませんでした。 ★ジョン・フォガティ オフィシャルサイト https://johnfogerty.com/
アナログレコード 1970年澁谷彰一
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ザ・バンド『南十字星』
【2024年11月23日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りしています。題して“渋ロック”、今回はアメリカン・ミュージックのルーツを紡ぐザ・バンドのアルバム『南十字星』です。 ボブ・ディランのバック・バンドとしても有名なザ・バンドの中心人物、ロビー・ロバートソンは1944年7月5日、カナダのトロントで生まれました。早くに父を亡くし、貧しい暮らしの中で母方のルーツであるカナダの先住民保留地で音楽と出会います。始めはカントリーから、いとこにギターの手ほどきを受けると次第に興味はロックへと移りました。13才から作曲も始め、ハイスクールをドロップ・アウトして音楽の道を目指します。 1950年代末、ロニー・ホーキンスというロカビリー・シンガーのバック・バンドに参加。他のメンバーはレヴォン・ヘルム、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ。ロニー・ホーキンス&ザ・ホークスとして活動した後、63年にホークスは独立しました。ボブ・ディランと出会い、65年に彼のバック・バンドとしてツアーに出ると運命は変わります。 この年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルで、初めてエレキ・ギターで歌い、ロックへの転換を図ろうとしていたディランは、ホークスを伴いエレクトリック・ツアーを行います。フォークを求めるファンに各地でブーイングを浴びながら、ツアーを乗り切ったホークスは、1967年、ディランの勧めでウッドストックに移り住み、ザ・バンドと改名。 そこで“ビッグ・ピンク”と呼ばれる一軒家でセッションを重ねて出来上がったのが68年に発表した、ザ・バンドのデビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でした。翌年は、ウッドストック・フェスティバルへも出演、2ndアルバム『ザ・バンド』からは、シングル「クリプル・クリーク」がTOP40ヒットとなり、アルバムもトップ10入りを果たします。 70年『ステージ・フライト』、71年はヴァン・モリソンらをゲストに迎えた『カフーツ』をリリース。ところが、ロビー・ロバートソンの発言力が次第に強まるとバンドは少し停滞気味に。しかし、ボブ・ディランをゲストに迎えた初のライヴ・アルバム『ロック・オブ・エイジズ』ではタイトでファンキーな名演を残してくれました。 シンセサイザーを多用した75年の『南十字星』は、“2nd以来のカムバック”と高い評価を得ますが、時すでに遅し、ザ・バンドは解散への道を進んでいたのです。76年11月には、サンフランシスコで多くのゲストを招いたフェアウェル・ライブを開催。この様子はマーチン・スコセッシ監督による映画『ラスト・ワルツ』として公開され、その音源もアルバムとしてリリースされました。77年には事実上のラスト・アルバム『アイランド』がリリースされ解散。 その後ロビー・ロバートソン抜きで何度か再結成されますが、86年ヴォーカリストでキーボードもこなすリチャード・マニュエルが旅立ちます。続いて99年にベースのリック・ダンコが、23年8月9日ロバートソンまでもが星になってしまいました。 ザ・バンドのアルバム『南十字星』 SIDE A 「禁断の木の実」 「浮浪者のたまり場」 「オフェリア」 「アケイディアの流木」 SIDE B 「ベルを鳴らして」 「同じことさ!」 「ジュピターの谷」 「おんぼろ人生」 ザ・バンドのアルバム『南十字星』いかがでしょうか? ちなみに、ザ・バンドが最初にコンサートを行ったのはサンフランシスコのウィンターランド。その16年後に同じ会場で『ラスト・ワルツ』は開催されました。 ★ザ・バンド オフィシャルサイト https://theband.hiof.no/
アナログレコード 1975年澁谷彰一
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フリー『ハートブレイカー』
【2024年11月16日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りしています。題して“渋ロック”、今回は、魂のヴォーカリスト、ポール・ロジャースが在籍したフリーのラスト・アルバム『ハートブレイカー』です。 伝説のブルース・ロック・バンド、フリーのヴォーカリスト、ポール・ロジャースは、1949年12月17日イングランド北部で生まれました。ブリティッシュ・ブルースの父と言われるアレクシス・コナーに憧れ、学生バンドを結成。ロードランナーズと名乗ったバンドではベースを担当し、後にヴォーカリストに転向しました。プロを目指してロンドンに進出しますが、バンドは解散してしまいます。 その後ブラウン・シュガーというバンドで活動を続ける中、レコード・ショップで働きながら活動をしていたポール・コゾフに出会います。意気投合した二人は新しいグループを立ち上げようという事になり、そこにコゾフのバンド・メイトでドラマーのサイモン・カーク、ベースのアンディー・フレイザーが加わって、1968年フリーは誕生しました。 フリーは名付け親アレクシス・コナーの後ろ盾を得て、アイランド・レコードからデビュー。10代という若さながら地に足のついたシブい音楽性でライヴを重ね、評判を上げていきます。1970年の3rdアルバム『ファイアー・アンド・ウォーター』からシングル「オール・ライト・ナウ」が、本国はもとよりアメリカでもスマッシュ・ヒット。一気に知名度をあげ翌71年はアメリカ・ツアーはじめ、春には初来日公演を行います。来日公演では、会場に入れなかったファンと警察がいざこざを起こすほどの熱狂ぶりだったそうです。 ところがこの後のオーストラリア公演終了後に突然解散を発表、バンドはすでに崩壊していました。それぞれが別プロジェクトなどを立ち上げますが、成功にはいたらず頓挫。解散からわずか1年後には、オリジナル・メンバーが集結して、アルバム『フリー・アット・ラスト』をリリースして再び解体しました。 ポール・ロジャースとサイモン・カークは、日本人ベーシストのテツ・ヤマウチとキーボーディストのラビットを迎えてフリー名義で活動を続けました。このラインナップで72年に『ハートブレイカー』を発表、しかしこれがフリーの最後となりました。 解散後はサイモン・カークと、元モット・ザ・フープルのミック・ラルフス、そして元キング・クリムゾンのボズ・バレルと新バンド、バッド・カンパニーを結成。1974年、アルバム『バッド・カンパニー』でデビューします。 バッド・カンパニーのデビュー・アルバムは全米1位、全英でも3位と大ヒット。早くも成功を掴みますが、メンバー間の軋轢でポール・ロジャースが一時脱退。しかし1998年オリジナル・メンバーで再結成して、現在もバッド・カンパニーは活動を続けています。 フリーのアルバム『ハートブレイカー』 SIDE A 「ウィッシング・ウェル」 「カム・トゥゲザー・イン・ザ・モーニング」 「トラヴェリン」 「ハートブレイカー」 SIDE B 「マディ―・ウォーター」 「コモン・モータル・マン」 「イージー・オン・マイ・ソウル」 「セヴン・エンジェルス」 フリーのアルバム『ハートブレイカー』いかがでしょうか? ちなみに、ポール・ロジャースは日本人と結婚していた時期があり、その縁から「夜明けの刑事」といTVドラマの挿入歌を日本語で歌っていました。 ★ポール・ロジャース オフィシャルサイト https://www.paulrodgers.com/
アナログレコード 1972年澁谷彰一
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ジョン・クーガー・メレンキャンプ『スケアクロウ』
【2024年11月9日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りします。題して“渋ロック”、今回は、3つの名前を持つ男ジョン・クーガーが1985年ジョン・クーガー・メレンキャンプとしてリリースしたアルバム『スケアクロウ』です。 3度名前が変わっているアーティスト、本名ジョン・メレンキャンプは、1951年10月7日アメリカ中西部インディアナ州シーモア生まれ。小学生にして既にバンドを結成、14歳から地元のバンドに加入して小遣い稼ぎをしていました。大学時代はグラム・ロック・バンドなどで活動。卒業後は地元電話会社に一旦就職しますが、やがて音楽の道を目指しニューヨークへ。 以前声をかけてきたデヴィッド・ボウイのマネージャーを頼って、事務所と契約。1976年、MCAよりデビュー・アルバム『チェストナット・ストリート・インシデント』がリリースされますが、アーティスト表記は“ジョニー・クーガー”、マネージャーが勝手につけた芸名でした。 78年名前をジョン・クーガーに改め、ロッド・スチュワートのマネージャーが興したイギリスのRiva Recordsからアルバム『バイオグラフィー』を発表。このアルバムから「アイ・ニード・ラヴァ―」が初のヒットとなりました。79年には3rdアルバム『ジョン・クーガー』が本国でリリースされると、アメリカでも「アイ・ニード・ラヴァ―」がTOP40ヒットとなりました。 80年にはMG’sのギタリスト、スティーヴ・クロッパーのプロデュースでアルバム『夜を見つめて』をリリースすると、シングル「夜が泣いている」が全米17位のヒット。1982年にリリースしたアルバム『アメリカン・フール』でとうとう初の全米1位を獲得します。「青春の傷あと」「ジャック&ダイアン」のシングル・ヒットで大ブレイク、グラミー賞にも輝きました。 83年には、ジョン・クーガー・メレンキャンプ名義でのアルバム『天使か悪魔か』をリリース。85年の『スケアクロウ』は過去最高のセールスで、アメリカだけで500万枚を売り上げました。またこの年には、ウィリー・ネルソン、ニール・ヤングらとファーム・エイドを開催。アメリカ農民救済のためのチャリティ・ライヴは、以後11回連続で続けました。 1991年から本名のジョン・メレンキャンプ名で活動を始め、90年代も2000年代も絶えることなく作品を発表、大きなワールド・ツアーもこなしています。22年には親友ブルース・スプリングスティーンが参加したアルバム『ストリクトリー・ア・ワン・アイド・ジャック』で話題になりました。 また、音楽的にはダンス・ミュージックとのコラボレーションなど意外な一面を見せ、映画やミュージカル、そして絵画など活動の幅を大きく広げています。今でも地元のインディアナ州ブルーミントンに暮らし、先日地元にあるインディアナ大学のキャンパス内に銅像が設置されたそうです。 ジョン・クーガー・メレンキャンプのアルバム『スケアクロウ』 SIDE A 「スケアクロウ」 「祖母のテーマ」 「スモール・タウン」 「ミニッツ・トゥ・メモリーズ」 「ロンリー・オル・ナイト」 「フェイス・オブ・ザネイション」 SIDE B 「正義と独立 '85」 「ラーフ・アンド・ティア」 「ランブル・シート」 「スタンド・フォー・サムシン」 「ロック・イン・ザ・U.S.A.」 ジョン・クーガー・メレンキャンプのアルバム『スケアクロウ』いかがでしょうか?ちなみに、ブルー・カラーのヒーロー、ジョン・メレンキャンプですが、観客からヤジを飛ばされ、ブチ切れてステージを降りたことが何度かあるそうです。 https://www.mellencamp.com/ ジョン・メレンキャンプ オフィシャルサイト
アナログレコード 1985年澁谷彰一
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ボブ・シーガー『奔馬の如く』
【2024年11月2日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りします。題して“渋ロック”、1回目はボブ・シーガーの作品から、1980年ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンドがリリースした『奔馬の如く』です。 本名ロバート・クラーク・シーガーは、1945年5月6日、デトロイト近くに生まれました。フォード・モーターに努める父親は、休日にバンドを率いて活動するアマチュア・ミュージシャン。当然ロバートは音楽に触れる機会が多く、小中学時代はラジオで聞くR&Bに夢中でした。 ハイスクール時代は3ピースのバンドで活動しますが、卒業と同時に解散。その後地元のバンドに加入して、ひたすらライヴを行い一晩に5か所で演奏することもあったそうです。65年には自身のバンド、ザ・ビーチバムズを結成、翌年レコードもリリースしました。しかし程なく解散して、新しいバンド、ザ・ラスト・ハードを結成、地元で5万枚を売るヒットを出しますが、レーベルが倒産して全米進出の夢は絶たれてしまいます。 新バンド、ボブ・シーガー・システムは、67年にキャピトルと契約して翌年メジャー・デビュー。68年の2ndシングル「ランブリン・ギャンブリン・マン」がビルボード17位のヒットとなります。翌年リリースした同タイトルのデビュー・アルバムも62位にランクされました。順調なデビューでしたが、その後は100位前後を行ったり来たりで、ヒットには恵まれませんでした。 1971年キャピトルを離れ、自身のレーベルを立ち上げ活動を開始。様々な音楽性を試しては見たものの、なかなか陽の目を見ることは出来ませんでした。結局シルバー・ブレット・バンドを引き連れ、75年にキャピトルへ復帰しました。復帰第1弾のアルバム『美しき旅立ち』はデトロイトでは1位となりますが、全米では131位。 年間200本以上のライヴをこなす彼らを救ったのは、ライヴ・アルバムでした。2日で2万4千人を動員した、デトロイトでのコンサートを収録したアルバム『ライブ・ブレット』がヒットして、プラチナ・ディスクを獲得。続いて76年の『炎の叫び』からシングル「ナイト・ムームーヴス」が全米4位の大ヒット。苦節10年、78年の『見知らぬ街』からは4枚のシングル・ヒットを繰り出し、80年の12枚目のアルバム『奔馬の如く』でとうとう全米1位に輝き、6週間首位をキープしました。 その後も質の高い作品をリリースし続けますが、一時家族のため音楽活動を休止。しかし2006年には11年ぶりとなるアルバムをリリースして活動再開、2004年にロックの殿堂入り、12年ソングライターの殿堂入りを果たしました。2018年から19年にかけてフェアウェル・ツアーを行った後、20年に長年のバンド・メイト、アルト・リードを病気で失い、ライヴからの引退をほのめかしています。 ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンドのアルバム『奔馬の如く』 SIDE A 「地平線のバップ」 「わかりあえる時」 「気取った女」 「誰もいない国」 「長い二本の平行線」 SIDE B 「アゲンスト・ザ・ウィンド」 「大切なものへ」 「ベティ・ルーは今晩お出まし」 「ファイアー・レイク」 「輝ける夜明け」 ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンドのアルバム『奔馬の如く』いかがでしょうか?ちなみに、このアルバムには同郷のグレン・フライはじめ、ドン・ヘンリー、ティモシー・B・シュミットが参加、ピンク・フロイドのヒット作『ザ・ウォール』を蹴落として全米1位を勝ち取りました。 https://www.bobseger.com/ ボブ・シーガー オフィシャルサイト
アナログレコード 1980年澁谷彰一
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ドナルド・フェイゲン『ナイトフライ』
【2024年10月26日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 10月は“秋のAORまつり”を開催してきました。シリーズ最終回はAORの金字塔、ドナルド・フェイゲンの名作『ナイトフライ』をお届けします。 本名ドナルド・ジェイ・フェイゲンは、1948年1月10日、ニュージャージー州に生まれました。シンガーだった母親の歌声を聴いて育ち、ティーンエイジャーになると深夜ラジオで流れるR&Bやロック、そしてジャズにも興味を持つようになります。独学でピアノを学び、ニューヨークのジャズ・クラブへも足しげく通っていました。 67年ニューヨークのバード・カレッジで、後のバンドメイト、ウォルター・ベッカーと出会います。二人は一緒に作曲活動を始め、作家チームへの道を模索しますが、壁にぶつかってしまいます。 誰にも歌ってもらえないならば、自分たちでバンドを作ってレコード会社へ売り込もうと接点のあったプロデューサー、ゲイリー・カッツを訪ねてロスエンジェルスへ移ります。カッツの所属するABCレコードから、スティーリー・ダンというバンドで1972年にデビュー。 1stアルバム『キャント・バイ・ア・スリル』から「ドゥ・イット・アゲイン」が全米6位の大ヒット。さらに74年の3作目『プリッツェル・ロジック』からは、「リキの電話番号」が全米4位と、最大のシングル・ヒットを生み出しました。ところが次第に、ライヴが嫌いなフェイゲンとベッカーの二人とメンバーの間に軋轢が生じ、さらには彼らの求めるサウンドとのギャップから、次々とメンバーが辞めていきます。 76年にフェイゲンとベッカーの二人だけになってしまいますが、本領を発揮するのはここから。超一流のセッション・ミュージシャンを起用して作られたアルバム『幻想の摩天楼』は、単なるロックにとどまらず、彼らが唯一無二の天才音楽集団であることを証明して見せたのです。そしてその翌年77年に発表した『彩(エイジャ)』で、その頂点に達します。 レコーディングには、ラリー・カールトン、トム・スコット、スティーヴ・ガッドらが参加、こだわりの凝縮されたアルバムは全米3位となり、グラミー賞優秀録音賞を受賞しました。ところが80年の『ガウチョ』をもってコンビを解消、ドナルド・フェイゲンはソロ活動に入ります。 そんなフェイゲンが82年にワーナー・ブラザーズからリリースした『ナイトフライ』は、楽曲はもちろん、アレンジ、ジャケット・デザインの秀逸さから、AORの金字塔となりました。その10年後の93年にはウォルター・ベッカーのプロデュースで2作目のソロ『カマキリアド』を発表。 これがきっかけとなり、スティーリー・ダンも復活しますが、20年ぶりの新作『トゥ・アゲインスト・ネイチャー』を残して、2017年9月3日ウォルター・ベッカーが星となってしまいました。それでもフェイゲンはスティーリー・ダンとして今でもツアーを続けています。 ドナルド・フェイゲンのアルバム『ナイトフライ』 SIDE A 「アイ・ジー・ワイ」 「グリーン・フラワー・ストリート」 「ルビー・ベイビー」 「愛しのマキシン」 SIDE B 「ニュー・フロンティア」 「ナイトフライ」 「グッドバイ・ルック」 「雨に歩けば」 ドナルド・フェイゲンのアルバム『ナイトフライ』いかがでしょうか? ちなみに、今回のAORまつり、全4回のアルバム・タイトルにはすべて“ナイト”という単語が含まれていました。秋の夜長にゆったりとお聴きいただけていればと思います。 https://www.steelydan.com/ スティーリー・ダン オフィシャルサイト
AOR アナログレコード 1982年澁谷彰一
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ジノ・ヴァネリ『ナイトウォーカー』
【2024年10月19日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。10月も“秋のAORまつり”を継続開催中です。 AORにもいろいろありますが、今回はその枠に収まり切らない熱唱系、異色のシンガー・ソングライター、ジノ・ヴァネリのアルバム『ナイトウォーカー』をご紹介します。 イタリア系カナダ人のジノ・ヴァネリは、1952年6月16日モントリオールに生まれました。シンガーの父と耳の越えた母に育てられ、小学生ごろからジャズを聴いていました。特にドラムに興味を持ち、音楽理論と共に5年間学んだそうです。バディ・リッチやエルヴィン・ジョーンズのようなジャズ・ドラマーにあこがれを抱いていましたが、ひょんなことから参加した、地元バンドのオーディションで初めてヴェンチャーズを演奏しました。 10代の頃には兄ジョーと一緒に、モータウン・スタイルのバンドを組んで活動。初めてヴォーカルをとったのは14才、バンドのシンガーがうまく歌えなかった曲がきっかけでした。バンド時代はピアノとギターのレッスンも受け、作詞・作曲も手掛けるようになります。あわせてジノはクラシック音楽にも興味を持ち、地元のオーケストラの定期公演を鑑賞。ジャズ、ポップ、ロック、ソウルに加えてクラシックまで引き出しを持つようになりました。 そんな天才少年を放っておくはずがありません。 15歳の若さでカナダのRCAと契約、ファミリー・ネームの“ヴァネリ”をもじったヴァン・エリ名義でレコードを何枚かリリースしました。しかしジノは更なる高みを目指し、ニューヨークへ通っては音楽出版社やレコード会社を訪ねてまわりました。 ある日の朝、ハリウッドのA&Mレコードの前で、トランペット奏者で経営者でもあるハーブ・アルパートの出社を待ちセキュリティに追いかけられながらも、何とかオーディションのチャンスを勝ち取ります。結果1973年、ハーブ・アルパートのプロデュースによるアルバム『クレイジー・ライフ』でメジャー・デビューすることが出来ました。 兄ジョー・ヴァネリと共同プロデュースした74年の2ndアルバム『パワフル・ピープル』から「ピープル・ガッタ・ムーヴ」が初の全米TOP40ヒットとなり名声を獲得しました。75年の『夜明けの嵐』から『ジスト・オブ・ジェミニ』『ア・ポーパー・イン・パラダイス』と毎年アルバムをリリース。ポップ・ミュージックの枠にとらわれない壮大な作品を発表してきました。 そして78年の『ブラザー・トゥ・ブラザー』から、弟ロス・ヴァネリ作のシングル「アイ・ジャスト・ワナ・ストップ」が全米4位(カナダ1位)の大ヒットとなり彼の代表作となりました。81年アリスタに移籍して発表した『ナイトウォーカー』からのシングル「リビング・インサイド・マイセルフ」が再び全米6位のヒットとなりました。 しかしこの後はあまり目立った活動もなくなりますが、いくつかのレーベルからアルバムを出し続け、91年に初来日公演が実現、その後も何度か来日して、現在もツアーを続ける現役ミュージシャンです。 ジノ・ヴァネリのアルバム『ナイトウォーカー』 SIDE A 「ナイトウォーカー」 「シーク・アンド・ファインド」 「ウェイト・オン・マイ・ショルダーズ」 「アイ・ビリーブ」 SIDE B 「サンタ・ローザ」 「リビング・インサイド・マイセルフ」 「ステイ・ウィズ・ミー」 「サリー」 ジノ・ヴァネリのアルバム『ナイトウォーカー』いかがでしょうか? ちなみに、ジノ・ヴァネリのダイナミックなサウンドを支える兄のジョー・ヴァネリ。シンセサイザーに対するこだわりは並々ならず、初期の作品ではシンセサイザーの音を幾重にも重ねて壮大なサウンドを作っていました。 https://ginov.com/ ジノ・ヴァネリ オフィシャルサイト
AOR アナログレコード 1981年澁谷彰一
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JDサウザー『ロマンティック・ナイト』
【2024年10月12日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 10月も“秋のAORまつり”を継続開催中です。今回は先日惜しくも星になってしまった、JDサウザーのアルバム『ロマンティック・ナイト』をご紹介します。 イーグルスや、リンダ・ロンシュタットを支えたシンガー・ソングライターJDサウザーこと、ジョン・デイヴィッド・サウザーは、1945年11月2日デトロイトに生まれました。父ジョン・サウザーはビッグ・バンドの歌手として活動し、その後一家はテキサスへと移住。多感な少年時代は、同郷出身のロイ・オービソンに大きな影響を受けました。 地元でバンドを組んでレコードも出しましたが、この時代の音楽の中心ロサンジェルスへ向かいます。そこにある老舗のライブ・ハウス、トルバドールは大変刺激的で、ニール・ヤングやエルトン・ジョンといった一流ミュージシャンから、アマチュア時代のドン・ヘンリーやジャクソン・ブラウンらが出演、コミュニティを形成していました。 そこで意気投合したグレン・フライとJDは、ロングブランチ・ペニーウィッスルを結成。しかしグループは1969年にアルバムを1枚リリースして解散。それ以降はソングライターとして活動することになりました。 音楽仲間のジャクソン・ブラウンが新興レーベル「アサイラム」からのデビューが決まると、彼の紹介で72年に『ジョン・デイヴィッド・サウザー・ファースト』でソロ・デビュー。またソロ活動と合わせて、74年に元バーズのクリス・ヒルマン、ポコのリッチー・フューレイらと、ザ・サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドを結成。シングル「素晴らしき恋」がヒットして、JDサウザーの名前も知られるところとなりました。 一時は恋人関係にあったリンダ・ロンシュタットをはじめ、ジャクソン・ブラウンやイーグルスなどへの楽曲提供で、JDはこの時期存在感を増していきます。特にイーグルスとの合作「我が愛の至上」「ニュー・キッド・イン・タウン」「ハートエイク・トゥナイト」では全米1位の栄光を勝ち取りました。 79年にはコロムビアへ移籍、セルフ・プロデュース作『ユア・オンリー・ロンリー』から、敬愛するロイ・オービソンへのオマージュと言われるタイトル曲が全米7位の大ヒット。しかしその後は際立った活動は見られず、リンダ・ロンシュタット、ドン・ヘンリーらが参加した84年の『ロマンティック・ナイト』以降は沈黙が続きます。 2002年にはナッシュビルへと移り住み、08年に『イフ・ザ・ワールド・ワズ・ユー』でカムバック。自らのルーツであるジャズに取りくみ、以降もマイペースで活動を続けていました。13年にはソングライターの殿堂入りを果たしますが、2024年9月17日、カーラ・ボノフとのツアー直前、ニューメキシコの自宅から旅立って行きました。 JDサウザーのアルバム『ロマンティック・ナイト』 SIDE A 「夜明けのロックン・ロール」 「優しい雨に」 「セイ・ユー・ウィル」 「ただ君のために」 「オール・フォー・ユー」 SIDE B 「ロマンティック・ナイト」 「夢に見る面影」 「バッド・ニュース」 「焦がれる夜」 JDサウザーのアルバム『ロマンティック・ナイト』いかがでしょうか? ちなみに、ローカル・バンド時代、彼の才能を買ってレコーディングさせたのは、ロイ・オービソンのプロデューサーだったのだそうです。さぞや嬉しかったでしょうね。 https://www.jdsouther.net/ JDサウザー オフィシャルサイト
アナログレコード 1984年澁谷彰一
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ポール・デイヴィス『クール・ナイト』
アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 10月に入りました。今月も“秋のAORまつり”を継続します。 皆さんは『なんとなく、クリスタル』という小説をご存じでしょうか?1980年、田中康夫のデビュー作で映画化もされ、当時は大変なブームとなりました。そのテーマ曲として使われたのが、ポール・デイヴィスの「アイ・ゴー・クレイジー」でした。今回はそんなクリスタル族も喜ぶポール・デイヴィスの『クール・ナイト』をご紹介します。 ポール・デイヴィスは、1948年4月21日ミシシッピ州東部の都市メリディアンに生まれました。父が牧師だったため、5歳から聖歌隊で歌い始め、小学生になるとピアノも習いました。一時期一家は音楽の都ナッシュビルへと移って、ポールは大いに刺激を受けました。 その後メリディアンへ戻り、ハイスクールではバンド活動を経験。卒業後は地元のバンドで腕を磨き、ジャクソンにできた新しいスタジオの門をたたきます。そこでセッション・ミュージシャンとして働く傍ら、自身のレコーディングも始めると、これが、アトランタのバング・レコードの社長の耳に入ります。 ポールは1969年バング・レコードと契約、ニューヨークでの修行を経て1970年に「悲しきソープ」でレコード・デビューを果たします。前社長を亡くし、ニール・ダイアモンドらが去ってしまったレーベルを立て直そうと、新社長のイレーネ・バーンズはポールをその後釜にと考えました。シングルは全米52位と、まずまずの滑り出しとなりました。 しかしこの後はあまり成果を上げることが出来ず、1974年、カントリー色を強めた3rdアルバム『ライド・エム・カウボーイ』から、タイトル曲が全米23位と初のTOP40ヒットとなりました。続いて76年の「スーパースター」が35位、77年の「アイ・ゴー・クレイジー」が全米7位の大ヒット。この作品は78年にかけて40週チャートに居座るという自身最大のヒットとなりました。 80年の6枚目『パステル・メッセージ』から、タイトル曲がようやく日本でもヒット。そこに『なんとなく、クリスタル』主題歌で「アイ・ゴー・クレイジー」が話題となり、前作『アイ・ゴー・クレイジー』も国内盤がリリースされることになりました。 その後、アリスタに移籍して発表したアルバム『クール・ナイト』から、タイトル曲が82年に全米チャート11位、アダルト・コンテンポラリー・チャート2位のヒット。アルバムからは他にも自己最高位6位となった「‘65・ラヴ・アフェイア―」などヒットを出しますが、これ以降リリースはなく、半ば引退状態が続きました。 そして2008年4月22日、60歳のバースデイの翌日に倒れ、星となってしまいました。しかも20年ぶりとなる新曲のリリースに向けて準備していたそうです。 ポール・デイヴィスのアルバム『クール・ナイト』 SIDE A 「クール・ナイト」 「愛にマジック・タッチ」 「想い出という名のふたり」 「ナサン・ジョーンズ」 「忘れ得ぬ魅惑のオリエンタル・アイズ」 SIDE B 「‘65・ラヴ・アフェイア―」 「誰かがあなたを…」 「ラブ・オア・レット・ミー・ビー・ロンリー」 「ゴット・トゥ・セイ・アバウト・ラブ」 「スティル・トゥギャザー」 ポール・デイヴィスのアルバム『クール・ナイト』いかがでしょうか? ちなみに、ポールの父親は一か所に留まることが不得意で何度も引っ越したため、ナッシュビル時代に音楽的刺激を受けたのが、彼にとっての大きなチャンスとなりました。 https://www.sonymusic.co.jp/artist/PAULDAVIS/ ソニーミュージック オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
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稲垣潤一『246:3AM』
【2024年9月28日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 9月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを紹介しています。ジャパニーズAORシリーズ、最後は仙台出身・稲垣潤一のデビュー・アルバム『246:3AM』です。 “歌うドラマー”ジャパニーズAORの代表的存在、稲垣潤一は、1953年7月9日、仙台市宮城野区榴ヶ岡にある洋品店の息子として生まれました。洋楽好きな両親の影響で小さい頃から音楽に親しみ、小学5年生でビートルズに出会います。はじめて買ってもらったレコードはビートルズの「ロックン・ロール・ミュージック」。 中学でバンドを結成、リンゴ・スターへの憧れから楽器はドラムを選択。初のステージは卒業式の謝恩会で、会場は学校の図書館だったそうです。高校時代はバンドに明け暮れ、卒業後いったん就職しますが、入社前日にかかってきた同級生からの電話で1日で会社を辞め、バンド・マンへの道を歩みます。 バンド・マンといってもダンスホールやキャバレー専属の、いわゆる「ハコバン」でした。そんな潤一に、仙台で有名なバンド「ロングイヤーズアフター」から声がかかります。バンドは東京に進出してキャバレーやビアガーデン、米軍キャンプなど、あらゆる場所で演奏を続けますが1年ほどで解散、19才の潤一は単身仙台へと帰ります。 仙台へ戻ってからもバンドは続け、掛け持ちをして多忙な日々を送ります。ディスコ「ビッグ・ソシュウ」で演奏するころには、女性ファンが詰めかけるまでになりました。しかし、無理がたたって体調を崩し、一時バンドを離れますが仲間のサポートで復帰。 1978年、後輩からの紹介でパブ「スコッチバンク」のハコバンに参加。一年ほどたったある日、演奏テープを聞いたというTV局のプロデューサーによってスカウトされ、再び上京して、1982年「雨のリグレット」でレコード・デビューを果たします。1stアルバム『246:3AM』は井上鑑らがアレンジを担当、今剛、林立夫といったミュージシャンが参加してジャパニーズAORとなりました。 TV出演でも、ドラムを叩きながらのヴォーカルというスタイルで注目を浴び、その年にリリースされた3rdシングル「ドラマティック・レイン」がトップ10ヒットとなります。83年には2ndアルバム『SHYLIGHTS』で日本レコード大賞 ベストアルバム賞を受賞。そしてこの年、シングル「夏のクラクション」を携え初の全国ツアーを開催しました。 84年にはファンハウスへ移籍、86年のアルバム『REALISTIC』で初のオリコン・チャート首位を獲得。以後4作連続でトップを独走し、92年のシングル「クリスマスキャロルの頃には」が、170万枚というキャリア最大のヒットとなりました。2000年代にはカヴァーやデュエット・アルバムなどをリリース、現在はユニヴァーサル・ミュージック・ジャパンに所属、様々なスタイルでライヴを続け、11月3日には全国ツアーの仙台公演が行われます。 稲垣潤一のアルバム『246:3AM』 SIDE A 「ジンで朝まで」 「バハマ・エアポート」 「海鳴りに誘われて」 「蒼い追憶」 「月曜日にはバラを」 SIDE B 「246:3AM」 「雨のリグレット」 「ハート悲しく」 「日暮山」 稲垣潤一のアルバム『246:3AM』いかがでしょうか? ちなみに、仙台出身の稲垣潤一は1983年から87年にかけて、当時FM仙台のオリジナル番組を持っていました。ご存じの方いらっしゃいますか? https://j-inagaki.net/ 稲垣潤一 オフィシャルサイト
アナログレコード 1982年澁谷彰一
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八神純子『思い出は美しすぎて』
【2024年9月21日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 9月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを紹介しています。番組ではジャパニーズAORと呼んでいます。今回は、圧倒的歌唱力で人気となった八神純子のデビュー作『思い出は美しすぎて』です。 1958年1月5日名古屋で生まれ裕福な家庭で育った八神純子は、小さい頃から歌が大好きで、ピアノや日本舞踊も習っていました。高校に入るとフォークギターのサークルを作って、ヤマハのボーカルスクールへも通いました。本格的なレッスンを受けるうち、オリジナル曲も作り始めます。 生バンドで歌いたい一心で応募した、1974年の第8回ヤマハポピュラーソングコンテストで「雨の日のひとりごと」が優秀曲賞を受賞。同年、第5回世界歌謡祭にも出場し、デビュー前ながら「雨の日のひとりごと」をリリースしました。翌年もポプコン、そして世界歌謡祭へと出場して賞を獲得すると、1976年、高校3年生にして第17回チリ音楽祭に参加、初の海外経験ながら入賞という栄光を得ました。 高校卒業後は音楽の世界へ進み、デビュー前にしてラジオのレギュラーを務め、1978年20歳の誕生日にシングル「思い出は美しすぎて」でプロ・デビューを果たします。半年後にリリースされた同タイトルの1stアルバムは、オリコンチャート5位のヒットとなりました。次のシングルでは少し低迷しますが、続く「みずいろの雨」がオリコン2位、60万枚の大ヒット。 勢いづいた彼女は79年の2ndアルバム『素顔の私』でとうとうチャートの頂点に昇りつめ、「想い出のスクリーン」「ポーラスター」といったシングル・ヒットも生まれました。80年に一時ロサンゼルスに渡り、帰国後に発表した「パープルタウン」で再びオリコン2位を獲得。この年の『第31回NHK紅白歌合戦』に初出場し、パフォーマンスを披露しました。 その後もCMタイアップなどで立て続けにヒットを飛ばし、83年には全曲英語のアルバムをリリース。海外へのあこがれを強めて古巣ヤマハからアルファ・ムーンへと移籍。1987年、イギリス人の音楽プロデューサーとの結婚を機に、アメリカ・ロサンゼルスへ移住。90年からは毎年帰国コンサートを開催し、地元ロサンゼルスでもライヴを行いました。 しかし子どもが学校へ通うようになると、子育てのため一時音楽活動から離れていました。それもひと段落した2010年、NHKの「SONGS」に出演すると、反響が大きく日本での音楽活動を再開。ところが、そんな折東日本大震災が発生、ボランティアやライヴ活動を通して被災地支援を行い、13年には東北被災地支援チャリティー・シングル「翼」を発表しました。 2015年からは全国各地を巡って歌を届けるツアー「あなたの街へ」をスタート、今でも「キミの街へ」として続いています。2022年には日本人として初めて、アメリカ「女性ソングライターの殿堂」入りを果たし、現在もアメリカと日本を行き来しながら、ライヴを中心に音楽活動を続けています。 八神純子のアルバム『思い出は美しすぎて』 SIDE A 「雨の日のひとりごと」 「時の流れに」 「思い出の部屋より」 「思い出は美しすぎて」 「追慕」 SIDE B 「気まぐれでいいのに」 「せいたかあわだち草」 「窓辺」 「もう忘れましょう」 「さよならの言葉」 八神純子のアルバム『思い出は美しすぎて』いかがでしょうか? ちなみに、彼女の初期のトレードマーク、首から下げたサンバ・ホイッスル。「思い出は美しすぎて」のレコーディングで吹いたのは、実は体育の先生が使う普通のホイッスルなのだそうです。 https://junkoyagami.com/s/yj/ 八神純子 オフィシャルサイト
アナログレコード 1978年澁谷彰一
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山本達彦『マティーニ・アワー』
【2024年9月14日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 9月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを紹介します。ジャパニーズAORとでも呼んでみましょう。今回は、 “シティ・ポップの貴公子”と呼ばれた、山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』です。 1954年3月4日東京生まれの山本達彦は、小学校2年生で東京少年少女合唱隊に参加。高校時代には、同級生で後にジャズ・ギタリストとなる渡辺香津美とバンドを組んで、学園祭やパーティーに出演していたそうです。成蹊大学へと進学すると1974年にオレンジというバンドを結成、TVのコンテストで優勝して、ロンドンでレコーディングした「翼のない天使」でデビューします。 しかしオレンジは成功に到らずコンテストの審査員であった、かまやつひろしのバック・バンドに参加。作家として郷ひろみなどに楽曲提供する傍ら、1978年に日本フォノグラムからソロ・デビューします。デビュー・アルバム『突風』は、近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」などで売れっ子の作詞家、伊達歩こと作家の伊集院静が全10曲の歌詞を手掛け、山本が曲を担当するという贅沢な作品でした。 80年の2ndアルバム『メモリアル・レイン』では、松任谷正隆、井上鑑といったアレンジャーが参加してシティ・ポップ寄りになっていきます。さらに81年の『ポーカー・フェイス』は井上鑑アレンジの元、林立夫、今剛、松原正樹らが参加して、見事なジャパニーズAORサウンドを聴かせてくれました。 この後東芝EMIへと移籍、82年の『I LOVE YOU SO』ではNOBODYをアレンジャーに迎え、少しロック・テイストな作品となりました。そして5作目の『太陽がいっぱい』からシングル「LAST GOOD-BYE」が映画の主題歌に起用され、初のオリコン・チャート・イン。 いよいよ知名度をあげて、83年の『マティーニ・アワー』では再び井上鑑と組んで、スティーリー・ダンのエンジニアにミックスダウンを依頼するなど、サウンド志向を強めます。シングル「MY MARINE MARILYN」は、JAL沖縄のキャンペーン・ソングとしてオンエアされ、アルバムはオリコンチャート初登場2位と自己最高の記録を達成しました。 80年代はコンスタントに作品を発表、そして90年にアルファ・レコードに移籍。99年には自主レーベル「サイレンス」を発足して、作品をリリースし続けます。2018年にはレーベルの壁を越えたベスト・アルバム2枚、新作1枚、そしてDVD1枚という豪華4枚セットの40周年記念盤をリリース。2023年秋にはデビュー45周年のアニヴァーサリーLIVEを開催しました。 山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』 SIDE A 「MAY STORM」 「IN SUMMER DAY」 「TOO FAR AWAY」 「SUMMER HOLIDAY」 「FAREWELL,MIDNIGHT BLUE」 SIDE B 「JAZZY AGE」 「MY MARINE MARILYN」 「HIS WOMAN」 「BIRD」 「L’ECUME DES JOURS」 山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』いかがでしょうか?ちなみに、山本達彦は1964年、東京少年少女合唱隊のアメリカ親善公演に参加。10歳にしてあの『エド・サリバン・ショー』に出演したのだそうです。 https://www.tatsuhiko-yamamoto.jp/ 山本達彦 オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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門あさ美『ファッシネイション』
【2024年9月7日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 洋楽が続いたので9月は邦楽からご紹介します。 いつまで続くのか分かりませんが、日本のシティ・ポップ・ブームで再発されるレコードが話題です。今回ご紹介するアーティスト、門あさ美もその一人。今年の春、高橋幸宏プロデュースのアルバム2枚がアナログ盤で復刻リリースされました。 今月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを選んでみました。ジャパニーズAORとでも呼んでみましょう。その初回は、門あさ美のアルバム『ファッシネイション』です。 1955年10月17日、名古屋市生まれのシンガー・ソングライター門あさ美。そのプライベートは、あまり知られていないミステリアスなシンガーと言われています。 1975年の第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト中部大会に「門あさ美・安藤こうじ」として出場、77年の第13回中部大会に出場後、内気な彼女をスタッフが口説いてオーディションに参加しました。数社のレコード会社から手が上がり、1979 年9月テイチクから「Fascinatoin」でデビューしました。 2ndシングル「モーニング・キッス」をリリースして1stアルバム『ファッシネイション』を発表、収録10曲のほとんどを作詞・作曲し、アレンジは鈴木茂や松任谷正隆らが手掛けました。アルバムは、当時メイン・ストリームとなっていたニューミュージックの中でも、特に洗練された「ファッション・ミュージック」のコピーをつけて売り出されました。 メディアへの露出も少なく、デビュー後はライブも行わない徹底したイメージ戦略がとられ、甘く危険な歌詞とクオリティの高い楽曲、そしてそのミステリアスな美貌から人気となります。以後順調にセールスを伸ばし、82年のアルバム『Hot Lips』では、松岡直哉プロデュースのもと、村上秀一、和田アキラなどフュージョン系のミュージシャンを迎えて洗練度を増していきます。 また83年の5枚目『PRIVATE MALE』は井上鑑プロデュースで、今剛、土方隆行などが参加、まさにジャパニーズAORなサウンドとなり、ベスト10ヒットとなりました。その後もムーンライダースとのアルバムなどリリースしますがヒットまでは至らず、効果音を使った85年の疑似ライブ・アルバム『SIMULATION』をもって東芝EMIへ移籍。 移籍後は、87年の『Anti Fleur』、88年に『La Fleur Bleue-青い花-』と高橋幸宏がプロデュース。ミュージシャンも小林武史、大村健司、小原礼、さらにストリングス・アレンジは坂本龍一という豪華サポートを得ますが10枚目のアルバムを発表後、表舞台から遠ざかってしまいました。 しかし2019年、元キャンディーズ伊藤蘭のソロ・デビュー・アルバム『My Bouquet』に楽曲を提供したことで、久々に門あさ美の名前がメディアに登場。さらに2024年にはデビュー45周年を記念して、高橋幸宏プロデュース作の2枚がリマスター&アナログ・リイシューされ、話題となりました。 門あさ美のアルバム『ファッシネイション』 SIDE A 「Morning Kiss」 「Keep on Loving」 「Stop Passing Night」 「South Shore」 「Good Luck」 SIDE B 「Fascination」 「Darling」 「Smile for Me」 「Fancy Evening」 「Blue」 門あさ美のアルバム『ファッシネイション』いかがでしょうか? ちなみに、その美貌と歌声、歌詞やサウンドで未だに人気の衰えない門あさ美。実の兄、門晃弘も八事裏山フォーク・オーケストラという伝説のバンドのメンバーとしてデビューしたことがあるのだそうです。 https://moo-095.ssl-lolipop.jp/kadoasami/index.html 門あさ美 ファンサイト
アナログレコード 1979年澁谷彰一
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スティーヴィー・ワンダー『ファースト・フィナーレ』
【2024年8月31日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りしています。シリーズ最後は、スティーヴィー・ワンダーのアルバム『ファースト・フィナーレ』です。 スティーヴィー・ワンダーことスティーヴランド・モリス・ジャドキンズは、1950年5月13日にミシガン州サギノウで生まれました。ところが生まれてすぐに保育器のトラブルで、視力を失ってしまいます。そんなハンディを跳ねのけ、幼少期にピアノやハーモニカ、ドラムなどの楽器をマスター。11歳にして、モータウンとの契約をとりつけるほどの実力を持ちました。 1963年“リトル・スティーヴィー・ワンダー”としてアルバム『フィンガーティップス』でデビューすると、たちまち全米No.1のヒット。その後も66年の『アップタイト』、『太陽のあたる場所』、68年の『マイ・シェリ-・アモ-ル』とヒット作を生み出してゆきます。 “リトル・スティーヴィー”も20歳を迎えるとさらに成長、この年最初の結婚をしました。71年の誕生日には、未成年時代の印税100万ドルを受け取り、アーティストとしての権利を獲得。当時まだ珍しかったシンセサイザーやコンピュータを使って新作を発表し、72年の『トーキング・ブック』からは「迷信」「サンシャイン」が全米1位の大ヒットとなりました。 ところがここで交通事故に遭い、生死の間をさまよいながら新作『インナーヴィジョンズ』をリリースすると、グラミー賞アルバム賞ほか5部門を受賞。続いて74年には、『ファースト・フィナーレ』が全米アルバムチャート1位に輝き、グラミー賞主要5部門を独占、プライベートでは愛娘アイシャを授かりました。 76年には、LP2枚とシングル1枚という大作『キー・オブ・ライフ』をリリースして、14週連続全米1位という記録を打ち立てました。80年に入ると、よりPOPなアルバム『ホッター・ザン・ジュライ』を発表、82年にはポール・マッカートニーとの「エボニー・アンド・アイヴォリー」が7週連続全米1位。 84年のサウンドトラック『ウーマン・イン・レッド』から、シングル「心の愛」が全米No.1ヒットとなり、アカデミー主題歌賞に輝きます。翌年も「パートタイム・ラバー」を全米トップに送り出し、89年には「ロックの殿堂」入りしました。 90年代以降はオリジナル作品のリリースは少なくなっていますが、ブラック・ムーヴィーの奇才スパイク・リー監督のサウンドトラックを手掛けたり、96年のアトランタ・オリンピックではパフォーマンスを披露。さらに前作から10年ぶり、2005年の新作『タイム・トゥ・ラヴ』では、娘のアイシャとデュエットもしました。2009年には国連平和大使に任命され、近年でもコロナ禍や人道問題など、事あるごとに、愛のメッセージを伝える作品を発表し続けるレジェンドとして存在しています。 スティーヴィー・ワンダーのアルバム『ファースト・フィナーレ』 SIDE A 「やさしく笑って」 「1000億光年の彼方」 「トゥー・シャイ」 「レゲ・ウーマン」 「クリーピン」 SIDE B 「悪夢」 「愛のあるうちにさよならを」 「聖なる男」 「美の鳥」 「プリーズ・ドント・ゴー」 スティーヴィー・ワンダーのアルバム『ファースト・フィナーレ』いかがでしょうか? ちなみに、今回のアルバムは、1970年代に独り立ちしたスティーヴィーが発表してきた5枚のアルバムを締めくくり、次なるステップへと向かうためのフィナーレなのだそうです。 http://www.steviewonder.net/ スティーヴィー・ワンダー オフィシャルサイト
アナログレコード 1974年澁谷彰一