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2000 10TH HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA EJ10 J.TRULLI
ヤルノ・トゥルーリ ジョーダン移籍 自身初の予選フロントロー JORDAN EJ10 約2年半所属したプロストグランプリを離れ 2000年トゥルーリはジョーダンに移籍 移籍に関しては前年度同チームで引退した デーモン・ヒルの推薦も影響した チームメイトはハインツ・ハラルド・フレンツェン R2ブラジルGPでの4位入賞がシーズンベスト 予選では自身初となるフロントローを R7モナコGP R13ベルギーGPで記録も 決勝では4位1回 6位3回の入賞にとどまった 後半戦R11ドイツGPからは改良型のEJ10Bが 投入されたがマッチせずこのマシンで トゥルーリは決勝ノーポイントに終わった チームもコンストラクターランキング 前年度3位から6位となりポイント獲得も 前年比1/3以下と大きく後退した モデルはHOT WHEELS GP表記の無いRACE CAR仕様 この年ジョーダンのモデルは当初 HOT WHEELSのみのリリースであったが 後にジョーダンチームセットの ドライバーフィギュア無しで ミニチャンプスからも発売された(画像2)
240318 J.TRULLI 2000 6FW12C
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1994 10TH PMA BENETTON FORD B194 J.VERSTAPPEN (BELGIAN GP)
ヨス・フェルスタッペン 連続3位は‥BENETTON FORD B194 1994年R11ベルギーGP この年の序盤戦の度重なる事故を受け スパ・フランコルシャンの超高速 名物コーナー オー・ルージュに 急遽シケインが設置された(1994年のみ) 前R10ハンガリーGPで 初ポイントを初表彰台3位で飾った ヨス・フェルスタッペン R11ベルギーGPは雨の影響もあり ジョーダンのルーベンス・バリチェロが 当時最年少となるPPを獲得 ヨスはキャリアベストとなる予選6位 決勝は4位でフィニッシュ その約5時間後チームメイトで トップでチェッカーを受けた ミハエル・シューマッハが車両規定違反で 失格となりヨスは繰り上がりで3位 2戦連続での3位となったが ベルギーは表彰台に上がらずの3位 ヨスのキャリア最後の3位で キャリア連続の入賞もこの2戦限りであった モデルはミニチャンプス レジン製でベルギーGP仕様として発売 15か所もあるMILD SEVENのデカール添付 マシンに2か所の車載カメラや この年途中レギュレーション変更れた エアボックス開口部分の背面に穴も再現
231123 J.VERSTAPPEN 204 6FW12C
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1999 6TH PMA WILLIAMS SUPERTEC FW21 R.SCHUMACHER
ウイリアムズに移籍 ラルフ・シューマッハ 孤軍奮闘 WILLIAMS SUPERTEC FW21 1999年ウイリアムズに移籍の F1 3シーズン目のラルフ・シューマッハ チームメイトはインディ帰りの アレサンドロ・ザナルディ 約2年落ちのルノーエンジンである スパーテックエンジンで苦戦の中 開幕戦オーストラリアGP 予選8位→決勝3位表彰台 16戦中12戦完走中11度の入賞 R12イタリアGPでは2位表彰台を 自身初のファステストラップで記録 ラルフの生涯FLは8回 チームメイトのザナルディが無得点の中 孤軍奮闘で表彰台3回35P 年間順位は6位 1999年評価を上げたドライバ―の1人であった チームはメカクローム(ルノー)エンジンと別れ 翌2000年はBMWエンジンでの参戦となる モデルはミニチャンプス タバコスポンサーのWinfieldの赤をベースに フェニックスをイメージしたようなカラー 1999年のみのカラーリング 同モデルはホットウィールからも発売
231121 R.SCHUMACHER 1999 1回FW12C
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1975 (23RD) SPARK LOTUS 72F J.WATSON
ロータス72シリーズ 最終盤72F ジョン・ワトソン LOTUS 72F 1975年ロータスは前年度投入の LOTUS76が失敗作に終わり信頼性の高い LOTUS72Eを再び主戦場に戻した シーズン終盤には最終盤の72Fを投入 Fタイヤのオーバーヒート改善の為 ホイールベースを5CM伸ばし フロントのトレッドを拡大 リアサスにはコイル・スプリングが採用 レギュラードライバ―であった ジャッキー・イクスの離脱後は 3名のドライバ―が起用され R11ドイツGPではサ―ティスが欠場した為 同チームのドライバ―J・ワトソンを起用 予選ではLOTUS72E型のR・ピータソン(18位)を 抑えてワトソンは14位を獲得 しかし決勝は両者とも1~2周目リタイアと 不振のシーズンを象徴するレースとなった ワトソンは翌戦はサ―ティスに戻り さらに最終戦はペンスキーで出場した モデルはスパーク ドイツGP仕様 予選14位→決勝リタイア このGPはタバコスポンサーの John Player Specialの文字は無く JPSロゴマークのみとなっている 1975年ワトソンの主戦 チームサーティス↓ https://muuseo.com/FW12C/items/1511?theme_id=32702
231102 J.WATSON 1975 6FW12C
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1972 (30TH) CP MODEL EIFFELAND 21 R.STOMMELEN
流体力学的独創デザインマシン アイフェラント21 R・シュトルメン アイフェラント・ボーゲンバウは ドイツのキャンピングメーカー F2時代にロルフ・シュトルメをサポート 1972年にはF1にプライベートチームを設立 マーチ721の4号車を買取独自の施しを実施 スイス人デザイナーのルイジ・コラ―ニの 流体力学を重視した独走デザイン コクピット前方にエアインテークを設置 ドライバ―の目の前にバックミラーがあり 支柱も空気抵抗を配慮した断面形状 ドライバ―頭部の後方も流線形のような 気流を乱さぬようなデザインであった シュトルメンの予選最高は14位 決勝最高は10位が2回とポイント獲得は 無かったものの完走は8戦中6回 R4モナコGPでは元々の車体のマーチ721で 出場した他の5台よりも先着の決勝10位 モデルのCar No6はR5ベルギーGP仕様 予選20位→決勝11位完走 しかし資金が底をつきR9オーストリアで アイフェラントはF1から撤退した F1デザインの独創的な名車(迷車)特集では よく登場する唯一無二のアイフェラント21 CP MODEL (国際貿易)が量販モデル化
230503 R.STOMMELEN 6 1/43FW12C
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1975 16TH QUARTZO LOTUS 72E J.ICKX
イクス最後の2位はハーフポイント チーム途中離脱 LOTUS 72E 1975年 ジャッキー・イクスはロータス2年目 チームメイトはロニー・ピーターソン 基本設計が1970年であるロータス72Eでは 両ドライバ―とも如何ともできずに苦戦 イクスの唯一の入賞はR4スペインGP R・シュトルメ(チーム ヒル)が混乱の中 トップ走行中にリヤウイングが脱落 ガードレールに激突して観客席に落下 観客を巻き込む痛ましい大事故となり 全75周中29周でレースが終了 レースの消化が75%未満の為 史上初のハーフポイントとなったレースで 事故でのハーフポイントは現在まで唯一のGP (他のハーフポイントは雨によるもの) 結果これがF1生涯最後の2位表彰台 イクスの通算表彰台は25回 イクスはロータスのR10地元イギリスGP前に チームを離脱 この年は他チームでは走らず 翌1976年にウイリアムズからエントリー 更にシーズン途中でエンサインに移籍した #F1-1975年
230427 J.ICKX 1975 6FW12C
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1978 2ND QUARTZO LOTUS 78 R.PETERSON〖🏆2〗
ロータス復帰 ロニー・ピターソン 最後の乗車マシン LOTUS 78 1978年ロニー・ピーターソンは 1976年の開幕戦以来のロータスに復帰 チームメイトはマリオ・アンドレッティ 序盤戦は前年度のモデルLOTUS 78で参戦 モデル仕様のR3南アフリカGP 予選は11位に沈むも 決勝は徐々に順位を上げ ファイナルラップでトップ走行の P・デュパイエ(ティレル)を 激しいサイドバイサイドの競いを制し 最後は0.4秒差での逆転の勝利を飾る LOTUS 78はR6戦まで使用して PP 1回 優勝1回 入賞4回 FL1回 後ニューマシンLOTUS 79が導入された 運命のR14イタリアGP ピータソンは決勝前のウォームラップで LOTUS 79をクラッシュさせてしまい 決勝には旧車のLOTUS 78で出場 スタート直後の事故に巻き込まれて 後日 帰らぬ人となってしまい LOTUS 78が最後の乗車マシンとなった https://muuseo.com/FW12C/items/1334 #F1-1978年
230317 R.PETERSON 1978 3回FW12C
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1998 8TH PMA BENETTON PLAYLIFE B198 A.WURZ
アレクサンダー・ブルツ 初のフル参戦 BENETTON PLAYLIFE B198 A・ブルツ オーストラリア出身 前年度同郷G・ベルガーの代役で3戦出場 1998年は引退したベルガーの後押しもあり ベネトンのレギュラーシート獲得 ベネトンは前年度限りでワークス提供が 終了したルノーエンジンをベースに メカクローム社が開発したエンジンを搭載 本社のアパレルラインのブランドの プレイライフ (PLAYLIFE)のネームを付けた 開幕前にタイヤをGY→BSに変更が功を奏し 前半戦は9戦中6回の入賞 4位が5回 R3アルゼンチンでは自身生涯唯一の ファステストラップも記録した しかし後半戦はGY陣営の巻き返しや エンジン開発も停滞して苦戦 R10~は7戦連続ノーポイントに終わる ブルツは年間17ポイントで8位 チームは最終戦でジョーダンに逆転されて 1987年以来のコンストラクターポイント トップ4から陥落し低迷期に入る
230303 A.WURZ 1回 6FW12C
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1976 10TH SPARK LOTUS 77 G.NILSSON
グンナー・ニルソン スウェーデン出身 F1デビュー チームロータス LOTUS 77 スウェーデン海軍で無線技士として 所属していたグンナー・ニルソン 1975年 イギリスF3チャンピオン 1976年 同郷のロニー・ピータソンの離脱を 受けR2南アフリカ ロータスからデビュー R5スペインGPからパーネリの活動が終了した マリオ・アンドレッティがチームメイト そのスペインGPで予選7位→決勝3位 この年のロータスと自身のF1初ポイント その後リタイアが多かったものの モデル仕様のR11オーストリアGPでも シーズンベスト予選4位→再び決勝3位 最終戦 F1グランプリINジャパン 富士 豪雨の中サバイバルで生き残り6位入賞 ◆R16日本(富士SW)予選16位→決勝6位◆ 表彰台2回 入賞4回 11Pで年間10位 翌1977年もロータスに残留 病魔とも闘う最後のシーズンを迎える #F1-1976年
230225 G.NILSSON 1976 6FW12C
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1978 2ND PMA LOTUS 79 R.PETERSON〖🏆2〗
SUPER SWEDE 無冠の帝王 ロニー・ピーターソン 散る 1978年ロータスの復帰した ロニー・ピータソン チームメイトはマリオ・アンドレッティ 本格的なグランドエフェクトカーLOTUS79 この年の待遇は表面上は同等であったが 実際はマリオにマシンの優先使用や GYのスペシャルタイヤの提供があった ピーターソンはR3南アフリカと R12オーストリアでこの年2勝 チームオーダーもありマリオは6勝 逆転チャンピオンの可能性が残された R14イタリアGP スタート直後の 多重クラッシュにより両足に重度の骨折 命に別状は無いと思われたが 翌日の足の手術後に急変し帰らぬ人となった 享年34歳 その後年間2位が確定して 獲得51Pとともに生涯ベストリザルトとなった ピータソン亡き後スウェーデンドライバ―の 勝利者は無く 同国でのF1開催も現在まで無い 🏁ロニー・ピーターソン (スウェーデン) 【決勝出走回数】122回(入賞42回-表彰台26回) 【予選最高位】 PP(14回) 【決勝最高位】 優勝(10回) 【ファステストLAP】 ( 9回)
221229 R.PETERSON 1978 6FW12C
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1997 7TH PMA FERRARI F310B E.IRVINE
フェラーリ2年目 E・アーバイン キャリア初の2位獲得 FERRARI F310B 1997年フェラーリが投入したF310Bの 生みの親であるジョン・バーナードは シーズン途中でチームを去り ベネトンから移籍のロス・ブラウン ロリー・バーンらがマシンの改修をして 速さと信頼性の向上を果たした エディ・アーバインはフェラーリ2年目 R3アルゼンチンGPで自己最高の2位 そこから3戦連続の表彰台を獲得 しかし途中7戦連続のノーポイントなどで 所謂4強の中ではポイントは8番目 TMのM・シューマッハのポイントは抹消の為 年間順位としては7位 表彰台は5回 シューマッハ中心の中のチームで時には ライバルをブロックなどの汚れ役も行い チームからはベスト・セカンドドライバ― として評価され次年度もフェラーリ残留 こちらのモデルはミニチャンプスより F310Bとしては2種類存在するようで 小型ウイングの付いたいわゆるBタイプモデル #F1-1997年 #F1
221114 E.IRVINE 6 1/43FW12C
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1981 10TH Quartzo BRABHAM BT49C H.REBAQUE
ヘクトール・レバーク 最後のマシン キャリアベスト BRABHAM BT49C 1979年コンストラクター兼ドライバ― として活動していたメキシコの富豪 ヘクトール・レバーク 1980年後半よりブラバムのシートを獲得 1981年は自身初のフル参戦 チーム・メイトはネルソン・ピケ 予選はR3アルゼンチンR14カナダで6位 決勝はR4サンマリノ R10ドイツ R12オランダでそれぞれ4位入賞 惜しくも表彰台には届かなかった 4度の入賞 年間順位 10位 10ポイント 全てのキャリアベストをもって レバークは1981年でF1から引退 メキシコ人ドライバ―はこの後 2011年~ セルジオ・ペレス 2013年~ エスティバン・グティエレス の2人だけで通算でも6人のみ 6人の中で優勝経験者は2人で ペドロ・ロドリケス/セルジオ・ペレス レバークは2人に次ぐ メキシコ人のなかでは3位の通算成績 #F1-1981年 #F1-キャリアベスト #ブラバム #F1
H.REBAQUE 2.500 6 1/43FW12C
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1996 2ND PMA WILLIAMS RENAULT FW18 J.VILLENEUVE〖🏆4〗
ジャック・ヴィルヌーブ 鮮烈デビューGP ポールポジション 伝説の父がジルが他界したのが11歳の時 1992年全日本F3参戦 シリーズ2位 1995年CARTチャンピオン・インディ500勝者 鳴り物入りでウイリアムズからデビュー 開幕を迎える前に9000Kmもの走り込み 開幕戦はオーストラリアの新コース アルバートパーク サーキット 1996年から予選は土曜日の1発勝負 この新コースで デビュー戦でPP獲得 1972年のカルロス・ロイテマン(ブラバム) 以来の24年ぶりの快挙達成 この後デビュー戦PPは1人も現れていない 決勝はデビュー戦のグランドスラムと 思われたが残り5周でトラブルで2位 モデル仕様のR4ヨーロッパGPで M・シューマッハ(フェラーリ)を 抑えて自身初優勝を飾る ジャックの通算F1勝利数は11勝 その後7戦連続表彰台など最終戦R16鈴鹿まで TMのデーモン・ヒルとタイトル争い PP2回 4勝 FL6回獲得で年間順位は2位 新し伝説を感じさせるデビューイヤーとなった #F1-1996年 #ヴィルヌーブ #F1デビューマシン #WILLIAMS
J.VILLENEUVE 6回 4.104 6FW12C
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1976 6TH SPARK LOTUS77 M.ANDRETTI 〖🏆1〗
パーネリよりロータスに移籍 マリオ・アンドレッティ LOTUS 77 1976年アンドレッティはパーネリ所属も 開幕戦チームは欠場でロータスより参戦 予選16位→決勝はリタイア このGPでTMのR・ピータソンはチーム離脱 パーネリ撤退後再びR4スペインより ロータスより参戦 TMはG・ニールソン LOTUS77は低迷を続けていたが トニー・サウスゲート加入後徐々に改善 R7スウェーデン予選2位とFLを獲得 R12オランダ R14カナダで3位表彰台後 最終戦F1世界選手権イン・ジャパンを迎える #F1-1976年 #LOTUS77 #1976年 #F1
M.ANDRETTI 1976 1回 6FW12C
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1995 3RD ONYX WILLIAMS RENAULT FW17 D.COULTHARD〖🏆1〗
デビッド・クルーザード 初優勝 WILLIAMS RENAULT FW17 1995年初優勝3人中のラスト クルーザード2年目初のフル参戦 予選ではTM D・ヒルと互角の戦い R2アルゼンチンGPで自身初のPP R12~R15まで4戦連続PP R13ポルトガルGPで 参戦21戦目で初優勝 これは2位M・シューマッハ(ベネトン) 3位TMのD・ヒルを従えた完ぺきな勝利 しかしR12イタリアのPPから フォーメーションラップでのスピンなど ミスも目立ちこの年限りで ウイリアムズを放出され 翌1996年はマクラーレンに移籍する ONYXからは4種類以上のモデルが 1995年のクルザード車として発売 画像1 FW17 パラソル仕様 画像2 FW17 通常版 画像3 FW17 ポルトガルGP仕様 (初優勝 ドライバ―レス) 画像4 FW16 TEST仕様 #F1初優勝 #1995年 #WILLIAMS #F1-1995年
D.COULTHARD 2回 6 1/43FW12C