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ホルスト 惑星 ズービン・メータ
ミラクル・サウンド、ミラクル・プライス」をキャッチフレーズにしたエロクァンス・シリーズが発売されてからしばらく経つ。惜しい。もっと継続して注目されてもいい。このディスクは、エロクァンスの良さを確認するのに格好の1枚だ。今日、「惑星」のベストを争うディスクは多数出揃っているが、カラヤン&ウィーン・フィル盤に続く初期の名盤として、メータ&ロス・フィル盤は高校時代からの愛聴盤だった。今でも、アメリカのオーケストラでは、オーマンディ&フィラデルフィア盤、レヴァイン&シカゴ響盤と共に「惑星」の三大名盤の一角をなしていると思う。メータが最も輝いていた頃の不滅の名盤。今後も多くの人々に聴いていただきたい、と思う。
LONDON平碆 善幸
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ストラヴィンスキー 春の祭典 ドラティ
指揮者アンタル・ドラティは、自身がハンガリー人でもあり、 民族性の高い東ヨーロッパ系の作曲者の作品、そしてロシアもののバレー音楽に 傑出した技量を示す人物であった。 ハンガリー動乱以降の一時代における、ハンガリーのクラシック音楽界の 棟梁のような存在でもあった。悲しい運命を背負った亡命音楽家たちを励まし続けた。 おそらく人間的にも素晴らしい人物であったのだろう。 アメリカの凋落してゆく楽団を復興させる実績にも優れ、彼の音楽的情熱が、 単なる一指揮者という枠を超えて、楽団員の統率力に長けていることを証明した事実も忘れてはならない。 指揮者という職業には、その人の生き様というものが必ず投影されると考える。 それは、一個人の演奏者が楽器を演奏するスタイルと根本的に異なるものだからである。 時には政治性と向き合わなければならないときもあるかもしれない。 そのようなことすべてを含めて、指揮者のあり方が問われ、評価されるのではないだろうか? ドラティの音楽には、人間の熱き情念が常に感じられる。 このストラビンスキーの「春の祭典」および「ペトル−シュカ」、 そして別CDでの「火の鳥」を聴いても同じ思いである。 楽団から引き出す音の力には絶句させられる。 このアメリカの5大オーケストラにも入っていないデトロイト交響楽団のオーケストレーションは、 実に完璧なものとなっているのである。一つ一つのパートに極めて高い技量が求められる 「春の祭典」でも曖昧な楽器の音出は一切なく、驚くべきレベルに達しているのである。 音は良い意味でのアメリカの楽団の出力の高さをしっかりと披露していて、しかも アメリカの楽団にありがちなゴツゴツ感もない。 テンポ設定においてもわざとらしい過度な演出はなく、極めて理にかなったものである。 それでいて、この曲固有の、異教徒たちの野蛮な儀式を想起する反近代的ともいえる興奮も 見事に表現している。そしてこの興奮は、すべて、ドラティにより計算されたものなのである。 この作品はバランスを崩すと危険なのものなのだ。 この辺りにドラティの真骨頂を感じ、彼の音楽家としての偉大な資質をかいま見ることができる。 1981年の録音状況も驚くほどすばらしい。
LONDON平碆 善幸
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シベリウス 交響曲第2番
モントゥーさんの演奏は、リマスタリングされているので状態は良いです。ホールトーンの豊かな響きを持っており、多分、初めて聴いたシベリウスの2番が、この演奏だったと思います。単純に息が深いと表現するだけで良いのか、ちょっと考えさせられるほど、瑞々しさを感じます。特に弦が美しく、表情が豊か。中間音域が、少し薄い感じですが密度の高い演奏です。ザンデルリンク盤のように重々しくなく、リズミカルで跳躍感があって心地良い演奏です。さらり~ からり~とした感覚。後半の楽章では、オーボエとクラリネットが、ゆったりと歌っており、感傷的で、良い意味でのロマンティックさがあります。聞き進めていくうちにラテン系の大らかさ、艶が弦に出ています。第4楽章に入る手前のチェロの甘い響き、ふわっふわ感、弦の響かせ方が波打っており驚かされます。 氷の世界が広がる演奏では、弦の動きで、ガンガン カシカシしていますが、柔らかい、しなやかな弦で、暖かみがあって表情豊かです。後半2楽章は、喜びに満ちあふれてくる楽章となっています。
LONDON平碆 善幸
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クナッパーブッシユのブルックナー交響曲第5番
ギリシア、ローマ時代の建築物のような5番? 2006年7月1日に日本でレビュー済み 第5はよく、大伽藍のような建築物に例えられます。最たる雄がヴァント+BPO盤で、私は聴くたびに、厳格なカトリシズム、ケルンやシャルトル大聖堂といった緻密な石工細工が結晶した天に届きそうな大伽藍のゴシック建築を連想するのですが、クナッパーツブッシュ盤は対極の表現を感じます。うまく表現できませんが、キリスト教以前のギリシア、ローマ時代の建築物を思い浮かべてしまいます。思わず居住まいを正してしまいそうな、ヴァント+BPO盤に対し、リラックスして聞けるのがクナッパーツブッシュ盤でしょうか。オケもVPOだし、音質も年代を考えると良好だと思います。ヴァント+BPO盤には私は5つ星評価をしましたが、どっちが優れてるという比較ではなく、表現の違いを楽しんでみるのも一興かと思います。
LONDON平碆 善幸
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バーンスタイン/マーラー交響曲大地の歌
第6楽章「告別」の模範的演奏 1966年録音の「大地の歌」 ジェームズ・キング、フィッシャー=ディースカウ ウィーンフィル バーンスタイン プロデューサー:ジョン・カルショー 歌詞対訳:渡辺護 UCCD - 4407 これは、カルショーのプロデュースなので、LPレコードで聴くと良いだろう・・・つまり、デジタルリマスタリングでは、アナログの音がどのぐらい伝わるか? 演奏は、ディースカウが良い。第4楽章「美について」の早口(速いテンポ)で歌われるところは、ドイツ人でないと歌えないだろう。 第6楽章「告別」のディースカウとバースタインの解釈は模範的演奏だろう。それは、アルト歌手が歌ったものを含めて、かつて、発売された第6楽章「告別」の模範だと私は思う。勿論、このアルバムの前にも後にも名演奏があると思う。しかし、このアルバムは、好みを超えた「模範」だと思う。 ディースカウの歌唱は、リスナーをして、詩の意味に「こだわりたく」させる。 「友が馬を降りて、別れの杯を差し出す」 さりげないけど良い。友は馬上から酒を渡すのではない・・・。情景が目に浮かぶ。 第6楽章「告別」最後の節「遠き果てまで、いずこにも、とこしえに青き光!」とは何だろう? 辞書を引くと「blauen」は自動詞で「(空が)青くなる。青い」。「Alluberall und ewig blauen licht die Fernen」の blauen が三人称複数なので、主語は、「die Fernen(遠方)」。だとすると「どこも、いつまでも、遠くは(遠くまで)明るく青い」。「licht」は副詞「明るく」。(要するに「青空がどこまでも続く」) さて、同じ綴りの「blauen」が、第6楽章冒頭では「形容詞」として使われている。「Der Mond am blauen Himmel herauf.(小舟のような月が青い(形容詞)空に浮かんでいる)」と・・・。 同じ「blauen」でも両者は(文法も)意味も違う。つまり、両者の違い。ニュアンスの違いは、冒頭の青は「暗」、最後の青は「碧」だろう。しかし、私は、この2つの「青」を重ね合わせてしまった。 春が来ても、月は暗くて青い空に浮かぶ。 逆に、春が来なくても、一年中、晴天の空は青い。晴天が暮れると青い月夜になる。 この歌の主人公は死に場所を求めているのだから「青」は不吉に思えてしまった。 ディースカウの歌唱はテンポが遅いし、勿論、ドイツ語がきれいだし、表現力も抜群である。彼の歌唱にしつこさを感じるリスナーもあるかも知れないが、私は彼とバーンスタインの「告別」を超えるものはないと思っている。 Die liebe Erde alluberall bluht auf im Lenz und grunt Aufs neu! Alluberall und ewig blauen licht die Fernen! Ewig... ewig... いとしきこの大地に春来たりていずこもにも花咲き、 緑新たなり! 遠き果てまで、いずこにも、とこしえに青き光! とこしえに…とこしえに… (渡辺護訳)
LONDON平碆 善幸
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ショルティ/マーラー交響曲第8番変ホ長調千人の交響曲
ショルティ / マーラー:交響曲第8番 ショルティ&シカゴ響のヨーロッパ公演の際におこなわれた録音で、史上最強といわれる豪華なキャストが話題になりました。もちろん、演奏のほうも素晴らしいもので、大作とはいえ、流動的な構造の第2部を、がっちりと構造的に仕上げるなど、いつもながらのショルティの造型志向はここでも健在。 第2部とは対照的に構造的求心性の強い第1部では、持ち前のダイナミックなアプローチが好を奏し、いたるところに爽快な山場がつくられていてとにかく快適。オーディオ的満足度の高さも相当なものです。 ・マーラー:交響曲第8番変ホ長調『千人の交響曲』 ヘザー・ハーパー(S) ルチア・ポップ(S) アーリーン・オジェー(S) イヴォンヌ・ミントン(Ms) ヘレン・ワッツ(A) ルネ・コロ(T) ジョン・シャーリー=カーク(Br) マルッティ・タルヴェラ(Bs) ウィーン国立歌劇場合唱団 ウィーン楽友協会合唱団 ウィーン少年合唱団 シカゴ交響楽団 ゲオルグ・ショルティ(指揮) 録音:1971年8月&9月、ゾフィエンザール、ウィーン(ステレオ)
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ショルティ/マーラー交響曲第7番ホ短調夜の歌
まるで最新のハイテク兵器の破壊力と機能美を見るようなすばらしさ ショルティ・シカゴ響の初期録音の傑作です。 原曲は真夏の夜に百匹の鬼が暴れまわる百鬼夜行のように対位法が駆使され、対位法の海のような曲ですがショルティとシカゴ響はその海にに溺れず、ひたすら前に進む筋骨隆々とした戦闘師団のような迫力と機能美に溢れた音楽を奏でています。 パート全員がソリストのような弦楽器の合奏や、理性や理論で裏づけられ固められたような美しくも力強い響きは、悪霊を焼き払い、消滅させる強烈な光のようです。 金管楽器の咆哮や炸裂する打楽器のうねり、大合奏での破壊力はまるで最新鋭のハイテク戦闘機のような「機能美」や「凄み」を感じさせてくれます。 ある意味、原曲を再創造していると言ってもよいでしょう。 クレンペラーやバーンスタインのようなドロドロした感情の渦や匂うような思い入れは、そこにはありません。 シャープでダイナミックかつ現代的な演奏が好きな人にお勧めします。反対に音楽に思想や感情・情念、物語を求める人には向いてはいないと言うことです。
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ショルティ/マーラー交響曲第2番復活
ショルティ/シカゴによる1980年の録音。 ショルティらしい質実剛健な演奏。エコー控え目でリアリティーの高い音で収録されています。壮大なスケールで演奏しています。1980年頃はまだこのようなダイナミックレンジの広い録音が少なかったので貴重な一枚でした。 2001年にシャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウがやはり壮大なスケールでマーラー2番を収録していますが、比べてみるとショルティは直球勝負であるのに対し、シャイーは劇的な効果を狙っているため、演出がやや作為的に感じられる部分もあります。それぞれに良さがあって、ストレートで力強い2番を聴きたければショルティ、シンフォニックな響きと現代的なリアリティーを追求したければシャイー、と言ったところでしょうか。 その他にバーンスタイン/NYPO、テンシュテット/ロンドンフィル、アバド/ウィーンフィル、ベルティーニ/ケルン放送交響楽団などによる抒情性や格調の高さなどを追求した作品もありますが、リアリティーの高さではこのショルティ―/シカゴの演奏が今でも優れていると思います。
LONDON平碆 善幸
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ストコフスキー/チャイコフスキー交響曲第5番
チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64(1) ニュー・フィルハーモニア管弦楽団、指揮:レオポルド・ストコフスキー 録音:1966年9月(1)、1965年9月(2) ロンドン 1977年に95歳で現役のまま世を去ったストコフスキーは、良い意味でのショーマン・シップを大いに発揮し、クラシック音楽を身近なものとして大衆に紹介した功労者でした。84歳の時に録音されたチャイコフスキーの第5交響曲は彼の代表盤のひとつ。年齢を感じさせない華麗な演奏ぶりで多くの音楽ファンを魅了してきました。 ストコフスキーの“オーケストラの魔術師”たるゆえんを存分に楽しめる名盤。
LONDON平碆 善幸