-
ポール・マッカートニーとウィングス『バンド・オン・ザ・ラン』
【2024年6月8日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップします。1950年代に誕生したロックン・ロールは、1969年を境として70年代に入ると巨大産業として発展。そのスピリットは別として、黄金時代を迎えます。今回は、音楽界の世界遺産、ポール・マッカートニーとウィングスの『バンド・オン・ザ・ラン』です。 音楽ファンならずとも知らない人はいないであろう超大物、ポール・マッカートニーは、1942年6月18日ジェイムズ・ポール・マッカートニーとして、リヴァプールに生まれました。父親はバンド経験もあり、家でピアノを弾くこともありましたが、小さい頃に興味は示しませんでした。もめ事が好きではなくて少し内気な少年は、14才で母親を失った後ギターに興味を示し、その寂しさから逃れるように朝から晩まで練習に励みます。 エルヴィス・プレスリーの登場で音楽への情熱は高まり、1956年夏、運命の出会いを迎えます。教会のパーティーでギターをバンジョーのコードで弾き歌う、ジョン・レノン。二人は意気投合して、一緒に活動するようになり、クオリー・メン、ムーン・ドッグスからシルヴァ―・ビートルズへ発展。1962年ザ・ビートルズとしてメジャー・デビューすると世界制覇を果たします。 ところが67年、彼らを育て上げたマネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなると4人の結束は揺らぎだし、それぞれが別行動をとるようになっていきます。そんなメンバーをひとつに束ねようとしたのが、もめ事嫌いのポール・マッカートニー。「もう一度原点に戻って(ゲット・バック)」との願いから、セッションしながら曲を作ってゆこうと4人を集めたのが、1969年1月に行なわれた「ゲット・バック・セッション」でした。 しかし結局ビートルズは解散、ポールは70年にソロ・アルバム『マッカートニー』を発表しますが、「ビートルズを捨てた男」としてバッシングに合ってしまいます。 71年にはポール&リンダ・マッカートニー名義で『ラム』をリリースすると、シングル曲「アンクル・アルバート~ハルセイ提督」が全米チャートで1位を獲得しました。そしてビートルズ時代から遠ざかっていたライブ活動を模索して、新バンド、ウィングスを結成。イギリス国内の大学でサプライズ・ライヴなどを始めますが、音楽経験皆無の妻を加入させたことで、関係者からは失笑を買ってしまいます。 数々の困難を乗り越え1973年にリリースしたアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』から「マイ・ラヴ」が全米No.1に輝く大ヒット、ここから快進撃が始まります。続いて『バンド・オン・ザ・ラン』から、タイトル曲や「ジェット」などが次々ヒット、アルバムも全米・全英とも頂点を極め、グラミー賞を受賞しました。75年に『ヴィーナス・アンド・マース』、76年『スピード・オブ・サウンド』を全米をNo.1に送り込み、絶頂期を迎えますが、79年の『バック・トゥ・ジ・エッグ』をもってウィングスは解散。 再びソロ・アーティストとして活動しながら、現在も第一線で活躍し、ギネス世界記録で”ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家”として認定されています。 ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』 SIDE A 「バンド・オン・ザ・ラン」 「ジェット」 「ブルーバード」 「ミセス・ヴァンデビルト」 「レット・ミー・ロール・イット」 SIDE B 「マムーニア」 「ノー・ワーズ」 「ピカソの遺言」 「西暦1985年」 ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』いかがでしょうか?ちなみに、ミュージシャンとしてイギリス史上初のビリオネアとなったポールですが、『バンド・オン・ザ・ラン』がヒット中の1974年8月に収録されたスタジオ・ライヴ『ワン・ハンド・クラッピング』が6月14日に正式アルバムとしてリリースされるそうです。 https://www.universal-music.co.jp/the-beatles/ ビートルズ 日本オフィシャルサイト
アナログレコード 1974年澁谷彰一
-
エアロスミス『ロックス』
【2024年6月1日】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップします。1950年代に誕生したロックン・ロールは、1969年を境として70年代に入ると巨大産業として発展。そのスピリットは別として、黄金時代を迎えます。今回は、まさに1970年に誕生したロック・バンド、エアロスミスの『ロックス』です。 1970年、アメリカ・ボストンで結成されたエアロスミス。中心人物のひとり、スティーヴン・タイラーは1948年3月26日ニューヨーク生まれ。音楽家の父親の影響で、クラシックからポピュラーまで音楽に囲まれて育ち、やがてドラムに興味をもって父親のピアノとセッションすることもあったそうです。 10代後半になるとバンドを始め、ドラマー謙ヴォーカリストとして活動していました。ある日ジョー・ペリーとトム・ハミルトンのバンドを観たスティーヴンが、二人を誘って新バンドを結成したのがエアロスミスの始まりと言われています。新バンドではドラマーにジョーイ・クレイマーが参加、スティーヴンはヴォーカルに専念。71年にバークリー出身のブラッド・ウィットフォードが参加してデビューへの足掛かりをつかみます。 1973年コロムビアからアルバム『野獣生誕』でデビュー、シングル「ドリーム・オン」がヒットします。しかしまだまだブレイクには至らず、75年の3rdアルバム『闇夜のヘヴィ・ロック』から「ウォーク・ディス・ウェイ」がヒットして、全米アルバム・チャートの11位まで上昇しました。この勢いに乗って過去の作品も売れ始め、地道なライヴ活動も功を奏し、76年の『ロックス』は全米3位となり、とうとう大ブレイクを果たします。 77年には初来日公演を行い、5作目『ドロー・ザ・ライン』をリリースと神風満帆に見えましたが、過酷なスケジュールから、メンバーはドラックを多用するようになってしまいます。さらに追い討ちをかけたのが、スティーヴンとジョー・ペリーの関係が悪化。結局79年にジョーは脱退、ここからバンドは低迷期を迎えます。 セールス不振、レーベル解雇、メンバー脱退と、いつ解散してもおかしくない状態でしたが、1984年オリジナル・メンバーが集結して再スタート。レーベルを移籍、86年RUN-D.M.C.と共演した「ウォーク・ディス・ウェイ」で見事復活します。93年のアルバム『ゲット・ア・グリップ』で、ついに全米チャート1 位を獲得しました。 その後古巣のコロムビアへ移籍、97年の『ナイン・ライヴス』でも全米1位、98年の映画『アルマゲドン』主題歌「ミス・ア・シング」で、シングル初の全米1位に輝きました。2000年代に入っても、ロックの殿堂入り、FIFA日韓ワールドカップでのスタジアム・ライヴなど活躍して来ましたが、23年にはデビュー50周年にしてキャリア最後のフェアウェル・ツアーを発表。途中、中断もありましたが、2024年9月から再開して、25年2月ニューヨークで最終公演を迎えます。 エアロスミスのアルバム『ロックス』 SIDE A 「バック・イン・ザ・サドル」 「ラスト・チャイルド」 「地下室のドブねずみ」 「コンビネイション」 SIDE B 「シック・アズ・ア・ドッグ」 「ノーバディズ・フォールト」 「ゲット・ザ・リード・アウト」 「リック・アンド・ア・プロミス」 「ホーム・トゥナイト」 エアロスミスのアルバム『ロックス』いかがでしょうか?ちなみにスティーヴン・タイラーはじめ、エアロスミスのメンバーは「たい焼き」が大好きで、日本公演終了後に大量のたい焼きを買って帰り、それを巡って大喧嘩したことがあるそうです。 https://www.aerosmith.com/ エアロスミス オフィシャルサイト
アナログレコード 1976年澁谷彰一
-
佐野元春『BACK TO THE STREET』
【2024年5月25日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は5月の空に響き渡る80年代J-ROCKをお届けして来ました。その最終回は、80年代の扉を開けた佐野元春のデビュー・アルバム『BACK TO THE STREET』です。 70年代の終わりにメインストリームとなっていたニュー・ミュージック。そんな時代に新しいロックを提示したのが佐野元春ではないでしょうか?それまでのロックと比べてスタイリッシュで、ポップな感覚を持ち合わせたロック。 1980年にデビューした佐野元春は、1956年3月13日東京・神田生まれ。家にはステレオがあって、常に音楽が流れているような家庭で育ちます。特に母親は音楽が好きで、レコード喫茶を営んでいたほどでした。 中学生になると音楽に熱中、ギターばかりかピアノまでも独学で覚えてしまいました。早くもソングライティングに興味を持ち、ヘルマン・ヘッセの詩に曲を付けたのが最初だそうです。高校に入るとバンドを組んで、オリジナル曲を作っては披露する日々を送ります。 その頃ラジオでボブ・ディランに出会い、詩に興味をもってビートニク作家たちに影響を受けます。そしてこの時点ですでに「情けない週末」という、後にレコード化される曲も書いていました。その頃「バックレイン元春セクション」というバンドを率いてコンテストにも出場しますが、デビューまでには至りませんでした。 大学卒業後は広告制作会社に就職、ラジオ番組の制作をしていましたが、曲は作りためていました。仕事でアメリカのFM局を取材中に現在の自分に疑問を抱き、帰国して番組を仕上げると退社。その頃デモ・テープを聴いた何社かのレコード会社からオファーがあり、設立されたばかりのEPICソニーから、1980年シングル「アンジェリーナ」でデビューします。 『元春レイディオショー』のラジオDJとしてコアなファンはついていたものの、2ndアルバム『Heart Beat』も不発で、ブレイクには至りませんでした。82年、不退転の覚悟でリリースした3枚目のアルバム『SOMEDAY』がようやくヒット。 商業的成功を手にしながら、単身ニューヨークに渡り制作したアルバム『VISITORS』では、いち早くHIPHOPを取り入れ、日本の音楽シーンに衝撃を与えました。また86年には、UKシーンを意識したアルバム『Café Bohemia』をリリース。92 年の『Sweet16』では日本レコード大賞最優秀アルバム賞を受賞しました。 95年に新しくホーボー・キング・バンドを伴って『FRUITS』を発表、10年間活動を共にします。また2004年にはアーティスト主体のレーベル「Daisy Music」を設立。続いて若手ミュージシャンによるコヨーテ・バンドとレコーディングに入り、2007年にアルバム『COYOTE』をリリースしました。現在もこのコヨーテ・バンドと共に、足を止めることなく第一線を走り続けています。 佐野元春のデビュー・アルバム『BACK TO THE STREET』 SIDE A 「夜のスウィンガー」 「ビートでジャンプ」 「情けない週末」 「Please Don't Tell Me A Lie」 「グッドタイムス&バッドタイムス」 SIDE B 「アンジェリーナ」 「さよならベイブ」 「バッド・ガール」 「Back To The Street」 「Do What You Like(勝手にしなよ)」 佐野元春のデビュー・アルバム『BACK TO THE STREET』いかがでしょうか? ちなみに佐野元春の誕生日、1956年3月13日。その日はエルビス・プレスリーがRCAレコードから最初のアルバムをリリースした日で、プレスリー・ファンだった彼の母は、この偶然をとても喜んでいたそうです。 https://www.moto.co.jp/ 佐野元春 オフィシャルサイト
アナログレコード 1980年澁谷彰一
-
山下久美子『Sophia』
【2024年5月18日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は5月の空に響き渡る80年代J-ROCKをお届けしています。今回は、かつて“学園祭の女王”と呼ばれた山下久美子の『Sophia』です。 女性ロック・ヴォーカリストのパイオニア山下久美子は、1959年1月26日大分県別府生まれ。バンドマンだった父親の影響からか、歌うことが大好きで、小さい頃から人前で歌っていたそうです。中学・高校ともなると洋楽を聴くようになり、文化祭バンドをしたりしていました。 やがて博多のソウル・バンドを追いかけるようになり、高校を中退して福岡で一人暮らしをはじめます。ウェイトレスのアルバイトをしながら、ディスコで歌っているところをスカウトされ、19歳で上京。1980年「バスルームから愛をこめて」でデビューしました。 初のライヴでは30人ほどしかいなかったオーディエンスでしたが、激しいパフォーマンスが噂となり、チケットは次々とソールド・アウト。81年1月に日本青年館で初のホール・ワンマンを開催、このコンサートのアンコールで観客が一斉に立ち上がったことから“総立ちの久美子”と呼ばれるようになりました。 82年のシングル「赤道小町ドキッ」が、化粧品のキャンペーン・ソングとなり大ヒット。この時TV番組『ザ・ベストテン』で、本物のゾウに跨り登場して世間をあっと言わせました。83年のアルバム『Sophia』は初の海外レコーディングで、ヒュー・マクラッケンがプロデュース。コーラスにあのカーリー・サイモンも参加するという豪華版になりました。その後も「こっちをお向きよソフィア」や「瞳いっぱいの涙」などヒットを繰り出していきます。 85年のアルバム『BLONDE』には布袋寅泰がギターで参加、これをきっかけに二人は結婚しました。88年のBOØWY解散後、ソロ活動を始めた夫のプロデュース作『Baby alone』をもって音楽活動を休止。しかし91年には活動を再開して、女優としてもデビューしました。97年に布袋と離婚した後、2000年に双子の姉妹を授かり、シングル・マザーとなりました。 また20周年となるこの年には、佐野元春や桑田佳祐をゲストに迎えたセルフ・カヴァー・アルバム『THE HEARTS』をリリースしました。2011年から1年ほど子育て中心の生活となりますが、13年に旧知の仲である大澤誉志幸とのコラボ・アルバム『& Friends』をリリースして復活。 2015年からソロ活動も再開、19年には還暦を祝い、スイート・シックスティーンならぬ「The sweet Sixty」と題したライヴでファンを喜ばせました。また23年には初のジャズ・アルバム『Jazz"n"Kumiko』をリリース、スタンダード・ナンバーやジャズ・アレンジされたセルフ・カヴァーを聴かせてくれました。現在も、ライヴにイヴェントにと活動の幅を広げています。 山下久美子のアルバム『Sophia』 SIDE A 「ちょいまちBabyなごりのキスが」 「LOVERステッカー」 「恋する乙女」 「今夜もBad Trip」 「気持ちいいじゃないTonight」 SIDE B 「こっちをお向きよソフィア」 「I Know, You Know」 「Please Don't Go」 「Darlin' Darlin'」 「秋ラメきれないNight Movie」 山下久美子のアルバム『Sophia』いかがでしょうか? ちなみに「胸キュン」という言葉を最初に使ったのが山下久美子で、あのYMOが「君に、胸キュン。」をリリースする際には、使用許可をとりに来たそうです。 https://kumikoyamashita.com/ 山下久美子 オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
-
ハウンド・ドッグ『POWER UP!』
【2024年5月11日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は5月の空に響き渡る80年代J-ROCKをお届けしています。その2回目は、宮城が生んだロックンロール・バンド、ハウンド・ドッグの『POWER UP!』です。 仙台市の東北学院大学で結成されたバンド、ハウンド・ドッグ。今は大友康平のソロ・プロジェクトになってしまいましたが、まさに今年5月11日からHOUND DOG LIVE 2024 「LOVE & LIVE」振替公演がスタートします。 中心人物、大友康平は1956年1月1日宮城県塩釜市に生まれました。その後埼玉へ移って小学生でロックに出会い、高校時代にはドラムを演奏するようになりました。高校2年生の時にTVで観たキャロルに衝撃を受け、ロックンロール・バンドを結成。またこの頃には、社会人のバンドに潜り込み、ダンス・パーティーで腕を磨いていたそうです。 その後仙台の東北学院大学へ進学し、音楽サークルの仲間と1976年ハウンド・ドッグを結成。始めは大友がドラム&ヴォーカルをつとめる3ピースでしたが、矢沢永吉やロッド・スチュワートのマイク・パフォーマンスに憧れ、その後ヴォーカルに専念しました。 その姿が仙台の音楽関係者の目にとまり、プロの道へと走りだし、1980年3月、CBSソニーから「嵐の金曜日」でメジャー・デビューしました。オリジナル・メンバーは、ギター・八島順一、キーボード・箕輪単志、ベース・海藤節生、ギター・高橋良秀、ドラム・藤村一清の計6人。 その後メンバーチェンジを経ながらも、アツいライヴで人気を博し、85年10枚目のシングル「ff(フォルテシモ)」がカップヌードルのCMタイアップで大ヒット。それ以降も数々のヒットを生み出し、89年のアルバム『GOLD』と92年の『BRIDGE』はオリコン1位に。 また日本武道館15日連続公演や、東京ドーム初の日本人アーティスト単独公演など動員を記録。他にもALIVE HIROSHIMAピース・コンサートに10年間出演して、被災者施設を建設するなど、チャリティ活動も盛んに行ってきました。 デビュー25周年となる2005年には個人事務所を立ち上げ独立。しかしこれに端を発してメンバー間での軋轢が生じ、裁判沙汰へとなってしまいます。結局2006年以降は大友康平とサポート・メンバーでハウンド・ドッグとして活動を行い、毎年デビュー日を記念してハウンド・ドッグのLIVEを行っています。 2020年には、40周年のツアーが新型コロナの影響で延期となり、21年に40+1として開催しました。ようやく落ち着いたかに見えましたが、昨年は腎臓に腫瘍が見つかったため、ライヴをキャンセルして手術のため入院。その後順調に回復したため、今年のライヴは3月の予定を5月からに変更して、宮城県は8月3日仙台PITで開催することが発表されています。 ハウンド・ドッグのアルバム『POWER UP!』 SIDE A 「Bye Bye Dancin' Blue Suede Shoes」 「ANYWAY」 「レイルロード・ブルース」 「ライム・ライト」 「ねえ先生」 「スクール・デイズ」 SIDE B 「Hot Line」 「BACK STREET」 「PIN UP GIRL」 「Give me a chance」 「涙のBirthday」 ハウンド・ドッグのアルバム『POWER UP!』いかがでしょうか? ちなみにサブスクでは聴けない純正ハウンド・ドッグの名盤、フライング・ハウス所属時代のファンクラブ「愛犬友の会」会員だった方も最後までお楽しみください。 https://www.iehok.com/ 大友康平&ハウンド・ドッグ オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
-
中村あゆみ『Be True』
【2024年5月4日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は5月の空に響き渡る80年代J-ROCKをお届けします。まず最初にお送りするのは、パワフルな女性シンガー中村あゆみの『Be True』です。 「翼の折れたエンジェル」で一気にブレイクした中村あゆみですが、そこに至るまでは並々ならぬストーリーが隠されていました。 1966年6月28日大阪で生まれた中村あゆみ。3歳の時に両親が離婚して父親と暮らしていました。ところが父親が再婚すると居場所を失い、高校進学を機に大阪から福岡の母のもとへ移ります。高級クラブのママだった実母は、娘に店を継がせるか歌手にしたいと考えていたそうです。そんな母は、たまたま知り合いだった作曲家の平尾昌晃に相談して、娘を預けることにしました。 16歳で高校を中退して上京、六本木の平尾邸で住み込み生活を始めたものの、しっくりいかずに一人暮らしを始めます。お金も愛情もあった母のパートナーでしたが、このタイミングで会社が倒産、彼女への仕送りも途絶えてしまいました。そこで定時制高校に通いながらアルバイトを始め、赤坂の貴金属店で働きだすと事態は好転。 母のお客様を頼って奥様方へ宝石類を販売、すると、あっという間にトップセールスに。貯金も増え、高校には毛皮とハイヒール姿で登校、放課後は六本木に繰り出すというような日々。時代はバブル期真っ最中で、不自由のない暮しぶりでしたが、ここで再び悲劇が訪れます。 ある日アパートに帰ると枕の上に足跡があり、生活費として置いていた現金がなくなっていたのです。怖くなって、少し前に知り合った音楽関係者に連絡、指定されたスナックで落ち合いました。するとそこに、THE ALFEEの「メリーアン」をきっかけに、売れっ子作家となっていた高橋研が来店。中村あゆみの歌を聴いて『ぜひプロデュースを』と名乗り出てくれました。 コンプレックスだったハスキー・ヴォイスにも自信を持てるようになり、生まれたばかりのハミングバード・レコードから1984年「Midnight Kids」でデビュー。しかし1年目はなかなか売れず、立ち止まりそうになった時、『あなたは売れるから大丈夫。一生歌いなさい』と母に背中を押され、ライヴ活動に励みます。 85年、3枚目のシングル「翼の折れたエンジェル」がカップヌードルのCMに採用されると大ヒット。以後快進撃が続きますが、87年の「Rolling Age」をもって高橋とのコンビは解消。その後、結婚、離婚、再婚を経験して99年の出産を機に活動休止。 しかしシングルマザーとなって再び歌い始め、コロナ禍で『ママたちを元気に』との想いからママ・アーティストたちの音楽祭「ママホリ」を立ち上げるなど、プロデューサーとしても活動。2024年9月にはデビュー40周年を迎えます。 中村あゆみのアルバム『Be True』 SIDE A 「Drive All Night」 「翼の折れたエンジェル」 「街は毎日バースデイ」 「ガール・フレンド」 「Be True」 SIDE B 「夜明けのタップダンス」 「Dear」 「やせっぽちのジョニーE.」 「ミス・ユーモア抱きしめて」 「孤独のスパークナイト」 中村あゆみのアルバム『Be True』いかがでしょうか? ちなみに1985年8月31日に、日比谷野外音楽堂でREBECCAとジョイントライブをしたことをきっかけに毎年8月31日は「AYUMIDAY」として、以後10年間スペシャル・ライヴを開催していました。 https://ayumi-nakamura.com/ 中村あゆみ オフィシャルサイト
アナログレコード 1985年澁谷彰一
-
イーグルス『呪われた夜』
【2024年4月27日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けしてきました。“Melody & Harmony”最後はコーラスと言えばこのバンド、イーグルスの『呪われた夜』です。 カリフォルニアの代表選手イーグルス、ところが結成当初、西海岸出身のメンバーはいませんでした。1948年11月6日ミシガン出身のグレン・フライ、47年7月22日テキサス生まれのドン・ヘンリー、46年3月8日ネブラスカ出身のランディー・マイズナー、そして47年7月19日ミネソタ生まれのバーニー・レドン。この4人が、1971年リンダ・ロンシュタットのバックバンドとして集まったのが始まりでした。 4人は独立したバンドとして活動することを決め、ローリング・ストーンズなどを手掛けたグリン・ジョンズのプロデュースでレコーディング。72年のデビュー・シングル 「テイク・イット・イージー」がヒット、1stアルバム『イーグルス』は、アコースティックなカントリー・ロック・スタイルをとりながら新しいサウンドを目指したものでした。 73年の『ならず者』は、実在したアウトローをモチーフにしたコンセプト・アルバムで、 名曲「ならず者(デスペラード)」を生み出しました。74年の3作目『オン・ザ・ボーダー』は、制作途中でプロデューサーがビル・シムジクに代わりレコーディングに参加していたギタリストのドン・フェルダーが新メンバーとして加入。シングル・カットされた「我が愛の至上」はバンド初の全米1位を記録します。 ファンキーなサウンドを取り入れた75年の『呪われた夜』はシングル、アルバムとも全米1位を獲得。その後レドンに代わってジョー・ウォルシュが加入、カントリー風味は薄れ洗練されたサウンドへ変化。76年の『ホテル・カリフォルニア』はロックの商業化を自ら歌い、グラミー賞を受賞しました。この大ヒットのおかげで次作までには3年を要し、その間にベースがティモシー・シュミットに交代。79年のアルバム『ロング・ラン』、これがオリジナル活動期最後のスタジオ作品となりました。 ライヴ・アルバムをリリース後、82年5月、正式に解散が発表されますが、94年に再結成。MTVライヴと新曲によるアルバム『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』をリリースしました。このアルバムを携えワールド・ツアーを行い、98年にはロックの殿堂入りを果たしました。2007年に新作『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』を発表すると全米・全英とも初登場1位。 しかし16年1月18日、オリジナル・メンバーのグレン・フライが旅立ち一時は解散を表明、その後グレンの息子ディーコンが参加して活動を再開しました。ディーコンは一時バンドを離れますが、現在はヴィンス・ギルと共にイーグルスを支え、今年は彼ら最後のツアー「ロング・グッバイ・ツアー」で、ヨーロッパをまわる予定です。 イーグルスのアルバム『呪われた夜』 SIDE A 「呪われた夜」 「トゥー・メニイ・ハンズ」 「ハリウッド・ワルツ」 「魔術師の旅」 SIDE B 「いつわりの瞳」 「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」 「ヴィジョンズ」 「アフター・ザ・スリル・イズ・ゴーン」 「安らぎによせて」 イーグルスのアルバム『呪われた夜』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムからドン・ヘンリーとグレン・フライ、二人の独占体制が確立。音楽性も含め、それに堪りかねたバーニー・レドンはバンドを去って行きました。歌声のハーモニーは最高なのに、少し残念な話ですね… https://eagles.com/ イーグルス オフィシャルサイト
アナログレコード 1975年澁谷彰一
-
オーリアンズ『歌こそすべて』
【2024年4月20日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 4月20日は音楽とレコード店の文化を祝う、レコードストア・デイです。あのちゃんがアンバサダーとなり、様々な企画を展開。33rpmもアナログ・レコードを手にする喜びを分かち合いたいと思います。 さて今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けしています。“Melody & Harmony”今回は、ニューヨーク郊外ウッドストックのミュージシャンで結成されたオーリアンズのアルバム『歌こそすべて』です。 オーリアンズのリーダー、ジョン・ホールは1948年7月23日アメリカ・バルチモアに生まれました。5才からピアノを習い、フレンチ・ホルン、ギター、ドラムなど独学で習得、10代の頃からグリニッジ・ビレッジなどのクラブで演奏を始めています。演奏ばかりではなく作曲も心得、21歳でブロードウェーのための音楽を手掛け、優秀な舞台に与えられる「オビ―賞」を受賞しました。 幾多のセッションもこなし、タジ・マハールのツアーに帯同したりと大活躍、特にジャニス・ジョプリンのアルバム『パール』に提供した曲「ハーフ・ムーン」で広くその名を知られるようになりました。1970年には早くもソロ・デビュー作『アクション』をリリースしますが、ギタリストでシンガーのラリー・ホップン、ドラマーのウェルズ・ケリーらとバンドを結成。1972年2月にオーリアンズが誕生、その後ラリーの弟ランス・ホップンが参加して73年にABCレコードからセルフ・タイトル・アルバムでデビューしました。 ところが実力はあるものの、セールスが伴わず大きく話題になることはありませんでした。2ndアルバム『レット・ゼア・ビー・ミュージック』は、日本とヨーロッパでは発売されましたが、本国アメリカではお蔵入りという事態になってしまいます。 そんな彼らでしたが、西海岸のアサイラム・レコードへと移籍すると光がさしてきます。ジョニ・ミッチェル、ジャクソン・ブラウン、イーグルスなどのヒットで勢いのある新興レーベルから、75年に前作と同タイトルのアルバム『歌こそすべて』をリリースすると、シングル「ダンス・ウィズ・ミー」が全米6位の大ヒットとなりました。 続くアルバム『夢のさまよい』からも「スティル・ザ・ワン」がヒットしますが、デビュー当時のルーツ色が薄れていくのが不満だったのか、ジム・ホールは77年バンドを離れソロに。ソロ活動とあわせて、ジャクソン・ブラウン、ボニー・レイット、グラハム・ナッシュらと反核を訴えるイヴェント『ノー・ニュークス』を79年に開催、その後政治家としても活動しました。85年に一度オーリアンズに復活してからは、つかず離れずでソロとバンドを行き来し、現在オーリアンズはオリジナル・メンバーのランス・ホッペンが中心となって活動を続けています。 オーリアンズのアルバム『歌こそすべて』 SIDE A 「風さわやかに」 「僕と踊ろう(ダンス・ウィズ・ミー)」 「愛が過ぎて行く」 「これからの君の人生」 「歌こそすべて」 SIDE B 「人生の仕事」 「コールド・スペル」 「二人の歌が終って」 「たった一つのハートをおくれ」 「君がくれた大切なもの」 オーリアンズのアルバム『歌こそすべて』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムの前の2ndアルバム、現在は『オーリアンズII』としてリリーされています。 https://orleansonline.net/ オーリアンズ オフィシャルサイト
アナログレコード 1975年澁谷彰一
-
アメリカ『ハート』
【2024年4月13日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けしています。“Melody & Harmony”今回は、ロンドンで結成されたアメリカの『ハート』です。 前回は4声のハーモニーをお送りしましたが、今回は3人のトリオです。アメリカは、1952年9月12日生まれのジェリー・ベックリーと、1月19日生まれのデューイ・バネル、そして1950年11月1日生まれのダン・ピークがロンドンのアメリカンスクールで出会い結成されました。3人とも父親がアメリカ空軍で働く、という同じ境遇もあってか意気投合。ロンドン周辺のライブハウスをメインに活動を始め、クロスビー、スティルス&ナッシュの曲などを演奏していました。 プロデューサーに見いだされ、1971年にワーナー・ブラザーズと契約。同年アルバム『名前のない馬』でデビューしました。はじめのうちアルバムはさほどヒットしませんでしたが、シングル「名前のない馬」がオランダで火がつき、イギリスへ凱旋しました。 イギリス、ヨーロッパでの成功を追い風に、72年アメリカ本土に上陸。ロサンジェルスの名門クラブ、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーで5日間連続公演を成功させ、アルバム、シングル共に全米1位を獲得します。この年の2ndアルバム『ホームカミング』からは「ヴェンチュラ・ハイウェイ」ほか3枚のシングル・ヒットを生み、アルバムも全米9位で、再びゴールド・ディスクを獲得。この功績が認められ第15回グラミー賞で、ベスト・ニュー・アーティスト賞に輝きます。 73年にはジョー・ウォルシュやビーチ・ボーイズのメンバーを迎え『ハット・トリック』を、続く74年のアルバム『ホリデイ』は、プロデューサーにジョージ・マーティンを迎えて制作。「魔法のロボット」他シングル・ヒットにも恵まれ、アルバムも全米3位となりました。再びジョージ・マーティンと組んだ75年のアルバム『ハート』からのシングル「金色の髪の少女」が2度目の全米No.1を獲得し、バンドはピークを迎えます。 しかし77年ハワイ録音のアルバム『ハーバー』を最後にダン・ピークが脱退。残る二人で活動を続けますが、次第にシーンから遠ざかってしまいます。それでも82年の『ヴュー・フロム・ザ・グラウンド』からシングル「風のマジック」が久々のヒットとなり、その後はライヴやアーカイヴが中心となるものの、コンスタントにアルバムをリリース。ライヴ活動も今なお続ける現役ミュージシャンです。 アメリカのアルバム『ハート』 SIDE A 「ひなぎくのジェーン」 「ハーフ・ア・マン」 「ミッドナイト」 「ベル・トゥリー」 「オールド・ヴァージニア」 「谷間の人々」 SIDE B 「仲間」 「ウーマン・トゥナイト」 「ストーリー・オブ・ア・ティーン・エージャー」 「金色の髪の少女」 「希望の明日」 「四季」 「シンプル・ライフ」 アメリカのアルバム『ハート』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムは日本版にのみピーター・フォンダが出演するレナウンのCMソング「シンプル・ライフ」が収録されています。 https://www.venturahighway.com/ アメリカ オフィシャルサイト
アナログレコード 1975年澁谷彰一
-
クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング『デジャ・ヴ』
【2024年4月6日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 新しいシーズンが始まりました。今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けします。4月のテーマ“Melody & Harmony”その初回は、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの『デジャ・ヴ』です。 楽器を演奏する方なら分かると思いますが、一人よりアンサンブルの方が楽しいし、ソロで歌い上げるのもいいですが、コーラスでハーモニーを奏でるのは、とても心地いいものです。ハーモニーといえば、4人の有名ミュージシャンが集結したスーパー・グループ“CSN&Y”こと、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングではないでしょうか。 ザ・バーズを脱退した1941年8月14日ロサンジェルス生まれのデヴィッド・クロスビー、そしてバッファロー・スプリングフィールドを解散した、45年1月3日ダラス生まれのスティーブン・スティルス。この2人に、42年2月2日イギリス生まれ、ホリーズのグラハム・ナッシュが出会い、奇跡のハーモニーが生まれました。1968年、クロスビー・スティルス&ナッシュが結成され、69年にデビュー。 3人の名を冠したデビュー・アルバムは、完璧な3声コーラスと、変化に富んだアコースティック・サウンドで人気を博し、全米6位にチャート・イン。さっそくツアーに出るためのメンバーを探す中でレコード会社が推してきたのが、1945年11月12日カナダ生まれのニール・ヤング。しかしバッファロー時代に度々ぶつかっていたスティルスとヤング、すでにソロ活動を始めていたヤングも、サポート・メンバーとして参加するとは考えられませんでした。ところが、何度か話し合ううちにお互いの音楽性に興味を持ち始め、ヤングも同列扱いを条件に参加に同意、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングが誕生しました。 CSN&Yは、1969年伝説のロック・フェスティバル「ウッドストック」で、30万人の観客を前にパフォーマンスを披露、スーパー・グループとして踏み出してゆきます。アクシデントやツアー・スケジュールなどからレコーディングは難航しますが、1970年3月にようやく『デジャ・ヴ』がリリースされるとたちまち全米No.1に輝きます。ところがスティルスとヤングの確執が再燃、バック・ステージのみならずステージ上でもバトル!結局ツアーの様子を収めた『4ウェイ・ストリート』をリリースした後、自然解散してしまいます。 まさに4ウェイとなってしまったCSN&Yでしたが、1974年にツアーのため一度再結成。以後何度か再結成の動きがありましたが、ヤング抜きのCSNとして活動。ところが1986年、二ール・ヤングが主催するベネフィット・コンサートに3人が参加して、CSN&Yが再結成されました。88年には『アメリカン・ドリーム』を、99年に『ルッキング・フォワード』とアルバムも発表。その後もCSNとしての活動は続けられますが、2023年1月18日デヴィッド・クロスビーが旅立ち、CSN&Y4人での再集結は儚い夢となってしまいました。 クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバム『デジャ・ヴ』 SIDE A 「キャリー・オン」 「ティーチ・ユア・チルドレン」 「カット・マイ・ヘア」 「ヘルプレス」 「ウッドストック」 SIDE B 「デジャ・ヴ」 「僕達の家」 「4+20」(フォー・アンド・トェンティ) 「カントリー・ガール」 「エブリバディ・アイ・ラヴ・ユー」 クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバム『デジャ・ヴ』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムは1970年3月11日にリリースされ、50周年を記念したデラックス・エディションが2021年に発売されました。 https://www.csny.com/ CSNY オフィシャルサイト
アナログレコード 1970年澁谷彰一
-
カシオペア『アイズ・オブ・マインド』
【2024年3月23日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 3月は毎年インストを中心とした音楽を紹介してきましたが、今年はフュージョンを特集しています。“More than Words”今回はカシオペアの『アイズ・オブ・マインド』です。 70年代後半から80年代にかけて流行した、ジャズやソウル、ファンクなどを融合した“クロスオーヴァー・サウンド”。それはやがてフュージョンと呼ばれるようになりました。 日本が誇るフュージョン・バンド、カシオペアは、1957年1月1日生まれのギタリスト野呂一生と11月13日生まれのベーシスト櫻井哲夫を中心に結成されました。共に東京都内の高校生だった二人が出会い意気投合。56年10月20日生まれのキーボーディスト向谷 実を誘って出場したヤマハのコンテストEastWest'77がきっかけでプロデビューを目指します。 しかしなかなかレコード会社が見つからず、最終的に手をあげてくれたのが新興のアルファ・レコード。1979年にアルバム『CASIOPEA』で、めでたくデビューすることが出来ました。そのキャッチ・コピー「スリル・スピード・スーパーテクニック」は彼らの代名詞となり、2ndアルバム『スーパー・フライト』は、CMタイアップの効果で人気も全国区に拡大しました。 しかしここでドラムの佐々木隆が脱退、1959年2月27日生まれの神保 彰が加入して、いわゆる第1期メンバーが揃います。このラインナップでライブ・レコーディングされた3枚目のアルバム『サンダー・ライブ』は海外のアーティストからも好評で、彼らの人気を後押ししました。 80年のスタジオ・アルバム『メイク・アップ・シティ』は国内初の32トラック・デジタル録音で、続く『アイズ・オブ・マインド』はハーヴィー・メイソンのプロデュースで、初の海外リリース。カシオペアは一段と輝きを増しますが、87年レーベルを移籍してリリースした『プラティナム』あたりから陰りが出始め、バンドは休止状態。 89年には櫻井哲夫と神保 彰が脱退して、ベースに鳴瀬喜博、ドラムに日山正明を迎え、第2期の活動がスタート。さらに97年からは野呂・向谷・鳴瀬の3人態勢となり、サポートにかつてのメンバー神保 彰を迎えますが、2006年に一旦活動休止。 2012年、向谷 実の脱退と新メンバーの加入、6年振りの活動再開が発表され、バンドはCASIOPEA 3rdとして活動を続けます。しかしこれも10年で終止符を打ち、2022年からは野呂・鳴瀬に加え、キーボードに大高清美、ドラムに今井義頼を迎え、CASIOPEA-P4名義で活動しています。 カシオペアのアルバム『アイズ・オブ・マインド』 SIDE A 「朝焼け」 「ア・プレイス・イン・ザ・サン」 「テイク・ミー」 「ラカイ」 「アイズ・オブ・マインド」 SIDE B 「ブラック・ジョーク」 「ラ・コスタ(イントロ)」 「ラ・コスタ」 「マジック・レイ」 「スペース・ロード」 カシオペアのアルバム『アイズ・オブ・マインド』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムはハーヴィー・メイソンのプロデュースによりロサンジェルスでレコーディング。これまでのリメイク曲に加えハーヴィーと、レコーディングにも参加したボブ・ジェイムスの曲を収録するという実に贅沢な作品となっています。 https://www.casiopea.co.jp/ CASIOPEA-P4 オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
-
ボブ・ジェイムス『ヘッズ』
【2024年3月16日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 3月は毎年インストを中心とした音楽を紹介してきましたが、今年はフュージョンを特集しています。“More than Words”今回はジャズピアニストでプロデューサー、ボブ・ジェイムスの『ヘッズ』です。 70年代後半から80年代にかけて流行した、ジャズやソウル、ファンクなどを融合した“クロスオーヴァー・サウンド”。それはやがてフュージョンと呼ばれるようになりました。 数々のグラミー賞に輝くジャズ~フュージョン界のピアニスト、ボブ・ジェームスは、1939年12月25日ミズーリ州カンザスシティとコロンビアの間にあるマーシャルに生まれました。4歳からピアノを始め、英才教育を受けながら地元のイヴェントなどで伴奏の仕事をしていたようです。進学先のミシガン大学からバークリー音楽大学へと移り、1962年に出たジャズ・コンテストで優勝。クインシー・ジョーンズの推薦で、63年にアルバム『ボールド・コンセプション』をリリースしました。 大学卒業後は、メイナード・ファーガソンのバンド・メンバーとしてプロ・デビュー。サラ・ヴォーンはじめ、クインシー・ジョーンズ、ロバータ・フラックらの編曲を手掛け、その実力が認められて、73年にCTIレコードと契約。そこで編曲と演奏を手掛けた、グローヴァー・ワシントンJr.の曲でグラミー賞にノミネート、74年にリリースしたソロ・アルバム『ワン~はげ山の一夜』でもノミネートされました。 さらには、CTIに籍を置いたままCBSとプロデューサー契約を結び、タッパン・ジー・オフィスを設立。そこで、メイナード・ファーガソン、エリック・ゲイル、そしてケニー・ロギンスらの作品を手掛け、77年にはCBS内に自身のレーベル、タッパン・ジー・レコードを設立して『ヘッズ』を発表しました。アルバムでは、ボズ・スキャッグスやピーター・フランプトンのヒット曲も取り上げ、まさにクロスオーヴァーなサウンドを聴かせています。 79年にリリースした、アール・クルーとのコラボ・アルバム『ワン・オン・ワン』でグラミーに輝き、フュージョンやアダルト・コンテンポラリー界をリードしていきますが、81年にオフィスを閉鎖。85年にはワーナー・ブラザーズに移籍、翌年デイヴィッド・サンボーンとの作品『ダブル・ヴィジョン』をリリースすると、再びグラミー賞を受賞しました。 90年の『グランド・ピアノ・キャニオン』のレコーディングでセッションしたメンバー、リー・リトナー、ネイザン・イースト、ハーヴィー・メイソンと意気投合し、フォープレイを結成。フォープレイはメンバーを入れ替えながら現在も活動を続け、ソロ名義でも、前作から10年ぶりとなる2023年に、新作『ジャズ・ハンズ』をリリースしました。 ボブ・ジェイムスのアルバム『ヘッズ』 SIDE A 「ヘッズ」 「二人だけ」 「アイム・イン・ユー」 SIDE B 「ナイト・クローラー」 「ユー・アー・ソー・ビューティフル」 「ワン・ラヴィング・ナイト」 ボブ・ジェイムスのアルバム『ヘッズ』いかがでしょうか? ちなみに、フュージョン界の二大アレンジャーとして、ボブ・ジェイムスと共にあげられるのはデイヴ・グルーシン。こちらは1976年GRPレコードを立ち上げ、今でも現役で活動中です。 https://bobjames.com/ ボブ・ジェイムス オフィシャルサイト
アナログレコード 1977年澁谷彰一
-
スパイロ・ジャイラ『モーニング・ダンス』
【2024年3月9日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 3月は毎年インストを中心とした音楽を紹介してきましたが、今年はフュージョンを取り上げたいと思います。“More than Words”今回はアメリカのバンド、スパイロ・ジャイラの『モーニング・ダンス』です。 70年代後半から80年代にかけて、ジャズやソウル、ファンクなどを融合した“クロスオーヴァー・サウンド”がもてはやされた時期がありました。やがてフュージョンと呼ばれるようになり、80年代にはフュージョンがすっかり定着しました。 スパイロ・ジャイラの中心人物ジェイ・ベッケンスタインは、1951年5月14日ニューヨーク生まれ。オペラ歌手の母、ジャズ・ファンの父の影響で小さい頃からジャズに親しみ、5才からピアノ、7才からはサックスを習い始めました。 高校生の時に、父親の仕事のためドイツのニュルンベルクに移住。アメリカン・スクールに通いながらR&Bバンドに加入して、基地や地元のクラブで演奏しました。その頃、キーボード奏者のジェレミー・ウォールと出会い初めて自身のバンドを結成、しかしそのバンドは、それぞれが別の大学へ進学したため自然消滅しました。 ジェイはミューヨーク州立の総合大学へ進学し生物学を学んでいましたが、その後音楽へと転向。在学中から地元のクラブでサポート・ミュージシャンとして働き始め、卒業後も続いていました。その後カリフォルニアから帰ったジェレミーと共に、地元バッファローで活動するようになります。 バッファローは音楽の盛んな街で、様々なミュージシャンのサポートをしていましたが、やがて自分のバンドを持ちたいと考え、1974年にスパイロ・ジャイラを結成。その頃16歳の若きキーボーディスト、トム・シューマンと出会い、トムもバンドに参加します。76年にインディーズ・レーベルから、初のアルバム『スパイロ・ジャイラ』をリリース。 バンドは着々と人気を獲得し、79年にニューヨークへ出て2ndアルバムの制作にかかります。そのアルバム『モーニング・ダンス』が大ヒット、スパイロ・ジャイラはシーンに躍り出ました。デイヴ・サミュエルの演奏するマリンバや、スティール・ドラムが印象的なサウンドは人々の心を掴み、『キャッチング・ザ・サン』『カルナヴァル』『フリータイム』と順調にリリースを続けました。 80年代以降は若干のメンバー・チェンジを経て、レーベルを移籍しながら活動を続け、90年代も2000年代もコンスタントに作品をリリースして来ました。今年2024年は結成50周年記念ツアーで全米をまわっているところです。 スパイロ・ジャイラのアルバム『モーニング・ダンス』 SIDE A 「モーニング・ダンス」 「ジュビリー」 「ラスル」 「ソング・フォー・ローレイン」 「スターバースト」 SIDE B 「ヘリオポリス」 「イット・ダズント・マター」 「リトル・リンダ」 「エンド・オブ・ロマンティシズム」 スパイロ・ジャイラのアルバム『モーニング・ダンス』いかがでしょうか?ちなみに、バンド名のスパイロ・ジャイラですが、バンドの名前を聞かれたジェイ・ベッケンスタインが冗談半分で生物の授業で覚えた「アオミドロ(spirogyra)」を名乗ったのが最初だといわれています。 https://spyrogyra.com/ スパイロ・ジャイラ オフィシャルサイト
アナログレコード 1979年澁谷彰一
-
シャカタク『ナイト・バーズ』
【2024年3月2日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 3月は毎年インストを中心とした音楽を紹介してきましたが、今年はフュージョンを取り上げたいと思います。“More than Words”初回はイギリスのバンド、シャカタクの『ナイト・バーズ』です。 1970年代後半から80年代にかけて、ジャズやソウル、ファンクなどを融合した“クロスオーヴァー・サウンド”がもてはやされた時期がありました。ラリー・カールトンやリー・リトナーなどのスーパー・ギタリストが出てくると、ロック・キッズたちも、彼らが使っていたセミ・アコと呼ばれる薄手の中空ボディのギターに持ち替え、コピーに悪戦苦闘していました。なにせYoutubeなど無い時代でしたから、“耳コピー”するしかなかったのです。やがてクロスオーヴァーはフュージョンと呼ばれるようになり、80年代にはフュージョンがすっかり定着しました。 そんな時代に現れたのがシャカタクでした。 キーボード奏者のビル・シャープとドラマーのロジャー・オデルが中心となり、1980年イギリスで結成されたシャカタク。初代メンバーは他にナイジェル・ライト、キース・ウィンター、スティーヴ・アンダーウッドの5人。81年に『ドライヴィン・ハード』でアルバム・デビューしました。続くシングル「イージアー・セッド・ザン・ダン」がヒットし注目を集め、82年のアルバム『ナイト・バーズ』からのタイトル曲が全英9位となり大ブレイク。 この時すでにベースがアンダーウッドから黒人のジョージ・アンダーソンに交代。同年暮れにリリースした3rdアルバム『インヴィテイションズ』から女性コーラスのジル・セイワードらが正式メンバーとして加入。シャカタクは、バブル期の日本でもカフェバーやドライブのBGMとしてパワープレイされていました。しかしブームには終わりがあり、シャカタク人気も陰りを帯びると、83年、ヴォーカルをフィーチャ―したアルバム『アウト・オブ・ティス・ワールド』を、84年にはファンク色を強めた『ダウン・オン・ザ・ストリート』と路線を変えて生きのびて来ました。 メンバーも、ナイジェル・ライトがプロデューサーに専念するため脱退、キース・ウィンターが健康上の理由で脱退したぐらいで、ほとんど変更なく活動を続けています。フュージョン・ブームの去った90年代以降もコンスタントにリリースを続け、ライブも開催。最新作は2023年の『アイズ・オブ・ザ・ワールド』です。 シャカタクのアルバム『ナイト・バーズ』 SIDE A 「ナイト・バーズ」 「ストリートウォーキン」 「リオ・ナイツ」 「フライ・ザ・ウィンド」 SIDE B 「イージアー・セッド・ザン・ダン」 「ビッチ・トゥ・ザ・ボーイズ」 「ライト・オン・マイ・ライフ」 「テイキン・オフ」 シャカタクのアルバム『ナイト・バーズ』いかがでしょうか? ちなみに、シャカタクのクールなサウンドは、フュージョンというより80年代ブリティッシュ・ジャズ・ファンクとして、レベル42と人気を分かち合っていました。 https://www.shakatak.com/ シャカタク オフィシャルサイト
アナログレコード 1982年澁谷彰一
-
はっぴいえんど『はっぴいえんど』
【2024年2月24日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 2月は「日本のロックの夜明け」をテーマにお送りしています。その最後は、はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』です。 かつて日本には「ロックは英語で歌うものか?日本語で歌うのか?」という“日本語ロック論争”があり、その中心に居たのが、はっぴいえんどでした。1969年、小坂忠らと細野晴臣、松本隆が組んでいたバンド、エイプリル・フールが解散。細野・松本は親交のあった大瀧詠一を誘って新しいバンド、バレンタイン・ブルーを結成します。彼らはアメリカのバッファロー・スプリングフィールドのような音楽を目指し、ギタリストを探します。そこでまだ高校生だった鈴木茂が呼び出され、即興で「12月の雨の日」のイントロを弾くと、即メンバーに加入。 その頃バレンタイン・ブルーは様々なライヴに出演して、関係者との交流を深めていきます。その一人が、当時URCレコードのディレクターだった小倉栄司(小倉エージ)でした。彼らを気に入っていた小倉が、レコードを作りたいと思っているところへチャンスが訪れます。その頃ボブ・ディランに影響を受け、ロックへシフトしようとしていたフォークのカリスマ岡林信康。小倉はバレンタイン・ブルーをバック・バンドに、という作戦でURCレコードと契約。バンド名はすでに「はっぴいえんど」に替わっていました。 晴れてプロとしての契約が取れた、はっぴいえんど。メンバーは1947年7月9日生まれの細野晴臣、1948年7月28日生まれの大滝詠一、1949年7月16日生まれの松本隆、そして1951年12月20日生まれの鈴木茂。岩手出身の大滝以外は全員東京出身者でした。早速レコーディングが進められ、初めはまごつきますが、結果4日で完了。1970年8月5日に1stアルバム『はっぴいえんど』がリリースされると、松本隆が書いた、それまで類を見ないセンスの歌詞によって、新しい日本語ロックが誕生しました。 はっぴいえんどは71年の2ndアルバム『風街ろまん』で、さらに進化。東京オリンピックで失われた東京の原風景を描くというコンセプト・アルバムは、松本の文学的歌詞と、スタジオ・テクノロジーの発展によるサウンドの深みも加わり、日本ロック界に残る名盤となりました。 『風街ろまん』でやり切ってしまったバンドは、ほぼ解散状態で大滝はソロ・アルバムをリリース。72年秋にロサンジェルスへわたりレコーディングに入りますが、アメリカへの憧れは崩れ去り「さよならアメリカ、さよならニッポン」という曲が生まれました。結局その年末に、はっぴいえんどは解散、明けて73年2月25日ラスト・アルバム『HAPPY END』がりりースされました。 解散後、松本隆は作詞家として大活躍、細野晴臣はイエロー・マジック・オーケストラで世界制覇。大瀧詠一はナイアガラレーベルを立ち上げ、名作『A LONG VACATION』を残し2013年惜しくも他界、鈴木茂はソロとして、セッションギタリスト、作曲家として活躍中です。 はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』 SIDE A 「春よ来い」 「かくれんぼ」 「しんしんしん」 「飛べない空」 「敵タナトスを想起せよ!」 SIDE B 「あやか市の動物園」 「12月の雨の日」 「いらいら」 「朝」 「はっぴいえんど」 「続はっぴーいいえーんど」 はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』いかがでしょうか? ちなみ通称“ゆでめん”と言われるこのアルバム、日本語詞にもかかわらず今や全世界で愛されているのが面白いですね。 https://yamano-music-online.com/?p=5925 山野楽器 はっぴいえんど特集ページ
アナログレコード 1970年澁谷彰一
![Loading](https://d3caz7hhiepl95.cloudfront.net/loading/loading.gif)