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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (GP ITALIAN)
イタリアキャンディ GOLIA仕様 ティエリー・ブーツェン ARROWS A6 1983年R6ベルギーGPでデビューした ティエリー・ブーツェン デビューGPはリタイアだったものの その後7→7→15→9→13→14と6戦連続完走 予選でもチームメイトマルク・スレールに 互角以上の成績となり 迎えたR13イタリアGP予選は ブーツェン18位 スレール20位 決勝ブーツェンは着実に順位を上げたものの 43/53周目にエンジンが壊れリタイアとなり 連続完走は6戦で途切れた モデルはスパーク R13イタリアGP仕様 予選18位→決勝リタイア この年アローズはメインスポンサー無しで 各戦ごとにスポンサーとカラーを変更 当該イタリアGPはイタリアでポピュラーな キャンディのゴリア(GOLIA)がスポンサー 同社のキャンディーの包み紙がマシンに 施されカラーも白ベースとなっている ブーツェンのARROWS A6はGPごとに 現在までにこのモデル含め4種類が発売 さらに5種類目のリリース案内がありました… R6ベルギー/R7アメリカEAST/R10イギリス https://muuseo.com/FW12C/items/1201?theme_id=30446 https://muuseo.com/FW12C/items/1976?theme_id=30446 https://muuseo.com/FW12C/items/1013?theme_id=30446
241119 T.BOUTSEN 1983 30FW12C
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1973 9TH PMA McLAREN FORD M23 J.ICKX
フェラーリ不振 開発専念でGP欠場 マクラーレンで参戦 ジャッキー・イクス 1973年フェラーリに所属のイクス チームは不振により R10オランダGP R11ドイツGPを 開発の為欠場という事態を招いた イクスはR11ドイツGPにマクラーレンの 3RDドライバーとして参戦 予選はマクラーレンのレギュラードライバー ピーター・レブソン(8位) デニス・フルム(7位)の 2人を凌ぎ4位を獲得 決勝もティレルの2人に次ぐ3位表彰台 イクスのこの年唯一の表彰台となった この後フェラーリに戻るも1戦のみで離脱 最終戦はフランク・ウイリアムズ率いる イソから参戦 翌1974年はロータスに移籍 モデルはミニチャンプス ドイツGP仕様 予選4位→決勝3位 レギュラードライバー2人のモデル発売の 約10年以上後にイクスのモデルが発売 マクラーレンM23モデルではお馴染みの エンジンカウルの着脱可能なモデル
241026 J.ICKX 1973 1.386FW12C
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1990 12TH SPARK LARROUSSE LOLA LC89B A.SUZUKI
約1年ぶり決勝進出 鈴木亜久里 前半2戦限りの暫定マシン LOLA LC89B 1990年 前年度ザクスピードで 全戦予備予選落ちの屈辱を味わった 鈴木亜久里はパーソナルスポンサーで GEOブランドを展開していた エスポ・コミュニケーションが チームオーナーとなったラルースに移籍 チームメイトはエリック・ベルナール チームは序盤戦を前年度の改良型 LC89Bのマシンで戦った エンジンはランボルギーニ 開幕戦アメリカGP 亜久里は予備予選をギリギリ④位で通過 予選は⑱番手で通過し 同チームからスポット参戦した 1988年日本GP以来の決勝進出を果たす 同GPで予備予選通過した他のドライバーも 〇ロベルト・モレノ(ユーロブルン) 予備予選①位→予選⑯位 〇エリック・ベルナール(ラルース) 予備予選②位→予選⑮位 〇オリビエ・グルイヤール(オッゼラ) 予備予選③位→予選⑧位 全て決勝進出している 亜久里はアメリカGP決勝はリタイア LC89BはR2ブラジルGPまで使用され 予備予選②位→予選⑱位→決勝リタイア R3からは新車のLC90が導入され その後日本人初の表彰台につながった モデルはSPARK 開幕戦アメリカGP仕様 モータースポーツ誌 レーシングオンの別注企画 オリジナルのスリーブ仕様 ⬇️↓1990年R3~LARROUSSE LOLA LC90 https://muuseo.com/FW12C/items/327
240613 A.SUZUKI 1989 30FW12C
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1983 (23RD) SPARK ARROWS A6 C.SERRA
チコ・セラ F1ラスト アロウズ途中解雇 ARROWS A6 1983年フィッテパルディチーム撤退で シートを失ったブラジル出身チコ・セラは アロウズのシートを獲得 チームメイトはマルク・スレール 開幕戦地元ブラジルGP 予選23位→決勝9位 R2アメリカWESTは元チャンピオン アラン・ジョーンズの復帰でシート譲る その後R4サンマリノ予選20位→決勝8位 R5モナコ予選15位→決勝7位と上り調子も チームはR6イギリスGPからベルギー出身 ティエリー・ブーツェンの起用を決定 セラはシートを失い F1でのキャリアは終了 その後はブラジル国内で活躍 同国のストックカーシリーズでは 1999年より3連覇を果たした モデルはスパーク 開幕戦ブラジルGP仕様 予選23位→決勝9位 各戦ごとにカラーが変わるARROWS A6 開幕戦はほとんどスポンサーない中 〖CALOI〗はブラジルの自転車メーカー E.T.に登場した自転車を模倣した BMXモデルを同1983年に発売している 🏁チコ・セラ(ブラジル) 【決勝出走数】18回 (入賞1回) 【予選最高位】15位 1983年 ARROWS R5 モナコ 【決勝最高位】 6位 1982年 FITTIPALDI R5 ベルギー
240403 C.SERRA 1983 30FW12C
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1952 3RD QUARTZO FERRARI 500 F2 P.TARUFFI〖🏆1〗
ONLY 1 WIN DRIVER ピエロ タルッフィ FERRARI 500 ピエロ タルッフィ イタリア出身 1950年最終戦の地元イタリアGPでデビュー この時の年齢は43歳 チームはアルファロメオ 1952年はフェラーリ2年目 開幕戦スイスGP 予選キャリアベストの2位 決勝は17周目からトップに立ち初優勝 自身唯一のファステストラップも記録 フェラーリ通算3人目のウイナーで タルッフィの優勝はキャリア1度のみ 年間では表彰台3回でランキング3位 タルッフィはF1引退後 日本のモータースポーツ黎明期に深く貢献 1964年鈴鹿サーキットで開催された 第2回日本グランプリの名誉総監督として 運営に対するアドバイスをした他 かつて千葉県船橋市に開設された 船橋サーキットのコース監修も行った モデルはQUARTZO タルッフィ 唯一の優勝となった 開幕戦スイスGP仕様 15戦14勝の驚異の勝率を誇る FERRARI 500 F2 の最初の勝利 フロントのエンジンカバーが外れたモデル
240324 P.TARUFFI 1952 1回FW12C
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2016 18TH PMA RENAULT R.S.16 JOL.PALMER
F1 歴代15組目 親子ドライバー JOL・パーマー RENAULT R.S.16 ジョリオン・パーマー イギリス出身 父は医師免許を持ちフライング・ドクター とも呼ばれ1980年代にザグスピードや ティレルで活躍したジョナサン・パーマー F1歴代15組目の親子ドライバー 2014年GP2チャンピオン(4勝) 同年フォースインディアでテスト参加 2015年ロータス・ルノー テストドライバー 2016年チーム名がロータス→ルノーとなり レギュラードライバーに昇格 チームメイトはこちらも親子ドライバー 歴代13組目のケビン・マグヌッセン 開幕戦でシーズンベストの予選14位 後半戦ケビンに予選で勝ることも多かったが チーム買収の遅れにより マシン開発が進まなかった事もあり 決勝はR16マレーシアGPでの 予選19位→決勝10位入賞は1回のみ 翌2017年はケビンがHAASに移籍 ジョリオンはルノー残留となった モデルはミニチャンプス GP表記のないRACE CAR仕様 当時ルノーと提携があり 日産が1989年から日本国外で展開する ブランド インフィニティ (INFINITI)の ロゴが エンジンカバーに貼られている ⬇️父ジョナサン・パーマー https://muuseo.com/FW12C/items/84 https://muuseo.com/FW12C/items/424 https://muuseo.com/FW12C/items/301
240223 JOL.PALMER 2016 30FW12C
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1974 (31TH) SPARK SURTEES TS16 D.QUESTER
ディエター・クエスター F1唯一の出場 SURTEES TS16 ディエター・クエスター オーストリア出身 1969年のF1ドイツGP 当時参加可能であったBMWのF2のマシンで エントリーするも 同BMWチームの ゲルハルト・ミッターがマシントラブルで 還らぬ人となってしまいBMWチームは棄権 クエスターもレースを欠場した その5年後の1974年母国オーストリアGPに チーム・サーティスで出場 この年サーティスはC・パーチェと J・マスがシーズン途中で離脱 オーストリアGPにはプライベター含め サーティスから4名のドライバーが エントリーしたが 決勝進出は クエスター(予選25位)ただ1人 決勝はトップから3周遅れの9位完走 クエスターのF1はこの1戦限り 他のカテゴリー とりわけ24時間レースは 多数の参戦があり生涯で53回出場 2018年にHSRクラシック・デイトナが 自身最後のレースで当時年齢は79歳であった モデルはスパーク オーストリアGP仕様 予選25位→決勝9位 マニアックなモデルのリリースの多い ドイツのレースランド社別注モデル
240206 D.QUESTER 1974 300FW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (GP DETROIT)
ブーツェン デビュー2戦目 予選・決勝シーズンベスト ARROWS A6 1983年R6地元ベルギーGPで アロウズよりF1デビューした ティエリー・ブーツェン 2戦目となったR7アメリカ東 F1-2度目の開催 デトロイト市街地コース 予選10位→決勝7位はいずれもシーズンベスト ブーツェンの決勝初完走レースで チームメイトのM・スレール(10位)を上回った この年アロウズはスポットスポンサーに 合わせて毎戦のようにカラーが変わり デトロイトではのちの1980年代 中盤~後半のアロウズの代名詞とも言える クリームベージュのカラーとなった モデルはスパーク デトロイトGPでは 1987年~1988年に同チームで BMWエンジンのバッジネームとなった アメリカのかつての保険大手USF&Gの子会社 メガトロンがスポンサーで同社のロゴが 車体とリアウイングに貼られている 1983年のアロウズA6のブーツェン車は GP違いで3台目のリリースとなり 先日4台目発売の情報がありました… https://muuseo.com/FW12C/items/1201?theme_id=30446 https://muuseo.com/FW12C/items/1013?theme_id=30446
240120 T.BOUTSEN 30 1/43FW12C
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1962 5TH QUARTZO PORSCHE 804 D.GURNEY〖🏆1〗
ポルシェワークス 唯一の勝利 ダン・ガーニー PORSCHE 804 1962年 ポルシェワークスは 水平対向8気筒エンジンを搭載した804を投入 史上初の エンジンにチタンを使用 前年よりチーム残留したダン・ガーニーは R4フランスGP 予選6番手より 上位陣の脱落にも助けられて見事優勝 ガーニーの初優勝(通算4勝) 結果的にポルシェワークスの唯一の勝利となり 水平対向8気筒エンジンの唯一の勝利でもある ドイツのコンストラクターの勝利は 1955年のJ・M・ファンジオ(メルセデス)以来で 次の勝利は46年後の2008年カナダGP BMWザウバー ロバート・クビサ ガーニーはR6ドイツGPでも ポルシェワークス唯一となる予選PPを獲得 決勝は3位表彰台獲得 年間では3度入賞でランキング5位 ポルシェワークスは活動縮小の為 次年度は1台体制となり ガーニーはブラバムへ移籍した モデルはQUARTZO ポルシェ唯一の勝利となった R3フランスGP 予選6位→優勝モデル ドイツのナショナルカラーの シルバーのカラーリングマシン
240119 D.GURNEY 30 1/43FW12C
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1974 (30TH) SPARK AMON AF1 C.AMON
クリス・エイモンオーナー兼ドライバ― チーム〖エイモン〗設立 AMON AF1 1974年 クリス・エイモンはかつて所属の フェラーリが再度獲得との噂もあったが 実現せずに前年度所属したテクノの マシンを基にオリジナルのマシン AF1を制作チーム〖エイモン〗で参戦 大型のリアウイングを装備しており フロントウイングはフロントノーズ後端に 1枚のウイングが乗った形状であったが ノンタイトル戦の事故を受けて 一般的なウイングノーズに変更 R4スペインGPから参戦 予選24位 決勝はブレーキシャフトが壊れリタイア R6モナコは予選20位で通過も 決勝はトラブルもありスタートせず R11ドイツは2台体制となり 同郷のラリー・パーキンスが出場するも 2台とも予選通過ならず R13イタリアGPも予選落ちで 資金難も重なりチーム〖エイモン〗は わずか4戦のエントリーで消滅した エイモンは1974年の終盤2戦を BRMで出場し最終戦アメリカGPでの 予選12位→決勝9位がシーズンベスト
230527 C.AMON 1974 30FW12C
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1978 (22ND) PMA LIGGETT GROUP WITH BS FABRICATIONS McLAREN FORD M26 B.LUNGER
デュポン創業者一族の御曹司 ブレット・ランガー ラストイヤー ブレット・ランガー アメリカ出身 メロン財閥・ロックフェラー財閥と並び アメリカ3大財閥とも言われるデュポン財閥 創業一族の御曹司 デュポンは化学メーカー 1976年 R10ドイツGP ニュルブルクリンク 燃え盛るマシンからラウダを救出した 勇気ある英雄ドライバ―4人の1人 (G・エドワーズ H・アートル A・メルツァリオ) 1978年はプライベータ リゲットグループ BS ファブリケーションズで マクラーレンM26のマシンを購入して参戦 R5ベルギーGP 予選25位→決勝7位 これはランガーのF1生涯ベストリザルト この年は決勝8位も2回あり 入賞まであと一歩も生涯入賞無し R15地元アメリカGPはエンサインから参戦 生涯F1ラストGPであった 決勝13位完走
221230 B.LUNGER 1.368 30FW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (GP BELGIAN)
振り向けばティエリー・ブーツェン 地元ベルギーGP デビュー ARROWS A6 1981年F2で年間2位を獲得すると 同年の鈴鹿JAFグランプリに参戦 中嶋悟に次ぐ2位を獲得 元ホンダF1監督の中村良夫の進言もあり スピリット・ホンダの契約ドライバーとなった 1982年ヨーロッパF2でホンダの マシンで3勝をあげてランキング3位 スピリット・ホンダでのF1参戦も噂されたが ステファン・ヨハンソンとのシート争いに破れた 1983年は同郷の先輩ドライバーの ジャッキー・イクスの支援とF2での実績により チコ・セラに変わりアロウズより 地元R6ベルギーGPでデビュー モデルはそのベルギーGP仕様(予選18位→決勝R) この後ブーツェンは1993年までF1に参戦 164戦出場 優勝3回 表彰台15回 入賞41回 この年のアロウズはGPごとのスポンサーが多く イギリスGP仕様とはカラーリングがかなり異なります https://muuseo.com/FW12C/items/1013?theme_id=30446 #振り向けばブーツェン #1983年
221106 T.BOUTSEN 30 1/43FW12C
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1975 (27TH) SPARK COPERSUCAR FD01 W.FITTIPALD
追悼 ウィルソン・フィッティパルディ 2024年2月3日にお亡くなりになりました 享年80歳 ご冥福をお祈り申し上げます エマーソンの兄 ウイルソン・フィッテパルディ ブラジル唯一のチーム立ち上げ参戦 2度のワールドチャンピオン エマーソン・フィッテパルディの兄 ウイルソン・フィッテパルディは 1972・1973年ブラバムより参戦 1975年はF1史上唯一のブラジル国籍のチーム コパーシュカーを立ち上げ自らドライブ コパーシュカーはブラジルの複合会社の企業名 モデル仕様である開幕戦 南アフリカGP 予選23位→決勝12周目にクラッシュでリタイア これによりFD01は修理不能で1戦限りとなる 以降FD02・FD03と新車を次々投入も 予選最高20位 決勝最高10位として終わる ウイルソンはこの年限りでドライバ―引退 チームの運営に回り翌1976年はエマーソンが加入する ウイルソンの息子クリスチャン・フィッテパルディは 1992・1993年ミナルディ 1994年はアロウズで参戦 🏁ウイルソン・フィッテパルディ(ブラジル) 【決勝出走数】36回 (入賞2回) 【予選最高位】9位 1973年 BRABHAM R6 モナコ 【決勝最高位】5位 1973年 BRABHAM R11ドイツ https://muuseo.com/FW12C/items/393?theme_id=31218
W.FITTIPALD 1975 30 1/43FW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (GP BRITISH)
T.ブーツェンのデビューイヤー イギリスGP仕様 ARROWS A6 1983年R6ベルギーGPよりアロウズは ヨーロッパF2でも実績のある T・ブーツェンをドライバ―として採用 TMはマルク・スレール 10戦の出走で入賞はなかったものの 8戦で完走 最高位7位を2回記録 安定した走りが評価された モデルはR9イギリスGP仕様 予選17位→決勝15位 モータースポーツ誌 GRAND PRIXがスポンサーで マシンに赤色が施されている 前年度F2時代からのサポートで ヘルメットにはブーツェンとしては 珍しタバコブランドMarlboro ヘルメットのバイザーには 日本のレディースファッションブランドを 親会社に持つ自動車輸入販売会社 伊太利屋のピンクのステッカーが貼られている ブーツェンが日本でのレース活動もあり サポートをしていた ブーツェンはこの後1986年まで4年間 アロウズで参戦を続けます
T.BOUTSEN 30 1/43 MarlboroFW12C
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1983 (33RD) SPARK ARROWS A6 A.JONES
ワールドチャンピオン A.ジョーンズ 1戦限りのF1復帰 ARROWS A6 1981年限りで引退を表明 最終戦ラスベガスでの勝利をもって F1を離れていたアラン・ジョーンズ 1983年R2アメリカWEST ロングビーチで 突如C.セラに代わりF1に復帰します 予選12位はTMのM.スレール(16位)で勝るも 決勝は58周目に体調不良でリタイア スレールはシーズンベストの5位入賞 ジョーンズの1983年はこの1戦のみ 1984年は再びF1を離れて 1985年にハース・ローラで2度目の復帰 1983年アロウズのA6序盤戦は スポンサーが少なく 白ベースのマシンに F1ではあまり見ないアメリカのオイル VALVOLINE(バルボリン)のロゴが ロングビーチGP限定で大きく貼られている #F1-1983年 #F1
A.JONES 30 1/43 ARROWSFW12C