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音楽絵巻 その1 ~ 祈りの残照・大航海時代の西洋と日本 ~
第16回鶴岡市芸術祭参加 アンサンブル・チコーニア 演奏会
音楽絵巻 その1 ~ 祈りの残照・大航海時代の西洋と日本 ~
2021.11.21(日) 14:00 開演 東田川文化記念館 明治ホール
演奏:佐藤 美佳・平山 洋之・小澤 望・山澤 昭彦
語り:佐藤 美佳
企画:山澤 昭彦(A・COMPANY)
制作:山澤 昭彦
語り原稿
一之巻 スペイン - レコンキスタの時代
(語り&伴奏スタンバイ)
15世紀、イベリア半島は未だイスラム勢力の支配下にありました。この状況を打ち破ろうとキリスト教徒たちは「レコンキスタ」とよばれる国土回復のための戦いを続けていたのです。1479年、カスティーリャの女王イサベルとアラゴンの国王フェルナンドの結婚により成立したペイン王国は、イスラム勢力最後の拠点グラナダで2年間にわたる攻囲戦に勝利、1492年1月のアルハンブラ宮殿の陥落により800年にも及ぶレコンキスタはここに終結したのでした。
(国王&女王入場)
ここは、スペイン・カタルーニャ地方にある鋸山(モンセラート)の麓。この地で「黒いマリア像」が発見されると、モンセラートはキリスト教の一大聖地となりました。モンセラート修道院には「モンセラートの朱い本」と呼ばれる歌曲集が伝承されています。この歌は、モンセラートを訪れた当時の巡礼者達が歌い踊ったものなのです。
Stella splendens(輝ける星よ)
モンセラートの「黒いマリア像」について、こんなの伝承が残されています。西暦880年のある土曜日、何人かの子供の羊飼いが、薄曇りのなか空から不思議な光が美しいメロディーとともに降りくるのを見たのです。麓の町の司祭が調べてみると、山腹の洞窟の中から「黒いマリア像」を発見しました。麓まで降ろそうとしたのですが動かすことができず、その地に聖堂を建てて安置したと。
O virgo splendens(おお、輝く聖処女よ)
当時のスペインではキリスト教の信仰の対象は「聖母マリア」でした。「父と子と精霊」父性の宗教キリスト教が排除した「地母神」の化身を民衆は「聖母マリア」の中に見いだします。人類が永遠に憧憬する「女性的なるもの」「処女にして母」それが「聖母マリア」。巡礼者達は「聖母マリアを」を賛美し、祈りの歌を歌ったのです。
Mariam, matrem virginem, attolite(処女なる御母を讃美せん)
モンセラートがあるカタルーニャ地方はフランスとの国境・ピレネー山脈のすぐ南。ここは古代からのケルト文化が色濃く残っている地方でした。黒いマリアが山腹の洞窟から発見され動こうとしなかったという伝承も、森の中の古木・奇怪な巨岩・深い洞窟などを聖地として崇拝していたケルトとの関わりがあるのかもしれません。
Splendens ceptigera(笏杖もて輝ける御身)
二之巻 大航海時代 – スペインの黄金世紀
16世紀、日本が戦国の争乱に明け暮れていた頃、ヨーロッパでは「レコンキスタ」によりイスラム勢力を一掃したスペイン王国が繁栄を誇っていました。スペイン王国はは強大なキリスト教国でしたが、カトリック教会の中心地「バチカン」からは遠く離れていたのです。当時のスペインだけで歌われていたマリア賛歌が1553年にグラナダで刊行された楽譜に残されています。
O Gloriosa Domina(おお、栄光の聖母)
16世紀は「スペインの黄金世紀」でした。キリスト教の布教と香辛料の獲得という宗教的・経済的動機から、帆船で大海原を渡り世界に進出していったのです。スペインはアジアやアメリカの多くの地域を植民地にし「太陽の沈まない国」と呼ばれていました。しかし、当時は大海を渡る船旅は危険と隣り合わせでした。船乗りたちは「海の星の聖母」マリス・ステラに祈りを捧げ、航海の無事を祈ったのです。
Ave Maris Stella(めでたし、海の星よ)
ルネッサンス期の大作曲家、ギヨーム・デュファイはそれまで単旋律だったグレゴリオ聖歌の旋律を使って多声部の教会音楽を生み出しました。これが、西洋音楽の歴史に大転換をもたらしたのです。黄金世紀スペインの作曲家、トマス・ルイス・デ・ビクトリアも多声教会音楽を数多く作曲しています。ビクトリアの「アヴェ・マリア」は、その卓越したポリフォニーの手法で神秘的な感動を与えてくれるのです。
Ave Maria(めでたし、マリアよ)
16世紀、ヨーロッパで大流行していた曲がありました。イングランドの音楽家ジョン・ダウランドが作曲した「流れよ、わが涙」という歌です。この曲は多くの音楽家によってカバーされ、器楽曲だけでもヨーロッパ各地で100以上の編曲版の楽譜が出版されました。オランダ出身の盲目の作曲家ヤコブ・ファン・エイクが作曲した『笛の楽園』というリコーダーの作品集にも『ラクリメ』という名前でこの曲が収録されています。
Lachrimae(流れよ、わが涙)
三之巻 京・安土・天草 – 西洋音楽との遭遇
大航海時代、キリスト教の布教と香料を求めてアジアに進出したスペインとポルトガルは、ついに黄金の国ジパングにたどり着きます。1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのを端緒に、宣教師や商人たちが南蛮船に乗って続々と日本にやってきました。キリスト教の布教活動は成功をおさめ、信徒の数は50万人に達したといいます。京の都や信長の城下町安土には南蛮寺と呼ばれた教会があり、神学校セミナリオもありました。そこではオルガンの音色が流れ、子供たちは聖歌を歌いながら西洋の学問を学んだのです。後に安土・桃山と言われるこの時代、信長の天下統一を目前に京の都では西洋と日本の文化が融合した独特の芸術が生まれたのでした。
吉野の山
九州はキリスト教の布教が最も成功した地域でした。1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名達は4名の少年を中心とした使節団をローマ教皇のもとに派遣します。少年たちは長い船旅の間にラテン語や小型のオルガン、ハープなどの楽器の演奏を習得しました。使節団は8年後の1590年(天正18年)に帰国しましたが、信長の夢は本能寺の変で消え去り、天下人は秀吉に変わっていたのです。立派な青年に成長した4人は、翌年の3月3日、京の聚楽第に赴き、持ち帰った楽器を使って秀吉の前で御前演奏を行った記録が残っています。演奏したのは当時のヨーロッパで好んで演奏されたジョスカン・デ・プレの曲だったのでしょうか。
Mille regrets(千々の悲しみ)
1587年(天正15年)、秀吉によるバテレン追放令から日本のキリシタンの弾圧が始まります。信仰を守り続けた人々は、ある者は過酷な迫害の末に殉教し、ある者は宣教師とともに国外に逃れ、ある者は東北の山中や天草の島々に身を隠したのでした。天草の生月島に伝わる「オラショ」はラテン語で祈祷を意味する言葉。「ぐるりよざ」という歌は、スペインのマリア賛歌「O Gloriosa Domina」だということがわかっています。
ぐるりよざ
キリシタンが禁教による厳しい弾圧をから身を守る最善の方法は、仏教徒を装うことでした。潜伏キリシタンは観音像を聖母マリアに見立て、燭台の裏に十字を刻んで信仰を守り続けたのです。江戸時代の初期に成立した編み笠で顔を隠した虚無僧集団は、尺八を吹きながら全国各地の虚無僧寺を行き来していました。虚無僧は、普化宗という仏教徒を装った隠れキリシタンだったのかもしれません。
KOKU(虚空)CREDO(信仰宣言)
ライブ録音
https://youtube.com/playlist?list=PL8n_sdS4q1hu52arI2tXhw6qAC1hIhMV-
ライブ録画
https://youtu.be/3pdZ2-dixLc
mugen
2021/11/26荘内日報(2021.11.26)
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