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1978 (28TH) TSM BRABHAM BT46 N.PIQUET
ネルソン・ピケ ブラバムでの初戦 BRABHAM ALFA‐ROMEO BT46 1978年 エンサインでF1デビューした ブラジル出身 ネルソン・ピケ その後プライベーターで3戦出場 マクラーレンM23のマシンを使用 最終戦R15カナダGP 次年度ニキ・ラウダのNo.2として レギュラー参戦の決まっていた ブラバムの3RDカーとして出場 後にブラバムで2度のチャンピオンとなる ピケの最初のブラバムのマシン 予選J・ワトソン4位 ラウダ7位 ピケ14位 決勝は2人がリタイアの中 ピケ11位完走 このカナダGP モントリオールサーキット 後のジル・ヴィルヌーヴ サーキットは ピケの相性が良く 1982/1984年はブラバム 1991年はベネトンで勝利を上げている モデルはTRUE SCALE MINIATURES MODEL 最終戦カナダGP仕様 予選14位→決勝11位 カーナンバー66のピケのブラバム初陣 白い台座にアルファロメオのロゴがあり 所持のモデルの中でこの台座は 個人TOP3に入る好きなデザイン ⬇️プライベーターで3戦出場 ⬇️マクラーレンM23のマシン https://muuseo.com/FW12C/items/1303?theme_id=41104
240222 N.PIQUET 1978 66FW12C
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1956 (28TH) SPARK GORDINI T32 A.PILETTE
F1親子鷹 アンドレ・ピレット 最後のゴルディーニ GORDINI T32 アンドレ・ピレット ベルギー出身 息子のテディ・ピレットも 1974年ブラバムでF1参戦している F1界では3番目のF1親子鷹の父の方 アンドレは1951年よりスポット参戦 1954年ゴルディーニで自身唯一の5位入賞 1年空けて1956年はゴルディーニと 地元ベルギーではフェラーリで参戦 モナコGPとベルギーGPはともに6位 1956年は5位まで入賞の為 惜しくも入賞はならなかった 1950年から参戦しているフランスの ゴルディーニはこの年限りでF1撤退 T32が最後のマシンとなった モデルはスパーク モナコGP仕様 決勝6位 ピレットはこのGPで予選に出場しておらず 決勝でエリー・バイヨル(フランス)と 車両を共有しそれぞれ44周走行 100周のレースでトップから12周遅れ 優勝はスターリング・モス(マセラッティ) https://muuseo.com/FW12C/items/1548?theme_id=34513
231210 A.PILETTE 4 1/43FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS (ROTHMANS)
ヨッヘン・マス 最後のマシン ロスマンズカラー MARCH 821 1982年マーチ・エンジニアリングは R3アメリカWEST GPより タバコのロスマンズがスポンサーが付き それに伴いカラーリングも大幅変更 R4サンマリノGPでマスはこのマシンで ジル・ビルヌーブと接触の事故となり この事故でジルは帰らぬ人となった R11フランスGP決勝で今度はマスが マウロ・バルディとの接触事故となり 自身F1からの引退を表明した F1引退後マスはスポーツカー選手権を 主戦場としてレーサーは継続して ルマン24時間では1989年の 総合チャンピオンとなっている 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン https://muuseo.com/FW12C/items/1477?theme_id=31619
231106 J.MASS 1982 17FW12C
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1993 (28TH) SPARK (宮沢模型)TYRRELL 020C YAMAHA U.KATAYAMA
片山右京 ティレル移籍 約3年落ちのマシン TYRRELL 020C 1993年ティレルはヤマハエンジンを獲得 1990年ブラバムヤマハのテストドライバーを 務めた経験もあり片山右京が移籍 チームメイトは残留のA・チェザリス 1993年のマシンTYRRELL 020Cは 1991年に中嶋悟がドライブした020の 改良版でモノコックはほぼ一緒 エンジンもヤマハはこの年は単独でなく ジャッドと提携でジャッドV10そのもの 右京は開幕から6戦連続リタイア ようやくR7カナダGPで決勝17位 R9イギリスGP決勝13位が2度目の完走 R10ドイツGPでニューマシン021が導入 1991年の開幕戦から41戦で使用された TYRRELL 020シリーズは役目を終えた モデルは宮沢模型別注のフィギアレス 開幕戦の南アフリカGP仕様 右京の持ち込みスポンサーの日本たばこ 【CABIN】のデカールは付属でなく別購入 日本の菓子メーカーカルビーがスポンサー継続 1993年のカルビーポテトチップスには裏面に ティレルF1の設計場面が描かれたものが発売 https://muuseo.com/FW12C/items/527?theme_id=31948
230507 U.KATAYAMA 3 1/43FW12C
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1976 (28TH) SPARK SURTEES TS19 N.TAKAHARA
1976年F1世界選手権イン・ジャパン 日本人最上位 高原敬武 SURTEES TS19 1974年高原敬武はF1非選手権戦 インターナショナル・トロフィーに マーチ・741で参戦予選14位→決勝11位 非選手権戦ながら日本人として 初めてF1レースに出場したドライバ― 1975年マーチからF1参戦の打診があったが 上記参戦後にモナコを一般車で走行した際 精神的に持たないと感じオファーを固辞 1976年F1世界選手権イン・ジャパン サーティスがセカンドドライバ―を探しており このGPの冠スポンサーのスポーツニッポンの 紹介もあり高原の参戦が決定する 1976・1977年通じて外国籍チームで日本GPに 出場した唯一の日本人ドライバ― 予選はチームメイトのA・ジョーンズから 約1.4秒遅れの24位で決勝進出 決勝はグッドイヤーレインタイヤの摩耗での タイヤ交換もあったが9位完走 決勝出走3人の日本人ドライバ―の最上位 この時のタイヤの摩耗情報が役立ち チームメイトのA・ジョーンズはこの年の サーティスのシーズンベストの4位入賞 高原の持ち込みスポンサーでもある 伊太利屋・スタンレーなどが車体に貼られ 同じチームの日本GP仕様のモデルでありながら ジョーンズ車とはカラーリングもかなり異なる https://muuseo.com/FW12C/items/916?theme_id=35914 #F1世界選手権イン・ジャパン
230320 N.TAKAHARA 1976 18FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS
マーチだけどマーチじゃない ヨッヘン・マス F1ラストイヤー 1982年1年F1を離れたヨッヘン・マスは マーチ・グランプリで復帰 このマーチはRAMが母体となっており 1970年代のマーチ・エンジニアリングと異なる この複雑な状況な為 マーチだけどマーチじゃないと 母国のイギリスでは言われている モデル仕様の開幕戦南アフリカGPは グリーンとブラックのカラーリングで メインスポンサーの1つとして フランス手巻きタバコ リズラ+が付いている しかしマスは個人契約で マールボロドライバ―の為 ヘルメットとスーツには同社のロゴが添付 更にこのマシンの後半戦はタバコの ロスマンズがスポインサーとなる マーチの名称 タバコスポンサーなど なんともややこしい1台が ヨッヘン・マスの最後年 ドイツのマニアック車リリースの レースランド別注シリーズ 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン #F1-1982年
230310 J.MASS 350 17FW12C
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1978 (28TH) PMA B&S FABRICATIONS McLAREN FORD M23 N.PIQUET
ネルソン・ピケ デビューイヤー 1978年プライベーター McLAREN FORD M23 3度のワールドチャンピオン ネルソン・ピケ デビューイヤーの1978年は3チームに所属 R11ドイツGPはエンサインでデビュー R12オーストリアGPからはプライベーター B&S FABRICATIONSで型落ちの マクラーレン フォードM23で3戦出場 マールボロではなくチェスターフィールドの タバコスポンサー仕様 完走はR14イタリアGPのみで9位 1973年に導入されたマクラーレンM23 6年間使用された名車の最後は ネルソン・ピケのドライビングであった 最終戦はブラバムのサードカーで出場 翌1979年はブラバムのレギュラードライバ―
N.PIQUET 1.872 29 1/43FW12C
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1975 (28TH) SPARK HILL GH1 G.HILL
2度のワールドチャンピオン グラハム・ヒル 最後のマシン 1975年G・ヒルは自らのチームHILLの 3年目にして念願の自製シャーシ完成 3戦まではローラ製のシャーシで出場 R4スペインGPからHILL GH1を導入し R・シュトルメンが予選9位を獲得(決勝R) R5モナコGPではG・ヒルが自らドライブ 過去5度のモナコGPウイナーであったが 予選落ち(18位までが決勝で21位) G・ヒルはこのGPをもってドライバ―から 引退をしてチームの運営に専念 GP出場176戦は当時の最多決勝出走記録 シーズン終了後次年度に向けたテストの帰路 G・ヒル自らが操縦する小型飛行機の着陸失敗 同乗していたトニー・ブライズらとともに 残念ながら帰らぬ人となってしまい これに伴いチームHILLも解散となった この時息子デイモン・ヒルは15歳 グラハム・ヒル (イギリス) 決勝出走回数 176回 予選最高位 PP(13回) 決勝最高位 優勝(14回) ファステストLAP(10回) ワールドチャンピオン 2回 1962年 BRM 9戦4勝 1969年 ロータス 12戦3勝 #F1-1975年 #F1最後マシン
G.HILL 1975 23 1/43FW12C
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1995 (28TH) PMA SAUBER FORD C14 K.WENDLINGER
1990年代メルセデス三羽烏の一人 カール・ベンドリンガー最後のマシン 1994年のモナコでの意識不明の事故から 復帰したベンドリンガーであったが 1995年は速さが見られなくなり チームメイトの H・H・フレンツェンに遅れを取り 開幕4戦までで完走1回の13位 ついには前年度事故のR5モナコで J・C・ブイヨンにシートを奪われた その後テストドライバーとして復調し 終盤2戦で復帰するもR16鈴鹿 決勝10位 最終戦のオーストラリアでは 体調不良によりリタイヤ このレースでF1のキャリアを終えた 生涯成績で最高は4位が3回 期待されながらも表彰台無し 事故が悔やまれるドライバ―であった 🏁カール・ベンドリンガー(オーストリア) 【決勝出走数】41回 (入賞7回) 【予選最高位】5位(2回) 1993年 SAUBER R3ヨーロッパ 1993年 SAUBER R4サンマリノ 【決勝最高位】4位(3回) 1993年 MARCH R7カナダ 1993年 SAUBER R12イタリア 1994年 SAUBER R3サンマリノ
K.WENDLINGER 1995 29 1/43FW12C
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1979 (28TH) SPARK SHADOW DN9 J.LAMMERS
ヤン・ラマース オランダ出身 1978年ヨーロッパF3チャンピオン 1979年シャドウよりデビュー TMはE・DE・アンジェリス スポンサーのサムソン・シャグ・タバコは ラマースの持ち込みスポンサー スポンサーへのオマージュとして たてがみを炎に模した 巨大なライオンの頭が描かれた このカラーリングは手作業で ラマース車のみに施され ライオンの口がフロントの オイルクーラー用開口部になっていた カラーリングに於いては 時代を超えても美しいといわれる マシンの1台と評価されているが 成績は振るわず決勝最高位は9位 モデル仕様のR7モナコGPでは ノーマルカラーのチームメイト エリオ・デ・アンジェリスを含めて シャドウ2台とも予選落ちしている #F1-1979年
J.LAMMERS 17 1/43 SHADOWFW12C
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1994 (28TH) ONYX LOTUS MUGEN 107C P.LAMY
資金難を象徴する LOTUS 107シリーズは足掛け3年 実に34戦におよび使用されたマシン (その前シリーズの102も37戦) 昨年終盤でシートを得た P・ラミーがレギュラーシート獲得 ラミーの4戦までのカウルのスポンサー R1 LOCTITE R2 右 セデス・ハイ 左 新ポポンS R3 Pepe jeans R4 SHIONOGI(モデル仕様?) とこちらも苦労が見えるスポンサーロゴ ラミーはR4後のシルバーストーンのテストで リアウイングが突如外れるアクシデントで 両ひざと手首を骨折の重傷 一時は意識を失ったが後に回復 前年ケガでA・ザナルディからシートを奪うも 今度は自身のケガでA・ザナルディに シートを奪われます ラミーは1995年にミナルディでF1に再度復帰 #1994
P.LAMY 11 1/43 LOTUSFW12C
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1993 (28TH) SPARK(宮沢模型)TYRRELL 021 YAMAHA U.KATAYAMA
1993年待望のニューマシン ティレル021投入 F1最後のCABIN ティレル021の投入は遅れR10のドイツから 予選の順位は20位前後と改善されず R11ハンガリーの決勝10位がベストリザルト 唯一の見せ場はR15日本GPでの予選13位 決勝ではフットワークの 亜久里とのバトルは地元を沸かせたが 26週目にエンジンが壊れリタイヤ F1での日本たばこ【CABIN】ブランドの スポンサーはこの年で終了 マイルドセブンより【CABIN】の方が 個人的にはロゴとカラーが好きでした 宮沢模型別注ドライバ―レス R15日本GP鈴鹿仕様のモデル #1993年 #F1-1993年
U.KATAYAMA 3 1/43 CABINFW12C
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1988 (28TH) SPARK LIGIER JS31 R.ARNOUX
#1988
R.ARNOUX 25 1/43 GITANESFW12C
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1992 (28TH) SPARK MARCH CG911 E.NASPETTI
エマニュエル・ナスペッティ F1デビュー マーチ最後 MARCH CG911 E・ナスペッティ イタリア出身 1988年 イタリアF3 チャンピオン(3勝) 1991年 国際F3000 3位(4勝) 1992年も国際F3000に参戦中 資金難のマーチから声がかかり ポールベルモンドに代わり 複数の小口スポンサーを持ち込み R12ベルギーGPより参戦 5戦のみ出場 予選最高はR12ベルギー 21位 決勝最高はR14ポルトガル 11位 (モデル仕様 レイトンハウス表記は間違い) ナスペツティは翌1993年 フォーミュラー日本に参戦 F1ジョーダンのテストドライバーも務め R13ポルトガルGPのみ出場した 1970年から参戦のマーチ 途中撤退やレイトンハウスに買収され 1992年復活したがこの年限りで F1からは姿を消した
E.NASPETTI 1992 17 1/43FW12C
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1990 (28TH) ONYX MINARDI M190 P.BARILLA
イタリアパスタ会社の御曹司 パオロ・バリラ MINARDI M190 パオロ・バリラ イタリア出身 世界的に有名なパスタブランド バリラ社の御曹司 1985年ルマン24時間チャンピオン 1989年日本GPにスポット参戦 1990年ミナルディのレギュラーシート獲得 チームメイトはP・マルティニ 開幕戦R1アメリカGPは 生涯自己最高の予選14位 決勝は体調不良により54/72周でリタイア R3サンマリノGPは予選27位 チームメイトのマルティニが 予選10位のタイムを出していたが クラッシュして足を骨折 決勝は欠場したためバリラが繰り上がり 予選26位の最後尾から決勝11位 これがバリラの生涯ベストリザルト R14までに6度の予選落ちで契約解除 R15日本GP鈴鹿~は翌1991年から搭載決定した フェラーリエンジンのテストドライバー ジャンニ・モルビデリにシートを譲った バリラのF1はこの年限りで終了 日本での活動も多く無限エンジンや ブリヂストンタイヤのテストドライバーも務めた
P.BARILLA 24 1/43 MINARDIFW12C