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2000 (21ST) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 G.MAZZACANE
黄色いミナルディ MINARDI M02 ガストン・マッツァカーネ デビュー 2000年レギュラードライバーとして F1デビューしたのは3人 ①ジェンソン・バトン(ウイリアムズ) ②ニック・ハイドフェルド(プロスト) ③ガストン・マッツァカーネ(ミナルディ) (※スポット参戦 L・ブルティ(ジャガー)) マッツァカーネはアルゼンチン出身 前年度のテストドライバーから昇格 チームメイトはマルク・ジェネ 全17戦の予選は22台出走の中 22位→12回 21位→4回 20位→1回 決勝は速さはかったものの 12戦で完走 シーズンLAP周回数は 意外にも全体の3番目であった 決勝最高位はR6ヨーロッパGPの8位 ハイライトはR15アメリカGP ウエットレースでタイヤ交換を遅らせ 一時的とは言え3位に順位を上げ ハッキネン(マクラーレン)を抑えて走行 しかしその後ピットクルーを轢いて 最後はエンジンが壊れてリタイア マッツァカーネは翌2001年 チームプロストでの4戦がF1で最後 これ以降アルゼンチンのF1ドライバーは 2023年末現在エントリーされていない モデルはミニチャンプス ミナルディは前年のシルバー/ブルーから 鮮やかなイエローに変更 2000年限り珍しいカラーリング
240127 G.MAZZACANE 2000 21FW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (DETROIT GP)
ブーツェン デビュー2戦目 予選・決勝シーズンベスト ARROWS A6 1983年R6地元ベルギーGPで アロウズよりF1デビューした ティエリー・ブーツェン 2戦目となったR7アメリカ東 F1-2度目の開催 デトロイト市街地コース 予選10位→決勝7位はいずれもシーズンベスト ブーツェンの決勝初完走レースで チームメイトのM・スレール(10位)を上回った この年アロウズはスポットスポンサーに 合わせて毎戦のようにカラーが変わり デトロイトではのちの1980年代 中盤~後半のアロウズの代名詞とも言える クリームベージュのカラーとなった モデルはスパーク デトロイトGPでは 1987年~1988年に同チームで BMWエンジンのバッジネームとなった アメリカのかつての保険大手USF&Gの子会社 メガトロンがスポンサーで同社のロゴが 車体とリアウイングに貼られている 1983年のアロウズA6のブーツェン車は GP違いで3台目のリリースとなり 先日4台目発売の情報がありました… https://muuseo.com/FW12C/items/1201?theme_id=30446 https://muuseo.com/FW12C/items/1013?theme_id=30446
240120 T.BOUTSEN 30 1/43FW12C
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1999 (21ST) PMA BAR 01 SUPERTEC J.VILLENEUVE
ジャック・ビルヌーブ チーム初年度 11戦連続リタイア BAR 01 SUPERTEC 鳴り物入りで登場したBAR シーズン前のプレス発表では ビルヌーブ車➡ラッキーストライク ゾンタ車➡555 ブランドの別々のカラーで 登場したがレギュレーション違反となり却下 結局 左➡ラッキーストライク 右➡555を 真ん中のファスナーでつなぐ斬新なデザイン ジャックは開幕戦~R11ハンガリーまで 11戦連続のリタイア これは現在においても開幕からの 連続リタイアのワースト記録 年度またぎの連続リタイアを含めても 歴代ワースと3位のリタイア記録 (ワースト2位 12戦 A・チェザリス) (ワースト1位 14戦 I・カペリ) 2年前のワールドチャンピオンが まさかのノーポイント 決勝最高はR13イタリアGPの8位 チームのシーズン最高7位は ゾンタの代役のM・サロが記録という BAR1年目は悲劇のシーズンであった モデルはミニチャンプス BAT(ブリティシュ アメリカン タバコ) 社の2大主要ブランド 【LUCKY STRIKE】【555】を それぞれ左右でデカール加工 この年限りのデザイン
231029 J.VILLENEUVE 1999 22FW12C
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2010 (21TH) SPARK LOTUS T127 J.TRULLI
チーム・ロータスの復活?? LOTUS T127 ヤルノ・トゥルーリ 2010年新規参戦チーム イギリスF3のライトスピードが母体となり デザイナー マイク・ガスコインと提携 更にジェームス・ハントの弟 デビット・ハントと契約して彼が所持する チーム・ロータスの名称使用権を得た 当初は新規3チームの選考から漏れたが 新規参戦予定のチームUSF1が消滅 また急遽トヨタのF1から撤退もあり 最終的にロータス・レーシングとして エントリーが認められた ドライバ―はトヨタ撤退でシート失った ヤルノ・トゥルーリとマクラーレンから 移籍のヘイキ・コバライネンの F1ウイナーコンビ(どちらも生涯1勝) 同年に新規参戦したHRTとヴァージンには 差をつけ既存チームのテールエンダー トロ・ロッソに迫ったもののポイント獲得はならず トゥルーリの決勝最高はR16日本GPの13位 予選ではチームメイトのコバライネンに 勝ったものの決勝では大きく負け越し 年間順位もトゥルーリ21位 コバライネン20位(決勝最高12位) 翌2011年もチームに残留 ロータス・レーシング→チーム・ロータスに 名称を変更するもロータス・ルノーとの間に ロータス名称問題が勃発する
230521 J.TRULLI 2010 18FW12C
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1998 (21ST) PMA TYRRELL FOAD 026 T.TAKAGI
TORA TAKAGI F1デビューは ティレルの最後 TYRRELL 026 1998年 高木虎之介はテストドライバーから 昇格してティレルのシートを獲得 師である中嶋悟氏のバックアップを受け PIAA brotherなどのスポンサーを持ち込んだ 予選最高は13位 決勝最高は9位 予選決勝ともチームメイトの リカルド・ロセットに圧勝したが ロセットの決勝最高8位のリザルトがあり 年間順位はロセットの下の(21位) 1970年から参戦したティレルは 29年目のこの年をもって活動が終了 最終戦R16日本GP鈴鹿は チームメイトのロセットが予選落ち ティレル最後の814台目の決勝は 高木虎之介の走行であったが E・トゥエロ(ミナルディ)に追突されて 有終の美とはならなかった #F1-1998年
230330 T.TAKAGI 21 1/43FW12C
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1997 (21ST) PMA STEWART FORD SF 1 J.MAGUSSEN
新規参戦ジャッキー設立スチュワート 異例の4年契約 ヤン・マグヌッセン 3度のワールドチャンピオン ジャッキー・スチュワートがチーム設立 フォードのワークスエンジンで参戦 新規チームがワークスエンジンを使用するのは 1976年のリジェ・マトラ以来 タータンチェックを施した白ベースのマシン ヤン・マグヌッセンは 1994年にイギリスF3で18戦14勝の 圧倒的成績でチャンピオンを獲得 1995年にマクラーレンで1戦のみデビュー 1997年は新規チームスチュワートと 異例ともいえる4年契約で参戦 TMのルーベンス・バリチェロに予選で 勝ったのは17戦中2回 最高6位 決勝は最終R17ヨーロッパGP最高9位 フル参戦初年度で大きな成果を出せなかった ヤンの息子 ケビン・マグヌッセンは 2014年父と同じマクラーレンからデビュー 2022年は2年ぶりにハースに復帰 R21ブラジルGPで自身初のPP獲得 #F1-1997年
221113 J.MAGUSSEN 23 スケールFW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (BELGIAN GP)
振り向けばティエリー・ブーツェン 地元ベルギーGP デビュー ARROWS A6 1981年F2で年間2位を獲得すると 同年の鈴鹿JAFグランプリに参戦 中嶋悟に次ぐ2位を獲得 元ホンダF1監督の中村良夫の進言もあり スピリット・ホンダの契約ドライバーとなった 1982年ヨーロッパF2でホンダの マシンで3勝をあげてランキング3位 スピリット・ホンダでのF1参戦も噂されたが ステファン・ヨハンソンとのシート争いに破れた 1983年は同郷の先輩ドライバーの ジャッキー・イクスの支援とF2での実績により チコ・セラに変わりアロウズより 地元R6ベルギーGPでデビュー モデルはそのベルギーGP仕様(予選18位→決勝R) この後ブーツェンは1993年までF1に参戦 164戦出場 優勝3回 表彰台15回 入賞41回 この年のアロウズはGPごとのスポンサーが多く イギリスGP仕様とはカラーリングがかなり異なります https://muuseo.com/FW12C/items/1013?theme_id=30446 #振り向けばブーツェン #1983年
221106 T.BOUTSEN 30 1/43FW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (BRITISH GP)
T.ブーツェンのデビューイヤー イギリスGP仕様 ARROWS A6 1983年R6ベルギーGPよりアロウズは ヨーロッパF2でも実績のある T・ブーツェンをドライバ―として採用 TMはマルク・スレール 10戦の出走で入賞はなかったものの 8戦で完走 最高位7位を2回記録 安定した走りが評価された モデルはR9イギリスGP仕様 予選17位→決勝15位 モータースポーツ誌 GRAND PRIXがスポンサーで マシンに赤色が施されている 前年度F2時代からのサポートで ヘルメットにはブーツェンとしては 珍しタバコブランドMarlboro ヘルメットのバイザーには 日本のレディースファッションブランドを 親会社に持つ自動車輸入販売会社 伊太利屋のピンクのステッカーが貼られている ブーツェンが日本でのレース活動もあり サポートをしていた ブーツェンはこの後1986年まで4年間 アロウズで参戦を続けます #1983年 #振り向けばブーツェン
T.BOUTSEN 30 1/43 MarlboroFW12C
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1996 (21ST) ONYX FORITI FORD FG03 L.BADOER
こちらのモデルはMuuseoではおなじみの 【アダムスキー(当時はサイケデリア)】で購入 2010年1月27日 980円 さすがの価格 1996年ルカ・バドエルはミナルディから レンタルの形でフォルティに移籍 チームメイトはA・モンテルミニ 前年度のR・モレノ P・デニスのブラジルから イタリアンドライバ― コンビニ変更 競争力の無いマシンでこの年導入された 予選107%ルールで4度の予選落ち 画像1 R7スペインGP 画像2 R4ヨーロッパGP 2種類のモデルとも予選落ち R11ドイツGPよりチームは撤退 この時点で唯一のイタリア人ドライバ―の G・ラバッジ(ミナルディ)が予選落ちしたため 23年ぶりにイタリア人ドライバーが 一人も決勝にいないレースとなった バドエルは1996年末時点で エントリー41 決勝35レースで無得点 1970年代のアメリカ人ドライバ― ブレッド・ランガーと並び 無得点ドライバ―の最多エントリー記録に並ぶ バドエルはその後 1997~1998年はフェラーリのテストドライバー 1999年にミナルディで再びF1に復帰します #F1-1996年 #アダムスキー(サイケデリア)
L.BADOER 22 1/43 FORTIFW12C
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1976 (21ST) SPARK HESKETH 308D H.ERTL
ハラルド・アーテル オーストリア出身 N・ラウダ炎上事故 救出ドライバ―4人の一人 アーテルは前年度スポット参戦 1976年はヘスケスのレギュラードライバ― アーテルがフル参戦したのはこの年のみ 戦闘力の劣るHESKETH 308Dで苦戦 予選最高はR13イタリアGPの13位 決勝最高はR9 イギリスGPの 7位 決勝7位はアーテルの生涯ベストリザルト モデルはR12オランダGP仕様 予選24位→決勝リタイア 翌年よりペンスキーを買収して参戦する ドイツ自動車部品メーカーのATSがスポンサー ◆R16日本(富士SW)予選21位→決勝8位◆-F1 R10ドイツGPでは 炎上するN・ラウダ(フェラーリ)の救出を 自らのレースは捨ててマシンから降り ブレット・ランガー ガイ・エドワーズ アルトゥーロ・メルツァリオと共に 救助活動を優先させドライバ―でもある 翌年以降はヘスケス エンサイン ATSでスポット参戦したが F1でポイント獲得はならなかった #1976年 #F1-1976年 #ヘスケス #F1
H.ERTL 1976 24 1/43FW12C
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1990 (21ST) ONYX MINARDI M190 P.MARTINI
ミスターミナルディ P・マルティニ 予選フロントロー獲得 1990年ミナルディ4年目の ピエルルイジ・マルティニ チームメイトはパオロ・バリラ 終盤2戦はジャンニ・モリビデリ 前年度後半の勢いそのままに 開幕戦アメリカGPフェニックス 予選途中でトップタイムを叩き出し あわやミナルディ初のPPと思われたが 最後にG・ベルガー(マクラーレン)に 0.067秒差で敗れ惜しくも予選2位 ミナルディとマルティニにとって キャリア唯一のフロントロー獲得 決勝は予選好調が持続せず7位 その後R4モナコGPより ニューマシンM190を投入 リアセクションを大幅に変更したが 思うような結果は出せず 3シーズンぶりにミナルディ マルテニともにノーポイントに終るも 翌シーズンのフェラーリエンジン獲得が 発表されてマルティニもチームに残留 モデルはONYX M190の量販モデルのリリースはONYXのみ ミナルディカラーとも言うべき 黄色・白・黒の3色カラー メインスポンサーのSCM groupは 1952年創業のイタリア木工加工機械会社
P.MARTINI 1990 23 1/43FW12C
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1986 (21ST) SPARK BRABHAM BMW BT55 D.WARWICK
ワーウィック ロータス入り果たせず アンジェリス亡き後 ブラバムで出場 1986年ワーウィックはロータス入りが 確実視されていたがチームメイトの A・セナが自身の立場を確実にする為 これを拒否 J・ダンフリーズに変更させた シートを失ったワーウィックであったが ブラバムのエリオ・デ・アンジェリスが テスト中の事故で他界 ブラバムには数多くのドライバ―から シートの売り込みがあったが ワーウィックは喪に服し自重 その姿勢も評価されブラバムのシートを獲得 ブラバムBT55は低重心のコンセプトが マシンバランスに悪影響を招き苦戦 予選・決勝とも7位が最高に終わる R12オーストリアGPではチームメイトの リカルド・パレーゼのマシンがスペアカー含め 走行不能となるとチームはBMWの意向で パトレーゼにマシンを譲るよう指示 決勝レースに出れない屈辱も味わった
D.WARWICK 8 1/43 BRABHAMFW12C