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1999 16TH PMA PROST PEUGEOT AP02 O.PANIS
オリビエ・パニス F1 6年目 フレンチチームと決別 PROST AP02 前年度ノーポイントに終わったパニス 1999年もヤルノ・トゥルーリと共に プロスト グランプリに残留 R2ブラジルGPで予選13位から 2年ぶりとなる6位入賞を果たすと R7地元フランスGPでは予選3位と健闘 途中完走率の高いパニスは7戦連続の完走と 粘りの走りを見せたものの R10ドイツGPの2度目の6位と 入賞は僅かに2回に終わり シーズンで2ポイント 16位に終わった 1994年リジェ~プロストと6年過ごした フランスチームから離脱 翌2000年はウイリアムズからのオファーが 単年であったこともあって断り マクラーレンのテストドライバーとして契約 この時のテストドライバーしての働きが 再びパニスの評価を上げて 2001年はBARでF1に復帰する モデルはミニチャンプス タバコ ゴロワーズはバーコード仕様 何故か台紙の車体表記が PROST GRAND PRIX 1999 となっている
231023 O.PANIS 1999 18FW12C
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1976 (45TH) SPARK SURTEES TS19 C.ANDERSSON
F1通算 1戦限りの決勝進出 コニー・アンダーソン SURTEES TS19 コニー・アンダーソン(スウェーデン) 1974年スウェーデンF3チャンピオン 1975年ヨーロッパF3でモナコで1勝 1976年R12オランダGP スポット参戦 サ―ティスにB・ランガーの代役で出場 参戦当時の年齢は36歳の遅咲き 予選は26位でギリギリの通過も 決勝は9周でエンジントラブルでリタイア 車体はタバコブランド チェスター・フィールドがスポットポンサー アンダーソンはこの年1戦限りの出場で 翌1977年はBRMで参戦も4戦全て予選落ち 以後参戦は無くF1通算1戦限り この1976年 サ―ティスのカーNo18は 最終のF1選手権イン・ジャパン(富士SW)で 高原敬武が使用している https://muuseo.com/FW12C/items/1501?theme_id=35914
230615 C.ANDERSSON 1976 18FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI (GP GERMAN)
AGS 後半戦カラーリング一新 ガブリエル・タルキーニ AGS JH25B 1991年AGSは地元R7フランスGPより 白ベースのカラーリングを変更 AGS発祥の地プロバンス地方の空を イメージしたブルー主体のカラー しかし新たなスポンサーも付かず 成績も振るわず後半戦は予備予選組 モデル仕様のR9ドイツGP タルキーニは予備予選を2位で通過 しかし予選は29位で決勝進出ならず この1991年ドイツGPは 中嶋悟のF1引退が発表 当時は速報誌GPX(山海堂)を購入していたが このGPはF1PRIX(双葉社)も購入 こちらの雑誌にはモデルのAGS JH25B タルキーニ車の写真が珍しく掲載(画像7) タルキーニは新車JH27で R13ポルトガルGPの予備予選3位で通過も 決勝はまたしても予選落ち R14スペインGP~フォンドメタルに移籍 AGSはR14スペインGPでタルキーニと トレードの形でO・グルイヤールを 起用も予備予選落ち このGPをもってF1から撤退した
230609 G.TARQINI 350 18FW12C
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2010 (21TH) SPARK LOTUS T127 J.TRULLI
チーム・ロータスの復活?? LOTUS T127 ヤルノ・トゥルーリ 2010年新規参戦チーム イギリスF3のライトスピードが母体となり デザイナー マイク・ガスコインと提携 更にジェームス・ハントの弟 デビット・ハントと契約して彼が所持する チーム・ロータスの名称使用権を得た 当初は新規3チームの選考から漏れたが 新規参戦予定のチームUSF1が消滅 また急遽トヨタのF1から撤退もあり 最終的にロータス・レーシングとして エントリーが認められた ドライバ―はトヨタ撤退でシート失った ヤルノ・トゥルーリとマクラーレンから 移籍のヘイキ・コバライネンの F1ウイナーコンビ(どちらも生涯1勝) 同年に新規参戦したHRTとヴァージンには 差をつけ既存チームのテールエンダー トロ・ロッソに迫ったもののポイント獲得はならず トゥルーリの決勝最高はR16日本GPの13位 予選ではチームメイトのコバライネンに 勝ったものの決勝では大きく負け越し 年間順位もトゥルーリ21位 コバライネン20位(決勝最高12位) 翌2011年もチームに残留 ロータス・レーシング→チーム・ロータスに 名称を変更するもロータス・ルノーとの間に ロータス名称問題が勃発する
230521 J.TRULLI 2010 18FW12C
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1954 【WORLD CHAMPION】 SPARK MERCEDES W196 J.M.FANGIO 〖🏆6〗
🔲🔲🔲1954🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 MERCEDES W196 ⬜⬜J.M.FANGIO⬜⬜ 🔲🔲🔲全9戦🔲🔲🔲 【出走】8回【PP】5回 【優勝】6回【FL】3回 ファンジオ 2度目のチャンピオン
230509 J.M.FANGIO 1954 3回FW12C
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1998 12TH PMA STEWART FORD SF-2 R.BARRICHELLO
スチュワート グランプリ2年目 ルーベンス・バリチェロ STEWART SF-2 1998年レギュレーション変更で タイヤの円周方向に4本(前輪用は3本)の平行な 溝を持つグルーブドタイヤが初めて導入された ブリヂストンタイヤはこの変更にうまく対応し グッドイヤー勢に対しアドバンテージを得た スチュワートはこの利点を生かし ルーベンス・バリチェロが R5スペインGPとR7カナダGPで5位入賞 カナダはJ・マグヌッセン6位とダブル入賞 以降はチームメイトがヤン・マグヌッセンから ヨス・フェルスタッペンに変更されたが グッドイヤー勢の巻き返しもあり ノーポイントに終わった バリチェロはの予選はシングルグリットが2回 16戦中10戦が7列目スタート(13位・14位)を占めて フォードのワークスエンジンで あったがコンストラクター8位 予選の結果がほぼ年間の結果に近く スチュワート2年目も不本意なシーズンとなった バリチェロは翌1999年もスチュワートに残留 スチュワート最後の年にJ・ハーバートともに チーム唯一の1・2フィニッシュを決める #F1-1998年
230504 R.BARRICHELLO 18 1/43FW12C
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1990 (24TH) SPARK AGS JH25 Y.DALMAS
予備予選最多出場チーム AGS 歴代唯一のトップ通過 Y・ダルマス ヤニック・ダルマスはAGS2年目 チームメイトはガブリエル・タルキーニ 予備予選からの出場で苦しみ ダルマスの決勝進出は僅かに5回 モデル仕様の地元R7フランスGPは 予備予選4位→予選26位→決勝17位 R14ポルトガルGP 予備予選1位通過 予備予選 通算最多62(台)出場の チームAGSにとって歴代唯一のトップ通過 予選24位→決勝9位はシーズンベスト AGSはスポンサー集めに苦しみ 序盤2戦の旧型マシンJH24では スポンサー募集を込めてマシンに 大きな黄色い【?】を付けて話題となった そんな中ほぼ唯一の大スポンサーは フランスのファッションブランド 〖TED LAPIDUS〗テッド・ラピドス ジョン・レノンも愛用したブランドで ビートルズのアルバム Abbey Roadの表紙で 先頭を歩くジョン・レノンの白色スーツは デザイナーLAPIDUSがデザインしたもの ダルマスはこの後しばらくF1から離れ 1994年に古巣ラルースで2戦のみ出場 #F1-1990年
230413 Y.DALMAS 18 1/43FW12C
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1998 (21ST) PMA TYRRELL FOAD 026 T.TAKAGI "TOWER WING″
ティレル026は他のチームとは異なり "TOWER WING″をデザイン段階から 取り入れたマシンであった 禁止となったR5スペインGPからは ダウンフォース不足となり苦戦 約5%程度が失われたと言われている チームは翌年以降のB・A・R体制に移行で 現行マシンの開発が継続されなかった事も 成績不振の原因となった 前年はその形からXウイングとも呼ばれたが 1998年はサイドポンツーン上部に 垂直に伸びる形状となっていた 長き歴史において1976年の6輪車や 1990年のアンヘドラルウイングなど ユニークな技術が導入されたティレルの 最後が"TOWER WING″のマシンであった #F1-1998年
230330 T.TAKAGI "TOWER WING″ 2.222FW12C
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2000 16TH PMA ARROWS SUPERTEC A21 P.DE.LA.ROSA
キャリアベストタイ 予選5位 ペドロ・デ・ラ・ロサ ARROWS A21 前年度アロウズに貴重なポイントをもたらした デ・ラ・ロサはアロウズに残留 チームメイトはヨス・フェルスタッペン 高速重視のマシンであった ARROWS A21 レース中の最高速をデ・ラ・ロサは3回記録 フェルスタッペンとあわせてチームで7回 R6ヨーロッパGPでシーズン初6位入賞 R10オーストリアGPでは 一時3位走行(最終リタイア) R11ドイツGPキャリベスト(タイ)で予選5位 決勝もシーズン2度目の6位入賞 印象的な走りを見せたものの マシンの信頼性の不足もあり 完走は17戦中6回 完走率は37.5%は フル参戦ドライバーの中では最下位 デ・ラ・ロサはアロウズを離れ 翌2001はプロストのテストドライバー シーズン途中よりジャガーにて参戦する モデルはミニチャンプス フランス通信大手Orangeがスポンサー ブラック/オレンジのカラーリングが 印象的な2000年シーズンを彩った1台
230326 P.DE.LA.ROSA 2000 18FW12C
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1975 (23RD) SPARK SURTEES TS16 J.WATSON
参戦初年度以来の1台体制 サーティス ジョン・ワトソン SURTEES TS16 1975年チームサーティスは資金難で 参戦初年度1970年以来の1台体制 ドライバーは前年プライベーターで 初のフル参戦 3度の入賞を果たした ジョン・ワトソン(イギリス) マシンは前年度からのSURTEES TS16 R4スペインGP 予選6位の好位置も 決勝レースはR・シュトルメ(ヒル)が 観客を巻き込むアクシデントで 途中でレース終了 決勝8位がリザルト これ以降は大きな見せ場は無かった チームは翌年のマシン開発の為 終盤の3戦を欠場 ワトソンはチーム欠場のGPで ロータスとペンスキーで参戦 翌1976年はそのペンスキーに移籍 マシンはこの年限りの イエローとライトブルーのツートンカラー ライトブルーは矢印⇒のデザイン インダクションポッドのカーナンバー18 スポンサーのMACHBOXのロゴが目立つ1台 #F1-1975年
230324 J.WATSON 1975 18FW12C
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1976 (28TH) SPARK SURTEES TS19 N.TAKAHARA
1976年F1世界選手権イン・ジャパン 日本人最上位 高原敬武 SURTEES TS19 1974年高原敬武はF1非選手権戦 インターナショナル・トロフィーに マーチ・741で参戦予選14位→決勝11位 非選手権戦ながら日本人として 初めてF1レースに出場したドライバ― 1975年マーチからF1参戦の打診があったが 上記参戦後にモナコを一般車で走行した際 精神的に持たないと感じオファーを固辞 1976年F1世界選手権イン・ジャパン サーティスがセカンドドライバ―を探しており このGPの冠スポンサーのスポーツニッポンの 紹介もあり高原の参戦が決定する 1976・1977年通じて外国籍チームで日本GPに 出場した唯一の日本人ドライバ― 予選はチームメイトのA・ジョーンズから 約1.4秒遅れの24位で決勝進出 決勝はグッドイヤーレインタイヤの摩耗での タイヤ交換もあったが9位完走 決勝出走3人の日本人ドライバ―の最上位 この時のタイヤの摩耗情報が役立ち チームメイトのA・ジョーンズはこの年の サーティスのシーズンベストの4位入賞 高原の持ち込みスポンサーでもある 伊太利屋・スタンレーなどが車体に貼られ 同じチームの日本GP仕様のモデルでありながら ジョーンズ車とはカラーリングもかなり異なる https://muuseo.com/FW12C/items/916?theme_id=35914 #F1世界選手権イン・ジャパン
230320 N.TAKAHARA 1976 18FW12C
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1970 15TH QUARTZO (STP CORPORATION) MARCH 701 M.ANDRETTI
マリオ・アンドレッティ 初の3位表彰台 MARCH 701 1970年マリオ・アンドレッティは 新規参入のMARCH 701の車体で STPの支援を受けて5戦のみの参戦 モデル仕様のR2スペインGPで 予選16位からの追い上げで3位表彰台 マリオにとって初入賞(生涯入賞38回)を 初の表彰台(生涯表彰台19回)で決めた 他の4レースは全てリタイアに終わり 年間順位は15位 4ポイント この年8名ものドライバ―が MARCH701の車体で参戦しており マーチのワークスだけでなく ティレル等のチームも使用 そのドライバーは C.エイモン/J.シフェール/J.シュチュワート R.ピーターソン/F.セーベルなど錚々たる面々 マリオは翌1971年はフェラーリに移籍 自身の初優勝を飾ります #F1-1970年
230228 M.ANDRETTI 18 1/43FW12C
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1991 (37TH) SPARK AGS JH25B S.JOHANSSON
開幕直前シート獲得 S・ヨハンソン 連続予選落ち AGS JH25B 前年の1990年オニクスを解雇されて F1のシートを失ったS・ヨハンソンは 1991年開幕直前 フランスのAGSのシート獲得 これはA・チェザリスがAGSから急遽 新規チームのジョーダンに移籍 チームは2台エントリーの罰金を逃れる為 ヨハンソンにオファーしたと言われている チームメイトはガブリエル・タルキーニ 開幕戦のアメリカGP・R2ブラジルGPとも 予選28位で決勝進出はならなかった R3サンマリノ前にAGSは新規オーナーに売却 それと同時にヨハンソンも解雇 資金持ち込みのF・バルバッツァがシートを獲得 ヨハンソンは前年も同時期に 同じような形でオニクスのシートを失っている 1991年シーズン途中ヨハンソンはケガの A・カフィの代役としてフットワークで参戦 ヨハンソン個人としてはMarlboro契約の ドライバ―でヘルメットにはロゴが貼られ 自身も愛煙家 マールボロを吸っていた #F1-1991年 #F1
230128 S.JOHANSSON 18 1/43FW12C
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1997 (22ND) PMA TYRRELL FORD 025 J.VERSTAPPEN
Xウイング装備 TYRRELL FORD 025 ヨス・フェルスタッペン 1997年R3アルゼンチンGP ティレルは マイク ガスコインが発案した小型ウイングを サイドポンツーン上の垂直支持板に取付け SF映画〖スター・ウォーズ〗に登場する 戦闘機になぞらえてXウイングと呼ばれた 低速でダウンフォース必要なGPのみ装備 まさかの翌1998年のトレンドとなった ヨス・フェルスタッペンはアロウズより移籍 ティレルはワークスエンジンを失い フォードV8使用でTMミカ・サロと共に苦しみ 予選はカナダの14位 決勝もモナコの8位が 最高でシングルフィニッシュはこの1回限り フェルスタッペンは1年でティレルを離脱 翌年シートを失うも途中スチュワートに加入 画像①PMA SAN MARINO GP仕様(X WING) 画像②PMA 通常版 画像③ONYX SAN MARINO GP仕様(X WING) 画像④ONYX CANADA GP 仕様 #F1-1997年 #F1 #Xウイング
221115 J.VERSTAPPEN 18 1/43FW12C
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1996 (17TH) PMA TYRRELL YAMAHA 024 U.KATAYAMA
1996年唯一の日本人ドライバ― 片山右京 ティレル最後の4年目 1996年は1974年から続いた カーナンバーチーム固定が無くなり 成績順のカーナンバーに変更になった 前年度チャンピオン所属チームがNo.1・2 以降はコンストラクター順に割振り これに伴いティレルは1974年以来の使用の カーナンバー3・4から18・19に変更となった 鈴木亜久里の結果的引退と 井上隆智穂の開幕直前の離脱により 日本人唯一のドライバ―となった右京 新車発表会でTYRRELL 024モノコックに 右京が沈み込んでしまうほど着座位置が悪く ステアリング操作に支障が出るという 最悪なスタートから苦戦が続き 途中失格挟み7戦連続リタイアと精彩を欠いた R12ハンガリーの予選14位→決勝7位が最高位 最終戦R16鈴鹿もリタイアでシーズン終了 モデルはMINICHAMPSとONYXの2社から発売 1996年モデルで上記の2社発売はティレルのみ 4年間ともに過ごしたYAMAHAと袂を分かち合い 翌1997年はYAMAHAはアロウズ 右京はミナルディに移籍する #F1-1996年 #Tyrrell #1996年
U.KATAYAMA 18 1/43 TYRRELLFW12C