ラルゴ・エ・メスト でちょっっと考えた:Piano sonataNo.7 2satz

初版 2024/04/26 14:42

改訂 2024/04/26 14:42

ベートーヴェンのピアノソナタ作品10には3つの作品がある。
第5番、第6番、そしてこの表題の長大な中間楽章を持つ第7番。考え方によってはベートーヴェンが第9交響曲や最晩年のピアノソナタや弦楽四重奏曲で到達したフーガの技法の一端がこの3つのソナタに聴かれます。
特徴的なエポックが多い佳品であるこの3作品の中で、とりわけベートーヴェンらしさが出ているのがこの第7番の第2楽章であり、ユニークであるのは第3楽章だろうか。

ボクはこの曲の特に第2楽章の副次テーマとして使われる高揚した歌が好きで、ここだけ取り出してよく聴きます。
『Largo e mesto 悲しげに』と題された内容はロマンティックですが、緊張の糸が切れ、歌うだけの演奏になるとこれほど散漫に聞こえる楽章も珍しいです。

バックはウスは、それを怖れたのかさらりと弾いてしまって、早足で通り過ぎます。これは僕的にはなり深い考えがあっての頃だと思いたい。

アシュケナージは食いつきすぎて、ロマンティックなんだけど凭れますね。ルドルフ・ゼルキンがよかったです。今はどうかな以前はライブの映像があってこの曲を再現していく過程が見えてすごくよかった。


今聴いているのは、クラウディオ・アラウの最晩年に近い演奏だと思いますが、コンサートでのライブです。

晩年であること、ライヴパフォーマンスでは技術的な完璧をあまり問題しておらず、それゆえ、記録として残す事を本人が望まなかったことは、重々承知の上で聴いてくだされ。

ピアノソナタ第7番ニ長調op.10-3

第1楽章 プレスト

第2楽章 ラルゴ エ メスト

第3楽章 メヌエット:アレグロ

第4楽章 ロンド:アレグロ

作品10の3曲の中で4楽章形式をとるのはこの曲のみ。だだ、晩年の融通無碍な(悪く言えば楽章の数なんて関係ねーよ的な)作風と違い4楽章の形式をとってもさほどグランドマナーを必要とする作品ではないように思う。

でも考えなければならないのは、現代(バックハウス以前も含めて)のピアニストは、ベートーヴェンの死後つまり32番までを譜面で確認し、そのアナリーゼを通して全体を俯瞰し、自分なりの第7番の解釈をするというところだね。突然現れたこのラルゴをどう弾くのか。いろんなピアニストを聴くのがおもしれ―とこだ。「智恵の悲しみ」が間違いなくある。聴く方も例外ではない。最初に僕は『ベートーヴェンらしさが出ているのがこの第7番の第2楽章であり、』と書いたが、それは僕が先に後期の傑作の森からベートーヴェンに入ってしまった弊害だともいえる。

これはでも、しょうがないよね。僕としては少なくともそういうしかない。他の音楽領域と何が違うか、クラッシックがクラシックである所以はまさにそこにあるんだろうね。すでにすべてを(一人の芸術家の一生の仕事を)通過したところにいる人間が視覚よりもはるかに情報量が少ない聴覚から自分の共感を捜すんだから。

バックハウスの客観性は再現芸術家としてそこを熟慮した結果であるように思えます。その時点のベートーヴェンをどう弾くか、通過した自分が通過した聴衆を前に…

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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