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トンプソン・ツインズ『サイド・キックス』
【2025年2月15日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は皆さんに温まっていただけるよう、ダンサブルなレコードを紹介します。 「ダンシング’80s」今回ご紹介するのは、イギリス、ニューウェーヴ・シーンから出てきたトリオ、トンプソン・ツインズのアルバム『サイド・キックス』です。中心人物のトム・ベイリーこと、トーマス・アレキサンダー・ベイリーは、1954年1月18日イングランド北部のヨークシャーに生まれました。音楽との出会いはバッハという恵まれた家庭に育ち、幼い頃からクラシック・ピアノを習って、一時は音楽の教師をしていた時期もありました。 1977年、トム・ベイリーはシェフィールドでトンプソン・ツインズを結成。ロンドンへ出て、何度かのメンバー・チェンジを経た後1980年にレコード・デビュー。翌年の1stアルバムから、演劇出身でバンドのローディーだったジョー・リーウェイが参加。さらにトムのガール・フレンド、アラナ・カリーも加わってバンドは7人編成となりました。 81年アリスタ・レコードと契約して2ndアルバム『イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ』をリリース。プロデューサーはウルトラ・ヴォックスやU2を手掛けるスティーヴ・リリホワイト、アルバムはアメリカでもリリースされ、タイトル曲が全米ダンス・チャートで1位を獲得しました。 ようやくブレイクの兆しが見えたものの、バンド内に不協和音が広がりメンバーが続々脱退。結局残ったのはトム・ベイリー、ジョー・リーウェイ、アラナ・カリーの3人でした。この頃からシンセサイザーをフィーチャ―したポップでダンサブルなサウンドにシフト。83年に『サイド・キックス』をリリースすると、全英2位、全米でも34位のヒットとなりました。 第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗ったトンプソン・ツインズ。84年の『ホールド・ミー・ナウ』は、タイトル曲のヒットに導かれ全英でトップ、全米でも10位となり世界中で大ヒット、この年初来日公演も行われました。 翌85年のアルバム『フューチュアー・デイズ』も全英5位、全米20位と健闘しますが、86年にジョー・リーウェイが脱退して、その後は人気に陰りが見え始めます。91年にトム・ベイリーとアラナ・カリーは結婚してニュージーランドへ移住。この年、アルバムをリリースして93年にトンプソン・ツインズは解散してしまいます。 ベイリーは2018年に初のソロアルバムをリリースして、2000年代はソロ活動が中心となります。ところが2014年ハワード・ジョーンズとのアメリカ・ツアーをきっかけに、トンプソン・ツインズの楽曲を演奏するようになり、29年ぶりに来日。2024年は『ホールド・ミー・ナウ』40周年記念盤をリリースしてツアーを行い、現在もソロ・ツアーを続けています。 トンプソン・ツインズのアルバム『サイド・キックス』 SIDE A 「ラブ・オン・ユア・サイド」 「ライズ」 「イフ・ユー・ワー・ヒアー」 「ジュディーの場合は」 「ティアーズ」 SIDE B 「ウォッチング」 「ぼくらは探偵団」 「神風」 「ラブ・ライズ・ブリーディング」 「オール・フォール・アウト」 トンプソン・ツインズのアルバム『サイド・キックス』いかがでしょうか? ちなみにトム・ベイリーとアラナ・カリーは2004年に離婚しており、彼女は現在、ミス・ポケノという名前でアーティスト、フェミニストとして活動しています。 http://www.thompsontwinstombailey.co.uk/ ★トム・ベイリー オフィシャル
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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ワン・チャン『モザイク』
【2025年2月8日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は皆さんに少しでも温まっていただけるようダンサブルなレコードを紹介します。 「ダンシング’80s」今回ご紹介するのは、イギリス出身のデュオ、ワン・チャンです。デュオというと、サイモン&ガーファンクルやホール&オーツなどが思い浮かびますが、元々同級生という彼らと違い、ワン・チャンは新聞広告がきっかけで巡り合った出会い系デュオです。 ヴォーカル&ギターのジャック・ヒューズこと、ジェレミー「ジェズ」ライダーは、1954年12月10日イングランド南部ケント州生まれ。地元のバンドで活動中に、音楽紙「メロディーメーカー」でメンバー募集の広告を目にします。 一方ベース&キーボードのニック・フェルドマンは1955年5月1日ロンドン生まれ。大学在学中に音楽の道へと進み、バンドを組んで活動していました。メンバー募集の広告を出したところ、ジャック・ヒューズから連絡があり一緒に活動することに。 パンク・ムーヴメントさ中の1977年、インテレクチュアルズというバンドを立ち上げました。しかしバンドは1年ほどで解散し、ニックとジャックは新しいバンドを結成しますが、こちらも1年半で解散。 そのバンド、57メンの残党、ニックとジャック、そしてドラマーのダレン・コスティンで3ピース・バンド、ファン・チャンを結成。インディーズから2枚のシングルをリリース後、アリスタ・レコードと契約しました。 1982年、1stアルバム『ダンス・ホール・デイズ』をリリースして、大規模なツアーを行いました。しかし、彼らに可能性を感じた新マネージャーのデヴィッド・マッセイは、2作目にとりかかる前に、よりよい条件を求めて新しい契約先を模索。ライヴを観たアメリカのゲフィン・レコードが興味を示し、契約を獲得します。 レーベルのオーナー、デヴィッド・ゲフィンの要望により、バンド名をワン・チャンに改名、83年『ポインツ・オン・ザ・カーヴ~航跡』をリリースします。アルバムは、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの流れに乗ってシングル・ヒットを繰り出し、アルバムも全米チャート30位まで上昇しました。 ところが84年にはドラマーのダレン・コスティンが脱退して、ニックとジャックのデュオとなりました。2人はいくつかのサウンドトラックを手掛けた後、1986年に『モザイク』をリリースすると「エブリバディ・ハヴ・ファン・トゥナイト」が全米2位、「レッツ・ゴー」が9位の大ヒット。 その後も快進撃が続きますが1990年以降、ジャックはサントラを手掛けたりニックはカルチャー・クラブのジョン・モスとバンドを組んだり、それぞれ別の道へ。しかし、97年のベスト・アルバムをきっかけに、ワン・チャンを復活。現在もライブ・ツアーを中心に活動を行っています。 ワン・チャンのアルバム『モザイク』 SIDE A 「エブリバディ・ハヴ・ファン・トゥナイト」 「ヒプノタイズ・ミー」 「フラット・ホライズン」 「ビトレイヤル」 SIDE B 「レッツ・ゴー」 「アイズ・オブ・ザ・ガール」 「フール・アンド・ヒズ・マネー」 「ワールド・ウィ・リヴ」 ワン・チャンのアルバム『モザイク』いかがでしょうか? ちなみにワン・チャンのニック・フェルドマンは、一時期ワーナー・ミュージックやソニーBMGのA&Rとして、アーティストの発掘や育成を手掛けていた時期があるそうです。 https://www.wangchung.com/home ★ワン・チャン オフィシャル
アナログレコード 1986年澁谷彰一
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ヒューマン・リーグ『ラヴ・アクション』
【2025年2月1日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 一年で一番寒さが厳しいシーズンとなりました。今月は、皆さんに体を動かし温まっていただけるよう、ダンサブルなレコードを紹介します。 「ダンシング’80s」最初に紹介するのは、イギリスのエレクトロ・ポップ・バンド、ヒューマン・リーグです。イングランド シェフィールド生まれのマーティン・ウェアとイアン・マーシュ。コンピュータ関係の仕事をしていた彼らが、シンセサイザーに興味を持ちバンド活動を始めます。 そのバンド、ザ・フューチャーからヴォーカリストが脱退したため、音楽経験のない友人、フィリップ・オーキーを誘ったのが新バンドの始まりです。78年にバンド名をヒューマン・リーグへと変更、オーキーの友人で映像作家のエイドリアン・ライトも加わり活動をスタートします。 インディーズでのリリースを経て、1979年にヴァージン・レコードからデビュー。デビュー作『人類零年』は高い評価を得られましたが、ヒットまでには至りませんでした。しかし、80年にイギリスの人気音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演する機会を得ると、人気ロック・シンガー、ゲイリー・グリッターのヒット曲をカヴァーして注目を浴び、2ndアルバム『幻の果てに』は全英チャートで16位のヒットとなりました。 しかしここで大事件が…。 キーボード・プレイヤーで、オリジナル・メンバーのマーティン・ウェアとイアン・マーシュが脱退。2人はB.E.Fという新たなプロジェクトを立ち上げ、ヴォーカリストのグレン・グレゴリーを加えた3人で、ヘヴン17という新バンドを結成しました。 残されたフィリップ・オーキーとエイドリアン・ライトは、ディスコでスカウトした女学生ジョアンヌ・キャスロールとスーザン・サリーを加え、ヴィジュアルとポップさを追い求めます。 結果、「ラヴ・アクション」「オープン・ユア・ハート」のシングルがTOP10ヒットとなり、そしてとうとう「愛の残り火」で、全英はもとより全米でも頂点を極めます。メンバーを補充して、これらのヒット曲を収録した81年の3rdアルバム『ラヴ・アクション』は、全英1位、全米でも3位の大ヒットとなり、この年初来日公演を行いました。 このヴィジュアルとポップなサウンドが第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの先駆けとなり、デュラン・デュランやカルチャー・クラブへとつながりました。またヒューマン。リーグ自身も86年の「ヒューマン」で再び全米1位を獲得しました。 その後メンバーチェンジやレーベルの移籍を経ながらも2011年に30年ぶりの来日公演を行い、そして現在もフィリップ、ジョアンヌ、スーザンの3人で活動を続けています。 ヒューマン・リーグのアルバム『ラヴ・アクション』 SIDE A 「夢のかけら」 「オープン・ユア・ハート」 「ザ・サウンド・オブ・ザ・クラウド」 「ダークネス」 「ドゥ・オア・ダイ」 SIDE B 「ゲット・カーター」 「アイ・アム・ザ・ロー」 「セカンズ」 「ラヴ・アクション」 「愛の残り火」 ヒューマン・リーグのアルバム『ラヴ・アクション』いかがでしょうか? ちなみにヒューマン・リーグは、このアルバムから加入したジョー・キャリスまで両手でキーボードを弾けるメンバーが居なかったのだそうです。 https://www.thehumanleague.co.uk/ ★ヒューマン・リーグ オフィシャル
アナログレコード 1981年澁谷彰一
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ホワイトスネイク『スライド・イット・イン』
【2025年1月25日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今年は巳年ということで、復活と再生の象徴、蛇にちなんで今月は「ヘヴィなロック」をお届けしてきました。 シリーズ・ラストは、やはりこのバンド、ホワイトスネイクをおいて他ないでしょう。ホワイトスネイクの中心人物デイヴィッド・カヴァデールは、1951年9月22日イングランド生まれ。地元のロック・バンドで活動し、昼はブティックの店員、夜はバンドという生活を送っていました。 そんなある日、音楽新聞で観た「ヴォーカリスト募集」の記事に興味を示し、1973年、ダメ元でデモテープを送ると、オーディション参加の通知が届きます。そのバンドとはイアン・ギランが脱退した後の超大物、ディープ・パープルでした。 すると、ほぼ無名の存在ながらリッチー・ブラックモアに気に入られて加入が決定。同時期ベースのロジャー・グローヴァ―に替わって採用されたグレン・ヒューズと共に、第3期ディープ・パープルとして、アルバム『バーン/紫の炎』でデビューしました。 しかしそのディープ・パープルは76年に解散、カヴァデールはソロ活動をスタートします。78年には、初のソロ作品『ホワイトスネイク』から名付けたバンドを結成、その後元パープルのメンバー、ジョン・ロードやイアン・ペイスが参加します。 80年の3作目『フール・フォー・ユア・ラヴィング』が全英6位のヒット、そして81年の『カム・アンド・ゲット・イット』では全英2位の大ヒットとなりました。しかし、プライベートな問題からの活動休止や、メンバー間の確執などからバンドは迷走。 それでもアメリカ進出を図りゲフィン・レコードと契約、紆余曲折の末84年にリリースした『スライド・イット・イン』が全米40位の成功を収めました。87年『サーペンス・アルバス~白蛇の紋章~』が全米2位のビッグ・ヒット、続いて89年『スリップ・オブ・ザ・タング』と3作連続プラチナ・ディスクに認定されました。 しかし90年代に入るとジミー・ペイジとのユニット「カヴァデール・ペイジ」に軸足を移し、バンドは解散状態。94年にはホワイトスネイクを再始動して、ワールド・ツアーを行いますが97年に再び解散。 2003年には新メンバーで25周年ツアーを行い、2008年に新作を発表。21年、バンドの活動停止を発表してフェアウェル・ツアーをスタートしますが、メンバーの相次ぐ体調不良により中断。 2024年にはデイヴィッド・カヴァデールのソロ3作品をリミックス&リマスターして、ホワイトスネイク名義でリリースしました。 ホワイトスネイクのアルバム『スライド・イット・イン』 SIDE A 「ギャンブラー」 「スライド・イット・イン」 「孤独の影」 「ギヴ・ミー・モア・タイム」 「ラヴ・エイント・ノー・ストレンジャー SIDE B 「スロー・アンド・イージー」 「スピット・アウト」 「オール・オア・ナッシング」 「ハングリー・フォー・ラヴ」 「愛の掟」 ホワイトスネイクのアルバム『スライド・イット・イン』いかがでしょうか? ちなみにデイヴィッド・カヴァデールは、ディープ・パープル加入に際してダイエットと美容整形が条件として出されており、その後も何度か整形しているそうです。 https://whitesnake.com/ ★ホワイトスネイク オフィシャル
アナログレコード 1984年澁谷彰一
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BOW WOW『CHARGE』
【2025年1月18日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今年は巳年ということで、復活と再生の象徴、蛇にちなんで1月は「ヘヴィなロック」をお届けしています。 今回はハード・ロックの日本代表、BOW WOWが1977年にリリースした3rdアルバム『チャージ』です。1958年開催、第1回「日劇ウェスタン・カーニバル」に端を発すると言われる日本のロック。ロカビリー、エレキブーム、GS、ニュー・ロックと形を変えながら発展し、70年代に入ってようやく本格的な日本のロックが誕生します。 はっぴいえんど やサディスティック・ミカ・バンド、キャロルやクリエイションへと受け継がれ、その流れに乗ろうとしたプロデューサーがメンバーを集めて、75年に結成したのがBOW WOWでした。オリジナル・メンバーはギター&ヴォーカルに山本恭司と斎藤光浩、ドラムの新美俊宏とベースの佐野賢二の4人。76年『吼えろBOW WOW』でデビューすると、国内ではまだ珍しかった本格的なハード・ロック・バンドとして注目を集めます。 特に当時まだ19才ながら天才的なギター・プレイを聴かせてくれたのが山本恭司。1956年3月23日、島根県に生まれた山本少年は、身長コンプレックスから体操に打ち込んでいました。ところが中学を卒業する頃に、映画『ウッドストック』を観て衝撃を受けたそうです。15才でギターに目覚め、ロック・ギターのコピーをし始めるとメキメキと腕を上げていきました。 高校卒業後はヤマハの音楽学校に学び、在学中にスカウトされBOW WOWのメンバーに。ルックス重視のメンバーに対して山本が教師役となり、山小屋での鬼合宿を経てプロ・デビュー。デビューしてすぐ、エアロスミスとキッスのオープニングアクトをつとめ、洋楽ファンにアピール。82年にスイスの「モントレー・フェスティバル」出演するなど海外進出も果たし、イギリスの「レディング・フェスティバル」では、5万人を総立ちにしました。 83年にメンバー・チェンジを行い、84年に名前を「B」から「V」のVOW WOWに変更。強力なヴォーカリスト人見元基を迎え、拠点をロンドンに移して3年半にわたって活動。その後ロックの中心がロンドンからロサンジェルスに移ったことに伴い、アメリカへわたります。アメリカではイギリス程の実績がのこせないまま、1990年にVOW WOWは解散。 その後山本はWILD FLAGとしての活動を経て、95年に新生BOWWOWをスタートしますが2年で解散。しかし98年に、15年ぶりオリジナル・メンバーによるBOWWOWを再結成しました。2000年代にはBOWWOW、WILD FLAG、そしてソロ活動を並行して、様々なセッションや吹奏楽団との共演など、枠にとらわれない活動を繰り広げています。 2014年からは、山本と斉藤が、BOWWOWのギター2人という意味でBOWWOW G2として活動。ところが23年5月27日、ドラマーの新美俊宏が星になってしまいました。それでもBOWWOWとしての活動は継続しているようです。 BOW WOWのアルバム『CHARGE』 SIDE A 「ジェット・ジャイブ」 「マスト・セイ“アデュー”」 「ブルー・アイド・レディー」 「ザ・クラウン」 SIDE B 「ロックアンドロール・キッド」 「フォーリン・リーブス」 「ヘビィー」 「シスター・ソウル」 「ビハインド・ザ・マスク」 BOW WOWのアルバム『CHARGE』いかがでしょうか? ちなみに、俳優の佐野史郎とは高校の同級生で音楽仲間。地元ゆかりの小泉八雲作品で、音楽と文学作品朗読の融合が二人のライフワークとなっています。 https://bowwow-army.jp/ ★BOWWOW オフィシャル
アナログレコード 1977年澁谷彰一
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ゲイリー・ムーア『バック・オン・ザ・ストリーツ』
【2025年1月11日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今年は巳年ということで、復活と再生の象徴、蛇にちなんで1月は「ヘヴィなロック」をお届けします。今回は、“泣きのギター”でおなじみ、ゲイリー・ムーア初のソロ・アルバム1978年にリリースされた『バック・オン・ザ・ストリーツ』です。 ギターの演奏で、チョーキングやヴィブラートといった叙情味あふれるプレイが“泣きのギター”。サンタナやエリック・クラプトンを思い出していただけると想像しやすいかも知れません。その第一人者と言われるゲイリー・ムーア、出生名ロバート・ウィリアム・ゲイリー・ムーアは1952年4月4日北アイルランドに生まれました。 父親が地元のプロモーターという音楽的に恵まれた環境で育ち、小学生から早くもギターを手にしていたそうです。エルヴィス・プレスリーやビートルズからロックに目覚め、ジョン・メイオールやジミ・ヘンドリクスのライヴを見てブルースの沼にもハマっていきます。 早速バンドを組んでクラブで演奏し始めると評判となり、ダブリンのブルース・ロック・バンド、スキッド・ロウにスカウトされてキャリアをスタート。フリートウッド・マックのダブリン公演でオープニングをつとめると、憧れのピーター・グリーンに認められ、CBSと契約をしてイギリス進出を果たします。 70年のデビュー・アルバム『スキッド』以降、スキッド・ロウではアルバム3枚を残し71年脱退。その後はイギリスでソロ活動を始めますが成功には至らず、一時シン・リジィに参加。75年にジャズ・ロック・バンドのコロシアムⅡを結成して、アルバム3枚リリース後に脱退。77年から再びシン・リジィと合流して正式メンバーとなります。 バンドと並行して78年にソロ・アルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』をリリース。シン・リジィのフィル・ライノットをヴォーカルに迎えたシングル「パリの散歩道」が全英8位と初のヒット曲となりました。79年にはシン・リジィを脱退して、82年にヴァージンへ移ってソロ活動を再開。 2作目のソロ・アルバム『大いなる野望』は日本でもヒットして、83年に初来日を果たします。しかし90年のアルバム『スティル・ゴット・ザ・ブルース』で原点回帰すると、世界中で思わぬ大ヒットとなり、ハード・ロックからブルース路線に転向。90年代は、元クリームのジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーとBBMとして活動したり、ドラムンベースをとり入れてみたり、様々な音楽スタイルにチャレンジしています。 2001年には『バック・トゥ・ザ・ブルース』をリリースして、再びブルースへ回帰。前回から21年ぶりの2010年にジャパン・ツアーを行いますが、これが最後の来日となり、2021年2月6日、休暇で訪れていたスペインで星となってしまいました。 ゲイリー・ムーアのアルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』 SIDE A 「バック・オン・ザ・ストリーツ」 「ドント・ビリーヴ・ア・ワード」 「狂信的なファシスト」 「スノウ・ムースの飛行」 SIDE B 「ハリケーン」 「ドナの歌」 「皮肉な奴になりたいのか」 「パリの散歩道」 ゲイリー・ムーアのアルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』いかがでしょうか? ちなみに、羽生結弦選手がソチ五輪のショートで史上初の100点超えを達成した時の曲はゲイリー・ムーアの「パリの散歩道」でした。 https://www.gary-moore.com/index.html ★ゲイリー・ムーア オフィシャル
アナログレコード 1978年澁谷彰一
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マイケル・シェンカー・グループ『神(帰ってきたフライング・アロウ)』
【2025年1月4日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今年も様々なジャンルのレコードを紹介していこうと思います。今年は巳年ということで、復活と再生の象徴、蛇にちなんで1月は「ヘヴィなロック」をお届けします。 初回は、お正月に相応しく“神”と呼ばれるギタリスト、マイケル・シェンカーが1980年に発表した、マイケル・シェンカー・グループのアルバム『神(帰ってきたフライング・アロウ)』をご紹介します。 マイケル・シェンカーことミヒャエル・シェンカーは、1955年1月10日西ドイツ生まれ。父はヴァイオリン、母はピアノをたしなむ音楽好きな一家に育ち、自然と音楽と触れ合って来ました。特に7才年上の兄ルドルフの影響は強く、エルヴィス・プレスリーはじめ、シャドウズのようなインスト・バンド、ビートルズやストーンズも聴くようになります。 サッカー選手を夢見ていたミヒャエルでしたが、兄が誕生日にもらったギターに興味を奪われます。その兄が、小学生のミヒャエルにシャドウズが入ったテープをプレゼントすると、その日のうちにギターでメロディをなぞることが出来てしまったそうです。 兄ルドルフがスコーピオンズというバンドを結成すると、ミヒャエルもバンドに興味を持ち始め、11歳でステージ・デビュー。その後いくつかのバンドで活動中、スコーピオンズのヴォーカルとギターが脱退。兄の招きで、ヴォーカルのクラウス・マイネと共に加入、ミヒャエルは17歳でした。 スコーピオンズは1972年にデビュー、ミヒャエルのギターをウリにしていましたが、交流のあったイギリスのバンドUFOのギタリストに抜擢され、イギリスに渡ります。新体制となったUFOは、レーベルを移籍して74年にアルバム『現象』をリリース。マイケルは「ドクター・ドクター」などの名曲を生み出していきますが、78年にUFOを脱退、一時スコーピオンズに復帰したものの結局こちらも辞めてしまいます。 79年にはマイケル・シェンカー・グループを立ち上げ、80年にアルバム『神』をリリース。大きな期待を背負っての復活でしたが、メンバーが激しく入れ替わり自然消滅してしまいます。86年にヴォーカリストのロビン・マッコリ―とマッコリ―・シェンカー・グループを結成、拠点をアメリカに移して活動を続けますが、メンバーの出入りが続き、92年に解散しました。 その後マイケルは黄金期メンバーによるUFO再結成に参加、しかし意見の対立で再び空中分解。96年にマイケル・シェンカー・グループが再編されますが、その後もマイケルはUFOと行ったり来たり。2000年代もそれは変わらず、マイケル・シェンカー・グループもメンバー・チェンジが続きます。 2006年には25周年記念のアルバム『テイルズ・オブ・ロックン・ロール』をリリース、16年には歴代メンバーを集めて「マイケル・シェンカー・フェスト」を立ち上げました。このスタイルは様々な場所で開催され、スタジオ・アルバムもリリース。現在もロビン・マッコリ―と共にマイケル・シェンカー・グループを続けています。 マイケル・シェンカー・グループのアルバム『神(帰ってきたフライング・アロウ)』 SIDE A 「アームド・アンド・レディー」 「クライ・フォー・ザ・ネーションズ」 「ヴィクティム・オブ・イリュージョン」 「ビジョ―・プレジュレット」 「フィールズ・ライク・ア・グッド・シング」 SIDE B 「イントゥ・ジ・アリーナ」 「ルッキン・アウト・フロム・ノーホェア」 「テイルズ・オブ・ミステリー」 「ロスト・ホライズンズ」 マイケル・シェンカー・グループのアルバム『神』いかがでしょうか? ちなみに、マイケル・シェンカーのトレードマーク、ギブソンのフライングVというギター。ライヴ直前、自分のギターを別れた彼女の家に置いてきたため、兄ルドルフのギターを借りたところ非常に気に入ったので、そのまま譲り受けたのだそうです。 https://michaelschenkerhimself.com/ ★マイケル・シェンカー オフィシャル
アナログレコード 1980年澁谷彰一
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沢田研二『A WONDERFUL TIME』
【2024年12月28日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 12月は1982年にDate fmが開局したメモリアルな月という事で“Fantastic 80's”と題して、80年代初期のJ-POPをお送りしています。シリーズ最終回は、沢田研二が1982年にリリースしたアルバム『A WONDERFUL TIME』をお届けします。 1970年代の終わりから80年代にかけて、ロックと歌謡曲の融合が見られた日本の音楽シーン。その象徴的存在が沢田研二ではないでしょうか。 グループ・サウンズ「ザ・タイガース」としてデビュー、その後ソロ・シンガーとなった沢田研二は、1948年6月25日鳥取県で生まれました。京都に移り住んだ少年時代はプロ野球選手に憧れ、中学では野球部のキャプテンを務めたそうです。高校を中退してアルバイトしていたダンス喫茶で声をかけられ、音楽の世界へ。 ヴォーカリストとして、岸部一徳のバンド「ファニーズ」から声がかかり、大阪のジャズ喫茶へ進出すると次第に人気を獲得、関西を代表するグループになりました。寺内タケシとブルージーンズのヴォーカル、内田裕也の目にとまり東京へ進出。音楽番組のプロデューサーをしていた、すぎやまこういちによってザ・タイガースへと改名、渡辺プロダクション所属となり、1967年にシングル「僕のマリー」でデビューします。 2ndシングル「シーサイド・バウンド」が大ヒット、GSブームの中心となったザ・タイガースは、「モナリザの微笑」「君だけに愛を」などヒットを連発。しかし、アイドル路線をひた走る事務所とメンバー間に不協和音が生まれます。 69年にはメンバーの入れ替えによって第2期タイガースの始動となりますが、大学紛争などの社会情勢や、音楽の多様化などからグループ・サウンズ・ブームも収束。結局ザ・タイガースは71年の武道館公演をもって解散しました。 その後、沢田と岸部は、元テンプターズの萩原健一らとスーパー・グループPYGを結成。本格的なニュー・ロックを目指しますが、ロック・ファンからもGSファンからもそっぽを向かれ、71年11月、沢田研二は「君をのせて」でソロ・デビューに至ります。 73年の「危険なふたり」で初のオリコン1位を獲得、以後「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」とヒットを放って行きます。80年代に入ると、佐野元春や大沢誉志幸などを迎えたアルバム『A WONDERFUL TIME』や、自身も作詞・作曲に取り組むなど、新たな展開をみせてきました。 またソロと並行して81年にはタイガースを一時復活、2013年に再結成ツアーも行いました。現在も歌手のみならず、俳優として映画、舞台と幅広く活躍。2023年75歳の誕生日には、さいたまスーパーアリーナでコンサートを行うなど、まだまだ現役として活動中です。 沢田研二のアルバム『A WONDERFUL TIME』 SIDE A 「おまえにチェックイン」 「PAPER DREAM」 「STOP WEDDING BELL」 「WHY OH WHY」 「A WONDERFUL TIME」 SIDE B 「WE BEGAN TO START」 「氷づめのHONEY」 「ZOKKON(ゾッコン)」 「パフューム」 「素肌に星を散りばめて」 沢田研二のアルバム『A WONDERFUL TIME』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムには伊藤銀次、後藤次利、そして4人目のYMOと言われた松武秀樹など多くのロック・ミュージシャンが参加、さすがはジュリーです。 http://www.co-colo.com/ ★沢田研二 オフィシャル
アナログレコード 1982年澁谷彰一
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アン・ルイス『LA SAISON D'AMOUR』
【2024年12月21日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 12月は1982年にDate fmが開局したメモリアルな月という事で “Fantastic 80's”と題して、80年代初期のJ-POPをお送りしています。今回は、アイドルからロック・シンガーへと生まれ変わったアン・ルイスが1982年にリリースしたアルバム『LA SAISON D'AMOUR』をお届けします。 1970年代の終わりから80年代にかけて、日本の音楽シーンではロックと歌謡曲の融合が見られました。それまでTVで観る機会の少なかったロック・ミュージシャンも、Char、原田真二、ツイストの「ロック御三家」の登場によって、お茶の間でも人気となります。またフォーク・シンガーがアイドルや演歌歌手へ作品を提供するなど、ジャンルをまたいだ音楽がヒットしていました。そんな時代に、歌謡界からロックへアプローチしてきたシンガーの一人がアン・ルイスでした。 本名アン・リンダ・ルイスは、1956年6月5日神戸に生まれました。父親はアメリカの軍人、母親が日本人のハーフで、横浜にある米軍住宅街で育ちます。幼少期からモデルとして活動しはじめ、1971年15歳でビクター・レコードからデビュー。平尾昌晃・なかにし礼コンビによる74年の「グッバイ・マイ・ラブ」が初のヒット曲となりました。 その後シンガーとしてのヒットこそありませんでしたが、タレントとして活動する傍ら自身もこだわりのあるファッションの分野で、キャンディーズや山口百恵の衣装をデザイン。70年代後半になってくるとロック寄りの楽曲をリリースするようになり、山下達郎の「恋のブギ・ウギ・トレイン」や、竹内まりやの「リンダ」などでアイドルから脱却。 80年にはロック・シンガーの桑名正博と結婚して、翌年に長男・美勇士を出産、育児のためしばらく音楽から離れていましたが、1982年「ラ・セゾン」で見事復活します。83年からはNOBODYや伊藤銀次といったポップ・ロック人脈が加わり「LUV-YA」などをチャートに送りこんでいきました。 84年に離婚した後は、よりロック志向を強め「六本木心中」がドラマ主題歌に起用されると、主演のとんねるず と共にブレイク、1年以上チャートインし続けるロング・ヒットとなりました。また85年6月9日(ロックの日)に日比谷野外音楽堂で『ANN CALL'85』と名打ったイべントを開催。Char、原田真二、吉川晃司、早見優、山下久美子、太田裕美など、芸能界と音楽業界との垣根を超えた友人たちとのパーティーは、89年まで毎年開催されました。 「六本木心中」はテレビ番組での大胆なパフォーマンスが話題となり、続く86年には「あゝ無情」が大ヒット、アン・ルイスは歌謡ロック路線をばく進します。ところが90年代に入りパニック障害であることを発表して、しばらく父親の母国アメリカに在住。活動休止を経て、2005年にセルフ・カヴァー・アルバをリリースして活動を再開しました。しかし2013年、元夫の桑名正博と息子の美勇士との共演CDをリリースして引退を発表。現在はアメリカで静かに暮らしているようです。 アン・ルイスのアルバム『LA SAISON D'AMOUR』 SIDE A 「PHOTOGRAPH」 「BABY LET ME STAY TONIGHT」 「さよならスウィートハート」 「LA SAISON」(アルバム・ヴァージョン) 「SHAKE DOWN」 「DON'T SMILE FOR ME PART I」 SIDE B 「CAN YOU LIGHT MY FIRE」 「ALL MIXED UP」 「AちょっとHOTみだら」 「つかのまスターダスト」 「DOUBLE VISION」 「DON'T SMILE FOR ME PART II」 アン・ルイスのアルバム『LA SAISON D'AMOUR』いかがでしょうか? ちなみに、ヒット・シングルの「ラ・セゾン」、作詞は三浦百恵、作曲は沢田研二。アルバムのジャケット写真は宇崎竜童が手掛けるという豪華な作品だったのです。 https://www.jvcmusic.co.jp/-/Artist/A000282.html ★アン・ルイス ビクターエンタテインメント
アナログレコード 1982年澁谷彰一
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ラッツ&スター『ソウル・バケイション』
【2024年12月14日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 12月は1982年にDate fmが開局したメモリアルな月という事で“Fantastic 80's”と題して、80年代初期のJ-POPをお送りしています。今回は、鈴木雅之率いるラッツ&スターのアルバム『ソウル・バケイション』をお届けします。 “ラブソングの王様”マーチンこと鈴木雅之は、1956年9月22日東京都大田区に生まれました。実家は町工場で、姉が聴いていたラジオから流れるポップスやR&Bに影響を受けました。幼少の頃は、海苔漁師だった祖父の船で、のり巻きをマイク代わりに歌っていたそうです。 中学に入るとフォーク・ギターで歌い始め、岡林信康やガロのコピーをしていました。中学2年で音楽室を借りて開催したコンサートが、パフォーマーとしての原点。その頃ラジオで聴いた、つのだ☆ひろ の「メリー・ジェーン」に衝撃を受け、そのルーツを求めて洋楽を聴き漁り、レコード店巡りをしていました。 高校時代はローリング・ストーンズやグランド・ファンク・レイルロードなど、ブルージーなロックをカヴァー。つのだ☆ひろの影響でドラム&ヴォーカルを担当しました。一方でディスコに出入りするようになると、チーク・タイムで「メリー・ジェーン」に再会、バラードの魅力に取りつかれつつ、ソウルやファンク、R&Bを吸収していきます。 1975年に同級生の田代まさし、中学時代の同級生佐藤善雄、久保木博之らとシャネルズを結成。当時キャロルのコピー・バンドが横行する中で、他と違ったことがしたいと、映画「ウッドストック」で見たバンドSha Na Naの影響で、ドゥーワップやR&Bを演奏していました。その頃TV出演も経験し、自信満々で出場したバンド・コンテスト『EastWest'77』では、決勝まで進出しますが惜しくも優勝を逃してしまいます。 しかし父親に励まされて一念発起、ステージでのインパクトを求めて“黒塗り”スタイルを確立。再び挑んだ『EastWest』のステージを見ていたEPICソニー創設スタッフから声がかかり、定期ライヴで腕を磨いた後、シャネルズは1980年「ランナウェイ」でメジャー・デビューを果たします。これがいきなりオリコンチャート1位となると、日本でドゥ・ワップ・ブームを巻き起こしました。 飛ぶ鳥をも落とす勢いのシャネルズでしたが、メンバーが問題を起こし一旦活動休止。83年にグループ名をラッツ&スターに改め、デビュー曲「め組のひと」は80万枚を売り上げました。そしてこの年、アマチュア時代から親交があり敬愛する大瀧詠一をプロデューサーに迎え、アンディー・ウォーホルがジャケット・デザインを手掛けた『ソウル・バケイション』をリリースしました。 85年以降はグループとしての活動は少なくなり、86年に鈴木雅之はソロ・デビュー。87年に姉の鈴木聖美とリリースしたデュエット曲「ロンリーチャップリン」が大ヒット。再集結した96年以降は、ラッツ&スターとしてのリリースはありませんが、ソロ・アーティスト鈴木雅之は、今でも“ラブソングの王様”として君臨し続けています。 ラッツ&スターのアルバム『ソウル・バケイション』 SIDE A 「We are RATS & STAR」 「楽しき街角」 「今夜はフィジカル」 「裏切りの都会(まち)」 「One Dream Night」 「星空のサーカス」 SIDE B 「Tシャツに口紅」 「真夜中のダイヤモンド」 「女って・・・」 「月へはせる想い」 「Miss You」 ラッツ&スターのアルバム『ソウル・バケイション』いかがでしょうか? ちなみに、シャネルズが惜しくも優勝を逃した77年のコンテスト『EastWest'77』には、サザンオールスターズやカシオペアも出演、残念ながら両者とも優勝は逃しています。 https://www.martin.jp/ ★鈴木雅之 オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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オフコース『I LOVE YOU』
【2024年12月7日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 12月は1982年にDate fmが開局したメモリアルな月という事で、今月は“Fantastic 80's”と題して、開局当時80年代初期のJ-POPをお送りします。初回は仙台との縁も深いグループ、オフコースが1982年にリリースしたアルバム『I LOVE YOU』をお届けします。 オフコースのリーダー小田和正は、1947年9月20日横浜に生まれました。高校時代に友人たちと組んだ学園祭のフォーク・グループがそのルーツです。1967年、小田和正、鈴木康弘、地主道夫の3人でジ・オフコースを結成しました。 その後、東北大学に進学した小田と地主は、アマチュア時代にけじめをつけようと、1969年の第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場。東北大会を1位で通過し全国大会へ進出するも、「赤い鳥」についで2位となります。 これがかえって小田のハートに火をつけ、音楽の道へと進むきっかけになったそうです。1970年「群衆の中で」でデビューに至りましたが、全く売れずに低空飛行を続けます。72年からは小田・鈴木の二人体制となり、73年4枚目のシングル「僕の贈り物」で再デビューの形をとりましたが、状況は変わらず。 76年頃からドラム、ベースなどサポートメンバーを加えて、バンド・サウンドを目指します。79年、バック・メンバーだったドラムの大間仁世(ジロー)、ベースの清水仁、そしてギターの松尾一彦が正式加入して、オフコースは5人編成のバンドとなりました。 地道にライヴ活動を続け、ファンの心を掴んできた彼らに漸くスポットライトが当たります。苦節10年、1979年12月1日にリリースされた17枚目のシングル「さよなら」が大ブレイク、オフコースは、ニューミュージックを代表するアーティストとなりました。 1980年には全国15ヶ所計21ステージのツアーを行い、ソロとしては初の武道館公演も開催、この年リリースしたアルバム『We are』で、とうとうオリコン・チャートの首位を獲得します。その後も『over』、そして『I LOVE YOU』とオリジナル3作連続で1位となりました。 82年には日本武道館連続10日間公演を行いますが、翌年オリジナル・メンバーの鈴木康博が脱退。その後しばらく活動を休止しますが、84年にはファンハウスに移籍して4人体制でのシングル「君が、嘘を、ついた」をリリース、85年からはツアーも再開します。 その後もイヴェントへの出演、メディアへの露出など活発に活動を続けますが、ファンクラブへの発表後、89年2月26日東京ドーム公演をもってオフコースは解散しました。 ソロとなった小田和正は、91年「ラブ・ストーリーは突然に」が自身初のミリオンセラーとなり、2001年からはほぼ毎年、年末に「クリスマスの約束」と題した音楽番組を続けています。 オフコースのアルバム『I LOVE YOU』 SIDE A 「YES-YES-YES」 「素敵なあなた」 「愛のゆくえ」 「哀しき街」 SIDE B 「揺れる心」 「きっと同じ」 「かかえきれないほどの愛」 「決して彼等のようではなく」 「I LOVE YOU」 オフコースのアルバム『I LOVE YOU』いかがでしょうか? ちなみに、ハイトーン・ヴォイスの小田和正ですが、東北大学在学中は混声合唱団のテノールとして活躍していたのだそうです。 https://www.fareastcafe.co.jp/index.htm ★小田和正 オフィシャルサイト
アナログレコード 1982年澁谷彰一
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クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル『ペンデュラム』
【2024年11月30日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りして来ました。題して“渋ロック”シリーズ最終回は、カリフォルニア出身ながらスワンピーでルーツなバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『ペンデュラム』です。 CCRのリーダー、ジョン・フォガティは1945年5月28日カリフォルニア州バークリー生まれ。幼い頃からブルースを聴いて、南部のディープな音楽に影響を受けました。同じ高校に通うスチュ・クック、ダグ・クリフォードの3人で1959年ブルー・ベルベッツを結成。ジョンの兄、トム・フォガティが加わって、64年にゴリウォッグスとしてデビューします。 資金難にあえぎ、場末のライブハウスで演奏を続ける彼らに幸運が訪れます。後にアカデミー賞プロデューサーとなるソウル・ゼインツがゴリウォッグスが所属するファンタジー・レコードを買収、バンドにも融資してくれたのです。 レーベルが勝手につけた差別的なバンド名に不満を持っていた彼らは、ゼインツのアドバイスを受け、1968年にクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルと改名。同年リリースしたシングル「スージーQ」は、A~B面に渡る長尺ながら全米11位まで上昇し、同タイトルのアルバムも全米52位と、CCRにとって初のヒットとなりました。 2ndアルバム『バイヨー・カントリー』から、名曲「プラウド・メアリー」が生まれ、アルバムも全米7位の大ヒットとなりました。立て続けに発表した3作目『グリーン・リヴァー』から、「バッド・ムーン・ライジング」が全米2位、アルバムではついに初の全米1位を獲得しました。 順調に見えたものの、リード・シンガーでソングライターでもあるジョンの独占体制がすすむとメンバーとの軋轢が生まれ、70年の『ペンデュラム』をもってトム・フォガティが脱退。3人態勢となった72年の7作目『マルディ・グラ』は、メンバーの楽曲やヴォーカル曲も取り入れた民主的な作品となりますが、失敗に終わりあっけなくバンドは解散してしまいます。 1973年にジョン・フォガティは、ソロ・アルバム『ザ・ブルー・リッジ・レンジャーズ』を発表。75年に『ジョン・フォガティ』をリリースしますが、所属レーベルとの契約問題で訴訟を起こされ、CCR時代の楽曲を歌えなくなってしまいます。 そんな状況から一時は音楽活動から遠ざかってしまいましたが、84年にレーベルを移籍して9年ぶりに発表した『センターフィールド』が全米1位を獲得。見事に復活を果たしますが、86年の『アイ・オブ・ザ・ゾンビ』が失敗、さらに『センターフィールド』収録曲を巡ってまた訴訟を起こされ、10年以上にわたって再び沈黙。 その後ジョンは、ルーツ帰りした1997年の『ブルー・ムーン・スワンプ』でグラミー賞を獲得。2005年にはソングライターの殿堂入りを果たし、現在も活動を続ける現役ミュージシャンです。 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『ペンデュラム』 SIDE A 「ペイガン・ベイビー」 「水兵の嘆き」 「カメレオン」 「雨を見たかい」 「ハイダウェイ」 SIDE B 「ボーン・トゥ・ムーヴ」 「ヘイ・トゥナイト」 「イッツ・ジャスト・ア・ソート」 「モリ―ナ」 「手荒い覚醒」 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『ペンデュラム』いかがでしょうか?ちなみに、CCRは「プラウド・メアリー」はじめ全米2位のヒットが5曲、という記録を持ちながらシングル・チャートではついに1位を獲得することが出来ませんでした。 ★ジョン・フォガティ オフィシャルサイト https://johnfogerty.com/
アナログレコード 1970年澁谷彰一
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ザ・バンド『南十字星』
【2024年11月23日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りしています。題して“渋ロック”、今回はアメリカン・ミュージックのルーツを紡ぐザ・バンドのアルバム『南十字星』です。 ボブ・ディランのバック・バンドとしても有名なザ・バンドの中心人物、ロビー・ロバートソンは1944年7月5日、カナダのトロントで生まれました。早くに父を亡くし、貧しい暮らしの中で母方のルーツであるカナダの先住民保留地で音楽と出会います。始めはカントリーから、いとこにギターの手ほどきを受けると次第に興味はロックへと移りました。13才から作曲も始め、ハイスクールをドロップ・アウトして音楽の道を目指します。 1950年代末、ロニー・ホーキンスというロカビリー・シンガーのバック・バンドに参加。他のメンバーはレヴォン・ヘルム、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ。ロニー・ホーキンス&ザ・ホークスとして活動した後、63年にホークスは独立しました。ボブ・ディランと出会い、65年に彼のバック・バンドとしてツアーに出ると運命は変わります。 この年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルで、初めてエレキ・ギターで歌い、ロックへの転換を図ろうとしていたディランは、ホークスを伴いエレクトリック・ツアーを行います。フォークを求めるファンに各地でブーイングを浴びながら、ツアーを乗り切ったホークスは、1967年、ディランの勧めでウッドストックに移り住み、ザ・バンドと改名。 そこで“ビッグ・ピンク”と呼ばれる一軒家でセッションを重ねて出来上がったのが68年に発表した、ザ・バンドのデビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でした。翌年は、ウッドストック・フェスティバルへも出演、2ndアルバム『ザ・バンド』からは、シングル「クリプル・クリーク」がTOP40ヒットとなり、アルバムもトップ10入りを果たします。 70年『ステージ・フライト』、71年はヴァン・モリソンらをゲストに迎えた『カフーツ』をリリース。ところが、ロビー・ロバートソンの発言力が次第に強まるとバンドは少し停滞気味に。しかし、ボブ・ディランをゲストに迎えた初のライヴ・アルバム『ロック・オブ・エイジズ』ではタイトでファンキーな名演を残してくれました。 シンセサイザーを多用した75年の『南十字星』は、“2nd以来のカムバック”と高い評価を得ますが、時すでに遅し、ザ・バンドは解散への道を進んでいたのです。76年11月には、サンフランシスコで多くのゲストを招いたフェアウェル・ライブを開催。この様子はマーチン・スコセッシ監督による映画『ラスト・ワルツ』として公開され、その音源もアルバムとしてリリースされました。77年には事実上のラスト・アルバム『アイランド』がリリースされ解散。 その後ロビー・ロバートソン抜きで何度か再結成されますが、86年ヴォーカリストでキーボードもこなすリチャード・マニュエルが旅立ちます。続いて99年にベースのリック・ダンコが、23年8月9日ロバートソンまでもが星になってしまいました。 ザ・バンドのアルバム『南十字星』 SIDE A 「禁断の木の実」 「浮浪者のたまり場」 「オフェリア」 「アケイディアの流木」 SIDE B 「ベルを鳴らして」 「同じことさ!」 「ジュピターの谷」 「おんぼろ人生」 ザ・バンドのアルバム『南十字星』いかがでしょうか? ちなみに、ザ・バンドが最初にコンサートを行ったのはサンフランシスコのウィンターランド。その16年後に同じ会場で『ラスト・ワルツ』は開催されました。 ★ザ・バンド オフィシャルサイト https://theband.hiof.no/
アナログレコード 1975年澁谷彰一
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フリー『ハートブレイカー』
【2024年11月16日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りしています。題して“渋ロック”、今回は、魂のヴォーカリスト、ポール・ロジャースが在籍したフリーのラスト・アルバム『ハートブレイカー』です。 伝説のブルース・ロック・バンド、フリーのヴォーカリスト、ポール・ロジャースは、1949年12月17日イングランド北部で生まれました。ブリティッシュ・ブルースの父と言われるアレクシス・コナーに憧れ、学生バンドを結成。ロードランナーズと名乗ったバンドではベースを担当し、後にヴォーカリストに転向しました。プロを目指してロンドンに進出しますが、バンドは解散してしまいます。 その後ブラウン・シュガーというバンドで活動を続ける中、レコード・ショップで働きながら活動をしていたポール・コゾフに出会います。意気投合した二人は新しいグループを立ち上げようという事になり、そこにコゾフのバンド・メイトでドラマーのサイモン・カーク、ベースのアンディー・フレイザーが加わって、1968年フリーは誕生しました。 フリーは名付け親アレクシス・コナーの後ろ盾を得て、アイランド・レコードからデビュー。10代という若さながら地に足のついたシブい音楽性でライヴを重ね、評判を上げていきます。1970年の3rdアルバム『ファイアー・アンド・ウォーター』からシングル「オール・ライト・ナウ」が、本国はもとよりアメリカでもスマッシュ・ヒット。一気に知名度をあげ翌71年はアメリカ・ツアーはじめ、春には初来日公演を行います。来日公演では、会場に入れなかったファンと警察がいざこざを起こすほどの熱狂ぶりだったそうです。 ところがこの後のオーストラリア公演終了後に突然解散を発表、バンドはすでに崩壊していました。それぞれが別プロジェクトなどを立ち上げますが、成功にはいたらず頓挫。解散からわずか1年後には、オリジナル・メンバーが集結して、アルバム『フリー・アット・ラスト』をリリースして再び解体しました。 ポール・ロジャースとサイモン・カークは、日本人ベーシストのテツ・ヤマウチとキーボーディストのラビットを迎えてフリー名義で活動を続けました。このラインナップで72年に『ハートブレイカー』を発表、しかしこれがフリーの最後となりました。 解散後はサイモン・カークと、元モット・ザ・フープルのミック・ラルフス、そして元キング・クリムゾンのボズ・バレルと新バンド、バッド・カンパニーを結成。1974年、アルバム『バッド・カンパニー』でデビューします。 バッド・カンパニーのデビュー・アルバムは全米1位、全英でも3位と大ヒット。早くも成功を掴みますが、メンバー間の軋轢でポール・ロジャースが一時脱退。しかし1998年オリジナル・メンバーで再結成して、現在もバッド・カンパニーは活動を続けています。 フリーのアルバム『ハートブレイカー』 SIDE A 「ウィッシング・ウェル」 「カム・トゥゲザー・イン・ザ・モーニング」 「トラヴェリン」 「ハートブレイカー」 SIDE B 「マディ―・ウォーター」 「コモン・モータル・マン」 「イージー・オン・マイ・ソウル」 「セヴン・エンジェルス」 フリーのアルバム『ハートブレイカー』いかがでしょうか? ちなみに、ポール・ロジャースは日本人と結婚していた時期があり、その縁から「夜明けの刑事」といTVドラマの挿入歌を日本語で歌っていました。 ★ポール・ロジャース オフィシャルサイト https://www.paulrodgers.com/
アナログレコード 1972年澁谷彰一
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ジョン・クーガー・メレンキャンプ『スケアクロウ』
【2024年11月9日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りします。題して“渋ロック”、今回は、3つの名前を持つ男ジョン・クーガーが1985年ジョン・クーガー・メレンキャンプとしてリリースしたアルバム『スケアクロウ』です。 3度名前が変わっているアーティスト、本名ジョン・メレンキャンプは、1951年10月7日アメリカ中西部インディアナ州シーモア生まれ。小学生にして既にバンドを結成、14歳から地元のバンドに加入して小遣い稼ぎをしていました。大学時代はグラム・ロック・バンドなどで活動。卒業後は地元電話会社に一旦就職しますが、やがて音楽の道を目指しニューヨークへ。 以前声をかけてきたデヴィッド・ボウイのマネージャーを頼って、事務所と契約。1976年、MCAよりデビュー・アルバム『チェストナット・ストリート・インシデント』がリリースされますが、アーティスト表記は“ジョニー・クーガー”、マネージャーが勝手につけた芸名でした。 78年名前をジョン・クーガーに改め、ロッド・スチュワートのマネージャーが興したイギリスのRiva Recordsからアルバム『バイオグラフィー』を発表。このアルバムから「アイ・ニード・ラヴァ―」が初のヒットとなりました。79年には3rdアルバム『ジョン・クーガー』が本国でリリースされると、アメリカでも「アイ・ニード・ラヴァ―」がTOP40ヒットとなりました。 80年にはMG’sのギタリスト、スティーヴ・クロッパーのプロデュースでアルバム『夜を見つめて』をリリースすると、シングル「夜が泣いている」が全米17位のヒット。1982年にリリースしたアルバム『アメリカン・フール』でとうとう初の全米1位を獲得します。「青春の傷あと」「ジャック&ダイアン」のシングル・ヒットで大ブレイク、グラミー賞にも輝きました。 83年には、ジョン・クーガー・メレンキャンプ名義でのアルバム『天使か悪魔か』をリリース。85年の『スケアクロウ』は過去最高のセールスで、アメリカだけで500万枚を売り上げました。またこの年には、ウィリー・ネルソン、ニール・ヤングらとファーム・エイドを開催。アメリカ農民救済のためのチャリティ・ライヴは、以後11回連続で続けました。 1991年から本名のジョン・メレンキャンプ名で活動を始め、90年代も2000年代も絶えることなく作品を発表、大きなワールド・ツアーもこなしています。22年には親友ブルース・スプリングスティーンが参加したアルバム『ストリクトリー・ア・ワン・アイド・ジャック』で話題になりました。 また、音楽的にはダンス・ミュージックとのコラボレーションなど意外な一面を見せ、映画やミュージカル、そして絵画など活動の幅を大きく広げています。今でも地元のインディアナ州ブルーミントンに暮らし、先日地元にあるインディアナ大学のキャンパス内に銅像が設置されたそうです。 ジョン・クーガー・メレンキャンプのアルバム『スケアクロウ』 SIDE A 「スケアクロウ」 「祖母のテーマ」 「スモール・タウン」 「ミニッツ・トゥ・メモリーズ」 「ロンリー・オル・ナイト」 「フェイス・オブ・ザネイション」 SIDE B 「正義と独立 '85」 「ラーフ・アンド・ティア」 「ランブル・シート」 「スタンド・フォー・サムシン」 「ロック・イン・ザ・U.S.A.」 ジョン・クーガー・メレンキャンプのアルバム『スケアクロウ』いかがでしょうか?ちなみに、ブルー・カラーのヒーロー、ジョン・メレンキャンプですが、観客からヤジを飛ばされ、ブチ切れてステージを降りたことが何度かあるそうです。 https://www.mellencamp.com/ ジョン・メレンキャンプ オフィシャルサイト
アナログレコード 1985年澁谷彰一