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2000 12TH PMA ARROWS SUPERTEC A21 J.VERSTAPPEN
ヨス・フェルスタッペン 1年ぶりの復帰 直線番長 ARROWS SUPERTEC A21 前年度HONDAのテストドライバーから 2000年ヨスはアロウズでF1復帰 アロウズ(フットワーク)には1996年以来 チームメイトはペドロ・デ・ラ・ロサ エンジンは自社製(ハート)から ルノーベースのスーパーテックに変更 エグバル・ハミディがデザインしたA21は ドラッグの少ないスピード重視のマシン シーズン前のTESTから速さを見せ 本戦でも決勝レース中の最高速を17戦中 チームで7回も記録(ヨス4回 デ・ラ・ロサ3回) フェルスタッペンは高速コース R8カナダで決勝5位 R14イタリアGPで4位 日本では〖直線番長〗とも呼ばれた しかし信頼性は不足でリタイアは10回 年間では5ポイントでランクは12位 モデルはミニチャンプス GP仕様表記の無いRACE CAR仕様 フランスの大手携帯キャリア Orangeがスポンサーとなり車体もオレンジ ヨスのF1キャリア終盤を象徴する1台
240303 J.VERSTAPPEN 2000 19FW12C
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1968 12TH QUARTZO BRABHAM BT24 J.RINDT
ヨッヘン・リント 初のPP ブラバム1年で離脱 BRABHAM BT24 1968年リントはブラバムに移籍 チームメイトはオーナーのJ・ブラバム R6フランスGP予選で自身初のPP リントのキャリアPPは10回 予選では2度のPPなど12戦中 ジャック・ブラバムに11勝と圧倒 決勝は2度の3位表彰台があったが それ以外の10回はすべてリタイア ジャックも入賞わずか1回 チームブラバムもわずか10ポイントで 前年度チャンピオンチームとは思えぬ低迷 リントは1年でブラバムを離脱 翌1969年はロータスに移籍 モデルはQUARTZO R3モナコGP仕様 予選5位→決勝リタイア 旧型BT24でのリントのラストレース BT24はこの後南アフリカのプライベーター チームガストンに売却 またフランク・ウイリアムズも購入 その後シルビオ・モーザーに渡り 1969年R10アメリカGPで6位入賞している ⏬BT24 GUNSTON https://muuseo.com/FW12C/items/1999?theme_id=34513 ⏬BT24 SILVIO MOSER https://muuseo.com/FW12C/items/1969?theme_id=34513
240226 J.RINDT 3 1/43FW12C
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1999 12TH HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 D.HILL
初の親子WC デーモン・ヒル引退 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年ジョーダン2年目のデイモン・ヒル チームメイトはH・H・フレンツェン 予選・決勝ともフレンツェンに押されて 前半6戦での入賞はR4サンマリノの4位のみ R7フランスGP早々にシーズン限りの引退発表 その後R8地元イギリスで5位 R11ハンガリー/R12ベルギーの6位 年間では4度の入賞 7ポイント12位 最終R16日本GP鈴鹿でこの年のジョーダンの テストドライバーであった中野信二が 代役での出場も噂されたがヒルは 最終戦まで出場し最後はリタイヤに終わった 1996年に初の親子2代でのチャンピオンと なったデーモン・ヒルであったが その後アロウズ1年・ジョーダン2年の わずか3年で静かにサーキットを去った モデルはHOT WHEELS 1999年・翌2000年のジョーダンは HOT WHEELSでの販売となったが 後のジョーダンSETとして ミニチャンプスからも(画像5) ドライバ―フィギュアレスで発売された 🏁デーモン・ヒル (イギリス) 【決勝出走数】 114回 (入賞56回-表彰台42回) 【予選最高位】 PP(20回) 【決勝最高位】 優勝(22回) 【ファステストLAP】 (19回) 【WORLD CHAMPION】1996年
230904 D.HILL 1999 7FW12C
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1978 12TH SPARK ARROWS FA1 R.PATRESE
リカルド・パトレーゼ 自身初の2位表彰台 ARROWS FA1 1978年設立のチームARROWS 前年度所属のロータスから グンナー・ニールソンが移籍するも メディカルチェックで病が見つかり リカルド・パトレーゼがシート獲得 チームメイトはロルフ・シュトルメ R4・R5は予備予選から出場 どちらもトップ通過 決勝では6位に連続入賞 アロウズチーム初入賞 アロウズ通算入賞回数は70回 R8スウェーデンGPでは 予選5位から決勝は2位表彰台 アロウズとパトレーゼの初表彰台獲得 アロウズの通算表彰台は8回 パトレーゼの通算表彰台は37回 R14イタリアGPでは当初 ロニー・ピーターソン(ロータス)の 事故死の原因とされて次戦出場停止したが 後の検証でパトレーゼ起因でないと判明 チーム設立初年度で表彰台含む4度の入賞 年間順位は12位でパトレーゼは 1981年まで4年間アロウズに所属
230803 R.PATRESE 1978 35FW12C
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1980 12TH SPARK TYRRELL 010 D.DALY
ディレク・デイリー TYRRELL 010 キャリアベストの4位2回入賞 1979年デイリーは終盤 エンサインを離脱後ティレルの サードカーとして3戦出場 1980年はレギュラーシートを獲得する チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ デイリーは開幕戦アルゼンチンGP 旧型マシンのティレル090で 予選22位ながら決勝は4位入賞 R3南アフリカGPで ニューマシン010が投入され R8イギリスGPで再び4位を獲得 4位はデイリーのキャリアベスト 年間で6ポイント獲得したが 5名のドライバ―が同ポイントで並び 順位差などで以下のリザルトとなった 10位 K・ロズベルグ(フィッテパルディ) 11位 J・ワトソン(マクラーレン) 12位 D・デイリー(ティレル) 13位 J・P・ジャリエ(ティレル) 14位 G・ビルヌーブ(フェラーリ) デイリーはティレルを1年で離れ 翌1981年はマーチ・グランプリに移籍 #1980年
230728 D.DALY 1980 4FW12C
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2022 12TH SPARK ASTON MARTIN AMR22 S.VETTEL
数々の最年少記録 4度のチャンピオン セバスチャン・ベッテル引退 2022年セバスチャン・ベッテルは アストンマーチン2年目 チームメイトはランス・ストロール 開幕2戦を欠場し参戦した20戦中 予選Q3進出が4度のいずれもが9位 決勝10度の入賞があったが最高位は6位 ベッテルが表彰台に上がらなかったのは 途中参戦デビューした2007年以来 R13ハンガリーGP前に 自身のインスタグラムを開設し 2022年限りでの引退を発表した 最終戦のアブダビGPで10位入賞 これはベッテル通算219回目の入賞で キミ・ライコネンと並び歴代4位タイとなった 4年連続ワールドチャンピオン F1において数々の最年少記録を樹立 通算勝利数53回は歴代3位 前人未踏の連続優勝9回 奇跡のワンダーボーイ ベッテルは静かにF1から去った 🏁セバスチャン・ベッテル(ドイツ) 【決勝出走数】 298回 〖入賞219回-表彰台122回〗 【予選最高位】 PP (57回) 【決勝最高位】 優勝(53回) 【ファステストLAP】 (38回) 【ワールドチャンピオン】4回 2010年 レッドブル 19戦 5勝 2011年 レッドブル 19戦11勝 2012年 レッドブル 20戦 5勝 2013年 レッドブル 19戦13勝
230526 S.VETTEL 2022 5FW12C
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2001 12TH PMA JORDAN HONDA EJ11 H.H.FRENTZEN
★2026年 HONDA パワーユニット★ アストンマーチンで復活 現在のアストンマーチンF1を遡ると 2021~アストンマーチン 2018~レーシングポイント(R13より) 2008~フォースインディア 2007~スパイカー 2006~ミットランド 1991~ジョーダン 現在のアストンマーチンの はじまりはジョーダンチームで HONDAとのかかわりも多かった 2001年過去3シーズン無限ホンダが ジョーダンにエンジン供給を行っていたが この年はHONDAエンジンに変更 ジョーダンHONDAが誕生 (2001年はアロンソのデビューの年) ドライバ―はH・Hフレンツェンが残留 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ フレンチェンは序盤4戦で全て完走 4位・5位・6位各1回入賞と出だしは好調も 中盤からはマッチングに苦しみ その後は入賞無しと苦戦 R12ドイツGP前に突如解雇されて J・アレジと交換の形でプロストに移籍した HONDAは翌2002年もジョーダンに供給 佐藤琢磨のデビューも後押しした だいぶと先ですが 2026年のアストンマーチンHONDAの 挑戦に期待します!! https://muuseo.com/FW12C/items/1150?theme_id=34513
230525 H.H.FRENTZEN 2.304 11FW12C
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1998 12TH PMA STEWART FORD SF-2 R.BARRICHELLO
スチュワート グランプリ2年目 ルーベンス・バリチェロ STEWART SF-2 1998年レギュレーション変更で タイヤの円周方向に4本(前輪用は3本)の平行な 溝を持つグルーブドタイヤが初めて導入された ブリヂストンタイヤはこの変更にうまく対応し グッドイヤー勢に対しアドバンテージを得た スチュワートはこの利点を生かし ルーベンス・バリチェロが R5スペインGPとR7カナダGPで5位入賞 カナダはJ・マグヌッセン6位とダブル入賞 以降はチームメイトがヤン・マグヌッセンから ヨス・フェルスタッペンに変更されたが グッドイヤー勢の巻き返しもあり ノーポイントに終わった バリチェロはの予選はシングルグリットが2回 16戦中10戦が7列目スタート(13位・14位)を占めて フォードのワークスエンジンで あったがコンストラクター8位 予選の結果がほぼ年間の結果に近く スチュワート2年目も不本意なシーズンとなった バリチェロは翌1999年もスチュワートに残留 スチュワート最後の年にJ・ハーバートともに チーム唯一の1・2フィニッシュを決める #F1-1998年
230504 R.BARRICHELLO 18 1/43FW12C
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2014 12TH HOT WHEELS FERRARI F14-T K.RAIKKONEN
5年ぶりの復帰 第2期フェラーリ キミ・ライコネン FERRARI F14-T 2014年ライコネンは5年ぶり復帰フェラーリ チームメイトはフェルナンド・アロンソ フェラーリのワールドチャンピオン同士の ドライバ―ラインナップは 1953年のA・アスカリ G・ファリーナ以来 2014年は固定カーナンバー制度を導入 ライコネンはNo7を選択 これは単なる前年度のロータス時代の No7をそのまま継続したシンプルな理由 公募でこの年のマシンをF14-Tと名付けたが レギュレーション大幅変更に対応できず低迷 19戦中リタイアは1回のみであったが 入賞は13回 最高位はR12ベルギー4位 デビューの2001年以来の表彰台無し 年間順位も前年5位➡12位と大きくダウン この後フェラーリで約5年間 112戦未勝利の長いトンネルに入ってしまう #F1-2014年 #F1
230315 K.RAIKKONEN 1回 1/43FW12C
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1979 12TH IXO LOTUS FORD 80 M.ANDRETTI
野心的グランド・エフェクトカー M・アンドレッティ 3戦限りのLOTUS 80 ロータス79の成功を基にダウンフォースを 全てグラウンド・エフェクトのみで確保 テスト走行の段階では 前後のウィングを完全に排するという 野心的なマシンロータス 80を投入 実際には前後のウイングが付いて登場 R5スペインGPで投入されると 予選4位→決勝3位表彰台獲得 しかしロータス80はベンチュリー効果は 増大したもののマシンの加速時や減速時に 波動的な縦揺れが発生してマシンの姿勢が 安定せず まともに走行できる状態でなかった ロータス80が決勝に投入されたのは アンドレッティ車 決勝は3戦のみ 後半戦は再びロータス79にマシンを戻したが 成績は向上せずに 結果ロータス80での 3位が年間のベストリザルト チームとしても表彰台1回のみ 前年度ワールドチャンピオンが まさかの年間12位となりチームメイトの C・ロイテマン(年間7位)にも敗れた モデルはデアゴスティーニの F1マシンコレクション 106号 主戦マシンだけでなくこのようなモデルを リリースしてくれたのはコスパ的にも このシリーズの魅力的な所 https://muuseo.com/FW12C/items/723
230217 M.ANDRETTI F1マシンコレクション 1FW12C
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1969 12TH BRUMM FERRARI 312 C.AMON
資金難フェラーリ 1台エントリー クリス・エイモン途中離脱 1969年フェラーリは資金難で市販車部門が 経営安定のためフィアット傘下に入る状況 スクーデリア・フェラーリはエンツォが 立て直しを図り1台のみのエントリー クリス・エイモンはフェラーリ3年目 R2スペインGPでは予選2位 決勝は途中トップに立つと2位に 40秒以上の差をつけ独走状態であったが エンジンが壊れまたも初勝利ならず フェラーリV型12気筒エンジンの信頼性が低く エイモンは6戦中5戦リタイア R4オランダGPの決勝3位が唯一の完走 翌年からの新しい水平対向12気筒エンジンの トラブルも頻発したことで業を煮やし エイモンはフェラーリを途中離脱 皮肉にもこのエンジンが翌1970年後半から フェラーリに勝利をもたらす モデルはBRUMMのFERRARI 312 ラジエータ付エアスポイラー仕様 エイモンのフェラーリでの約2年半の成績は 27戦 予選 PP3回 決勝 2位1回 3位5回 入賞10回
230215 C.AMON 1/43 FERRARIFW12C
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1997 12TH PMA ARROWS YAMAHA A18 D.HILL
ワールド・チャンピオン D・ヒル アロウズ移籍 優勝目前… YAMAHA A18 1997年前年度チャンピオンのD・ヒルは トム・ウォーキンショー率いるアロウズへ移籍 エンジンはヤマハ タイヤはブリヂストン ヒル自身とアロウズにとっても初のCAR No.1 前半はヤマハエンジンの信頼不足やトラブル多発で リタイヤが続く厳しい戦いの中フェラーリから ジョン・バーナードが移籍してから改善 R9地元イギリスGPで6位初入賞 R11ハンガリーGPはシーズンベストの予選3位 決勝では途中2位に30秒以上離す独走状態 アロウズ・ヤマハ・ブリヂストンの 初優勝目前だったがトラブブルが発生 ファイナルラップに昨年チームメイトの J・ビルヌーブに抜かれて惜しくも2位 前年度チャンピオンの意地の2位表彰台は 現在でもアロウズとヤマハエンジンの最高成績 #F1-1997年
221103 D.HILL 1 1/43FW12C
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1963 12TH SPARK (ECURIE MAARSBERGEN) PORSCHE 718 G.MITTER
ゲルハルト・ミッター ドイツ出身 唯一の入賞 PORSCHE 718 G・ミッターはF1の下位のカテゴリーの フォーミュラ ジュニアで通算40勝を記録 これはドイツ出身ドライバ―の最多記録 1963年にF1に参戦 オランダ出身の C・G・ド・ボーフォーのプライベーター エキュリー・マールスベルゲンで ポルシェのマシンPORSCHE 718で出場 ド・ボーフォーはポルシェ愛好家で カラーはオランダのナショナルカラーである オレンジ色をカスタマーポルシェに施した G・ミッターはスポット参戦2戦目の 地元R6ドイツGP 予選15位→決勝4位入賞 自身のF1での唯一の入賞を果たす 1964・1965年は1戦限りで地元ドイツGPに ロータスで参戦 F1での出場は通算4戦のみ
221018 G.MITTER 26 1/43FW12C
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1970 12TH SPARK MATRA MS120 H.PESCAROLO
ル・マン24時間 4度制覇 H・ペスカローロ F1唯一の表彰台 MATRA MS120 1968・1969年 スポット参戦した フランス出身 アンリ・ぺスカローロは 1970年マトラで初のF1フル参戦 チームメイトはJ.P.ベルトワーズ ガソリンはエルフのオールフレンチ体制 前年度J・スチュワートでWタイトルを獲得 1970年は自社製のV12エンジンを搭載で 注目のMS120を導入したマトラであったが エンジンの信頼不足もあり成績は低迷 H・ペスカローロはR3モナコで3位表彰台 これはF1での自身唯一の表彰台 年間では8ポイント 年間順位は12位 チームもコンストラクター7位と惨敗 ぺスカローロは翌1971年~はマーチの車体を 使用するウイリアムズに移籍 ル・マン24時間ではマトラ シムカの車体で 1972~1975年まで3連覇を果たし 通算でも4度の制覇をしており さらに33回出場という最多記録所持者
221014 H.PESCAROLO 9 1/43FW12C
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1966 12TH SPARK EAGLE CLIMAX T1G D.GURNEY
F1通算4勝 ダン・ガーニー チーム AAR イーグル設立 ダン・ガーニー アメリカ出身 1962年 ポルシェ 1964年 ブラバム それぞれ初勝利をもたらしている 1966年アングロ・アメリカン・レーサーズ 後のオール・アメリカン・レーサーズ設立 F1での登録コンストラクター名はイーグル クライマックス エンジンで R2ベルギーGPでデビュー(モデル仕様) R3フランス R9メキシコ それぞれ5位入賞 1966年参戦初年度 年間順位は12位 翌1967年はウェスレイクのエンジンで R4 ベルギーGPで優勝を飾る 過去のインディアナポリスGPを除くと アメリカ系コンストラクターの初勝利 ガーニーはこの年ル・マン24時間レースで A.J フォイトと共に優勝 この時の表彰台でシャンパンを振りまいたのが スポーツ史における最初のシャンパンファイト と言われている
221005 D.GURNEY 27 1/43FW12C